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記録者はまだ、夢を見ている。(The Recorder Is Still Dreaming.)  作者: 妙原奇天


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第24話 名前の線の手前で

 朝の空は薄く光って、港の白は昨日よりも低いところで揺れていた。昇降口のガラスに指を当てると、冷たさが少し遅れて返ってくる。ガラスの角に水滴がひとつだけ残っていて、触れずに通り過ぎた。教室へ入ると、黒板の右下には九つの点が昨日のまま並んでいた。線になる前で止めるやり方は、もう体のほうが覚えている。輪郭を薄くした名前は静かで、半分の名前は机の手前で落ち着いていた。先生は通路の椅子に座らず、黒板の前で目だけの合図をひとつ送る。いつもどおり、から始める。

 十秒は木下。立たず、背中だけ伸ばす。吸って、吐いて、止める。止めた先に何も置かない。終わりに、窓の外の旗が一度だけ膨らんで、すぐに落ち着いた。呼ばない日の空気は、教室の端まで均等に回る。

 一限の冒頭、先生は黒板消しを持ったまま右下へ歩き、いちばん左の点の手前に指を置いた。押さえない。置くだけ。置いて、離す。離したところに、粉の短い白が細く残った。点と線の間。線になりきらない線は、今日の見出しみたいに見えた。

 「今日は“名前の返し方”をもう一段やる。呼ばないで、一本だけ線に近いところまで」

 先生はそれだけ言って、瓶のふたに手を置き、開けずに離した。声は遠くまで飛ばない。飛ばない声のほうが、よく届く。

 休み時間、新聞部の机でカリンがノートを開き、細く書いた。

 線の手前で止める

 呼ばないで返す

 囲いは閉じない。閉じないまま、余白を残す。余白は風の椅子になる。

 二限の途中、教室の後ろで小さなざわめきが起きた。誰かの名札がなくなっている、と一年の女子が言う。机の中も、椅子の下も、見当たらない。彼女は声を上げなかった。上げないで、目の前の木目を見ている。呼ばないやり方を、彼女は知っていた。

 先生は通路の椅子に腰を下ろし、目だけで合図した。十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、教室の空気が少しだけ低くなる。低くなると、探す足音が荒れない。誰かが机の横の壁の隙間を覗き、誰かが掃除道具入れの奥を見た。見つからない。名札のない机は、机のままだ。机のままでいて、息をする場所が少しだけ狭くなる。

 僕は立たずに、机の中で壊れかけのカメラの位置を確かめた。鳴らない。鳴らないのに、場所だけ思い出す。カリンは僕を見て、首を小さく振る。今は声を足さないで、という合図。分かっている。分かっていても、胸の奥は少しだけ早くなる。

 三限の前、生活指導の先生が呼びに来た。昇降口の白い紙に誰かが短いメモを貼ったらしい。僕とカリンは昇降口へ降りた。見出しは下枠に挟まったまま。紙の角に短い紙片が重ねられている。文字は薄く、小さい。

 名前は返すもの

 ——坂の上の人

 叔父さんの字に似ていた。似ているのに、わずかに違う。違い方が、白鐘の字の癖に近い気がした。確かめようがない。確かめないほうがいいこともある。カリンは紙片を貼り直しもしないし、剥がしもしなかった。見出しの余白の上に、そっと押さえただけ。押さえた指は、すぐに離れた。

 教室へ戻る途中、二年の男子が廊下で声を荒げていた。理科室の窓の中に何か隠しているだろ、と言っている。写真を撮るだけだ、とも言う。カリンは立ち止まらず、目だけで一度合図した。呼ばないで、という合図。僕は十秒を短く持った。吸って、吐いて、止める。止めた先で、男子の声がわずかに沈む。沈んだところへ、生活指導の先生の軽い足音が入る。軽い足音は強い。男子は肩をすくめ、ポケットに手を突っ込み、そのまま渡り廊下へ消えた。

 四限の初め、先生が黒板の前に立ち、薄い粉の線の手前に指を置いた。今度は少し長く置く。置いて、離す。線は少し伸びる。伸びるけれど、やっぱり線になりきらない。ならないのに、前へ進む感じがした。進み方は静かで、強い。

 昼休み、名札のなくなった一年の女子が新聞部の机へ来た。声は出さない。ノートの端に短く書く。

 名前がないときの息

 どうやって持てばいいですか

 カリンは笑わずにうなずき、すぐ下に書いた。

 机の手前に半分置く

 呼ばないで、木目を見る

 十秒のあと、椅子を戻す

 彼女は読み、軽く会釈して去った。会釈の角度は小さいのに、深かった。深い会釈は、長く残る。僕はノートの余白を指で押さえ、押さえた指をすぐ離した。余白が息をする。

 午後、資料館からのメモが届く。白い紙に二行。

 灯台の四角は無事です

 ——名札は、坂に

 名札が坂にあるとは限らない。限らないのに、坂へ行く意味はある。五限が終わると同時に先生が言った。

 「今日は“坂の上”で一本やる。見出しは持っていかない。名札は呼ばない。——返すやり方を、場所に渡す」

 放課後、僕らは坂の下に集まった。僕とカリン、木下、吹奏楽部の彼女、一年の女子、先生。叔父さんの姿はない。車は来ない。風だけがゆっくり上から下へ通る。僕らは距離を置いて立ち、目を合わせない。合図は要らない。場所が合図になる。

 最初の十秒は一年の女子に任せた。彼女は立たず、背中だけ伸ばした。吸って、吐いて、止める。止めた先で、彼女は胸の前で両手を重ね、机の手前に名札があるみたいに指をそっと置いた。置いて、すぐに離す。離し方が良かった。離したあと、坂の白い帯が一瞬だけ明るくなって、また落ち着いた。

 次は木下。靴底で白線の端を軽く鳴らし、音を残さない。吹奏楽部の彼女は息の形を短く置き、すぐに忘れた。僕は黒い筒へ触れず、ポケットの上から一度だけ位置を確かめた。確かめる、で止める。止めた先で、坂の上から小さな足音が降りてきた。叔父さんだ。帽子はなく、手ぶら。足音は小さく、影は薄い。

 「“名前がない”の列、うまくいってる」

 叔父さんは僕らを見ず、白い帯を見た。帯は古くて、ところどころ薄い。薄いまま、強い。

 「名札は坂に?」

 僕が聞くと、叔父さんは首を横に振った。

 「坂に“見つかる”のではない。——坂で“返される”んだ」

 返される。言い換えに救われる日がある。今日がそれだと思った。

 彼はポケットから薄い封筒を出した。白鐘の字で、短い文が書かれている。

 名前が濡れたら

 坂で乾かす

 封筒は空だった。空のまま、文だけが残る。文だけが残ると、場所のほうが濃くなる。叔父さんは封筒を白い帯の端にそっと置き、すぐに風で押し戻されるのをそのまま見送った。押し戻された封筒は、僕の足元で止まった。拾わない。拾わないで、十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、白い帯の上に見えない線が一本、薄く置かれた気がした。錯覚でも良かった。

 練習を切り上げ、坂の上で最後の十秒。先生は声を上げず、「今日はここまで」とだけ言った。坂を降りる途中、僕は一年の女子に並んだ。彼女は呼ばずに、胸の前で指を合わせる。合わせて、離す。

 「名札、明日には戻るかもしれない」

 僕が言うと、彼女はうなずいた。うなずき方は小さく、長かった。

 学校へ戻ると、理科棟の前で二年の男子が待っていた。さっき声を荒げていた子だ。今は声を上げない。手に薄い紙切れを持っている。僕は立ち止まり、目で合図する。彼は紙を差し出した。紙は細長く、端が濡れて波打っている。そこには、一年の女子の名前の半分が鉛筆で書かれていた。半分だけ。名札の切れ端ではない。誰かが練習で書いたらしい。半分が紙の上にあって、半分が紙の外にある。

 「廊下の掲示板の裏に挟まってた。ふざけてたわけじゃない。——見つけたから、返す」

 彼はそれだけ言って、肩をすくめ、走っていった。走り方は軽く、音は薄い。薄い音のほうが、長く残る。

 僕は紙を受け取り、新聞部の机でカリンに見せた。カリンはうなずき、紙の余白を指で押さえ、すぐ離した。

 「半分、返ってきた」

 「うん。半分で息ができる」

 僕らは一年の女子の席へ行き、紙を机の手前に静かに置いた。呼ばない。彼女は紙を見て、胸の前で指を合わせ、短く息を置き、離した。離したあと、机の木目が少しだけ明るくなった。

 放課後、音楽室の前で最後の十秒。鍵盤の端の白は扉越しに光り、譜面台は揃っている。吹奏楽部の彼女が息だけの旋律を短く置き、すぐに忘れた。忘れたあと、扉の前の空気が一度だけ薄く鳴り、静かになった。静けさは長く続く。長く続く静けさのほうが、強い。

 家に帰ると、壊れかけのカメラは机の上で静かに座っていた。シャッターは切らない。切らない音のほうが、今日はよく合う。手帳を開き、短く書いた。

 線の手前で止める

 名札は坂で乾く

 半分で息ができる

 灯りを消す前、ポケットの黒い筒に軽く触れ、触れたことを忘れた。忘れると、持てる。持てると、渡せる。渡せると、返せる。返せると、息ができる。簡単な順番だ。簡単なのに、練習が要る。

 翌朝。港は白く、空は薄く明るい。昇降口のガラスは冷たく、指のあとがすぐ曇りに飲まれる。教室へ入ると、黒板の右下の点は九つのまま。粉の短い線は昨日より少しだけ長く、やっぱり線になりきらない。ならない線の手前で、先生は指を置いた。置いて、離す。離したあと、先生は言う。

 「今日は“返ってくる日”かもしれない。——返ってこなくても、やり方は残る」

 ホームルームの終わり際、廊下で小さな足音が近づき、名札のなくなっていた一年の女子が席へ戻ってきた。机の手前の紙を見て、少しだけ笑った。笑いは声にならない。声にならない笑いのほうが、長く残る。彼女は紙をそっと折り、名札の代わりに机の手前に置き、十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、黒板の右下の粉がわずかに揺れた。揺れて、落ちない。落ちない粉は、列の代わりになる。

 昼休み、叔父さんが資料館からのメモを届けに来た。白い紙に一行。

 坂に返ったものは

 坂が持っている

 僕はうなずいた。うなずいたあと、胸の中で小さく言う。

 ありがとう。半分のままで。風のままで。線の手前のままで。

 声にはしない。紙にも書かない。思っただけで忘れる。忘れ方を覚えた僕らは、ふつうに授業を受け、ふつうに笑い、ふつうに明日を迎える準備をした。ふつうの中に、静かな見せ場はいくつも立っている。拍手はいらない。拍手のいらない見せ場を、今日も通り過ぎる。通り過ぎるたびに、空気だけが少し整い、九つの点は点のまま、そして点になりきらない線の手前で、たしかに明日へ残っていた。


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