第26話 夏の入口で待つ
朝の空は白く高く、港の白は紙の裏から押す光みたいに町をうすく起こしていた。昇降口のガラスに指を当てると、冷たさが少し遅れて返ってくる。角に小さな水滴がふたつ残っていて、触れないまま通り過ぎた。教室へ入ると、黒板の右下には九つの点が昨日のまま並び、粉の短い白は線になりきらない距離で止まっていた。輪郭を薄くした名前は静かで、半分の名前は机の手前で落ち着いている。先生は通路の椅子に座らず、黒板の前に立って目だけで合図をひとつ。いつもどおり、から始める。
十秒は一年の女子。立たず、背中だけ伸ばす。吸って、吐いて、止める。止めた先に何も置かない。終わりに、窓の外の旗が一度だけ膨らんで、すぐに落ち着いた。呼ばない日の空気は、教室の端まで均等に回る。
一限の冒頭、先生は黒板の右下へ歩き、いちばん左端の点の手前に指を置いた。押さえない。置くだけ。置いて、離す。粉の短い白がわずかに伸びて、やっぱり線になりきらない。
「今日は“夏の入口”をやる。港へ行けるかもしれない。行けなくても、坂がある。——“渡す”の本番だ」
渡す、という言い方が胸の奥の固いところに軽く触れた。カリンは新聞部のノートに細く「夏の入口」と書き、囲いを閉じずに止めた。木下は筆箱の消しゴムを角で立て、支えずに見つめる。吹奏楽部の彼女は胸の前で短い息の形を作り、すぐに忘れた。忘れ方が上手い日は、長く持てる。
二限の途中、窓の高い位置から細い風が入った。黒板の粉が目に見えないくらい揺れて、すぐに落ち着く。理科準備室からのメモが届いた。窓は無事。封筒は見えない。見えないままでいい。理科の先生は「油紙は今日は触らない」とだけ書いていた。触らない選択は、強い。
昼休み、昇降口の白を見に行くと、見出しは下枠に挟まったまま、角は昨日ほど明るくなかった。光は薄いのに、息はしやすい。二階の踊り場の布は揺れない。理科室の窓は擦りガラス越しの白が腰を下ろしていた。僕はそれぞれの前で十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、胸の奥の重さがひとつ減った。減った場所に風が座る。座り方がきれいだった。
午後、資料館からのメモが届いた。白い紙に短く二行。
灯台の四角は見える
——叔父は港の手前
見える、と書かれる日は少ない。少ないからこそ、位置は決まる。五限の終わり、先生が言った。
「港へ行く。列は作らない。——“黒を開けなかった記録”を、四角の手前に置く」
放課後。港へ続く道は静かで、風は低い。灯台の白が遠くに立ち、四角は晴れた紙の端みたいに見えた。僕とカリン、木下、吹奏楽部の彼女、先生、一年の女子。叔父さんは四角のずっと手前、転回場の壁の影に立っていた。帽子はなく、手ぶら。足音は小さく、影は薄い。
「来たね」
「来ました」
彼は僕らを見ず、四角を見た。四角は近いのに、遠い。遠いのに、位置はここだと分かる。
「今日は“渡す”をやる。——開けないで、渡す」
僕はポケットの黒い筒に触れた。触れて、離す。離したあと、掌の中の重さが半分だけ軽くなる。軽くなる、で止める。止めた先で、風が四角の手前で一度だけ低くなり、戻った。戻り方が良かった。
先生は声を上げず、顎で短く示した。並ばない。各自の場所のまま、十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、四角の白がほんの少しだけ柔らかく明るくなる。そこに、今日の本文を置ける気がした。
叔父さんが僕のほうを見ないまま言う。
「白鐘は、ここで“額縁の中から外へ”をやった。中にあるものを減らすんじゃない。——外に“同じだけの空席”を置く。置けたら、内側は壊れにくい」
置く。外側へ空席。言い換えはいつも助かる。僕は黒い筒を胸の高さまで上げ、蓋には触れず、四角の手前の空白へ短く頭を下げた。声は出さない。十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、筒の重さの半分が空白の椅子へ座る。座った分だけ、僕は軽くなる。軽くなった重さの分だけ、四角が遠のく。遠のくのに、はっきりする。
カリンは新聞部のノートを開かず、両手を下ろしたまま一歩だけ後ろへ下がる。下がった分だけ、風が通る。木下は防波堤の境目で靴底を一度だけ鳴らし、音を残さない。吹奏楽部の彼女は胸の前で息の形を置き、忘れた。忘れたあと、波の端がひと呼吸だけ低くなった。
「いい」と先生が短く言い、四角の扉の方向を見た。「——今日は扉を触らない。扉の前で“返す”だけ」
僕らは頷いた。頷き方は小さく、長い。長いうなずきは、場所の合図になる。一年の女子が僕より先にゆっくり進み、扉の向こうを見ないで、扉の手前で十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、彼女は胸の前に見えない名札を半分だけ持ち上げ、空へそっと戻した。戻す動きの途中で、風が扉の金具をやさしく撫でて、すぐ離れた。撫で方が、良かった。
叔父さんは足を動かさず言った。
「“黒”は、まだ君のままでいい」
「はい」
「でも、君がいないところで“開かれる日”が来たら、それもいい」
分からないのに、分かる。僕は頷いて、筒をポケットへ戻した。戻す、で止める。止めた先で、胸の中の重さがたしかに落ち着いた。
解散の合図は短かった。先生が目で「終わり」を回し、僕らはそれぞれの足で戻る。戻る途中、四角の白が一度だけ強くなって、すぐに静かになった。静かになり方が、良かった。
学校へ戻ると、昇降口の白はそのまま。二階の踊り場の布はわずかに揺れて、理科室の窓は擦りガラス越しの白が小さくうなずくみたいに光った。教室に入ると、黒板の右下の九つの点はそのまま、粉の短い白は線になりきらない距離で止まっていた。先生は瓶のふたに手を置き、開けずに離した。通路の椅子に腰をおろし、目で合図。十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、粉の白がいちどだけ空気にほどけて、すぐに床に落ちた。落ち方が丁寧だった。
「今日の見出しは書かない。——“空席を置いた”という本文を、それぞれが持ち帰る」
昼休み、新聞部の机に白いメモが三枚。名前はない。
港の前で息がしやすかった
並ばないのに進んだ
空席があると安心した
カリンは笑わずにうなずき、メモを重ね直した。本文は風へ。風は空席にも座れる。座った風は、音を立てない。
午後、体育館で短い復習をした。非常灯は点けない。黒の中で順番を場所に渡す。合図は十秒だけ。吸って、吐いて、止める。止めた先で、床の白線の上に見えない空席がいくつも置かれる。置かれた空席は動かないのに、人の流れは滑らかだった。滑らか、で止める。止めた先に、今日の見せ場が小さく立つ。
放課後、用具倉庫の影の前で僕らは立ち止まった。半分地面に埋まった錆びた小さな箱。木下がしゃがみ、指で角を軽く叩く。からん、と短く鳴って、すぐに止む。止まり方が良かった。
「掘るのは、夏の終わり」と先生。「——“入口”は、置いていく日だ」
一年の女子がうなずき、影の端で十秒を持った。吸って、吐いて、止める。止めた先で、影の濃さが一度だけ薄くなって、戻った。戻る、で十分だ。
帰り道、坂の途中で僕は立ち止まり、ポケットの黒い筒に軽く触れた。開けないで持つ。持ったまま、午後の港で置いた空席の位置を胸の中で確かめ、確かめたことを忘れた。忘れ方が上手くなると、眠りやすい。
家で手帳を開き、短く書いた。
四角の手前に空席
開けなかった記録
線になりきらない白
壊れかけのカメラは机の上で静かに座り、シャッターは切らない。切らない音のほうが、今日は合っている。灯りを消す前、耳の奥で薄い音が一度だけ鳴り、止まった。止まった場所へ十秒を置く。置いたまま目を閉じる。眠る直前、胸の中で小さく言う。
ありがとう。半分のままで。風のままで。白のままで。空席のままで。
翌朝。空は高く、港の白は遠くで薄く光っていた。昇降口のガラスは冷たく、指のあとがすぐ曇りに飲まれる。教室へ入ると、黒板の右下の九つの点はそのまま。——ただ、粉の短い白は昨日よりわずかに短く見えた。短く見えるのは、光のせいかもしれない。先生は通路の椅子に腰を下ろし、目で合図。十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、窓の外の旗が小さく揺れた。
ホームルームの終わり際、先生が低く言った。
「“入口”は過ぎた。——次は“続け方”をやる。港が遠くても、坂が近くても、やることは同じ。呼ばないで、置く。置いて、返す。返して、忘れる。忘れて、残す」
カリンがノートに細く書いた。続け方。囲いは閉じない。閉じない余白に、今日の風が薄く座った。座り方が、良かった。
放課後までのあいだに、小さなことがいくつも起きた。廊下の端で一年の女子が名札の紙を二つに折って机の手前へ静かに置いた。理科の先生が油紙を出さずに棚の影を一度撫で、撫でた手をすぐに離した。吹奏楽部の彼女が音楽室の扉の前で息だけの旋律を置き、息を忘れた。木下が用具倉庫の影に半歩だけ入って、半歩だけ戻った。戻り方が、良かった。どれも短く、丁寧で、長く残った。
放課後、最後の十秒を昇降口の前でやる。見出しは下枠で静かに座り、角は昨日より少し明るい。吸って、吐いて、止める。止めた先で、ガラスの向こうの光がいちどだけ深くなって、また元に戻る。僕は胸の中で小さく言う。
大丈夫。半分のままで。今日は“続ける”の入口だ。
言葉は出さない。紙にも書かない。思っただけで忘れる。忘れ方を覚えた僕らは、ふつうに笑い、ふつうに帰り支度をし、ふつうに坂を降りた。坂の白い帯は消えかけているのに、位置ははっきりしている。はっきりしているものは、触らなくていい。触らないで、十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、夏が薄く始まり、風は静かに座った。




