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記録者はまだ、夢を見ている。(The Recorder Is Still Dreaming.)  作者: 妙原奇天


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第23話 坂の上で半分を返す

 朝の空は薄く明るく、港の白はうすい霧みたいに町じゅうをやわらかく包んでいた。昇降口のガラスに指を当てると、冷たさが少し遅れて返ってくる。教室に入ると、黒板の右下には九つの点が昨日のまま並んでいた。線になる前で止めるやり方は、もう体のほうが覚えている。輪郭を薄くした名前は静かで、半分の名前は机の手前で落ち着いていた。先生は通路の椅子に座らず、黒板の前で目だけの合図をひとつ送る。いつもどおり、から始める。

 十秒は僕。立たず、背中だけ伸ばす。吸って、吐いて、止める。止めた先に何も置かない。終わりに、窓の外の旗が一度だけ膨らんで、すぐに落ち着いた。呼ばない日の空気は、教室の端まで均等に回る。

 一限の冒頭、先生が短く告げた。

 「今日は“坂の上”をやる。港へ行かない。資料館へ続く緩い坂の途中で、見出しなしの列。——『半分を返す』の練習だ」

 半分を返す、という言い方が、黒板の粉よりも軽く胸に乗った。カリンは新聞部のノートに細く「半分」と書いて、囲いを閉じずに止めた。木下は筆箱の消しゴムを角で立て、指一本で支えずに見つめる。吹奏楽部の彼女は胸の前で短い息の形を作り、すぐに忘れた。忘れ方が上手い日は、うまく進む。

 昼休み、昇降口の白を見に行くと、見出しは下枠に挟まったまま静かに座っていた。二階の踊り場の布はほとんど揺れず、理科室の窓は擦りガラス越しの白がやわらかく立っていた。僕はそれぞれの前で短い十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、胸の奥の固さがひとつ減った。減った場所に風が座る。座り方が、良かった。

 放課後。坂の下に集まったのは僕とカリン、木下、吹奏楽部の彼女、そして先生。叔父さんの姿はない。見取り図も合図もなく、僕らは距離を置いて立ち、坂の勾配に合わせて体の向きを少しだけ斜めにした。車は来ない。風だけが上から下へ、ごく薄く通る。

 「今日は“渡す”を試す」と先生。「名前ではなく、順番でもなく、手に持っているものでもない。——『いま持っている半分』を、場所に返す」

 言葉は難しくなかった。難しくないのに、やり方はひとつではない。僕はポケットの黒い筒に触れた。触れて、離す。離し方は小さく、短い。カリンが目で合図する。やるなら、今だよ、という顔。僕は頷いた。

 吸って、吐いて、止める。止めた先で、坂の下の明るさが少しだけ薄くなる。薄くなった明るさの手前に、短い影が一つ生まれ、すぐに消える。消え方が丁寧だと、残り方も丁寧になる。僕はポケットから黒い筒を取り出し、掌に乗せた。蓋の縁に塩の白い跡。重さはほとんどないのに、手のひらははっきりとそれを覚える。覚えたまま、置かない。置かないで、視線だけを坂の途中の白線へ渡した。道路の古いペイントが雨で削れて、薄い帯になっている。そこに、十秒の座り心地があった。

 「レン」とカリンが小さく言う。「渡す先、決められる?」

 「決められる。——今日は、坂」

 「うん」

 僕は筒を握り直し、ゆっくりと半歩だけ前へ出た。誰も見ていないようで、見ている。木下はわざと反対側を向き、吹奏楽部の彼女は目を閉じて息の形だけを持った。先生は通路の椅子のときと同じ姿勢で立ち、目だけを落ち着かせた。

 僕は黒い筒を胸の高さまで上げ、蓋に触れず、坂の白線に向けて頭を下げた。声は出さない。声の代わりに十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先に、筒の重さの半分だけを坂へ返す。想像で返す。返すと、掌が少し軽くなった。軽くなった重さの分だけ、位置が決まった。決まった位置は、次の人に譲りやすい。

 カリンが続けた。新聞部のノートを開かず、両手を下げたまま一歩だけ後ろへ下がる。下がった足の先で、坂の砂が音もなく崩れて、すぐに座る。座り方がきれいだった。木下は靴底で白線の端を軽く鳴らし、吹奏楽部の彼女は胸の前で息の形を短く置いた。置いて、忘れた。忘れたあと、坂の上を走っていた小さな風がひと呼吸だけ低くなった。

 そこへ、遅れて叔父さんが現れた。帽子はなく、手ぶら。足音は小さく、雨の翌日の匂いにすぐ混ざる。僕らを見ず、坂の下の白い帯を見た。

 「返せたか」

 「半分、返しました」

 「なら、残りの半分は君のままでいい。——全部、どこかへ渡す日は来ない」

 叔父さんはそう言って、僕の手の黒い筒を見た。触れない。触れないまま、視線で蓋の縁をゆっくり一周して、目を上げる。

 「白鐘はよく言った。『半分返せば、残りの半分で息ができる』と」

 僕は頷いた。頷いたあと、黒い筒をポケットへ戻す。戻し方は、小さく、短い。短い戻し方のほうが、長く持てる。

 練習を切り上げ、坂の上で最後の十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、資料館の白い外壁が一瞬だけ明るくなって、また落ち着いた。落ち着き方は、海の見える額縁の中で見た光の戻り方に似ていた。

 解散の前、先生が言った。

 「今日の“半分”はここまで。——明日は『名前の返し方』をやる。黒板の右下の点から、一本だけ線にする練習だ。呼ばないでやる」

 黒板の右下の点から一本だけ線にする。聞いただけで、胸の奥が少しだけ強くなった。強くなって、重くはならない。重くならない強さは、持ち運べる。

 夜。机で手帳を開き、短く書いた。

 半分を坂へ

 残りで息をする

 全部は渡さない

 壊れかけのカメラは横で静かに座っている。シャッターは切らない。切らない音のほうが、今日はよく合う。灯りを消す直前、黒い筒に軽く触れ、触れたことを忘れた。忘れ方が上手くなると、眠りやすい。

 翌朝。港は白く、空はうすく明るい。昇降口のガラスは冷たく、指のあとがすぐ曇りに飲まれる。教室に入ると、九つの点はそのまま。輪郭を薄くした名前も同じ位置。先生は通路の椅子に腰を下ろし、目で合図。十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、窓の外の旗が小さく揺れた。

 一限の冒頭、先生は何も配らなかった。黒板消しを持ったまま右下の九つの点へ歩き、いちばん左端の点の少し上に指を置く。押さえない。置くだけ。置いて、離す。離したあとに、ほんの短い白い傷が残った。傷といっても粉の線。粉の線は、列の代わりになる。

 「今日は“名前を返す”。——呼ばないで、一本だけ線にする」

 先生の声は低くて、遠くまで飛ばない。飛ばない声のほうが、よく届く。僕らはうなずき、机の中の名札を半分の位置で確かめた。透明の台座の角に光が集まり、すぐに散る。散り方が柔らかかった。

 十秒は、僕ではなかった。立たずに背中を伸ばしたのは、一年の男子。体育館で肩で呼吸が跳ねていた子だ。彼は先生を見ず、窓の外の旗を見ず、机の天板の木目をまっすぐ見た。吸って、吐いて、止める。止めた先で、右手で名札を半分だけ持ち上げ、机の手前にきちんと戻す。戻す動きの途中で、彼は自分の姓を小さく口の中だけで言った。声は出ない。出ないのに、黒板の粉がわずかに揺れた。揺れた粉が、細い線になって、右下の点の手前で止まった。

 線になりきらない線。そこが今日の見せ場だと分かった。誰も拍手はしない。しないのに、空気が少しだけ軽くなった。軽くなって、強くなる。

 休み時間、カリンが新聞部のノートに短く書いた。

 半分の名前を返す

 線になりきらない線

 書いたあと、余白を囲わずそのまま閉じた。閉じ方が丁寧だと、読む人は増える。読まないまま、意味だけが場所に残る。

 二限が終わるころ、理科準備室から連絡が入った。窓は無事。封筒は見えない。見えないまま、いい。理科の先生は「今日は油紙を出さない」とだけメモに書いていた。出さない選択は、出す選択と同じくらい強い。

 昼休み、叔父さんが昇降口に来た。帽子はなく、手ぶら。白い紙の前に立ち、十秒をやった。吸って、吐いて、止める。止めた先で、ガラスを伝う陽の筋が一度だけ濃くなって、すぐに戻った。戻り方が、良かった。叔父さんは僕のほうを見ず、扉の金具に指を一回だけ置いた。

 「坂は、いい場所だ」

 「昨日、半分を返しました」

「見ていたよ」


 彼はそれだけ言って、資料館のほうへ歩き出した。歩幅は一定で、影は薄い。薄い影は、長く残る。

 午後。先生は黒板の右下の粉の線に、もう一度だけ指を置いた。置いて、離す。線は少しだけ長くなったが、やっぱり線になりきらない。ならない線は、強い。点に戻れる。戻れる線は、壊れない。

 放課後、僕らは校庭の隅を通って用具倉庫の影の前に立った。錆びた小さな箱は半分だけ地面に埋まり、角は丸く、音は長い。木下がしゃがんで、指で軽く叩く。からん、という細い音がして、すぐに止んだ。止まり方がよくて、誰も続きを欲しがらない。

 「ここに“置く”?」

 カリンが言った。僕は首を振った。

 「掘らない季節だし、今日は『返す』をした。置くのは、別の日に」

 「分かった。——じゃあ、今日は忘れる日」

 忘れる日。言葉は軽いのに、支えは強い。僕らは影の前で短い十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、幼い日の誰かの笑い声がいちどだけ遠くで鳴った気がして、すぐに消えた。消え方が、良かった。

 解散のあと、音楽室の前で最後の十秒。鍵盤の端の白は扉越しでも光っている。吹奏楽部の彼女が息だけの旋律を短く置き、すぐに忘れた。忘れたあと、扉の前の空気がうすく鳴り、静かになった。静けさは長く続いた。

 帰り道、坂の途中で立ち止まり、ポケットの黒い筒に軽く触れた。触れて、離す。離したあと、ほんの少しだけ手のひらが軽くなった。昨日返した半分が、ちゃんと坂に座っているのが分かった。分かって、忘れた。忘れ方が、良かった。

 夜。手帳に短く書いた。

 線になりきらない線

 半分の名前

 坂に座る重さ

 灯りを消す前、壊れかけのカメラを指で撫で、シャッターを切らずに手を離した。切らない音が部屋に座り、息が座る。座った場所へ十秒を置く。置いたまま目を閉じる。目を閉じる直前、胸の中で小さく言った。

 ありがとう。半分のままで。風のままで。黒のままで。坂のままで。

 声にはしない。紙にも書かない。思っただけで忘れる。忘れ方を覚えた僕らは、ふつうに授業を受け、ふつうに笑い、ふつうに明日を迎える準備をした。ふつうの中に、静かな見せ場はいくつも立っている。拍手はいらない。拍手のいらない見せ場を、今日も通り過ぎていく。通り過ぎるたびに、空気だけが少し整い、九つの点は点のまま、たしかに明日へ残っていた。


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