第10話 半分の名前
朝の空は高く、港のクレーンは鉛筆の線で細く見えた。風は弱い。昇降口のガラスは曇らず、触れた手の温度をそのまま返してくる。今日の十秒当番は僕、拭く係は木下と浜崎。黒板の右下にある小さな点は、昨日よりもはっきりして見えた。見え方が変わるだけで、何も変えていないときがある。けれど、それで十分に進む日もある。
教室に入ると、十七番の席の上に朝の光が薄い角度で落ちていた。机の奥の名札は「白鐘」の二文字だけ。透明の台座は小さく光って、角の欠け目はもう目に慣れてしまった。黒板の名前は粉を落とさず、昨日と同じ線で残る。残っていることが、もう「事件」ではない朝が来たのだと分かる。
カリンはすでに来ていて、新聞部のノートを閉じたところだった。彼女は目で挨拶をして、席を立たずに言う。
「今日、午前中に保護者の方が何人か来るって。職員室経由で聞いた。展示と名簿、両方」
「話す?」
「話す。でも、私たちの代わりに先生が立つ。私たちは私たちの場所で、いつものように」
「分かった」
チャイムが鳴る前、樫井先生が入ってきた。僕を見て、目だけで「いつも通り」を知らせる。十五、十六。僕は立たない。背筋だけを伸ばす。十秒。吸う、吐く、止める。止めた先に声は置かない。置かないかわりに、黒板の右下の点を視界の端に置いた。十秒が終わる。今日は呼ばない。呼ばないのは、逃げるためではない。置くためだ。置く場所を、先に整えるためだ。
一限が始まる少し前、廊下の端がにぎやかになった。小さな声、低い声、ため息のような声。教室のドアがノックされ、副校長が顔を出す。丁寧な笑顔。目は少し硬い。
「樫井先生、保護者の方がお見えです。授業の合間に、少しだけ」
先生は頷き、黒板の右下の点を一度見てから、席の間を抜けて廊下へ出た。ドアは閉まらず、声の断片が入ってくる。貼り紙、名簿、展示、責任、子どもたちの気持ち。よく聞く言葉の形だ。けれど、今日の声は昨日より落ち着いている。落ち着かせようとしている声ではなく、落ち着こうとしている声だ。
二限の終わりに先生が戻ってきて、黒板の前に立った。
「昼休み、教室で五分だけ話す。全員、いてくれ」
昼休み。弁当のふたの音が止み、ペットボトルのキャップが閉まる。先生は教室の中央通路のいつもの椅子に座らず、今日は黒板の前に立った。
「今朝、保護者の方が三名来た。展示のこと、名簿のこと、それからお前たちの『十秒』のこと。心配していることは分かった。ありがたいことだ。——で、ここからが大事だ。外の心配に応えるのは、外に向けた紙でやる。中の心配に応えるのは、ここでやる。この線は、俺が引く。お前たちは、その線の内側で、約束を守れ」
先生はチョークを取ると、黒板の右下にある点の下に、短く書き足した。
内側の約束を、増やす
「増やす、は重くなる。でも、増えたぶん、持つ人が増える。だから増やす。——午後、資料館の人が来る。空の額縁のこと、鐘の舌のこと、昔のノートのこと。『歌を置く』の具体を少し話してくれる」
先生はそう言って、チョークを置いた。五分の話はそれで終わった。短いのに、教室は少し軽くなった。軽いのに、誰も席を立たない。立つ必要がないのだと、体が知っている。
午後の最初、資料館の司書さんが教室の後ろのドアから静かに入ってきた。名乗らず、笑わず、目だけ柔らかくしてうなずく。先生が前に促すと、司書さんは黒板の右下の点を見て、それから十七番の席を見た。
「お邪魔します。——『歌を置く』というのは、難しい言い方をすると、祈りと準備の間にある『癖』です。楽譜は残さない。残さないことで、毎回の空気に合わせる。昔のノートに書かれていた『息』は、その準備の記録でした」
司書さんは鞄から薄い紙片を一枚出した。古いコピーの端。そこに小さくこう印刷されている。
息のあと、口の形をつくる
声になる前に、形を忘れる
忘れた形を、戻さない
「戻さない、ですって」と司書さん。「戻さないのは、失うためではありません。前に進むためです。置いたものを、置いたままにするためでもある」
カリンが手を挙げる。
「空の額縁は、何を囲っているんですか」
「空気です。——でも、逃げない空気です。囲われると、空気は落ち着きます。額縁の中に座って『十秒』をしてから教室に戻る子もいました。『戻す』の反対側の作法です」
「なら、教室の右下の点は、私たちの額縁の角ですね」
カリンの言い方はいつも通りで、少しだけ誇らしげだった。司書さんは頭を下げ、戻る準備をした。
「もうひとつだけ。——名は借りもの。息は自分のもの。返し方だけ、皆のもの。これは、この町の鐘楼の管理帳に、最初に書かれた言葉です。お返しします」
司書さんが去ると、教室は薄くざわめいた。木下が小声で「かっけえ」と言い、浜崎が「すげえ普通の言葉なのに、なんか残る」とつぶやいた。普通の言葉が残るのは、普通の作法で言われたからだ。たぶん。
放課後、予行をする前に、旧市街の女性が職員室の前に現れた。白い布袋は持っていない。手ぶらだ。先生が気づいて廊下へ出る。僕とカリンも少し離れて立つ。彼女は先生にだけ届く声で、短く何かを告げた。先生は顔を上げ、黒板のほうを見た。目の動きで、僕らのほうにも合図が来る。
「練習の次の段だ」と先生。「今日だけ、黒板に一度だけ触る。触るけれど、消さない。——粉を、一粒、返す。瓶に戻す、じゃなくて、『返す』。ルールは俺が言う。触れるのは、黒板の右下の点の『外側』だけ。一粒だけ。誰がやるかは、クラスで決めろ」
教室の空気が固くなった。予行よりも静かだ。静かだが、重くない。少しだけ温度が上がる。倉田が手を挙げると思っていた。けれど、最初に挙げたのは吹奏楽部の彼女だった。
「あたしが、やります。——でも、十秒のあとで」
誰も反対しなかった。役割の順番は今日だけ変わる。黒板の前に立つのは、彼女。瓶の蓋を持つのは木下。粉を受ける紙を押さえるのは浜崎。見届けるのは、全員。
十秒。今日は椅子から立ってやった。全員が立つと、床の音が一度だけ揃った。息を吸って、吐いて、止める。彼女はそのまま前に進んだ。黒板消しではなく、薄い紙の端で、名前のすぐ右の「黒板の黒」を、指でそっと撫でるみたいにこすった。白いものは触らない。触らないで、すぐそばの粉だけを一粒、紙に移した。紙の上で、その粉は丸かった。丸い粉は、濡れていないときでも丸い。丸いものは、落ちやすい。落ちる前に、木下が瓶の口へ紙を滑らせた。粉が静かに瓶へ落ちる。音はしない。落ちる音がしない種類の作業が、この世にはいくつかある。僕らはそれを見た。
終わった。彼女は振り返らず、黒板の右下の点を一度指で示して、席へ戻った。先生は瓶を持ち上げ、光に向ける。瓶の底にある粉の丘は、昨日までと変わらないように見える。けれど、今日からは違う。あの一粒は、戻したのではない。返したのだ。
「今日はここまで」と先生。「この『一粒』を、明日から交代でやるかどうかは、まだ決めない。決める前に、持って帰れ」
持って帰る、は宿題より重くない。だけど、忘れるわけにはいかない種類の重さだ。教室の空気はゆっくり戻り、笑いが一回、二回。木下が「ダサいの、俺の得意分野」と言い、浜崎が「今日のはダサくない」と返し、二人で笑った。笑いは緊張のいちばん外側を柔らかくする。
片づけが済んだころ、音楽室の扉が半分開いていた。譜面台は揃い、蓋は半分。鍵盤の端が薄く光る。僕とカリンと倉田は、いつものように並んだ。今日の僕らは、鍵盤に指を置く前に、一度だけ歌の形を作った。声は出さない。出さないが、口の形を作り、形を忘れる。忘れ方は、午前に司書さんが教えてくれたとおり。形は、一度だけ正しく作って、そこから離す。離れた先に、十秒がある。
扉の向こうで足音が止まった。旧市街の女性が立っていた。入らない。目で頷くだけ。頷きは合図と同じ。彼女はそれだけで去った。教えるのではなく、置いていく人の歩き方だった。
夜。家に戻ると、ポストに茶封筒が入っていた。差出人なし。中には白黒の写真が一枚だけ。額縁の写真。空の四角。四隅の金具が光って、その中はただの空気。それなのに、紙の上には淡い影がある。裏には、短い文字。
半分、だけ返してください
半分。名札は名字だけ。黒板の名前は全体。半分返す、とは何か。半分消すのとは、違う。消し方は最後に決める。返し方を先に決める。それが、今日のやり方。
返事は打たなかった。代わりに、手帳の最後に一行書いた。
半分返す練習を、明日
翌朝。空は薄く曇り、港の音は遠い。十秒当番はカリン。拭く係は倉田と僕。黒板の前に立つ彼女の背中は、いつもより小さく見えた。小さいのに、崩れない。十五、十六。吸う、吐く、止める。十秒が終わる。僕は呼ばない。カリンは振り向かず、黒板の右下の点に目を落とした。
放課後、五分だけ時間を作った。半分返す練習。黒板の名前には触れない。触れないで、隣の「黒板の黒」を、昨日と同じように紙でそっと集める。今日は二粒。木下は瓶の蓋を開け、浜崎が紙を傾け、粉は丘の上に見えないほどの道を作って転がった。二粒。昨日より多く、全体から見ればないに等しい。けれど、僕らはその二粒の重さを、はっきりと受け取った。
練習のあと、先生が言った。
「明日の朝、教育委員会の人がまた来る。保護者の方も、たぶん一人。——結論は急がない。だけど、約束は増やせ。内側で増やせ」
翌日。朝の風は弱く、昇降口のガラスは曇らない。教室に入ると、黒板の右下の点のわずか右側に、小さな紙片が貼られていた。色は薄い黄。糊の跡が四隅に小さくある。紙には、三つの短い約束が印刷されていた。
一、十秒は必ず誰かが持つ
二、粉は返す(戻さない)
三、歌は忘れる(戻さない)
印刷は新しい。誰が作ったのか、すぐに分かった。カリンだ。彼女は胸の前で軽く手を合わせて見せた。承認を求める合図ではなく、「置いたよ」という報告の合図。先生は頷き、紙の端を指で軽く押さえた。押さえたあと、離す。その離し方が丁寧だ。丁寧に離すと、貼り紙は長く持つ。
午前の終わり、教育委員会の二人が来た。背の高いほうが黒板の右下の紙を読んで、短く「いい紙ですね」と言った。背の低いほうは瓶を指して、先生に目で問い、先生は頷いて蓋を少し開けた。粉は見えない。見えないけれど、瓶は持ち上げるとわずかに重い。重い気がする、ではない。重い、と書いてしまって良い程度に重い。
「今、何をしているか」を説明するかわりに、「何をしないか」を紙にしてある。委員の二人はうなずき、副校長は小さく微笑んだ。生活指導の先生は、黒板の右下の点を見て、初めて声に出した。
「この点、好きだ」
それで、話は終わった。終わり方として、最高だった。うなずき、笑い、短い言葉。過剰な説明が一度もなかった。
午後。授業が終わるころ、廊下の掲示板に小さな紙が一枚増えていた。手書き。既視感のある字。短い。
半分の名前は、今ここにいます
誰もそれを剥がさない。剥がす必要がない。紙は外側に向けた言葉だが、内側の合図にも見える。半分の名前。名札は「白鐘」。黒板は「白鐘ユナ」。半分は名札、半分は黒板。両方で、今ここにいる。
放課後、音楽室に寄る前に、僕は十七番の席に立った。机の奥の名札を取り出さない。取り出さないで、透明の台座の角に指を触れた。冷たさは薄い。薄い冷たさは、手のひらですぐに馴染む。馴染んだところで離す。離したあと、椅子の背に手を置く。丸い。丸さは、今日も変わらない。変わらないなら、ここが場所だ。
音楽室。譜面台は揃い、鍵盤は光る。僕らは並び、息を合わせ、形を作り、忘れた。忘れて、十秒を置いた。置いたあと、何も言わなかった。何も言わないかわりに、倉田が小さく笑った。笑いは、今日の音だった。
夜。机の上の写真は倒れず、ほんの少しだけ角度を変えた。変えた角度を見て、手帳に書いた。
半分返す練習、成功
粉二粒、返した
瓶の重さ、言葉にできる
寝る前、携帯が震えた。差出人なし。短い二行。
ありがとう
明日、十秒のあと、呼んでも、呼ばなくても、同じです
同じ。呼ぶ、呼ばない、どちらでも。どちらでも同じだと言える日が来る。来るまでの時間が物語になる。物語は、いま、ここにある。僕は返事を打たず、窓の外の暗さを一度だけ確かめ、目を閉じた。
翌朝。港の音は遠く、空は白い。十秒当番は浜崎。彼は「ダサくない」顔で立ち、吸って、吐いて、止めた。止めたあと、僕は黒板の右下の点を見て、先生の一文をもう一度だけ読んだ。いつか、この名前をやさしく消す。読むと、体のどこかが整う。整ったところで、僕は少しだけ笑った。笑いは、準備の合図でもある。
十秒が終わる。僕は呼んだ。白鐘ユナ。声は小さく、届く分だけ。教室の空気は揺れない。窓の外で鳥が鳴いた。昨日と同じ声。同じで、違う。違いは、僕たちのほうにある。違いがあるのに、同じように進む。それでいい。十分だ。十分で、前に進む。
休み時間、黒板の右下に小さな紙片がまた増えた。カリンが貼ったらしい、細い紙。そこには、こう書いてある。
今日の一粒、無し
無し、と書いてあるのに、安心する。無しを決めるのも、内側の約束だ。無しにして守れるものと、増やすことで守れるもの。両方を使う。
放課後、資料館へ寄ると、空の額縁の前に一人の一年生が立っていた。制服の袖がまだ硬い。彼女は額縁の前で十秒をして、息を置いて、忘れた。忘れたあと、振り向かずに小さな紙を一枚、額縁の足もとに置いた。紙には一文字だけ。
息
僕はそれを拾わず、ただ見た。拾わないことが、今日のやさしさだ。拾わず、覚えておく。覚えておけば、返し方は増える。増えた返し方の中から、いつか一つを選ぶ。
帰り道、校門の外で旧市街の女性に会った。彼女は足もとを見て、言った。
「半分の名前は、半分のまま、長く残ります。長く残ると、やがて、残らない形で残ります」
「残らない形?」
「はい。呼ばないのに、いる。消したのに、いないのに、いる。——やさしく消す、の先にある形です」
「そこまで行けるでしょうか」
「行けます。皆で持つから」
彼女は微笑まずに、目だけ柔らかくして、去った。歩幅は一定で、足音は静かだった。
夜。手帳の最後に、短く書いた。
半分の名前は、いまここ
明日は、一粒も、返さない
けれど、忘れる
灯りを消す前、机の写真は倒れなかった。倒れない角度を、やっと覚えたのだと思う。覚えたら、少しだけ軽くなる。軽くなったぶんだけ、持てる人が増える。明日、教室でその軽さを、もう一度確かめようと思った。やさしく、確かめる。やさしく、持つ。やさしく、消す日のために。




