第18話 灯台の白を持ち帰る
朝の空は薄く曇って、港のブイは昨日よりゆっくり上下していた。昇降口のガラスに指先を当てると、冷たさが少し遅れて返ってくる。教室の黒板の右下には九つの点が昨日のまま並び、線になる前で止まっている。輪郭を薄くした名前は静かで、半分の名前は机の手前で確かな重さを保っていた。先生は通路の椅子に座らず、黒板の前に立って目だけで合図を送る。いつもどおり、から始める。
十秒は僕。立たず、背中だけ伸ばす。吸って、吐いて、止める。止めた先に何も置かない。終わると、窓の外の旗が一度だけ膨らんで、すぐに落ち着いた。呼ばない日の空気は教室の端まで均等に回る。椅子の脚に伝わるきしみが、普段より軽かった。
一限の途中で、先生がプリントを配った。表題は短い。
港灯台アーカイブ展 校内臨時展示について
展示とはいっても、額縁そのものを動かすわけじゃない。灯台の四角は港の人と資料館が守る。学校は「持ち帰れる白」を置く。白い紙、白い布、白い板。空白の組み合わせで風の記録を受け取る。そういう計画だった。校内の三か所に分散して、一つは昇降口、二つ目は二階の踊り場、三つ目は音楽室前。写真は撮らない。見出しだけ置く。本文は、来た人が持って帰る。
「実行委員を四人出す。新聞部から二人、ほか二人は希望制」と先生。木下が手を挙げ、吹奏楽部の彼女が続いた。カリンは当然の顔で手を挙げる。僕も挙げた。四人の名前が黒板の隅に並び、先生は右下の点をいちど見てから、短くうなずいた。
「内側の約束を、外側へはみ出さないように」
二限の終わり、資料館からのメモが届いた。薄い紙に二行。
灯台の四角は、風に慣れました
——今日の夕暮れ、短い列ができます
慣れる、という言葉が紙から立ち上がった気がした。慣れすぎることが怖いときがあるけれど、今日は良い意味に聞こえる。慣れたぶんだけ、余白が増える。余白が増えたら、持ち帰れる白も増える。
昼休み、新聞部の机で段取りを決めた。カリンはノートを開き、見出しを一枚ずつ切り離す。太い黒で「風の記録」。余白は広く、角は丸くしない。丸くしない角は、触らなくてもやさしく見える。木下は白い布を折って透明テープで四角に仮止めする。吹奏楽部の彼女は音楽室前に置く白板の足元に薄いゴムを貼り、音が鳴らないようにする。僕は昇降口の白い紙の高さを決める係。目線より少し下。手を伸ばさずに読める位置。見出しは文字を読ませるんじゃなく、余白を見させる。そうやって先生に習った。
放課後、四人で昇降口へ。ガラスに斜めの光が残っている。カリンが見出しを下枠に挟み、木下が白い紙を二枚並べてテープで固定する。吹奏楽部の彼女が隅を押さえると音が消え、ガラスが少しだけ安定した。僕は十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で背後の気配が一度だけ薄くなり、すぐに戻る。戻り方が良かった。
二階の踊り場。幅の狭い窓に白い布をかけ、見出しを布の下端から二センチ離して置いた。人は自然とその二センチを読もうとする。読めないのに、読む。読めない余白に、今日の本文が少しずつ滲む。通りがかった一年生が足を止め、布の前で短い十秒を持ってから階段を降りていった。誰かが真似をした。真似のできる作法は、だいたい正しい。
音楽室前。白板の脚が静かに床に乗る。見出しは貼らない。立てかけるだけ。鍵盤の端の白は扉越しにも細く光り、譜面台は揃っている。吹奏楽部の彼女が胸の前で軽く手を合わせ、息の形だけの歌を一度置き、すぐに忘れた。忘れ方がきれいだ。忘れるのがきれいだと、戻ってくるものもきれいになる。
設営が終わると先生が見回りに来た。黒板消しを持ったまま、通路の椅子に腰を下ろし、僕らの報告を聞く。最後に先生は言った。
「本文は書くな」
「知ってます」とカリン。笑わず、目だけ柔らかくした。
帰り道、港の空が低くなった。灯台の白は遠くからでも見える。四角はそこにあるのに、見えない瞬間がある。見えないときほど、位置は確かだ。灯台の下に着くと、予告どおり短い列ができていた。作業服の人が三人、釣り竿を持った人が一人、知らない高校の制服の子が一人。列は静かで、誰もスマホを出していない。四角の前で十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、風がいちどだけ弱くなる。弱くなった風のすきまを、海の音が通る。
列の最後尾に僕とカリンが並ぶ。順番が来て十秒。吸って、吐いて、止める。目を閉じるわけでもなく、見開くわけでもなく、ただ枠の中を「通して」見る。見えないものは、通したあとに残る。残り方は薄く、長い。
終わるころ、灯台の陰から昼間の帽子の中年男性が現れた。ケースは持っていない。足音はやっぱり小さい。彼は僕を見ず、四角の斜め下に目を落とした。
「枠の白は、持って帰れる」
「どうやって」と僕。
「白は白のまま持ち帰ればいい。紙でも、布でも、息でも」
カリンが言う。「それ、記事の見出しにしたい」
「見出しはもう足りている」と男は少しだけ笑った。「本文は風が書く」
彼はそれだけ言って、港のほうへ消えた。追いかけなかった。追いかけないで覚える。覚えたものは紙にしない。紙にしない記録は場所に残る。
その夜、家で手帳を開き、短く書いた。
白は持ち帰れる
本文は風へ
点は点のまま
壊れかけのカメラを机の上に置き、シャッターを一度切る。液晶は黒いまま。音だけが残る。その音が窓枠に触れたみたいに思えた。外の風が少しだけ高くなる。高くなって、すぐに落ち着く。落ち着き方を覚えたら、次に強い風が来ても慌てない気がした。
翌朝。昇降口の白い紙は無事で、見出しは下枠に挟んだまま。指先で軽く触れても、音は鳴らない。教室へ入ると、黒板の右下の点は九つのまま、輪郭の薄い名前は昨日の位置。先生は通路の椅子で短くうなずき、「十秒」とだけ言った。
十秒は木下。立たずに背中を伸ばし、吸って、吐いて、止める。止めた先で窓の外の旗が一度だけはためき、すぐ落ちた。僕は呼ばない。呼ばないまま、机の奥の名札に視線を落とす。透明の台座の角に光が集まって、すぐ散る。散り方のやさしさは、昨日のままだ。
二限の終わり、生活指導室に呼ばれた。展示の確認だという。扉を開けると、先生が二人座っている。叱られるわけじゃないと先に告げられて、少しほっとする。
「昨日の昇降口、通りがかった保護者が“ありがとう”って置き手紙をしていった」と年配の先生。「白い紙の端に小さく。誰宛ても書かずに」
「持ち帰りましたか」と僕。
「その場で十秒をしてから、紙はそのままにして帰ったそうだ」
紙は残り、言葉だけが風に混ざる。それで良い。良い、という言葉が今日は多く許される。
昼休み、新聞部の机に三枚の白いメモが重ねて置かれていた。誰の名前もない。短い言葉だけ。
見出しだけで十分でした
列の静けさが良かった
次は家でやります
カリンが読み、うなずいて重ね直した。本文は風へ。風の本文が、人の手の上で少しだけ形を持つ。持ったあと、手から離れてまた風に戻る。その往復に作法が要る。作法があるぶんだけ、呼吸は楽になる。
午後、突然の放送が入った。夕方からの風が強くなり、港の灯台の周辺が一時閉鎖になる。額縁はそのまま固定して、立ち入りだけ制限。列は今日お休み。先生は「分かった」と返事をして、黒板の右下の点をいちど見た。点は増えない。増やさない。
放課後、昇降口の白い紙の前で短い十秒。吸って、吐いて、止める。通りかかった一年生がまた一人、見よう見まねで十秒をやっていった。真似から始まるものは多い。真似からしか始められないこともある。
二階の踊り場でも十秒。窓際の白い布が少しだけ揺れる。揺れ方は弱い。弱い揺れは長く続く。長く続くものは、気づかれにくい。気づかれにくいものが、場所を守る。
音楽室の前では、吹奏楽部の彼女が後輩にやり方を教えていた。教えると言っても、見せるだけ。見せて、忘れる。忘れて、また見せる。音は出さない。出さないのに、扉の向こうの空気が薄く鳴る。鳴った音はすぐに沈み、沈んだ場所が次の十秒の座りやすい場所になる。
片づけをしないで教室に戻ると、先生が黒板の前にいた。瓶のふたに手を置き、開けずに離す。目で合図。短い十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で黒板の右下の点のいちばん右が少しだけ丸く見えた。多分、朝の清掃で黒板消しが軽く触れたのだろう。丸くなっても、点は点だ。線にはならない。
先生が言う。「港の灯台で、明日の朝だけ列を再開するそうだ。風が落ちる時間に合わせて短く」
誰も声を上げなかった。上げる必要がない。必要がない沈黙は、やさしい。
その夜、僕は早く寝るつもりだったが、港のほうから低い音が続いて眠れなかった。窓を少しだけ開ける。風は弱い。弱いのに、遠くの音がよく届く。机の上のカメラに手を伸ばし、シャッターを一度切る。黒い液晶の向こうに白い線が一瞬だけ浮かんで、消えた。消え方が良かった。良い、は今日も許される。
翌朝。港の空は明るく、灯台の白がはっきりしていた。授業の前に先生の許可をもらい、僕とカリンは短い時間だけ灯台へ向かった。列は三人。作業服の人、早起きの釣り人、見慣れない制服の女の子。順番が来て十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、四角の中の海の白が一度だけ薄く濃くなって、戻った。戻り方が、きれいだと思った。
帰り際、帽子の中年男性が灯台の陰から出てきた。今日は帽子がない。髪は短く、目の皺が深い。僕に会釈し、言う。
「白鐘の叔父だ」
胸の奥が少しだけ鳴った。驚きは声にならず、足元へ落ちていく。
「港で彼女と写真を撮ったのは、俺だ。最後の夏まで」
「彼女は、ここに」
「いる。枠の中にも、外にも」
彼は灯台の白を見上げ、続けた。
「君たちの“十秒”は、良いやり方だ。皆、長く息が続く。息が続く列は、壊れない。——壊れない列があると、枠は長く立っていられる」
カリンが一度だけうなずいた。叔父さんは僕らの顔を見ず、灯台の扉に手を当てた。金属が小さく鳴る。
「白は持ち帰れる。彼女がよく言っていた。『空の写真は、どこにでも額装できる』って」
「空の写真」と僕が繰り返す。
「空っぽじゃない。空の、だ。君らがやってるのは、それだろう」
言葉はそこで止まり、叔父さんは港のほうへ歩きだした。追いかけなかった。追いかけるより、今は持ち帰るほうが先だと思った。
学校へ戻ると、昇降口の白はまだ静かに立っていた。教室に入ると、黒板の右下の点は九つのまま。先生は通路の椅子から立ち上がり、黒板の前で短く言った。
「灯台の白を、持ち帰れたか」
「持ち帰れました」と僕。
「どこへ置く」
「ここへ」
十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先に、灯台の白を想像で置く。置いて、忘れる。忘れたあと、教室の四隅が少しだけ明るくなった気がした。気のせいでも、良かった。
先生は瓶のふたに手を置き、開けずに離した。黒板の右下の九つの点のいちばん左を指で軽く押さえ、そっと離す。点は点のまま。線にはならない。ならないのに、前へ進んでいく感じがした。
昼休み、新聞部の机にまた白いメモが三枚。名前はない。
白は家にも置けました
家族で十秒をしました
うちの猫も静かにしてました
カリンが読み、笑わずにうなずいて重ね直す。本文は風へ。風は家にも入る。家の空気が少しだけ整って、出ていく。出ていった空気が、またここへ少し戻る。その往復が、今日の校内展示の仕事だと思った。
放課後、音楽室の前で最後の十秒。扉の向こうで鍵盤の端の白が光り、譜面台は揃っている。吹奏楽部の彼女が息だけで短い旋律の形をつくり、すぐに忘れた。忘れたあと、扉の前で空気が一度だけ薄く鳴り、静かになった。静けさは長く続いた。長く続く静けさのほうが、強い。
片づけをしないで教室へ戻る。先生は黒板の前で瓶を光にかざし、ふたを開けずに机に戻した。短い十秒。吸って、吐いて、止める。終わりに先生が言う。
「目的は“やさしく消す”ではない。ここで息ができることだ」
わかっているのに、聞くたびに胸の奥が整う。整った場所は、人に譲りやすい。譲れる場所が増えると、呼ばない十秒はさらに軽くなる。軽いけれど、落ちない。
帰り道、港の風は弱かった。灯台の白は遠くで静かだ。四角はそこにある。四角の中身は空でも、海でも、雲でもいい。僕はポケットの中の壊れかけたカメラを確かめ、シャッターを切らなかった。切らないで、持って帰る。白は白のまま持ち帰れる。家の机に置いて、明日の十秒の最初の一呼吸のために使う。
夜、手帳の最後に短く書いた。
灯台の白を持ち帰る
見出しだけを置く
本文は風へ
点は点のまま
灯りを消す。耳の奥で短い音が一度だけ鳴り、止まった。止まったところに十秒を置く。置いたまま眠る。眠り方が上手くなるのは、たぶん、ここで息ができているからだ。明日の朝、黒板の右下に点が九つのまま並んでいても、並んでいなくても、きっと大丈夫だと思った。大丈夫、という言葉を心の中だけで一度だけ言って、目を閉じた。




