第16話 「失われたフレーム」
放課後の光は、昨日より赤かった。
ガラス窓に映る校舎の影が、廊下の奥で二重になって重なっている。
まるで、ひとつの建物にふたつの時間が混ざって見えるようだった。
僕は階段を上がりながら、肩のバッグをずらした。中には昨日の資料館からのメモと、壊れかけたカメラが入っている。ユナが最後に写っていたとされる――例の“欠けたフレーム”のカメラだ。
「ねえ、また見に行くの?」
カリンが追いかけてきて、僕の歩幅に合わせてくる。
手には新聞部のノート。相変わらず余白は多い。
「昨日の額縁、傾いたままだった。今朝のメモにも『直していません』って書いてあった」
「それが?」
「――その“まま”が、少し気になる」
僕は言葉を濁した。
昨日、あの額縁のそばで撮った一枚が、まだ現像できずにいる。カメラを覗いた瞬間、ユナの影が階段の途中に見えたような気がした。だけど、次の瞬間には光が強すぎて、何も見えなくなった。
「記録、見せてよ」
カリンは少しだけ身を乗り出した。
「現像したら、ね」
部室に入ると、笹原先生がいつものように窓辺でコーヒーを淹れていた。紙コップを二つ持って、僕らを見た。
「記録係、今日も残業か」
「まだ途中です」
「途中があるうちは、終わらないもんだよ」
先生は笑って、コーヒーを差し出した。
苦味が喉を通る前に、先生が続けた。
「レン。昨日、資料館に行ったろう?」
「はい」
「ユナのアルバムを見たって、聞いた」
「見ました。……けど、空白ばかりでした」
「そういうもんだ。記録というのは、たいてい穴の形をしている」
先生の目が、一瞬だけ鋭くなる。
僕は言葉を返せなかった。
放課後の校舎は、もうすぐ夏休みの匂いがした。
カリンと僕は再び階段を降り、坂道を歩いた。海沿いの風が髪を乱す。昨日の額縁はそのままの角度で傾いていて、夕日を半分だけ映していた。
「直さないの?」とカリンが言う。
「直したら、消えそうで」
「何が?」
「彼女の、形」
カリンは少し黙って、海を見た。
「ねえレン。あなたはさ、彼女が“いた”証拠を集めてるの? それとも、“いなかった”証拠を集めてるの?」
「……そんなの、わからないよ」
「記録ってそういうものだよね」
カリンは笑って、ノートにさらさらと何かを書いた。
“存在の残響”――それが見えた気がした。
その夜。
僕は自室で壊れかけたカメラを机に置き、電源を入れた。液晶は割れていて、映るのは光の点だけ。それでも、シャッターはまだ動いた。
部屋の灯りを消して、窓の外を撮る。
カシャ、という音。
ファインダーの向こうには、何もいない。
けれど――レンズ越しの黒に、微かに白いリボンの線が浮かんだ。
「……ユナ?」
思わず呟いた声が、部屋の中で反響した。
返事はなかった。けれど、風の音が少しだけ高くなった。
翌朝。
教室の空気は昨日より湿っていた。
窓を開けると、港から霧が昇ってくる。霧の向こうに見える町の輪郭が、やけに懐かしかった。
「レン、今日の新聞、見た?」
カリンが机に新聞を置いた。地域面の隅に、昨日の階段の写真が載っている。
“海沿いの額縁展示、風で傾くままに”
キャプションの最後に、小さく一文があった。
“この写真には、撮影者が写り込んでいないのに、もうひとつの影が見える”
僕の心臓が跳ねた。
写真を凝視すると、確かに階段の上に、ぼんやりと少女の影がある。白いリボン。肩までの髪。
「……これ、誰が撮ったの?」
「たぶん、資料館の人」
「でも、この位置からだと……僕らの後ろだ」
「誰もいなかったじゃん」
言葉が詰まった。
放課後、僕とカリンは資料館に行った。受付の女性に尋ねると、彼女は首をかしげた。
「昨日? あの写真なら、カメラを設置してたボランティアさんが……」
「ボランティア?」
「ええ、確か“白鐘”さんって」
僕は息をのんだ。
白鐘。ユナの名字。
「その人、今どこに?」
「さあ……昨日の夕方、帰られましたけど」
「どこへ?」
「“海の方へ戻ります”って」
僕らは顔を見合わせた。
資料館を出ると、夕焼けが一面に広がっていた。
港の方へ走る。カリンの髪が風で舞い、僕の視界が時々途切れた。
海辺の階段には、もう誰もいなかった。
額縁の中の海だけが、光を受けて揺れている。
その下に、小さな白い紙が落ちていた。
拾い上げると、そこには短いメッセージ。
“記録は消えない。
でも、写す人がいなくなれば、
風が代わりに覚えていてくれる。”
文字は滲んでいた。インクが涙でにじんだように。
「これ、彼女が……?」
「わかんない。でも、見つけちゃったね」
カリンは小さく笑って、風の中で髪を押さえた。
「明日、新聞部でこの話書くよ。タイトルは――“風の記録”。」
「やめた方がいい。誰も信じない」
「信じるとかじゃない。残すの」
その言い方が、ユナに似ていた。
海辺に吹く風が強くなった。額縁がかすかに軋み、木の音が鳴る。
その音がまるで――シャッターみたいに聞こえた。
僕は立ち上がって、空のフレームを見た。
夕日が沈みかけていて、水平線の向こうに、かすかに白い影が見える。
ユナの姿かもしれない。違うかもしれない。
でも、そのどちらでもいいと思った。
カリンがつぶやく。
「ねえ、レン。あなたってさ、記録係っていうより――」
「なに?」
「“見届け人”なんだと思う」
風が止まった。
波の音が急に大きくなった。
カリンの髪が光を受けて金色に見えた。
僕はポケットからカメラを取り出して、空を向けた。
もう液晶は映らない。
でも、シャッターはまだ生きている。
「撮るの?」
「うん」
「何を?」
「……この時間を」
カシャ。
音が消えると同時に、風がまた吹き抜けた。
それはまるで、彼女の髪をなでていくようだった。




