第25話 白の帯をほどく日
朝の空は薄く明るく、港の白は紙の裏から差す光みたいに町じゅうをやわらかく押していた。昇降口のガラスに指を当てると、冷たさが少し遅れて返ってくる。角に小さな水滴がひとつだけ残っていて、触れないまま通り過ぎた。教室に入ると、黒板の右下には九つの点が昨日のまま並び、手前には粉の短い線が線になりきらない距離で止まっていた。輪郭を薄くした名前は静かで、半分の名前は机の手前で落ち着いていた。先生は通路の椅子に座らず、黒板の前に立って目だけで合図をひとつ。いつもどおり、から始める。
十秒は吹奏楽部の彼女。立たず、背中だけ伸ばす。吸って、吐いて、止める。止めた先に何も置かない。終わりに、窓の外の旗が一度だけ膨らんで、すぐに落ち着いた。呼ばない日の空気は、教室の端まで均等に回る。
一限の冒頭、先生は黒板消しを持ったまま右下へ歩き、いちばん左の点の先に指を置いた。押さえない。置くだけ。置いて、離す。離したあとに粉の白が短く伸びて、やっぱり線になりきらない。
「今日は“白の帯をほどく日”にする。——昇降口の見出しの角に、町の人が小さな帯を結んでいった。放課後、あれをほどいて返す。呼ばないやり方で」
ほどく、という言い方が胸の奥の固いところにやさしく当たった。ほどくのは切ることじゃない。ほどいたあと、結び直せる。カリンは新聞部のノートに細く「ほどく」と書き、囲いを閉じずに止めた。木下は筆箱の消しゴムを角で立て、支えずに見つめる。吹奏楽部の彼女は胸の前で短い息の形を作り、すぐに忘れた。忘れ方が上手い日は、長く持てる。
二限の途中、廊下の向こうで風鈴の音が一度だけ鳴った。誰かが保健室の前に小さなガラスの風鈴を下げたらしい。雨上がりの風が弱く通り、音は短いのに長く聞こえる。長く聞こえる音は人を慌てさせない。僕は机の中の壊れかけたカメラに触れず、位置だけ確かめた。鳴らない。鳴らないのに、覚えている。
昼休み、昇降口を見に行くと、見出しは下枠に挟まったまま、角に白い布の細い帯がひとつ結ばれていた。固結びではない。指の腹で触れればほどけるくらいの力で結ばれている。帯の端は短く、風にあおられても音を立てない。小さな紙片が帯の内側に挟まれていて、字は二つだけ。
ありがとう
名前はない。ないほうが、長く残る。カリンは紙片を抜かず、押さえもせず、ほんの少し帯を回して結び目の向きを変えた。変え方が丁寧だった。向きが変わるだけで、角の息の仕方が変わる。
「放課後、ほどくのは四人で」
「ほどいたあと、どこへ返す?」
「坂の白い帯へ。——結び目は結ばない。置くだけ」
置く、という言い方が今日のやり方に合っている。置いたものは、動きやすい。動きやすいものは、守りやすい。
午後、資料館からのメモが届いた。白い紙に二行。
灯台の四角は、今日は遠い
——叔父は坂で待つ
遠い、とわざわざ書かれると、近道を探さなくて済む。探さないで、やることがひとつになる。
五時間目の終わり、理科準備室からの連絡が入った。窓は無事。封筒は見えない。見えないままでいい。理科の先生が「油紙は今日は開けない」とメモにだけ書いていた。開けないと書かれるのは、安心する。
放課後、昇降口に集まったのは僕とカリン、木下、吹奏楽部の彼女、先生、そして一年の女子。叔父さんはいない。見取り図はなく、合図もない。角の白い帯の前で、僕らは距離を置いて立ち、それぞれの場所で十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、僕は帯へ指を伸ばした。結び目の裏側に指先を入れ、糸を切らず、布を傷めず、ゆっくり引く。引く手の反対で、角のガラスをそっと支える。支え方は短く、小さい。結び目は思ったよりあっさりほどけ、布は音を立てずに僕の掌の上へ座った。座り方がきれいだった。
カリンは紙片を抜かず、帯といっしょに内側へ巻き込んだ。巻き込んで、押さえず、紙の重みだけに任せる。木下は糊の跡が残らないよう、角のガラスを布巾で軽く拭った。拭き方は短く、乾いている。吹奏楽部の彼女は胸の前で息の形を置き、風鈴のない昇降口に一度だけ薄い音をつくって、すぐに忘れた。忘れたあと、ガラスの向こうで光が座りなおした。
「坂へ行く」
先生はそれだけ言って、昇降口の扉を押し、外の白を一瞬だけ濃くした。濃くなって、また戻る。戻り方が良かった。
坂の下で叔父さんが待っていた。帽子はなく、手ぶら。足音は小さく、影は薄い。薄い影は長く残る。彼は僕らを見ず、坂の白い帯を見た。道路の古いペイントは雨でさらに削られ、ところどころ消えかけている。消えかけているのに、位置は強い。
「ほどけたか」
「ほどけました」
僕は掌の白い布を見せた。叔父さんは触れない。触れないまま、目で布の端のほつれを追い、紙片の角を確認する。紙片にはさっきと同じ二文字。
ありがとう
「返すのは、ここ」
彼は白い帯の端、消えかけた字の上に視線を置いた。置いて、離す。視線の置き方も、返すのうちだと分かった。
僕は布を白い帯の上へ置いた。置いて、押さえない。坂の風が布をわずかに持ち上げ、すぐに戻す。戻すのは風の仕事だ。紙片は布の下で重さをつくり、布の真ん中に短い座り心地を与えた。カリンは帯の片端を指で触れ、指をすぐ離した。木下は靴底で白い帯の端を軽く鳴らし、音を残さない。吹奏楽部の彼女は胸の前で息の形を短く置き、すぐに忘れた。忘れて、風の低さだけが坂に残った。
「白鐘は、結び目を作らない人だった」と叔父さん。「結ぶより、置く。置いて、忘れる。忘れて、戻って来ないものの位置を決める。——君らのやり方は、似ている」
言葉はそこまでだった。十分だった。先生は声を上げず、目でだけ「終わり」を回した。終わり方の合図は、始まり方と同じくらい大事だ。
解散の前、叔父さんが僕の肩を一度だけ軽く叩いた。叩き方はいつもどおり小さい。
「黒は持っているか」
「持っています」
「今日は開けない。——開けなかった記録を、場所に置いて帰れ」
開けなかった記録。今日の見出しはそれでいいと思った。開けなかった、は何もしていないことじゃない。開けないために呼吸を整えたという事実が残る。残る事実は、次を軽くする。
学校へ戻る途中、用具倉庫の影の前で一年の女子が立ち止まった。小さな鉄の箱は半分地面に埋まったまま。雨上がりの土で角が少し黒くなっている。彼女はしゃがまず、箱を見下ろさず、影の端で十秒を持った。吸って、吐いて、止める。止めた先で、影の濃さが一瞬だけ薄くなって、また戻った。戻り方がよかった。
「掘るのは、風の季節が終わってから」
僕が言うと、彼女はうなずいた。うなずき方は小さく、長い。長いうなずきは、次の季節まで持つ。
教室に戻ると、黒板の右下の九つの点はそのまま、粉の短い線はやっぱり線になりきらない距離で止まっていた。先生は瓶のふたに手を置き、開けずに離した。通路の椅子に腰を下ろし、目で合図。十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、粉の白がいちどだけ空気にほどけ、すぐに床に落ちた。落ち方が、丁寧だった。
「今日の見出しは書かない。——“開けなかった記録”を、それぞれの場所へ」
先生の声は低くて、遠くまで飛ばない。飛ばない声のほうが、よく届く。僕は机の中の名札の角を確かめ、透明の台座を半分の位置で押さえ、押さえた指をすぐに離した。離したあと、木目が少しだけ明るくなる。明るくなって、すぐに元へ戻る。その戻り方を今日の本文として持ち帰る。
昼休み、新聞部の机に白いメモが三枚。名前はない。
ほどいてくれてありがとう
帯がある場所が好きでした
結び目がないのがよかった
カリンは笑わずにうなずき、メモを重ね直した。本文は風へ。風はほどいたところも結んだところも同じように通る。通る風を止めない。それだけで、場所は長く持つ。
午後、体育館の片隅で“黒の中の順番”を短く復習した。非常灯は点けない。窓の高い位置のガラスから薄い光が落ち、床の白線が列の代わりになる。僕らは並ばない。各自の場所で十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、床の光が一段階だけ低くなる。低くなったすきに、人の流れが自然に変わる。変わるのに、誰も指示をしない。指示のない順番は、強い。
練習が終わるころ、資料館からのメモがもう一通届いた。白い紙に三行。
白い帯は“場所”
帯の上で乾くのは“今日”
——白鐘の夏より
「夏より」という言い方が、過去形ではなかった。いまの中に夏が混ざっている。混ざって、濁らない。濁らない場所は、次の季節への橋になる。
放課後、音楽室の扉の前で最後の十秒。鍵盤の端の白は扉越しに薄く光り、譜面台は揃っている。吹奏楽部の彼女が息だけの旋律を短く置き、すぐに忘れた。忘れたあと、扉の前の空気が一度だけ薄く鳴り、静かになった。静けさは長く続く。長く続く静けさのほうが、強い。
帰り道、坂の途中で立ち止まり、ポケットの黒い筒に軽く触れた。開けないで持つ。持っているだけで、位置は少し決まる。今日はその位置を、坂へ置いて帰る。置くといっても、筒を下ろすわけではない。呼吸の中の重さの半分だけ、坂の白い帯へ返す。吸って、吐いて、止める。止めた先で、胸の奥の重さが少しだけ軽くなった。軽くなって、残りは僕のまま。残りで息ができる。それで十分だ。
家に着いて、机の上に壊れかけたカメラを置いた。シャッターは切らない。切らない音のほうが、今日は合っている。手帳を開き、短く書いた。
白の帯をほどく
開けなかった記録
残りで息をする
灯りを消す前、耳の奥で薄い音が一度だけ鳴り、止まった。止まった場所へ十秒を置く。置いたまま目を閉じる。眠る直前、胸の中で小さく言った。
ありがとう。半分のままで。風のままで。線になりきらない線のままで。白の帯のままで。
声にはしない。紙にも書かない。思っただけで忘れる。忘れ方を覚えた僕らは、ふつうに授業を受け、ふつうに笑い、ふつうに明日を迎える準備をした。ふつうの中に、静かな見せ場はいくつも立っている。拍手はいらない。拍手のいらない見せ場を、今日も通り過ぎていく。通り過ぎるたびに、空気だけが少し整い、九つの点は点のまま、粉の短い白は線になりきらないまま、たしかに明日へ残っていた。
翌朝。港は白く、空は低い。昇降口のガラスは冷たく、指のあとがすぐ曇りに飲まれる。教室に入ると、黒板の右下の九つの点はそのまま、粉の短い線は昨日より気持ち短く見えた。短く見えるのは、光の入り方のせいかもしれない。先生は通路の椅子に腰を下ろし、目で合図。十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、窓の外の旗が小さく揺れた。
ホームルームの終わり際、先生が言う。
「明日は“夏の入口”をやる。——港へ行けても行けなくても、坂がある。灯台が見えなくても、四角の位置は変わらない。黒は開けない。名札は呼ばない。線は線になりきらないまま、手前で止める」
カリンがノートに細く書いた。夏の入口。囲いは閉じない。閉じない余白に、今日の風が薄く座った。座り方が、よかった。僕は胸の中で小さく言う。
大丈夫。半分のままで。今日のやり方を、明日に渡せる。白鐘の言い方で。
声にしない。紙にも書かない。思っただけで忘れる。忘れ方を覚えた僕らは、次の白を持ち帰る準備を、いつものように静かに始めた。




