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記録者はまだ、夢を見ている。(The Recorder Is Still Dreaming.)  作者: 妙原奇天


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第27話 続け方の地図

 朝の空はうすく明るく、港の白は紙の裏で光の形を確かめているみたいに静かだった。昇降口のガラスに指を当てると、冷たさが少し遅れて返ってくる。角に小さな水滴がひとつだけ残っていて、触れないまま通り過ぎた。教室へ入ると、黒板の右下には九つの点が昨日のまま並び、粉の短い白は線になりきらない距離で止まっていた。輪郭を薄くした名前は静かで、半分の名前は机の手前に落ち着いている。先生は通路の椅子に座らず、黒板の前で目だけの合図をひとつ。いつもどおり、から始める。


 十秒はカリン。立たず、背中だけ伸ばす。吸って、吐いて、止める。止めた先に何も置かない。終わりに窓の外の旗が一度だけ膨らんで、すぐに落ち着いた。呼ばない日の空気は、教室の端まで均等に回る。


 一限の冒頭、先生は黒板消しを持ったまま右下へ歩き、いちばん左端の点の手前に指を置いた。押さえない。置くだけ。置いて、離す。粉の短い白がわずかに揺れて、やっぱり線になりきらない。


 「今日は“続け方の地図”を作る。——港が遠くても、坂が近くても、屋内でも。見出しは書かない。余白の上で道筋だけを、場所に置いていく」


 地図、という言い方が胸の奥に軽く座った。カリンは新聞部のノートに細く「続け方の地図」と書き、囲いを閉じずに止めた。木下は筆箱の消しゴムを角で立て、指を添えずに見つめる。吹奏楽部の彼女は胸の前で短い息の形を作り、すぐに忘れた。忘れ方が上手い日は、長く持てる。


 二限の終わりごろ、校内放送が短く入った。商店街のアーケードで照明の点検があるから、昼から一部が暗くなるらしい。写真部が記録を頼まれ、新聞部は見出しを作らず様子のメモを集めてほしい、と。僕らの町は小さい。照明が少し落ちるだけで、通りの声の高さが変わる。変わるときに、続け方が必要になる。


 昼休み、昇降口を見に行くと、見出しは下枠に挟まったまま静かに座っていた。角は昨日より少し明るい。二階の踊り場の布は動かず、理科室の窓は擦りガラス越しの白が腰を下ろしている。僕はそれぞれの前で短い十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、胸の奥の固いところがひとつほどけた。ほどけた場所に、地図の最初の薄い線が置かれる。線といっても、まだ息の跡だ。


 午後。先生は見取り図を配らなかった。代わりに透明の下敷きを五枚だけ持ってきて、黒板の前に重ねた。


 「これに何も書かない。——持って歩いて、置く。置く場所は、今日の町」


 黒板の粉は落ち着いている。僕らはうなずき、五限のチャイムのあと、商店街へ向かった。行くのは僕とカリン、木下、吹奏楽部の彼女、一年の女子、先生。叔父さんの姿はない。風は低く、海の匂いは薄かった。


 アーケードは昼の影が濃く、蛍光灯の半分が消えていた。天井の骨組みがむき出しに近く見え、店先の色がいつもより静かに沈む。豆腐屋の前で水が細く流れ、傘屋の布の柄は畳まれて縞のようだった。人は歩いているが、声は低い。低い声のほうが、遠くまで届く。


 僕らは並ばず、距離を置いて立った。最初の十秒を、アーケードの真ん中で持つ。吸って、吐いて、止める。止めた先で、吹奏楽部の彼女が胸の前で息の形を短く置き、音にしない。木下は足元の目地で靴底を一度だけ鳴らして、残さない。カリンは透明の下敷きを持ち直し、その何も書かれていない面を天井のほうへ向けた。向ける、で十分だ。透明な面は光だけを受け取って、返す。


 そのとき、アーケードの端で子どもの泣き声がした。白いスニーカーの男の子が母親の手を離して走り出し、暗い通りの向こうで立ち止まる。母親は呼ばない。声を上げそうになって、飲み込む。僕らは走らない。走らずに、位置を作る。位置と位置の間に、すぐ通れる隙間ができる。男の子は足で床を軽く蹴り、こちらへ戻ってくる。戻る途中で、僕は片手だけ上げた。来ないで、でもなく、おいで、でもない。ここにいる、の手だ。母親は目でうなずいて、手を差し出し、つなぎ直した。つなぐ、で十分だ。つないだ手は、すぐに自然に下りる。


 豆腐屋の前で風鈴が鳴り、鳴り方は短いのに長く聞こえた。長く聞こえる音は人を急がせない。傘屋の店主が天井を見上げ、ふう、と息を吐く。吐き方が上手かった。吐いた息は、通りの低いところに薄く座った。


 「ここで“続け方の地図”の最初を置く」


 先生は透明の下敷きを胸の高さに上げ、豆腐屋の軒の影と傘屋の明るさの間の空気にそっと重ねる。重ねるだけで、何も書かない。書かない面が、空席みたいに見えた。見えた、で十分だ。僕は十秒を短く持ち、下敷きの透明の縁を目でなぞった。目でなぞると、通り道が勝手に細く明るくなる。


 「これで一枚目」と先生。「次は横丁」


 アーケードから一本入った横丁は、昼でもうす暗い。理容室の回転灯が止まっていて、赤と青と白の帯は色だけを持って座っていた。奥で猫がしゃがみ、店の人が静かに水を撒いている。撒かれた水が石畳に薄く広がり、足音をやわらげる。僕らは並ばない。各自の位置で十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、木下が透明の下敷きを地面すれすれまで下ろし、猫が驚かない高さで止めた。止める、で十分だ。猫は片目を細くして、動かずこちらを見た。見られるのはきらいじゃない。


 横丁を抜けた先で、年配の男性が段ボールを抱えてふらついた。傾いた箱の端から、紙の束が滑り出る。吹奏楽部の彼女が走らずに一歩だけ出て、紙が落ちる手前に透明の下敷きを滑り込ませた。紙は下敷きの上で音を立てずに止まる。止まり方がきれいだった。男性は礼を言わない。言わずに、箱を持ち直した。言わない礼のほうが、長く残る。


 アーケードに戻るころ、照明の点検は終わりかけていた。蛍光灯が一斉に明るくなる前に、僕らは最後の十秒を持つ。吸って、吐いて、止める。止めた先で、透明の下敷き三枚を重ねて天井の光へ向けた。向ける、で十分だ。光は返ってきて、通りの色合いが少しだけ浅くなった。浅くなると、息がしやすい。しやすい、で今日は終わっていい。


 解散の前、先生が短く言った。


 「地図は持って帰らない。——置いた場所に透明のまま残していく」


 僕らはうなずいて、下敷きを胸の前でいちど立たせ、そっと空気へ返した。返す、といっても手を離しただけだ。手を離した下敷きはどこにも落ちず、形だけ残った。形だけの地図は、歩く人の速度を少しだけ揃える。


 学校へ戻る途中、用具倉庫の影に寄った。錆びた小さな鉄の箱は半分地面に埋まったまま。角の黒は薄く乾き、日の光で輪郭がやわらいでいる。木下がしゃがみ、指で角を軽く叩く。からん、という音が短く鳴って、すぐに止んだ。止まり方がよかった。音の残り方が、今日の地図の端のように感じられた。


 「掘らない季節の間に、箱は軽くなるのかな」


 僕が言うと、カリンは首を横に振った。


 「軽くなるのは、持つ手のほう。——箱は、そのまま」


 言い換えはいつも助かる。僕は頷き、箱を見下ろさずに影の端で十秒を持った。吸って、吐いて、止める。止めた先で、影の濃さが一瞬だけ揺れて、すぐ戻る。戻る、で十分だ。


 教室に戻ると、黒板の右下の九つの点はそのまま。粉の短い白は線になりきらない距離で止まっている。先生は瓶のふたに手を置き、開けずに離した。通路の椅子に腰を下ろし、目で合図。十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、粉の白が空気に一度だけほどけ、また床に落ちた。落ち方が丁寧だった。


 「今日の見出しは書かない。——『続け方の地図、透明のまま』。本文は各自の帰り道に置いてくる」


 昼休み、新聞部の机に白いメモが三枚。名前はない。


 暗かったけど歩きやすかった

 並ばないのに順番があった

 猫が静かでよかった


 カリンは笑わずにうなずき、メモを重ね直した。透明の地図は、誰が書いたかを要らない。要らないものは、長く持つ。


 午後の授業の最中、理科準備室から短いメモが届いた。窓は無事。封筒は見えない。見えないままでいい。理科の先生はさらに一行を追加していた。


 油紙は今日、音だけ借りた


 紙を開かずに音だけ借りる。地図にも似ている。見えない線を使って、人の流れを少しだけ整える。整えるのは、声より小さなもののほうがうまくいく。


 放課後。先生は体育館へ寄らず、昇降口の前で最後の十秒をやると言った。見出しは下枠で静かに座り、角の白は薄く明るい。吸って、吐いて、止める。止めた先で、扉の外の光がひと呼吸だけ深くなって、また戻る。戻り方がよかった。


 解散のあと、僕は坂の途中で立ち止まり、ポケットの黒い筒に軽く触れた。開けないで持つ。持ったまま、今日置いてきた透明の地図の端を胸の中でたどる。アーケードの入り口、豆腐屋の軒、傘屋の明るさ、横丁の石畳、止まった回転灯、猫の片目、段ボールの角、返した紙の重さ。たどったことを、順番に忘れた。忘れ方がうまくなると、残るものがはっきりする。


 家で手帳を開き、短く書いた。


 透明の地図

 置く 返す 忘れる

 線になりきらない白


 壊れかけのカメラは机の上で静かに座っている。シャッターは切らない。切らない音のほうが、今日は合っている。灯りを消す前、耳の奥で薄い音が一度だけ鳴り、止まった。止まった場所へ十秒を置く。置いたまま目を閉じる。眠り方は、少しだけ上達した気がした。


 翌朝。港は白く、空は高い。昇降口のガラスは冷たく、指のあとがすぐ曇りに飲まれる。教室へ入ると、九つの点はそのまま。粉の短い白は、昨日より心持ち短く見えた。短く見えるのは光のせいかもしれない。先生は通路の椅子に腰を下ろし、目で合図。十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、窓の外の旗が小さく揺れた。


 ホームルームの終わり際、資料館からのメモが届いた。白い紙に二行。


 灯台の四角は今日は遠い

 ——叔父は学校の外で


 外、とだけ書かれるのは珍しかった。珍しいほうが、準備しやすい。僕はポケットの黒い筒に触れず、位置だけ確かめた。触れないで確かめると、胸の中の空席がぐらつかない。


 放課後、昇降口を出たところで叔父さんが待っていた。帽子はなく、手ぶら。影は薄い。薄い影は長く残る。


 「アーケード、見ていた」


 「透明の地図、置いてきました」


 「見えなかったけど、通れたよ」


 叔父さんはそれだけ言い、僕の肩を一度だけ軽く叩いた。叩き方はいつもどおり小さい。


 「白鐘は、描かない地図をよく置いた。——描かないで置いて、忘れて、後から通った人の足音で完成する地図」


 足音で完成する。言い換えはいつも助かる。僕はうなずき、彼の隣で短い十秒を持った。吸って、吐いて、止める。止めた先で、通りの音がほんの少しだけ下がった。下がる、で十分だ。


 その夜。窓を開けると、港の白は遠かった。四角は見えない。見えないまま、位置ははっきりしている。見えないほうが、息は整いやすい。僕はシャッターを切らず、机の上の手帳を閉じた。閉じ方が丁寧だと、眠りやすい。


 翌日。学校はふつうで、通りもふつうだった。ふつうの中で、小さな見せ場はいくつも立つ。体育館の扉の前で一年の女子が名札代わりの紙を半分に折り、十秒を持ってから置く。理科の先生が油紙を出さず、棚の影に指をそっと置いて離す。吹奏楽部の彼女が音楽室の前で息だけの旋律をつくり、忘れる。木下が用具倉庫の影に半歩入って、半歩戻る。戻り方が、良かった。


 休み時間、カリンが新聞部のノートに細く書いた。


 描かない地図

 足音で完成する


 囲いは閉じない。閉じない余白に、今日の風が薄く座った。座り方が、よかった。黒板の右下の九つの点は点のまま、粉の短い白はやっぱり線になりきらない距離で止まっている。止まっているのに、前へ進む感じがした。進む感じだけで十分だと思えた。


 帰り道、坂の途中で立ち止まり、ポケットの黒い筒に軽く触れた。開けないで持つ。持ったまま、透明の地図の端をもう一度たどり、たどったことを順番に忘れる。忘れ方は、昨日よりも静かだった。静かな忘れ方のほうが、残るものは長く持つ。


 ありがとう、と胸の中だけで言った。半分のままで。風のままで。線になりきらない白のままで。描かない地図のままで。声にしない。紙にも書かない。思っただけで忘れる。忘れ方を覚えた僕らは、ふつうに笑い、ふつうに列を作らず、ふつうにそれぞれの帰り道に薄い道筋を置いていった。置いた地図は透明のまま、明日へ残った。

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