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記録者はまだ、夢を見ている。(The Recorder Is Still Dreaming.)  作者: 妙原奇天


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第20話 校庭の風の通り道

 朝の空はうすく晴れて、港のブイは控えめに上下していた。昇降口のガラスに指を当てると、冷たさが少し遅れて返ってくる。教室へ入ると、黒板の右下には九つの点が昨日のまま並んでいた。線になる前で止めるやり方は、もう体のほうが覚えている。輪郭を薄くした名前は静かで、半分の名前は机の手前で落ち着いていた。先生は通路の椅子に座らず、黒板の前で目だけの合図をひとつ送った。いつもどおり、から始める。


 十秒は浜崎。立たず、背中だけ伸ばす。吸って、吐いて、止める。止めた先に何も置かない。終わりに、窓の外の旗が一度だけはためいて、すぐに静かになった。呼ばない日の空気は、教室の端まで均等に回る。


 一限の冒頭で先生が短く告げた。


 「今日は“列の練習”を外でやる。港へは行かない。校庭の隅で、風の通り道を探す。十秒、息、忘れる、渡す。見出しは持っていかない。本文だけを置いて帰る」


 カリンが新聞部のノートに小さく「校庭の風」と書き、囲いを閉じずに止めた。木下は筆箱の消しゴムを角で立て、指一本でそっと支えた。吹奏楽部の彼女は胸の前で短く息の形を作り、すぐに忘れた。忘れ方が良い日だと思った。


 放課後、僕らは昇降口で合図し合い、校庭の隅へ集まった。バックネットの裏、雑木の間から港の風が細く入る場所。砂の色がほかより少し濃くて、踏むと音が小さい。先生が立って、指先だけで風の方向を示した。


 「ここに通り道がある。列は作らない。各自の場所で十秒。合図はしない。風に呼ばれた人から順に、息、忘れる、渡す」


 僕はバックネットの端に立った。金網の結び目が指の腹にざらついて、手を離すとその感触だけが残る。残った感触は、すぐに薄くなった。薄くなってから、息を置く。吸って、吐いて、止める。止めた先で、砂の表面が針の先みたいに細く揺れた。揺れはすぐに広がって、靴の先で消える。消え方が丁寧で、誰も踏み荒らさない。


 校庭の奥で、体育館の扉が一度だけ鳴った。金属が薄く鳴る音は風に乗ってすぐ遠くへ行き、戻らない。戻らない音は、今日の中では許された。


 先生は列を作らせないまま歩いた。歩きながら短く声を落とす。


 「吸いきらないで止めるのが上手い。——そこが今日の見せ場だ」


 見せ場、という言葉に誰も笑わなかった。笑わないのに、空気が軽くなる。軽くなって、強くなる。


 砂の濃い場所を抜けると、古い用具倉庫の影が斜めに伸びていた。壁際だけ風が二重になって通り、前髪が一瞬だけ逆向きへ持ち上がる。カリンが影の端を指で差した。


 「ここ、写真館で見た暗室の入口みたい」


 「暗いのに、外と繋がってる場所」と木下。


 僕は影の中に一歩だけ入って、また外へ出た。出た瞬間、耳の奥の音が明るくなった。明るくなって、すぐに落ち着く。落ち着き方は、灯台の下で聞いたシャッター音に似ていた。


 そのときだ。校門のほうから幼い声がして、砂煙が少しだけ立った。小学生が三人、走ってきた。部活帰りの兄を迎えに来たらしい。ひとりが勢いのまま、砂の濃い場所へ飛び込もうとした。踏み跡がまだ薄い。薄いまま守りたい。


 僕は声を出さず、手だけを上げた。来ないで、の合図。間に合わない、と思った瞬間、吹奏楽部の彼女がすっと横に入って小学生と目線を合わせた。声はやさしく、短い。


 「ここ、風の通り道だよ。今は風が通ってるから、すぐ向こうで待ってて」


 小学生は立ち止まり、砂を見て、少しだけ頷いた。頷き方が上手い。上手い頷きは、強い返事を要らなくする。三人はフェンスの内側で待ち、砂の濃い場所はそのまま残った。


 先生が言った。


 「今のは良い持ち方だ。——自分が盾じゃなく、説明になる持ち方」


 説明になる、という言い方が好きだ、とカリンが小さく言った。好き、は今日多く許された。


 用具倉庫の裏側に回ると、角のところに小さな鉄の箱が半分だけ埋まっていた。箱は古く、角が丸く錆びている。木下がしゃがんで、箱の縁を指で軽く叩いた。からん、と音がした。音は軽いのに、長かった。長い音は遠くへ行かず、その場で薄く残る。


 「タイムカプセル、かな」


 「学校のじゃないかも」と僕。「角の感じ、港の倉庫の棚と似てる」


 「触らないでおこう」と先生。「ここは通り道だ。掘るなら、風の季節が終わってからだ」


 僕らは箱をそのままにして、影から離れた。離れると、脳の奥のこわばりがいちどほどけた。ほどけたあとは、十秒が持ちやすくなる。


 校庭の中央に戻ると、風が一段強くなった。砂が低く走り、空気の層が少しだけ高くなる。先生の声が短く落ちた。


 「一列、ではなく“同時”。——いくぞ」


 合図はそれだけ。僕らはそれぞれの場所で十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、音が一瞬だけ消えた。消えたのに、怖くない。怖くないと、戻ってくる音はやわらかい。戻った音が、さっきの幼い笑い声に混じった。


 砂の濃い場所で風が一度跳ね、用具倉庫の影で沈み、バックネットの裏でほどけた。ほどけ方が良かった。良い、は今日の中では合図みたいに機能する。


 練習を切り上げる前、先生が僕を呼んだ。呼ぶといっても、目で合図して、顎を少しだけ動かす。近づくと、小声で言う。


 「明日の朝、理科室の窓を見に行け。鍵は理科の先生が開ける。——“見えない本文”の位置を、一度確認する」


 「封筒、ですね」


 「それだけじゃない。風は位置を覚えている。位置を変えるときは、位置に挨拶をする」


 位置に挨拶。むずかしくないのに、忘れがちなやつだ。僕はうなずいた。


 解散の前、最後の十秒を校庭の中心でやった。誰も並ばない。各自の場所のまま。吸って、吐いて、止める。止めた先に、今日の砂の濃淡と、幼い頷きと、錆びた箱の角を思い出す。思い出して、忘れる。忘れたあと、靴底で砂を一度だけ鳴らし、校舎へ戻った。


 夕方、昇降口の白を確認し、二階の踊り場の布の揺れを見て、音楽室の扉の前で短い十秒。吹奏楽部の彼女は扉越しに鍵盤の端の白を見て、胸の前で息の形を作った。作って、忘れた。忘れたあと、扉の向こうの空気が薄く鳴った。鳴り方がやさしくて、長かった。


 帰り道、港の風は弱かった。灯台の白は遠くで薄く光り、四角は小さく見えた。追い風で、家までの道は短く感じた。机に手帳を開き、短く書いた。


 校庭の風

 同時の十秒

 位置に挨拶


 壊れかけたカメラは机の上で静かだった。シャッターは切らなかった。切らない音のほうが、長く残るときがある。灯りを消す手前、耳の奥で薄い音が鳴り、すぐに止んだ。止まった場所に十秒を置いて、眠った。


 翌朝。港は白く、空は高い。昇降口のガラスは冷たく、指でこすった曇りがすぐ戻る。教室に入ると、九つの点はそのまま。輪郭を薄くした名前も昨日の位置。先生は通路の椅子に座って目だけで合図した。十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、窓の外の旗が小さく揺れた。


 授業の前に理科棟へ向かった。先生の許可はすでに出ている。理科の先生が鍵束を持って待っていた。準備室の扉は重く、開く音は短い。窓に近づくと、潮のにおいが昨日より少しだけ濃い。見出しは下枠に挟まったまま。封筒は見えない。見えないことを、目で確認する。


 「位置を変えるか」と理科の先生。


「いえ、今日は挨拶だけ」と僕。



 窓枠の下に手を添え、声を出さずに十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、擦りガラスの向こうに白い揺れが一瞬だけ見えた。霧ではない。光の粒がまとまって、すぐに解けた。解け方が良かった。良い、は今日も許される。


 窓から離れようとしたとき、理科の先生が棚の影から薄い包みを取り出した。油紙に包まれた小さな布。白いが、ところどころ薄く黄ばんでいる。


 「これ、資料館から預かった。古い額縁の裏布らしい。君らの“白”に混ぜるか?」


 僕は一呼吸だけ置いてから、首を横に振った。


 「混ぜません。これは、この色のままが良い気がします」


 理科の先生はうなずき、油紙を丁寧に畳んだ。


 「色のまま、ね。——そうだろうな」


 教室へ戻る途中、階段でカリンと合流した。新聞部のノートを胸に抱えて、目だけで問いかける。僕は親指を立て、位置への挨拶が済んだと伝えた。彼女は頷き、階段の踊り場で短い十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、踊り場の白がわずかに明るくなった。


 午前の授業は普通に進んだ。二限の終わりに、資料館からのメモが届く。


 灯台の四角は今日も立っています

 ——叔父は少し遅れます


 叔父、の字が大きかった。カリンが僕を見て、小さく笑う。笑いは声にならず、紙の上で薄く揺れた。


 放課後。校庭の隅で、昨日と同じ場所に立つ。先生は今日は一歩後ろにいて、合図をしなかった。合図をしないのは、信頼の形だ。僕らは場所ごとに十秒。吸って、吐いて、止める。同時の十秒。音が消えて、戻る。戻り方は昨日よりやわらかい。幼い声が遠くで揺れ、用具倉庫の影は薄く伸びる。砂の濃い場所は残ったまま。残り方が静かで、強い。


 練習を締める前、校門のほうから男性の低い声がした。叔父さんだ。帽子はなく、肩にケースもない。手ぶら。歩幅が一定で、砂を無駄に踏まない。近づくと、僕らを見ずに校庭の中央を見た。


 「同時、か」


 「同時です」と僕。


 「白鐘は、列を嫌った。並ぶときは、全員が少しずつ違う場所に立つようにと言った。——君らのやり方は、似ている」


 叔父さんは校庭の風を一度吸い、吐いた。吐き方が上手い。上手い吐き方は、十秒を軽くする。


 「フィルムのことは、急がないでいい。現像して光が出てしまうより、黒の中に残っているほうが守られるものがある」


 僕はうなずいた。隣でカリンも頷いた。頷き方は人それぞれなのに、まとまって見えた。


 叔父さんは用具倉庫の影をいちど見て、言った。


 「あの角に、彼女のリボンを一度結んだことがある。風の季節の前の日だった。——結んで、忘れた。忘れたあと、枠は長く立っていた」


 それ以上、彼は何も言わなかった。言わないことが、本文の続きに見えた。


 練習を終え、教室へ戻る。先生は黒板の前で瓶を光にかざし、ふたを開けずに机に戻した。短い十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、黒板の右下の九つの点のいちばん左が少しだけ濃く見えた。多分、夕方の光のせいだ。濃くなっても、点は点だ。線にはならない。


 その夜、机で手帳に書いた。


 校庭の同時

 位置に挨拶

 黒の中に残す


 灯りを消す直前、シャッターを一度だけ切った。黒い液晶の向こうで、白い線が一瞬だけ浮かんで、すぐに消えた。消え方が良かった。良い、は今日も多く許された。目を閉じる前、黒板の右下の九つの点を胸の中で数える。九。増えない。増えないのに、進んでいる。進み方は静かで、強い。校庭の砂の濃い場所の上に、明日の十秒の最初の一呼吸が薄く座っているのを想像し、想像したまま忘れて、眠った。

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