第22話 雨の通り道
朝の空は低く、港の白は薄い膜みたいに町をおおっていた。昇降口のガラスに指を当てると、冷たさが遅れて返ってくる。教室へ入ると、黒板の右下には九つの点が昨日のまま並んでいた。線になる前で止めるやり方はもう体のほうが覚えている。輪郭を薄くした名前は静かで、半分の名前は机の手前で落ち着いていた。先生は通路の椅子に座らず、黒板の前で目だけの合図をひとつ送る。いつもどおり、から始める。
十秒は倉田。立たず、背中だけ伸ばす。吸って、吐いて、止める。止めた先に何も置かない。終わりに窓の外の旗が一度だけ膨らんで、すぐにしぼんだ。呼ばない日の空気は教室の端まで均等に回る。
一限の冒頭、先生が短く告げた。
「昼から雨脚が強くなる。港の灯台は立入禁止。理科室の窓は施錠のまま。——校庭へは出ない。代わりに“屋内の通り道”を探す」
屋内の通り道。カリンが新聞部のノートに細く「雨の通り道」と書き、囲いを閉じずに止めた。木下は筆箱の消しゴムを角で立て、指で倒さず見つめる。吹奏楽部の彼女は胸の前で短く息の形を作り、すぐに忘れた。忘れ方が良い。今日は、そういう日だ。
二限の終わりごろ、最初の雨が来た。屋根を叩く音が太く、廊下の蛍光灯が一度だけ揺れた。風は高い位置で回っている。回り方がいつもと違う。昼休み、昇降口まで見に行くと、白い紙は下枠に挟まったまま静かに座っていた。ガラス越しに雨が筋になって落ち、見出しの黒い線を一瞬だけ細く歪める。歪んで、戻る。戻り方が丁寧だった。
午後の五時間目、屋上から細い水音が降りてきた。理科棟の上で排水が詰まったらしい。チャイムの直後、放送が短く入る。
理科棟二階廊下、軽い漏水。近くの生徒は先生の指示に従ってください
僕とカリンは目で合図し、先生に視線で許可をもらって理科棟へ向かった。角を曲がると、廊下の天井から透明な糸が垂れていた。糸はやがて粒になり、床で薄く弾けて広がる。理科の先生がバケツを二つ置き、モップを準備している。人は集まりかけるが、足は止まる。止まり方がうまい。十秒が要る。
先生は大きな声を出さず、こちらを見ただけで分かった。僕はモップを受け取り、カリンはバケツの位置をわずかにずらす。ずらし方は半歩。半歩なのに、大きい。廊下の風の通り道が、水の通り道と重なる。重なった場所から、音が引いていく。
「ここは列を作らない」と僕は小さく言った。「“通す”だけ」
カリンがうなずき、周囲の一年生に指で短く示す。しゃがんでいた子が立ち上がり、手で荷物の位置をずらし、足を一歩引く。誰も指示をしない。真似だけが増える。真似から始まるのは、だいたい正しい。
天井の染みは広がりかけて、止まった。止まり方がいい。モップの先の水が軽くなり、音が細くなる。理科の先生は棚の影から古い油紙を取り出した。昨日見せてもらった、額縁の裏布を包んでいたやつだ。先生は広げず、手で重さを確かめて、また畳んだ。
「色は混ぜないほうがいい」と先生。「今日は包みの音だけを借りる」
油紙がわずかに鳴った。鳴り方は短い。短いのに、合図になる。鳴ったあと、廊下の水が自分でひいていくように見えた。見間違いでも構わない。引いた、という事実が空気を軽くする。
落ち着いたところで先生が言う。
「理科室の窓を開けないで、挨拶だけしていけ」
僕らは頷き、窓枠の下に手を添えた。吸って、吐いて、止める。止めた先で擦りガラスの向こうに白い揺れが一度だけまとまり、すぐに解けた。解け方が良かった。雨の日は、白の解け方がはっきり見える。
戻る途中、階段の踊り場で小さな騒ぎが起きた。二年のグループが、新聞部の見出しの紙を移動しようとしていた。理由は簡単で、写真を撮りたいから。紙を上へ持ち上げたほうが映える、と笑っている。カリンは近づき、笑わずに言った。
「上へ上げると、ここが詰まるよ。——今日は雨の通り道だから」
「撮るだけだよ」と誰かが言う。「すぐ戻す」
僕は紙に触れなかった。触れずに、十秒を短く持った。吸って、吐いて、止める。止めた先で、踊り場の空気が薄く鳴る。鳴ったほうへ、視線が一瞬だけ集まる。そのすきに、カリンが紙をもとの高さへ静かに戻した。
「見出しはここで息をしてる。移すのは、息じゃなくて目線のほう」
言葉は柔らかかった。柔らかい言葉のほうが、動く。グループは顔を見合わせ、紙を見て、肩をすくめて笑い、階段を降りていった。降り方が静かで、良かった。
教室に戻ると、窓の外の雨はさらに強くなっていた。黒板の右下の九つの点はそのまま。先生は瓶のふたに手を置き、開けずに離した。通路の椅子に腰をおろし、目で合図。十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、天井の音がひとつ減った。減った音の分だけ、耳は楽になる。
六時間目の終わり、放送が入った。今日の下校は教員の誘導に従って順番に。昇降口の白は片づけない。見出しはそのまま。廊下の水は通り道に沿って避ける。体育館は使わない。先生は「分かった」とだけ答え、黒板の右下のいちばん左の点を指で軽く押さえてから、そっと離した。点は点のまま。濃くもしないし、消しもしない。そういう日だ。
下校の列は作らなかった。作らずに、場所を順番に渡した。昇降口の前で一呼吸。吸って、吐いて、止める。止めた先で、扉の向こうの雨脚が一段階だけ弱くなる。弱くなったすきに、一組が外へ出る。出たら、扉の内側で短い十秒。次の一組が出る。いつもの列より遅いはずなのに、流れは止まらなかった。止まらないのに、誰の肩も濡れすぎない。肩の濡れ方が均等だと、人は不安になりにくい。
僕は最後まで残り、カリンと先生とで昇降口の周りを軽く拭いた。白い紙は下枠に挟まったまま。見出しは濡れていない。ガラスを伝った雨だけが角で薄く割れ、すぐに消えた。消え方が、良かった。
扉を閉める前、先生が言った。
「港は無理だ。——坂の途中で十秒をやる。君ら二人と、木下と、吹奏楽部の彼女。短くやって、短く解散」
坂の途中。灯台へ下る道ではない。資料館へ続く緩い坂。車はほとんど通らない。雨の匂いが濃いのに、息は苦しくない。アスファルトの黒が均一で、音が吸われる。僕ら四人は横に並ばず、距離を置いて立った。吸って、吐いて、止める。止めた先で、坂の下の水がいちどだけ途切れた。途切れて、また走る。走り方が穏やかで、良かった。
そのとき、斜めの陰から叔父さんが現れた。帽子はなく、手ぶら。雨に濡れても、歩幅は変わらない。足音は小さく、すぐに水の音と混ざる。僕らを見ず、坂の下を見た。
「今日は、ここが港だ」
「はい」
「黒は持っているか」
ポケットの黒い筒を少しだけ押し上げる。叔父さんはうなずき、僕の肩を一度だけ軽く叩いた。叩き方は、いつも通り小さい。
「開ける必要はない。——でも、“渡す”必要が来るかもしれない」
「誰に」
叔父さんは答えなかった。答えないで、坂の上を見た。雨は弱らない。弱らないのに、位置は決まる。決まった位置に十秒を置き、僕らは解散した。
帰り道、港へは降りなかった。灯台は白い壁の一部だけが雨の幕に透けて見えた。四角は見えない。見えない四角は、たしかに強い。家に着いて、手帳を開く。壊れかけのカメラを横に置き、シャッターを切らない。切らない音のほうが、今日は長く持つ。
雨の通り道
屋内の列は作らない
黒は開けずに“渡す”
短く書いて、灯りを消した。耳の奥で薄い音が鳴り、止まった。止まった場所へ十秒を置く。置いたまま目を閉じる。眠り方は、少しずつ上達する。
翌朝。雨は細くなっていた。港は白く、空は低い。昇降口のガラスは冷たく、指のあとがすぐ曇りに飲まれる。教室に入ると、九つの点はそのまま。輪郭を薄くした名前もそのまま。先生は通路の椅子に座り、目で合図。十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、窓の外の旗が静かに揺れた。
一限の冒頭、先生が短く言った。
「今日は“持ち帰った雨”の話をしない。——見出しも増やさない。本文は場所に残しておけ」
やることは少ないのに、やる意味は薄くならない。そういう日だ。授業が始まり、二限が終わったころ、資料館からのメモが届いた。カリンが開き、僕の机に置く。
灯台の四角は無事です
叔父は午後に伺います
——白鐘の夏の件
「夏の件」とだけ書かれている。具体的なことは書いていない。書かれないことが、本文の形になる。僕は黒い筒に軽く触れ、触れたことを忘れた。
昼休み、新聞部の机に白いメモが三枚。名前はない。短い言葉だけ。
雨の日の十秒、家でもやりました
玄関で並ばないの、楽でした
うちの犬も静かでした
カリンは笑わずにうなずき、メモを重ね直した。本文は風へ。風は雨のなかでも書ける。書いた本文は、乾くと薄く光る。光り方がやさしければ、長く残る。
放課後、資料館へ行くと、叔父さんが中で待っていた。展示の奥、額縁の並ぶ廊下。彼は椅子に座らず、立ったまま壁の白を見つめていた。
「君の“黒”を預かる日が来たら、受け取りに来る」
「それは、いつですか」
「君が“渡したくなる日”。——開けたくなる日じゃない」
言葉の置き方がはっきりしていて、僕は一度うなずいた。うなずいたあと、口を開かずに深く息をした。息は重くない。重くない息は、長く持てる。
「白鐘は言っていた。『額縁は“今日のやり方”を明日に渡す道具だよ』と。——今日のやり方、君らは持って帰れたか」
「持ち帰れました」
「なら、今日のところは十分だ」
叔父さんはそれ以上何も言わず、資料館の白い廊下をゆっくり歩いていった。歩幅は一定で、影は薄い。薄い影のほうが、長く廊下に残った。
外に出ると、雨はほとんど止んでいた。海の音は弱く、港の白は均一だった。灯台の四角は見えない。見えないまま、位置だけがはっきりしている。はっきりしているものは、触らなくていい。
学校に戻ると、先生が黒板の前で瓶を光にかざしていた。ふたは開けない。粉は見えない。見えないけれど、ある。あるを持ったまま、先生は黒板の右下の九つの点のいちばん右を指で軽く押さえ、そっと離した。点は点のまま。線にはならない。ならないのに、うっすらと前へ進む感覚があった。
ホームルームの最後、先生が言う。
「明日は“呼ばない列”をもう一度やる。——港へは行けるかもしれない。行けなくても、坂がある」
カリンが新聞部のノートに細く書く。呼ばない列。囲いは閉じない。閉じないまま、余白が風を通す。通った風が、廊下の水の代わりに静かに音を運ぶ。音はすぐに消え、消え方は良い。
帰り道、ポケットの黒い筒を軽く握った。開けないで持つ。持っていて、渡す日を待つ。待つといっても、構えない。構えないほうが、順番は場所に渡りやすい。順番が場所に渡れば、誰の名前もいらない。名前のない順番は、強い。
家で手帳を開き、短く書いた。
雨の通り道
紙は移さない
黒は開けずに渡す日を待つ
灯りを消す前、壊れかけたカメラのシャッターを一度だけ指でやさしく撫で、切らずに手を離した。切らない音が部屋に座り、息が座る。座った場所へ十秒を置く。置いたまま目を閉じる。遠くで雨がもう一度だけ小さく鳴り、すぐに止んだ。止まり方が丁寧で、眠りやすかった。
翌朝。港は白く、空はまだ低い。昇降口のガラスはやわらかく冷たい。教室に入ると、九つの点はそのまま。輪郭を薄くした名前も同じ位置。先生は通路の椅子に腰を下ろし、目で合図。十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、窓の外の旗が小さく揺れた。
僕は胸の中で小さく言った。
ありがとう。半分のままで。風のままで。雨のままで。黒のままで。
声にはしない。紙にも書かない。思っただけで忘れる。忘れ方を覚えた僕らは、ふつうに授業を受け、ふつうに笑い、ふつうに明日を迎える準備をした。ふつうの中に、静かな見せ場はいくつも立っている。拍手はいらない。拍手のいらない見せ場を、今日も通り過ぎていく。通り過ぎるたびに、空気だけが少し整い、九つの点は点のまま、たしかに明日へ残っていた。




