第17話 風の記録
朝の空は淡く白く、港のブイは昨日より穏やかに上下していた。昇降口のガラスは指先の温度を静かに返し、教室に入ると黒板の右下には九つの点が昨日のまま並んでいた。線になる前で止める、というやり方はもう体のほうが覚えている。輪郭を薄くした名前は静かで、半分の名前は机の手前で確かな重さを保っていた。先生は通路の椅子に座り、目でだけ合図する。いつもどおり、から始める。
十秒は倉田。立たず、背中だけ伸ばす。吸って、吐いて、止める。止めた先に何も置かない。終わると、窓の外で旗が一度だけ揺れ、すぐに落ち着いた。僕は呼ばなかった。呼ばない日は、教室の端まで空気が均等に回る。
一限の冒頭、先生が小さな封筒を取り出した。表には学校宛てのスタンプ。裏に短い走り書き。
階段の額縁は、今日の夕方に別の場所へ移動します
——海風が強くなる予報のため
資料館からだ。先生は封筒を黒板の縁に置き、僕らを見た。
「移動の手伝いが要るらしい。教員側で二名出す。生徒は新聞部から二名、その他から二名。荷物は重くない。風に合わせて歩くほうが難しい」
手がすぐに上がる。木下、吹奏楽部の彼女、そしてカリン。僕は一拍置いてから手を挙げ、四人の枠が埋まった。先生は黒板の右下の点へ視線を滑らせ、短くうなずく。
「内側の約束は、内側のまま持っていけ」
二限の始まり、机の中でカメラがかすかに鳴った。壊れかけた液晶は静かな黒のままなのに、シャッターだけはまだ生きている。昨夜、窓の外を撮ったとき、ほんの一瞬、白いリボンの線を見た気がした。記録というより、残像。残像は証拠にはならないが、動く理由にはなる。
昼休み、新聞部の机の上に、昨日の海辺で拾った白い紙を置いた。インクは滲んだままだ。
記録は消えない
でも、写す人がいなくなれば
風が代わりに覚えていてくれる
カリンはその三行を見て、ノートに小さく写した。余白を広く残し、見出しだけ大きく書く。
風の記録
「本文は?」と僕。
「本文は、あとでいい。今日は見出しだけ持ち歩く」
彼女はノートを閉じ、指先で白紙の表紙を軽く叩いた。叩く音は小さく、教室の音に溶けた。
放課後、僕ら四人は資料館に集合した。学芸員の女性が額縁の四隅の金具を確認し、角の布を外す。四角の中の空気はいつものように静かだ。囲いの外より、少しだけ音が小さく聞こえる。
「移動先は海の見える階段ではなく、港の古い灯台の下です」と彼女。「風の通り方が違う。あそこなら、今日の予報でも倒れません」
灯台は小さくて、白かった。港の端で海に向かって立っている。足元には丸い礎石。そこに、四角が似合うかどうか、正直、少し不安だった。
額縁を持つのは二人ずつ。最初は僕と木下。次はカリンと吹奏楽部の彼女。学芸員の女性が先導し、先生は横で風の向きを見ながら歩く。
「歩幅を揃えて。風が来たら、止まる。止まったら、十秒」
先生の言い方は平板だが、頼りになる。僕らは頷き、扉を出た。
外は予報より早く風が出ていた。海の色は濃く、階段の段に白い筋が走る。僕と木下は額縁の下辺を持ち、体を少し斜めにして風の面積を減らす。角が鳴る。木の音は小さい。小さい音は遠くへ行く。
「止まる」と先生の声。僕らは足を揃え、十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先に何も置かない。風は通り過ぎ、旗は一瞬だけ膨らみ、戻る。戻った風の後ろに、港の音が薄く重なる。
再び歩き出し、踊り場で交代。カリンと吹奏楽部の彼女が額縁を受け取る。二人の歩幅は静かに揃っている。揃えようとして揃うのではなく、十秒の余韻の中で自然に揃う感じだ。
灯台の下は思っていたより広く、礎石は丸いだけでなく、薄く傾いていた。学芸員の女性が四隅の金具を下ろし、角度を調整する。先生が風の向きを見て、位置を半歩だけズラす。半歩のズレは大きい。大きいのに、目にはほとんど見えない。
「固定します」
彼女の合図で、木下がボルトを締める。吹奏楽部の彼女が布で角を拭き、カリンが四角の中を一度だけ覗き込む。海は四角の中で整って見えた。階段のときより水平線が高い。高い分だけ、空の白が増える。
「終わり」と先生。僕らは額縁の前で十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、遠くのブイが上下し、灯台の白が少しだけ眩しかった。
そのときだ。堤防のほうから、低いサイレンが二回鳴った。港の作業船が帰ってくる合図。風が一段強くなり、灯台の影が四角の中に斜めに伸びる。学芸員の女性が手帳をめくり、先生が空を見た。
「早いな」と先生。「雨は夜のはずだ」
「ここで一度、列を作りましょう」と彼女。「見に来る人が重なる前に、“静かな列”の作法を掲示しておきたい」
掲示、と聞いて、カリンがノートを開く。見出しのページを破り、四角の下にそっと置いた。墨の線が風で震え、すぐに落ち着く。
風の記録
——十秒、息、忘れる、渡す
「写真は要らないよ」とカリン。「見出しがあれば、人は勝手に本文を作る」
先生は笑わなかったが、目は柔らかかった。
列は、できた。初めの三人はたまたま通りかかった近所の人たち。作業服の肩に塩がついている。四角の前で、十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先に、誰も何も置かない。置かないのに、四角の中の光は一度だけ薄く揺れ、すぐに戻る。戻り方が良かった。良い、という感覚が、胸の奥で静かに増える。
四人目に、見慣れない中年の男性が立った。帽子のつばが深く、肩から古いカメラのケースを下げている。額縁の前で立ち止まり、十秒を持つ。終わると、彼は僕らのほうを見ず、灯台の脇を通って堤防へ歩いていった。歩き方は、迷いがない。迷いがない人は、ときどき、ずっと迷ってきた人だ。
列が一度切れた。風が強くなり、空の白が広がる。学芸員の女性が短く言う。
「今日はここまでにしましょう」
片づけはない。額縁は固定した。僕らは四角の前で会釈し、それぞれ戻る準備をする。先生は瓶の入った袋を持っていた。学校の粉ではない。資料館の展示用に使う細かい紙粉だという。
帰り道、灯台の陰で短い十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先に、壊れかけた僕のカメラが胸ポケットの中で微かに震えた。鳴ったというより、空気に合わせて動いた。持っているのは機械なのに、息を覚えたような手触りが一瞬あった。
学校までの坂を上がり、昇降口のガラスに指先を置いて、温度を返される。教室に入ると、黒板の右下の九つの点はそのまま。先生は通路の椅子に腰を下ろし、瓶を机の引き出しにしまった。
「今日の十秒は終わり」と言い、続けた。「夜に風が強くなる。帰りは寄り道をしない」
うなずく声が、いつもより揃った。
夕方。窓の外は、予報より早く暗くなる。港から低い汽笛。雲が厚く、風が強い。僕は机の中から古いレインコートを取り出し、ポケットのカメラを確かめた。カリンが視線で合図する。帰りに灯台を通るのか、という顔。僕はほんの少しだけ首を傾け、彼女は肩をすくめた。だめ、ではなく、気をつけろ、のジェスチャーだった。
放課後、僕は学校を出て灯台へ向かった。雨はまだ落ちていない。風が先に来る。港の道は人影が薄く、作業船の灯りが遠くで揺れる。灯台の足元まで来ると、白の面が空と同化して見えた。額縁の四角は確かにそこにあり、四隅の金具は雨に備えて固定されている。四角の中の海は暗く、水平線は消えかけている。それでも、枠は残る。枠が残れば、何かはそこに入る。
四角の前で十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、風が一段強くなり、灯台の扉がかすかに鳴った。金属の、薄い音。遠くへ行く種類の音。
「——来る」
誰の声でもない、自分の胸の中の声だった。僕はカメラをポケットから出し、ファインダーを目に当てた。何も映らない。映らないことに、やっと慣れてきた。映らないのに、シャッターは切れる。切れる音は、風に溶けてほとんど聞こえない。
背後で足音。振り向くと、中年の男性が立っていた。昼間、列に並んだ人だ。帽子は同じで、肩のケースは少し濡れている。彼は僕を見ず、額縁を一瞥して言った。
「フレームは、風に撮らせるのがいちばんうまい」
「……あなたは」
「昔の話だ」彼は笑わない。「白鐘と一緒に、港を撮った。彼女はよく言った。“写したくないものほど、枠に入る”って」
白鐘。ユナの名字。僕は言葉を探し、うまく見つけられない。
「彼女は、いま」
「いるよ」彼は空を見上げた。「枠の中にも、外にも」
その瞬間、風向きが変わった。海からではなく、町のほうから吹いた。灯台の影が四角の中で逆転し、水平線の位置がほんの少しだけ上がる。男はケースから古いカメラを出した。黒い革の角が擦れて白くなっている。レンズは小さく、金属の輪は鈍く光る。
「撮るの?」
「撮るふりをするだけだ」彼は言った。「本当に撮るのは、風だから」
雨が落ち始めた。最初の一滴が額縁の角に当たり、小さな音を立てる。二滴目は僕の手の甲。三滴目は灯台の扉。数が数えられなくなる前に、僕は十秒を持った。吸って、吐いて、止める。止めた先で、男のカメラのシャッターが鳴る。音は小さいのに、耳の奥で大きく響く。シャッター音と雨の音が重なり、重なったところで、四角の中の海がほんの少し明るく見えた。
「——帰りなさい」男は帽子のつばを指で押さえ、僕の肩を軽く叩いた。「風の記録は、ここで続く。君は、別の場所で続けなさい」
「どこで」
「教室で」
僕はうなずいた。帰り道、背中に雨が当たる。港の灯りが白く滲み、足元の水たまりに四角い形が一瞬だけ映る。映っただけで、消える。消え方が、良かった。
学校に戻ると、昇降口のガラスは冷たく、廊下の蛍光灯は一本だけ点滅していた。教室の戸を開けると、先生が黒板の前に立っていた。右下の九つの点は、雨の夜に似合わないほど静かだ。先生は瓶のふたに手を置き、開けずに離した。
「レン。灯台へ行ったな」
「はい」
「風は、持ち上げたか」
「持ち上げました。——少しだけ」
先生は頷いた。通路の椅子に座り、目でだけ合図する。十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、教室の隅の暗さが一度だけ薄くなる。薄くなって、戻る。戻った暗さは、最初よりやわらかい。
カリンが後ろの扉から入ってきた。髪が濡れている。新聞部のノートを胸に抱え、息を整えながら言う。
「レン。資料館からメモ。夜間は灯台の周りを閉鎖するって。——でも、額縁はそのまま」
「見出しは?」と先生。
「持っていきました。四角の下に置いたまま」
先生は目を細め、黒板の右下の点を見た。九つのまま。線にならない。止まっている。止まっているのに、進んでいる。
「今日は帰れ。——明日の朝、十秒を持ってから、続きを決める」
僕らはうなずき、教室を出る準備をした。帰り支度の音は小さい。小さい音のほうが、長く残る。
夜、家の机でカメラを置き、手帳を開く。灯台の白、四角の位置、風向き。中年の男の言葉。白鐘の名前。壊れかけた液晶は黒のまま、レンズの内側に小さな埃が一粒見える。埃は写真には写らないが、写したいものの手前で光ることがある。光ったことを、手帳に短く記す。
届きました
白い封筒
また、海のほうで
以前の無記名のメッセージを思い出す。指先が勝手に同じ三行を書いてから、線で消す。消した線は薄く、紙は破れない。破れない紙は、翌日の余白になる。
雨の音は夜半に強くなり、窓枠が一度だけ小さく鳴った。鳴り方は風鈴に似ていて、風鈴はないのに鳴る。鳴った音は、教室の十秒の親戚みたいだと思って、灯りを消した。
翌朝。空は低く、港は白く煙っていた。昇降口のガラスは曇り、指で拭うとすぐにまた曇る。教室に入ると、黒板の右下の九つの点は同じ位置にあり、輪郭を薄くした名前は昨日のまま。半分の名前は机の手前で静かに止まっている。先生は通路の椅子に座らず、黒板の前に立った。目で合図しない。口で言う。
「十秒をやる。——風の続きだ」
十秒は僕。立たずに背中を伸ばす。吸って、吐いて、止める。止めた先に誰の名前も置かない。置かないまま、窓の外の白が少し薄くなる。木下が息を合わせ、吹奏楽部の彼女が胸の前で軽く手を合わせる。倉田は目を閉じ、カリンは新聞部のノートを机に置いて、手を離す。手を離した音はしない。
終わった瞬間、先生は黒板の右下の九つの点のいちばん左を指で軽く押さえ、そっと離した。押さえる位置は以前と同じ。でも、離し方が違う。違いは小さいのに、空気が分かる。
「灯台の額縁は無事だ」と先生。「朝の連絡で確認した。——港の人が、風の列を作ったらしい」
誰かが短く笑い、すぐに静かになった。笑いの戻り方は、上手くなっている。
「今日の放課後は、学校の中で“風の記録”をやる」先生は続ける。「場所は三つ。昇降口のガラス前、二階の踊り場、音楽室の扉。写真は撮らない。見出しだけを置いて、十秒を回す。——渡すのは順番じゃない。整い方だ」
僕らはうなずいた。授業が始まり、三限が終わり、昼休みになった。弁当のふたの音は小さく、ペットボトルのキャップが一度だけ転がって止まる。机の奥の名札は半分の位置で、角の欠け目に光が集まり、すぐに散る。散り方はやさしい。
放課後。まず昇降口。ガラスの曇りはほとんど消え、光がうすく入る。カリンがノートから見出しのページを破り、ガラスの下枠にそっと挟む。風の記録。文字は黒く、余白は広い。僕らは十秒。吸って、吐いて、止める。通りかかった一年生が一瞬立ち止まり、僕らを見て、すぐに歩き出す。止まり方も、歩き出し方も、どちらも良い。
二階の踊り場。階段の途中で止まる場所は、昨日の海の見える階段に似ている。似ているのに、別物だ。別物のまま、十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、下の階の足音が一度だけ揃い、すぐにばらける。ばらけ方が自然だ。
音楽室の扉。譜面台は中に並び、鍵盤の端の白は扉越しにも光る。見出しは貼らない。貼らないで、扉の前に立てかける。十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先で、扉の向こうの空気が一度だけ薄く鳴り、すぐに沈む。沈み方が良い。
終わったあと、先生が黒板の前で言った。
「見出しはそのまま置いておく。——本文は、どこにも書かない」
「本文は、どこに残るの」とカリン。
「場所に」
先生の言い方は簡単で、分かりやすかった。簡単で、分かるようにするのは、むずかしい。
夕方の帰り道。港の風は昨夜より弱い。灯台は白く、四角は遠くからでも見えた。枠の中の海は灰色で、水平線は戻っている。灯台の脇に、中年の男が立っていた。帽子のつばは上がり、肩のケースはない。手ぶらだ。彼は僕を見ると、軽く会釈した。
「本文、できたか」
「見出しだけです」
「それでいい。本文は、見出しの後ろで勝手に生まれる」
彼はそれだけ言って、灯台の裏へ消えた。足音は小さく、波の音にすぐに混じった。
その夜、机で手帳を書き、最後に短く残した。
見出しだけを置く
本文は風へ
点は点のまま
灯りを消す前、壊れかけたカメラを手に取り、シャッターを一度切った。黒い液晶の向こうで、白いリボンの線がほんの一瞬だけ浮かび、すぐに消えた。消え方が、良かった。良い、は今日、たくさん許される。
翌朝。空は高く、港は静か。昇降口のガラスは指先の温度を返し、教室の黒板の右下には九つの点。先生は黒板の前に立ち、瓶に手を置き、ふたを開けずに言った。
「風の記録は、続ける。——けれど、目的は“やさしく消す”ではない。目的はここで息ができることだ」
僕らはうなずいた。十秒。吸って、吐いて、止める。止めた先に誰の名前も置かない。置かないまま、教室は前へ進む。笑いは軽く、ノートの端はゆるく折れ、粉は光を受け、点は点のまま。線にならず、止まっている。止まっているのに、確かに進んでいる。進み方は静かで、強い。校長が言った言葉の通りだ。
昼休み、新聞部のノートの表紙に、カリンが小さく書き足した。
“見届け人”
彼女は僕を見ず、ページを閉じた。閉じ方は丁寧で、急がない。急がないのに、間に合う。間に合う速さで、今日が続く。
放課後、先生は黒板の右下の九つの点のいちばん端を指で押さえ、離した。点は点のままだった。僕は胸の中で小さく言った。
ありがとう。半分のままで。風のままで。
声にはしない。紙にも書かない。思っただけで忘れる。忘れ方を覚えた僕らは、ふつうに授業を受け、ふつうに笑い、ふつうに帰り道を歩いた。ふつうの中に、静かな見せ場がいくつも立っている。誰も拍手をしない。拍手のいらない見せ場を、今日は何度も通り過ぎた。通り過ぎるたびに、空気だけが少し整う。整った空気の中で、点は点のまま、確かに明日へ残っていた。




