第19話 潮の窓と九つの点
朝の空はうすく晴れて、港のブイは控えめに上下していた。昇降口のガラスに指を当てると、ひやりとした温度が少し遅れて返ってくる。教室へ入ると、黒板の右下には九つの点が昨日のまま並んでいた。線になる前で止まるやり方は、もう体のほうが覚えている。輪郭を薄くした名前は静かで、半分の名前は机の手前で確かな重さを保っていた。先生は通路の椅子に座らず、黒板の前で目だけの合図をひとつ送る。いつもどおり、から始める。
十秒は吹奏楽部の彼女。立たずに背中だけ伸ばし、吸って、吐いて、止める。止めた先に何も置かない。終わりに、窓の外の旗が一度だけ揺れて、すぐに落ち着いた。呼ばない日の空気は、教室の端まで均等に回る。
一限の冒頭で、先生がプリントを配った。表の上部に短い見出しがある。
校内臨時展示 継続についてのお願い
内容は簡単で、白を置く場所を一か所増やす提案だった。昇降口、二階の踊り場、音楽室前に加えて、理科室の東側の窓──潮のにおいがかすかに入る古い枠。校内にひとつ、港の気配を持ち込む。写真は撮らない。見出しだけ置く。本文は来た人が持ち帰る。いつもどおりのやり方で。
「実行委員は昨日の四人のまま。放課後、許可取りに理科室へ行け」と先生。「それから補足だ。今日の夕方は町内放送が一本入る。海沿いの強風予報と、灯台周辺の立入制限について。——列は明日の朝、短く再開」
木下がメモを取り、カリンは新聞部のノートの余白に小さく「潮の窓」と書いた。書いたあと、余白をゆっくり囲んで、囲いを閉じずに止めた。囲いを閉じないと、そこに風が通る。それを何となく知っている。
二限の途中、机の中で壊れかけたカメラがかすかに鳴った。液晶は黒いままなのに、シャッターだけが生きている。昨夜、寝る前に一度切った音が、まだ耳の奥に残っている気がした。残っているのに、重くない。重くない記録は、長く持てる。
昼休み、新聞部の机に白い封筒が置かれていた。差出人はない。中には小さなフィルムケースと短いメモ。
白鐘のフィルム
まだ現像していない
——叔父
胸の奥が少しだけ鳴った。カリンは声を出さず僕を見る。メモの紙は薄く、インクは濃い。濃い字ほど、すぐに風に薄くなる。叔父さんは灯台の陰からよく現れて、同じようにすぐ消える。消え方が上手い人は、置き方も上手い。
「どうする?」とカリン。
「現像、しないで置いておく」
「どこに」
「潮の窓の、内側に」
彼女はゆっくりうなずいた。「見出しの後ろに、見えない本文をひとつ、増やす感じ」
放課後。理科室の扉は重く、取っ手は冷たい。標本棚のガラスに薄く指紋が残っていて、黒板の前には古い流しが口を開けている。窓は東を向き、擦りガラスの向こうから潮のにおいがわずかに入る。先生と理科の担当がいる前で、僕らは展示の説明をした。写真は撮らない。見出しだけ置く。本文は各自が持ち帰る。白は紙と布。余白を広く。人の動きを止めないように、窓の下の高さで。
「理科室の窓は開閉に癖がある。触らなくていい位置にしなさい」と理科の先生。「それから、棚の上に置く白は軽すぎないものを。風で落ちる」
僕らはうなずき、白い布と紙の位置を決めた。窓の桟より二センチ上、枠の金具から四センチ離す。細かい数字は忘れても、距離の具合は体が覚える。見出しはカリンが置く。太い黒で「風の記録」。紙は固定しない。挟むだけ。挟む、という仕草が、ここではいちばん強い。
設営の最後に、カリンが小さなフィルムケースを見出しの裏側へそっと差し込んだ。見えない。見えないまま、そこにある。叔父のメモは持ち帰って、封筒だけを窓枠の奥へ隠す。隠すというより、置き場所を決める。置き場所が決まると、呼吸は楽になる。
教室に戻ると、先生が黒板の前で瓶を光にかざしていた。ふたは開けない。粉は見えない。見えないけれど、ある。あるを持ったまま進む。
「今日の“十秒の列”は、校内で三回やる」と先生。「昇降口、二階の踊り場、理科室の窓。写真は撮らない。声をかけない。真似されやすいやり方で」
昇降口はいつもより静かだった。白い紙の角に光が集まり、見出しは下枠で息をしている。僕ら四人は縦に並ばず、それぞれ別の柱のそばで十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、通りかかった一年生が足をゆっくり緩め、短い十秒を勝手に持った。勝手に、がいちばん強い。
二階の踊り場。布の下端二センチの余白は、やっぱり人の目を呼んだ。読めない余白を読む顔が並ぶ。並んだ顔の動きは小さく、肩の力が少し抜けていく。息を合わせようとしないのに、合う。合ったことが誰にも分からない。分からないまま、落ち着く。
理科室の窓。潮のにおいがうすく入る。見出しは静かで、封筒は見えない。見えないことが、良かった。窓枠の鉄が冷たく、指の腹が少しだけ鈍くなる。十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、外のブイが上下して、教室の蛍光灯が一度だけ点滅した。点滅はすぐに止まる。止まり方が丁寧で、誰も不安にならない。
戻る途中、生活指導の先生に呼び止められた。廊下の角でやさしい顔をしている。
「SNSで、“理科室の窓の中に何か隠してる”って書かれてるが、気にするな。——『隠している』は『守っている』の言い換えである場合が多い」
「ありがとう」とカリン。笑わず、目だけ柔らかくした。
夕方。町内放送が校庭のスピーカーから流れた。海沿いの強風予報、灯台周辺の立入制限。短い音楽が終わると、空はすでに薄暗い。ホームルームの終わり際、先生が黒板の右下の九つの点のいちばん左を指で軽く押さえて、離した。押さえる位置はいつもどおり。離し方だけが少し違う。違いは小さいのに、空気が分かる。
「帰りは寄り道をしない。港へ行くなら朝。——それから、理科室の窓は鍵を最後に確認」
うなずきが揃う。揃っているのに、誰のものでもない。良い揃い方だった。
その夜、僕は早く寝るつもりだったが、窓の外の風がうるさくて眠れなかった。机の上のカメラに手を伸ばし、シャッターを一度切る。音は小さいのに、耳の奥で大きく響く。響きが過ぎたあと、部屋の暗さが少しだけ軽くなる。軽くなった暗さは、眠りやすい。目を閉じる前に、短く書いた。
潮の窓
見えない本文
持ち帰れる白
翌朝。空は高く、港は白く、風は落ちていた。昇降口のガラスは冷たく、指でこすった曇りがすぐに戻る。教室に入ると、九つの点はそのまま。輪郭を薄くした名前もそのまま。先生は通路の椅子に腰を下ろし、目で合図をひとつ。十秒は木下。吸って、吐いて、止める。止めた先で、窓の外の旗が小さく揺れた。
午前の授業が終わる少し前、全校のチャイムとは違う短い電子音が鳴った。避難の訓練ではない。放送は入らなかった。続けて、微かな振動。蛍光灯が一度だけ震えて、黒板の粉が目に見えないくらい落ちた。教室の空気がわずかに固くなる。固くなる前に、先生が短く言った。
「十秒」
僕らは席を立たない。立たないで、背中だけ伸ばす。吸って、吐いて、止める。止めた先で、固くなりかけた空気がほぐれる。ほどけ方が早い。早いのに、乱暴じゃない。
数秒後、放送が入った。理科準備室で一瞬だけ電源が落ちたらしい。怪我人はいない。点検のため、理科棟の廊下は立入禁止。窓の鍵の確認は後回し。教室のざわめきは一度だけ上がって、すぐに静かになった。静かになったとき、僕の胸の中だけが妙にうるさかった。潮の窓。封筒。フィルム。鍵。
放課後。昇降口の白は無事で、見出しは下枠に挟まったまま。二階の踊り場の布もそのまま。音楽室の前は、扉越しの鍵盤の白がいつもどおり光っていた。問題は理科室だ。廊下の立入禁止のテープはまだ張られている。先生に合図して、僕とカリンは準備室側から回った。理科の先生が待っていて、鍵束を手にしている。
「点検ついでに、例の“白”を見ておきなさい。ただし、触らない。目だけ」
扉が開くと、潮のにおいがわずかに強くなった。窓は無事。見出しは挟まったまま。封筒は、見えない。見えないはずのものが、見えないと分かる。分かるだけで十分だ。鍵は掛かっている。枠の蝶番にさっきの振動の名残りが少しだけ残っていた。残っているのに、崩れない。
「よし」と理科の先生。「閉める」
扉が閉まって、鍵がかかる。廊下へ出ると、風が校舎の角を抜けてやさしく当たった。風の強い日と違って、音は薄い。薄い音のほうが、長く残る。
教室へ戻ると、先生が黒板の右下の九つの点のいちばん右を指で軽く押さえて、離した。離すだけ。消さない。増やさない。点は点のまま。僕は胸の奥で短く言った。
大丈夫。半分のままで。
そのあと、新聞部の机でカリンが見出しを一枚書き直した。字は昨日より少し大きい。同じ言葉なのに、余白の面積が変わると、意味の重さが少し変わる。
風の記録
「本文、書かないの?」と僕。
「書かない。今日は“見届け”が多かったから」
彼女はノートを閉じ、ペンを耳に挟んだ。閉じ方は丁寧で、急がない。急がないのに、間に合う。
夕方。港の灯台の列は短く再開した。先生の許可をもらって、僕と木下は十分だけ見に行った。四角は白く、水平線は高い位置で落ち着いていた。列の先頭に、叔父さんが立っていた。帽子はなく、手ぶら。十秒を持ち、終わっても枠を見ない。灯台の扉に手を当て、小さく鳴らす。
「フィルム、預かった」と僕が言うと、叔父さんはうなずいた。うなずき方は小さい。
「現像は急がないでいい」と叔父さん。「無いままにしておくことで、守れる形がある」
「彼女は、ここに」
「いる。枠の中にも、外にも」
言葉はそこで止まった。止まったこと自体が本文みたいに思えた。
戻る途中、学校の窓がいちどだけ夕陽を跳ね返した。跳ね返った光が昇降口のガラスに当たって、白い紙の角に静かに座る。座った光はすぐに薄くなって、見えなくなった。見えない座り方を、白は知っている。
夜。手帳に短く書いた。
潮の窓は無事
見出しは静か
九つの点のまま
灯りを消す前、シャッターを一度だけ切る。黒い液晶の向こうで、白い線がほんの一瞬浮かんで、消えた。消え方が良かった。良い、は今日も多く許された。目を閉じる直前、明日の十秒の最初の一呼吸を思い描く。思い描いて、忘れる。忘れて、眠る。
翌朝。港は静かで、空は高い。教室に入ると、黒板の右下には九つの点。輪郭を薄くした名前は昨日の位置。先生は通路の椅子に腰を下ろし、目でだけ合図する。十秒は僕。吸って、吐いて、止める。止めた先に、誰の名前も置かない。置かないまま、窓の外の風がうすく通る。通った風は、すぐに教室の四隅に分かれて、そこに静かに座った。座り方がきれいだった。
ホームルームの終わり際、先生が言う。
「明日は“列の練習”を外でやる。——港へ行かない。校庭の隅で、風の通り道を探す。十秒、息、忘れる、渡す。見出しは持っていかない。本文だけを、置いて帰る」
少しだけ笑いがもれて、すぐに静かになった。静けさは長く続いた。長く続く静けさのほうが、強い。
僕は胸の中で小さく言う。
ありがとう。半分のままで。風のままで。枠のままで。
声にはしない。紙にも書かない。思っただけで忘れる。忘れ方を覚えた僕らは、ふつうに授業を受け、ふつうに笑い、ふつうに放課後を迎えた。ふつうの中に、静かな見せ場はいくつも立っている。誰も拍手をしない。拍手のいらない見せ場を、今日は何度も通り過ぎた。通り過ぎるたびに、空気だけが少し整う。整った空気の中で、点は点のまま、確かに明日へ残っていた。




