第21話 黒の中で順番を渡す
朝の空はうすく曇って、港のブイはゆっくり上下していた。昇降口のガラスに指を当てると、冷たさが少し遅れて返ってくる。教室に入ると、黒板の右下には九つの点が昨日のまま並んでいた。線になる前で止めるやり方は、体のほうがもう覚えている。輪郭を薄くした名前は静かで、半分の名前は机の手前に落ち着いていた。先生は通路の椅子に座らず、黒板の前で目だけの合図をひとつ送る。いつもどおり、から始める。
十秒はカリン。立たず、背中だけ伸ばす。吸って、吐いて、止める。止めた先に何も置かない。終わりに、窓の外の旗が一度だけ膨らんで、すぐに落ち着いた。呼ばない日の空気は、教室の端まで均等に回る。
一限の冒頭、先生が短く告げた。
「午後、全校で避難経路の確認をやる。——地震の想定だが、外には出ない。体育館に集合して“静かな列”の練習をする」
体育館。ざわめきが小さく波打って、また静かになる。カリンが新聞部のノートに細く「黒」と書き、囲いを閉じずに止めた。黒は体育館の床の色でも、非常灯の色でもない。何も映らない時間の色だと、なんとなく分かった。
昼休み、僕の机に白い封筒が置いてあった。差出人はない。中には小さな紙片が一枚だけ。
放課後、坂の途中に寄ってください
——叔父
インクは濃いのに、紙は薄い。薄い紙のほうが長く持つことがある。ポケットに戻すと、壊れかけのカメラが布越しにかすかに揺れた。鳴ったわけではない。ただ、位置を思い出しただけだ。
午後、チャイムが二重に鳴り、避難の放送が重なる。先生は声を張らず、「列を作らないで体育館」とだけ言った。僕らはそれぞれの歩幅で廊下に出て、階段で息を合わせずに降りた。合わせようとしないのに、足音が荒れない。荒れない列は、強い。
体育館の床は固く、薄いワックスの匂いがした。ステージの緞帳は半分閉まり、非常灯はまだ点いていない。全学年の靴音が重なって、やがて薄くなる。先生がマイクを持ち、声を上げずに言う。
「“静かな列”の練習をする。合図は十秒。声で注意をしない。——順番は、位置に渡す」
見取り図の代わりに、先生はステージのへりに白い紙を一枚だけ置いた。見出しはない。余白だけがある。余白は多いほうが動きやすい。
非常灯が一度だけ点いて、すぐに消えた。体育館が黒に近づく。窓の高い位置のガラスから薄い光が落ちて、床の上に浅い長方形をいくつも作った。そこから人がよけて、影の形が増える。ざわめきが細く立ち上がる。立ち上がったところで、僕は片手だけ上げた。合図ではない。ここにいる、を短く示す手だ。
先に息を置いたのは、吹奏楽部の彼女だった。胸の前で短い息の形。音は出ない。だけど、その無音が一段、空気を落ち着かせる。木下が体育館の中央の白線の間に立ち、靴底で床を一度だけ鳴らす。鳴らし方が軽い。軽い音は指示にならない。説明になる。
先生がマイクを口から離し、目だけで「十秒」を回した。僕はステージの階段に右足だけ乗せ、吸って、吐いて、止める。止めた先に何も置かない。止めた、という事実だけが床に薄く乗る。乗った場所を追いかけない。床の白線が、列の代わりになる。
そのとき、体育館全体が一度だけ暗くなった。停電だ。非常灯がまた点いて、また消える。暗さのほうが勝った。小さな悲鳴が三つ、四つ。先生はマイクを上げなかった。上げないで、ステージのへりの白い紙に指先だけ触れた。触れたことが、合図になった。
黒の中で、順番を渡す。見せ場はそこにあった。カリンが通路の端で両手を下げたまま一歩分後ろへ下がり、隣の列の前にわずかな空きを作る。空いたところへ、前の学年が自然に流れる。誰も指示をしないのに、進む。進む速度は遅いのに、速い。速さの形が違う。順番が人から離れて、場所のほうへ移る。移った順番は、落ちない。
僕はステージの端に残り、たった一度だけ息の形を置いた。置いた場所を忘れる。忘れたほうが、次の人の場所が軽い。床に座り込んだ一年生がひとりいて、肩で呼吸が跳ねている。声をかけない。目だけでうなずく。うなずき方は小さくて、長い。長いうなずきは、言葉の代わりになる。彼はわずかに背中を伸ばし、十秒を短く持った。持てた、という事実が、彼の隣の空気を軽くした。
体育館の天井近くで何かが一度だけ鳴り、すぐ止んだ。先生はマイクを上げず、広い黒の中に対して一言だけ置く。
「続けて」
それで十分だった。続ける人と、止める人が混ざって、広い場所が静かに回った。列はできない。できないのに、順番は回る。回る順番に、誰の名前もついてこない。名前のない順番は、強い。
五分か十分か、時間の感じは薄くなった。非常灯がふいに戻り、体育館は薄い白に満たされた。緞帳の影が短くなり、先生はマイクを切った。
「良かった。——今日の避難は、この形で終わり」
拍手は起きなかった。起きないのが良かった。起きない評価は、長く残る。
解散後、先生に合図して、僕は坂の途中へ向かった。港へ下る階段ではない。学校から資料館へ続く緩い坂だ。夕方の光で舗装が白く乾き、風は弱かった。途中の曲がり角に叔父さんが立っていた。帽子はなく、手ぶら。足元の砂を踏まない。
「来たね」
「来ました」
彼は僕を見ず、坂の下の濃い影を見た。影の形は、灯台の影に似ていた。似ているのに、違う。坂の影は、町の形をしている。
「体育館は、黒かったかい」
「黒かったです。でも、動けました」
「それでいい。黒の中で動く練習は、港ではできない」
叔父さんはポケットから小さな黒い筒を出した。フィルムケースより少し大きい。蓋に塩の白い跡がついている。
「白鐘の、最後の夏の端っこだ。——開けないで持っていてくれ。開ける時は、君がいないところで」
意味が分かるようで、分からなかった。分からないまま、僕は受け取った。受け取るだけでも、位置は少し決まる。決まった位置は、息がしやすい。
「彼女は、ここに」
「いる。枠の中にも、外にも。——今日は外のほうが多い」
叔父さんはそれだけ言って、坂を下りていった。足音はすぐ風に混じる。混じり方が上手い。混ざって、消える。消え方がきれいだと、残り方もきれいになる。
夕方の校舎は静かだった。昇降口の白い紙は下枠に挟まったまま、二階の踊り場の布は薄く揺れ、音楽室の扉は鍵盤の端の白を扉越しに少しだけ見せた。理科室の窓は施錠され、潮のにおいは弱い。僕はそれぞれの場所で短い十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、昼の黒が体から抜ける。抜け方が、良かった。
教室に戻ると、先生が黒板の前で瓶を光にかざしていた。ふたは開けない。粉は見えない。見えないけれど、ある。あるを持ったまま、先生は黒板の右下の九つの点のいちばん右を指で軽く押さえ、そっと離した。押さえる位置はいつもどおり。離し方が、今日だけ少し違う。違いは小さいのに、空気が分かった。
「体育館、よかった」と先生。「“見出しなし”でいけた」
「見出しは、坂の途中でも要りませんでした」と僕。
先生はうなずき、通路の椅子に腰を下ろした。目でだけ合図する。十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先に体育館の黒が少しだけ戻ってきて、すぐに薄くなる。薄くなった黒は、眠りやすい。
夜。机で手帳を開き、坂で受け取った黒い筒をそっと置いた。壊れかけのカメラの横に並べる。シャッターは切らない。切らない音のほうが、今日は正しい。
体育館の黒
順番を場所へ
開けないで持つ
短く書いて、灯りを消した。耳の奥で一度だけ薄い音が鳴り、止まった。止まったところへ十秒を置く。置いたまま眠る。眠り方は、少し上手くなっている。
翌朝。港は白く、空は低い。昇降口のガラスは冷たく、指のあとがすぐ曇りに飲まれる。教室に入ると、九つの点はそのまま。輪郭を薄くした名前もそのまま。先生は通路の椅子に座って目で合図した。十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、窓の外の旗が一度だけ膨らんだ。
ホームルームの終わり際、先生が言った。
「今日は三つやる。——校庭の“同時”、理科室の“挨拶”、そして灯台の“見届け”。時間は短い。港は列を作らない」
僕らはうなずいた。うなずき方はそれぞれなのに、まとまって見えた。見えたうなずきは、列の代わりになる。
まず校庭。砂の濃い場所は昨日のまま残っていた。用具倉庫の影は短く、錆びた箱は半分地面に埋まったままだ。先生は合図をしない。合図をしないのが合図だ。各自の場所で十秒。吸って、吐いて、止める。同時。音が消え、戻る。戻り方が昨日よりやさしい。幼い声はなく、風の背が低い。
理科室。窓の見出しは下枠で静かに座っている。封筒は見えない。見えないままでいい。窓枠の下に手を添え、十秒。吸って、吐いて、止める。擦りガラスの向こうで光が一度だけまとまり、ほどけた。ほどけ方が、良かった。理科の先生が棚から昨日の古い裏布を出した。油紙の音が小さく鳴る。
「混ぜないの、やっぱり正解だ」
「この色は、このままがいいです」
言いながら、僕は裏布の色を覚えないようにした。覚えないで、匂いだけ持ち帰る。匂いは長く居座る。居座るものは、目的を変えてしまうから、少しだけにする。
最後に港。灯台の白は薄く、四角は遠い。列はない。いる人は、黙って十秒をやっている。順番は場所へ渡っている。叔父さんの姿はなかった。いないことが、良かった。いない空きが、風の椅子になる。
四角の前で短い十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、壊れかけのカメラが胸ポケットの中で軽く動いた。鳴ったのではない。位置を思い出しただけだ。思い出して、忘れる。忘れたあと、灯台の扉が一度だけ鳴り、止まった。止まり方が丁寧で、誰も不安にならない。
学校へ戻ると、先生が黒板の前で瓶を光にかざしていた。ふたは開けない。粉は見えない。見えないけれど、ある。あるを持ったまま、先生は黒板の右下の九つの点のいちばん左を指で軽く押さえ、そっと離した。点は点のまま。線にはならない。ならないのに、前へ進む感じがした。
昼休み、新聞部の机に白いメモが三枚。誰の名前もない。
体育館、静かでした
暗くても動けました
家でも十秒を続けます
カリンが読み、笑わずにうなずいて重ね直した。本文は風へ。風は黒の中でも書ける。黒の中で書いた本文は、白の上で薄く読める。読めるのに、読まない。読まないほうが、長く残る。
放課後、音楽室の扉の前で最後の十秒。鍵盤の端の白が扉越しに光り、譜面台は揃っている。吹奏楽部の彼女が息だけの旋律を短く置き、すぐに忘れた。忘れたあと、扉の前で空気が一度だけ薄く鳴り、静かになった。静けさは長く続いた。長く続く静けさのほうが、強い。
帰り道、坂の途中で立ち止まり、ポケットの黒い筒を軽く握った。開けないで持つ。持っているだけで、位置は少し決まる。決まった位置は、誰かに譲りやすい。譲れる位置が増えると、列はいよいよ必要なくなる。必要のないものは、強い。
家に着いて、机で手帳を開く。壊れかけのカメラは横で静かに座り、シャッターは切らなかった。切らない音のほうが、今日は合っている。短く書いた。
黒の中でも
順番は場所へ
開けないまま持つ
灯りを消す。耳の奥で短い音が一度だけ鳴り、止まった。止まったところへ十秒を置く。置いたまま眠る。眠る前に、胸の中で小さく言った。
ありがとう。半分のままで。風のままで。黒のままで。
声にしない。紙にも書かない。思っただけで忘れる。忘れ方を覚えた僕らは、ふつうに授業を受け、ふつうに笑い、ふつうに明日を迎える準備をした。ふつうの中に、静かな見せ場はいくつも立っている。拍手はいらない。拍手のいらない見せ場を、今日は何度も通り過ぎた。通り過ぎるたびに、空気だけが少し整う。整った空気の中で、九つの点は点のまま、明日へ残っていた。




