後妻になったけれど、義娘から大歓迎されています
「カテリーナ・ドナート嬢。私と結婚してくれませんか?」
ぽかぽかとした日差しの心地いい、春の日。
自分に向けられた言葉と小さな花束に、カテリーナは眼鏡の奥のハシバミ色の目を丸くして、相手の男の真っ赤な顔を見つめ返した。
目の前にいるこの男性の名は、ギルベルト・レーヴェン。二十八歳という若さでありながら、レーヴェン伯爵の地位に就いている。
触れると柔らかそうな金髪に、きりりとした碧眼。上背があることも相まって、黙って口を引き結んでいるとやや厳つい印象がある。だが今は極度の緊張のためか顔を赤らめているし動きはぎくしゃくしており、花束を持つ手も震えていた。
カテリーナは少しずれかけた眼鏡のブリッジをくいっと上げ、小さな息を吐き出した。
「……レーヴェン伯爵。一体何をおっしゃるのですか」
「私はあなたの聡明さに心惹かれました。あなたと共に生きたい、と思っております」
「それは……もったいないお言葉です」
熱を込めた口説き文句に、カテリーナの頬が熱くなる。
この世に生を受けて、二十四年。子どもの頃から内向的で友だちと遊ぶより本を読むことが好きで、結婚適齢期になっても一向にモテず文官としてひっそり生きてきたカテリーナにとって、麗しの伯爵からのプロポーズは非現実的すぎた。
ありきたりな濃い茶色の髪を仕事のためにひっつめ、本の虫になったせいで落ちた視力を補うために瓶底のような眼鏡をかけている。女性文官の制服であるモスグリーンのドレスは色気皆無だが、体つきものっぺりしているのでそもそも魅力がない。
数年前に実家が商売に失敗して潰れ、両親は離婚。自力で生きていかなければと仕事に打ち込むあまり身なりに気を遣うこともできず、我ながら貧相でしょぼい見た目をしている。こんなだからモテないまま、売れ残り二十四歳になったのだ。
……そう、売れ残りの自分には、伯爵との結婚なんてふさわしくない。
ましてや――彼にとっては、再婚相手になるのだ。
「確かレーヴェン伯爵には、ご息女がいらっしゃったはずです。私のような者が義母になるなんて、お嬢様の教育にもよろしくないかと」
「いえ、むしろ娘はあなたのような方を母にと望んでいるのです」
「……はい?」
目を見開くカテリーナに、レーヴェン伯爵も少し困ったような顔になった。
「ご存じでしょうが、私の前妻は去年病没しましたが……お恥ずかしいことに、夫婦仲は元々破綻しておりました」
「……そう、ですね。聞いたことがあります」
確か、レーヴェン伯爵の前妻は美人で気が強い女性で、伯爵とは元々そりが合わなかったという。おまけに大変な浪費家でかつ恋愛体質なので、結婚して娘が生まれてからも放蕩の限りを尽くし――不倫相手との旅行中に馬車の事故に遭い、それがきっかけで病気になり亡くなったとか。
死者を悪く言いたくはないが、文官の間でも「さすがに伯爵がおかわいそうだ」「ご令嬢も、母君には全く懐いていなかったとか」と噂になっていたものだ。
「娘も前妻には愛想を尽かしていたらしく、むしろ喪が明けてからは積極的に再婚を勧めてきました。その……娘が言うに、茶色の髪で落ち着いた雰囲気のある、字のきれいなお姉さんがいいとのことで」
「はぁ」
「そうして先日、公文書作成の依頼のためにあなたに初めてお会いして……まさかこれほどまで、娘が希望したとおりの女性がいるものかと驚きました。しかも、お話しするたびにあなたの聡明さに惹かれる一方で……」
しどろもどろしながら伯爵が説明するので、カテリーナのほうも気恥ずかしくなってきた。
字がきれいなのだけが取り柄で、かわいげも愛想も色気もない、誰にも選んでもらえなかった自分。
だがなぜか、伯爵の息女はそんなカテリーナを理想の母としていて……伯爵もまた、カテリーナに惹かれただなんて。
「……私にはもったいなすぎます」
「いえ、あなたには魅力がある。娘のため、というのももちろんですが……私も、あなたのような素敵な人と共にありたいと思ったのです」
「伯爵……」
「どうか私と結婚して、クラウディアの母になってくれませんか? ……あの子には、母が必要です。あなたならきっと、クラウディアのことも大切にしてくれると思ったのです」
レーヴェン伯爵の言葉に、そうか、とカテリーナの中ですとんと腑に落ちるものがあった。
なんてことはない。彼は、娘の教育係になる母を求めているのだ。
彼がカテリーナのことを好ましく思っているのは、事実だろう。だがそれ以上に……カテリーナに義母としての『仕事』を求めているのだと思ったほうが、不思議と全てに納得がいった。
伯爵は、カテリーナに大きな『仕事』の依頼をしている。
そう思うと、迷う気持ちもすっと消えていった。
「……そういうことでしたら。ふつつか者ですが、どうぞよろしくお願いします、レーヴェン伯爵」
「……ああ、ありがとうございます! どうか私のことは、ギルベルトとお呼びください」
差し出されたままだった花束をカテリーナが受け取ると、ギルベルトはぱっと笑顔になりまるで少年のようにはしゃいだのだった。
かくして、カテリーナは『レーヴェン伯爵令嬢の義母』という『仕事』を受けることにした。
残念ながら文官としての仕事は辞めることになったが、元々生きていくために続けていた仕事だ。職場にとても親しい人がいたわけでもないので、後ろ髪を引かれることなく退職できた。
……とはいえ、カテリーナとて不安要素はある。
どうやらこの婚姻はレーヴェン伯爵令嬢であるクラウディアが望んだそうだが、彼女ははたしてカテリーナのことを本当に受け入れてくれるのだろうか。
『茶色の髪で落ち着いた雰囲気のある、字のきれいなお姉さん』という、やけにピンポイントな希望を出したそうだが、その結果現れたカテリーナを見て「これじゃない」と言われたらどうしようか。
そんな不安な気持ちを抱えながら、結婚の準備と皆への挨拶のために、ギルベルトに手を引かれて伯爵邸に向かったカテリーナだが。
「クララ、この人がおまえの義母になる方だ」
「……カテリーナ・ドナートでございます。よろしくお願いします、クラウディア様」
「まあっ! あなたがお父様の『いい人』なのですね!」
かちこちに固まって挨拶したカテリーナに返されたのは、元気いっぱいの声と愛情溢れるハグだった。
カテリーナに抱きついてきたのは、ふわふわの金髪を持つ美少女。ぱっちりとした目は父親と違って濃い赤色なのでここは母親譲りなのだろうが、その顔立ちや笑った顔はギルベルトによく似ていた。
今年で七歳になったクラウディア・レーヴェン伯爵令嬢は、ぎょっとするカテリーナに抱きついたままにっこり笑った。
「わたし、あなたにお会いできるのをずっと待っていたんです! ねえ、お義母様と呼んでもよろしくて?」
「えっ? あ、あの、それは嬉しいのですが、結婚はまだですので……」
「んもう! そんなの『ゴサノハンイナイ』でしょう! ねえ、お父様。お義母様と結婚するんだからいいですよね?」
「さすがに気が早すぎだろう……」
ギルベルトが呆れたように言う傍ら、カテリーナはぽかんとしっぱなしだった。
見た目だけはクラウディアのご希望どおりなのだから、最初から突っぱねられることはないはずと願っていた。
だがまさか、これほどまで大歓迎されるとは。
驚き戸惑うカテリーナのお腹に頬ずりをしたクラウディアが、甘えるような眼差しで見上げてきた。
「ねえ、お義母様。結婚式はいつなんですか? 明日? 明後日? わたし、お花を持つ係がしたいんです! それにお義母様のドレス姿、とっても素敵でしょうね……」
「あぇ……あ、あの、そういう話もまだでして……」
「まあっ、そういう話こそ早く進めるべきでしょう! お父様ったら『オクテ』なんですから!」
「……頼むから、どこで覚えたのかわからない言葉をやたらめったら言わないでくれ」
娘の怒濤の勢いにギルベルトはすっかり参ったようで、クラウディアの両脇に手を差し込んでカテリーナからべりっと剥がしてくれた。
「まあ、おまえがカテリーナ嬢を気に入ってくれたのならよかった。……カテリーナ嬢も、いいだろうか?」
「えっ……は、はい。あの、私、クラウディア様のよい義母になれるよう、頑張りますね」
「ええ、ありがとうございます! でもわたしのことはどうにでもなるので、お義母様はお父様と仲よくして、わたしの弟か妹を作ってくださいね」
「クララ!」
とうとうギルベルトが真っ赤な顔で娘をぶんぶん振り回し始め、クラウディアは「きゃーっ! お父様の『ナラズモノ』ー!」と叫び、父親に「使い方が違う!」と突っ込まれていた。
ぎゃんぎゃんじゃれ合う親子を見ていて……ふふっと、カテリーナは笑い声を漏らしてしまった。
「あっ……す、すみません。カテリーナ嬢に情けないところを……」
「お義母様が笑ったわ! よかったですね、お父様!」
「私たちが情けなくて笑ったんだろう!」
「ふふ……いえ。とても素敵な光景でしたよ」
カテリーナは目尻に浮かんでいた涙を拭って、そう答えた。
この涙が、何故に流れたものなのか。
カテリーナにははっきりとは答えられそうにないが……一つだけ言えるのは、きっとこの結婚は、うまくいくだろうということ。
「ギルベルト様、クラウディア様。どうか私を、あなたたちの家族に加えてください」
カテリーナが緊張しつつもそう言うと、クラウディアは「やったぁ!」と歓喜の声を上げてびたんびたんと暴れ、父親の拘束から逃れるなり再びカテリーナに抱きついてきた。
ギルベルトはぽかんとしていたが、頬を少し赤らめると咳払いして、クラウディアに抱きつかれたカテリーナの肩をそっと抱いてくれた。
「ありがとうございます、カテリーナ嬢……いえ、カテリーナ。必ず、あなたのことを幸せにします」
「わたしも! わたしも、お義母様のことを幸せにするわ!」
「……はい。ありがとうございます」
温かな笑顔で互いを見つめる、今日生まれたばかりの伯爵家の家族たち。
そんな三人を陰から見守っていた伯爵家の使用人たちは、今度こそ幸せになれるだろう旦那様やお嬢様、新しい奥様の姿に、こっそりと涙をこぼしたのだった。
* * *
クラウディア・レーヴェンはかつて、『悪女』だった。
『クラウディア。わたくしの無念を、おまえが引き継ぎなさい!』
病床に就いていた母は、見舞いに来たクラウディアの腕を掴み、不気味に微笑んだ。
かつては壮絶な色香を放っていた母も、不倫旅行で事故に遭ってからは痩せ衰え、今では直視するのも厳しいような凄惨な状態になっていた。
きっともう、長くないだろう。
父からそう聞いていたクラウディアは、本当は実母の見舞いなんて嫌だったけども、これが最後になるのではということで渋々部屋に行き――そして、母に『呪い』をかけられた。
一体どこで、母はとうの昔に滅びたはずの『呪い』を学んだのだろうか。
とにかく、母は自分の命と引き換えに娘を呪った。クラウディアはその場に倒れて――目が覚めたときには既に、母の葬儀は終わっていた。
その日から、クラウディアは変わった。
父のことが大好きな甘えん坊だった彼女は、まるで『誰か』に乗っ取られたかのように苛烈で残酷な少女になった。
気に入らない使用人はただクビにするだけでなく、徹底的にいじめ抜いて死んだほうがましだと思うほどまで追い詰めてから、ボロ雑巾のように捨ててやった。
父の愛馬を鞭で叩いて死なせ、それまで仲よくしていた令嬢仲間のありもしない噂を振りまき、社交界で孤立させた。
自分でも、なぜこんなにひどいことをしているのか、よくわからなかった。
ただただ彼女は、狂うほどの怒りと嗜虐心に蝕まれていた。
父は横暴になった娘に手を焼いていたが、クラウディアも父親のことだけは愛していた。
だが父は、新しい母親が来たらクラウディアも落ち着くだろうと思ったのか、妻が死んで二年後、クラウディアが八歳のときに後妻を迎えた。
父は横暴な娘のせいで、すっかり心を弱らせていた。そんなときに出会ったのが、のちにクラウディアの義母となる女性だったという。
王城の文官だという、茶色の髪をした穏やかな女性が父と再婚して、クラウディアは荒れに荒れた。クラウディアに歩み寄ろうとする義母に罵声を浴びせ、叩き、ものを投げつけた。
父は義母のことを愛していたので、クラウディアを叱った。だが叱られると余計にクラウディアは怒りを募らせて、義母への当たりを強くした。
義母は、別邸に移った。これで邪魔者はいなくなったと、クラウディアはひとまず安心した。
そしてクラウディアが十歳になったとき、これまでいじめていた令嬢が療養地に行ったということで、ちょっとつまらなくなった。
そういえば、別邸には義母がいる。どうせ父からの愛情も与えられず寂しくしているのだろうから、あの女のみすぼらしい姿を見て気晴らしにしよう。
そう思ったクラウディアは、別邸に乗り込んで――そこで、大きなお腹を抱えた義母を見つけた。
知らなかった。
てっきり父はあの女に愛想を尽かしているのだと思ったのに……クラウディアの目を盗んで、会いにいっていた。あのお腹には、父の子ども――父に愛された証しが、いる。
クラウディアは、激昂した。
止めようとする使用人たちを突き飛ばし、厨房から奪った包丁を手に、義母を襲った。身重で俊敏に動けない義母はあっさりクラウディアに捕まり、腹を、首を、胸を、めった刺しにされた。
義母もお腹の子も、助からなかった。
父は義母の遺骸を抱いて泣き、血まみれでたたずむクラウディアの頬を打った。
『もう、おまえのことをどうしてやることもできない』
光の失せた瞳でそう言った父によって、クラウディアは屋敷の奥に閉じ込められた。
薄暗い部屋に閉じ込められたまま、クラウディアは育った。
外の世界がどうなっているのか、わからない。世話係の使用人も表情の失せた顔で淡々と食事を運んだりするだけで、クラウディアがどんなに叫んでも脅しても、何も答えてくれなかった。
そうして、一体どれほどの時間が流れたのだろうか。
使用人が、食事を持ってこなくなった。
いくら怒鳴っても叫んでも、部屋の外から音がしなくなった。
クラウディアは怒りを覚えながらも部屋の壁をよじ登って、痩せた体で天窓から上半身だけ外に出し――そうして、一面の荒れ地を目にした。
この屋敷は、王都の中心にあるはず。それなのに外の世界は瓦礫にまみれていて、伯爵邸も半地下だったこの部屋がかろうじて残っているだけで、二階から上は崩れていた。
クラウディアは、死の世界になった王都を呆然として見ていたが――うっかり、手を滑らせた。
そのまま半地下の部屋に落下した彼女は頭を打ち、やがて意識を失った。
* * *
白い世界を、クラウディアは泳いでいた。
【クラウディア・レーヴェン。聞こえますか】
ふわふわ漂うクラウディアに、誰かが声をかける。
クラウディアは辺りを見回して……そして、数年ぶりに自分の穏やかな心が戻っていることに気づいた。
「は、はい。聞こえます」
【……あなたは、死にました。死ぬ前に、滅びた世界を目にしましたね?】
どこからともなく聞こえる声に、クラウディアはぎょっとした。
自分は天窓から落ちて、死んだ。その直前に……あの、荒廃した王都を見たのだった。
「はい! あの、あれはどういうことなんですか!? それに私はなんで、あんなにひどいことを……」
【クラウディア。あなたに、罪はありません。ですが、あの滅びた世界はあなたが引き金となって迎えたのです】
「……どういうことですか?」
震える声で問うクラウディアに、声の主は自分が【神】であることを明かした。
【この世界には、『呪い』が未だに濃く残っています。『呪い』を完全に消すことはできませんが、『呪い』に打ち勝つ希望があります。『呪い』が強まる前に必ず、『呪い』を打ち消す力を持つ子が生まれるのです。『呪い』が強まるのは不可抗力ですが、必ず希望の子が生まれて闇を払う。この循環を守ることで、世界は続いていくはずでした】
「……」
【ですがその希望の子は、生まれることができませんでした。……クラウディア。あなたの弟妹として生まれるはずだったのが、希望の子だったのです】
「えっ……」
愕然とするクラウディアに、【神】は続ける。
【あなたの義母カテリーナが最初に産む、あなたの父ギルベルトの子。その子が、のちに『呪い』を払う英雄となるはずでした】
「……そ、そんな。じゃあ、あの世界は……私のせいで……?」
胃の奥がぞっと震えるような恐怖とショックに呆然とするクラウディアに、【神】は優しく声をかける。
【いいえ。全ての元凶は、あなたの実母。あなたの実母ヴィクトリアは、『呪い』を使ってあなたに自分の怨念を受け継がせた。優しく賢い姉として英雄を愛し導くはずだったあなたを呪ったのは、ヴィクトリアです】
「……お母様が」
実母のヴィクトリアのことを、クラウディアは嫌っていた。
大好きな父を我が儘放題で困らせ、娘の前でも平気で不倫をして、そのくせ「産んでやったことを感謝しろ」と怒鳴る母のことを、好きになれるはずがない。
【英雄が生まれず、世界に『呪い』が溢れた。あなたが見たのは、『呪い』によって滅びた世界なのです】
「……」
クラウディアが残虐になったのは、母のせいだった。
たくさんの人をいじめ、罪のない動物を殺し、あの世界を滅びの運命に導いたのは……クラウディアではないのだ。
「それじゃあ、どうすればいいんですか? 私……あんなことは、したくなかった! 本当は、お義母様と仲よくしたかったし……弟か妹が生まれるのなら、かわいがりたかった……!」
涙に暮れるクラウディアに、【神】が穏やかに言葉を紡ぐ。
【ヴィクトリアを変えることは、できません。ですが……英雄の姉となるあなたには、私の力を貸すことができます】
「……どうするんですか?」
【クラウディア、運命を変えるのです。……あなたは、ヴィクトリアの『呪い』を受けてはなりません。『呪い』を回避し、あなたの義母を守りなさい。そしていずれ生まれる子を、慈しむのです】
【神】はそこで、【ごめんなさい】と悲しそうに言う。
【あなた一人にこのような重責を負わせることになり、申し訳ありません。ですが、私が介入できるのはあなただけだった。クラウディア、どうか時を戻り、世界を守ってくれませんか】
【神】の言葉を聞いたクラウディアは……唇を引き結び、うなずいた。
「わかりました。私、頑張ります。母の『呪い』になんて、負けません! お父様も、お義母様も……みんな、私が守ります!」
【ありがとう、クラウディア。……さあ、目を閉じて。これまでの記憶を持ったまま、あなたを運命の日に帰らせます】
「……はい」
【忘れないでください、クラウディア。あなたには大きな役目がありますが……同時に、幸せになる権利もある。どうか幸せに、クラウディア】
優しい声はだんだん遠のき、白い世界も薄れ――クラウディアの意識は、静かに沈んでいった。
* * *
目が覚めたとき、クラウディアは六歳のときに戻っていた。
ベッドから起きた彼女の周りは、ばたばたとせわしない。そしてベッドのカーテンが引かれ、青ざめた顔のメイド――かつてクラウディアがいじめて辞めさせた女性が、顔を覗かせた。
「夜遅くに申し訳ございません、お嬢様。……奥様のお見舞いに来てほしいと、旦那様が」
来た。
これが、運命の分岐点だ。
ベッドから体を起こしたクラウディアは、しばらく自分の手を握ったり開いたりして……そして、しっかりとうなずいた。
「……ええ、行くわ」
久々に見た実母は、相変わらず痩せ細っていた。
クラウディアは他の使用人を全員部屋の外に出し、ベッドに寝る母のもとに向かう。
「……ああ、クララ。最後に会えて、嬉しいわ……。もっと、近くに来てちょうだい……」
青ざめた顔の母ヴィクトリアが、そう言って笑う。
……そう、かつての自分は最後だからと渋々母に近づき、そして――
「……その手には乗りませんよ」
クラウディアは小さく笑うと、母のベッドの周りのカーテンをさっと閉めてしまった。カーテンの向こうで、「はっ!?」と母が叫ぶ声がする。
「な、なんで!? クララ、来て! 来ないと……」
「……『呪い』を発動できなければ、本人に返ってくる。そうでしょう?」
カーテンに唇を寄せてささやいたクラウディアの言葉に、母が息を呑んだようだ。
かつての母はクラウディアの手首を掴み、『呪い』を発動した。『呪い』はどうやら、対象の肌に触れて特定の文言を口にすることで発動するらしい。
カーテンの向こうで、母が苦悶の声を上げている。『呪い』の対象だったクラウディアに触れられないので、『呪い』は逆に母の体を苦しめ――そしてやがて、カーテンの向こうが静かになった。
クラウディアはカーテンの隙間から中を見て――ひとつうなずいてから、悲鳴を上げた。
「だ、誰か! お母様が!」
母は死に、その死は病死として扱われた。
母から『呪い』を受けることを防いだクラウディアは、その後一年間は父と共に静かに暮らし――喪が明けるなり、父に詰め寄った。
「お父様。わたし、お母様がほしいです」
「……えっ?」
娘ながらに美男子だと認めざるを得ない父のギルベルトは突拍子もない発言にぎょっとしたようだが、クラウディアは気にせずにテーブル越しに詰め寄った。
「わたし、夢を見たんです。素敵なお母様が来てくれる夢を。お父様、わたし、お母様がほしい。お母様を迎えてくれませんか?」
「……そう、だな。確かにおまえには母親がいたほうがいいだろう。でも、いいのか?」
「はい! だからわたしのお母様、作ってくれますね?」
クラウディアがにっこりおねだりすると、父は苦笑してうなずいた。
「……おまえがそう言うのなら。でも、困ったな。私と再婚してくれる人がいるのだろうか……」
「あのですね、わたしが夢で見たのは茶色の髪のお姉さんでした。字がとてもきれいで、いつも緑色の服を着ているんです」
「ほう、そうなのか」
「お父様より少し年下で、眼鏡がよく似合います。笑ったらほっぺにえくぼができて、お胸は控えめだけど真っ直ぐ伸びた背筋がきれいな人です」
「え、あ、うん。そ、そうか……」
「そんな人がいたら口説いてくださいね、お父様?」
クラウディアがにっこりと圧をかけると、父は少し引きつった顔で「……当てはまる人がいればな」と言ったのだった。
あれから、時が流れた。
「お父様、早く早く!」
「わ、わかっているよ」
父ギルベルトの手を引っ張って屋敷の廊下を全力疾走するのは、十歳になったクラウディア。
引き締まった体を持つ父だが、背の低い娘に手を引かれて走るのはかなり大変らしく、腰を曲げて走る伯爵の姿を屋敷の者たちが温かい眼差しで見ていた。
父を伴って走るクラウディアの胸は、いろいろな意味でどきどきしていた。
そうして目当ての部屋に到着して――
「お義母様!」
「まあっ、お嬢様!」
「こら、クララ! ……皆、カテリーナは……」
ドアを蹴り開けんばかりの勢いで部屋に突撃したクラウディアを窘めつつも、父は青い顔で部屋の中をきょろきょろ見ている。そして窓際のベッドに寝る妻の姿を見つけて、先ほど娘を叱ったのは何だったのかと思える慌て具合で駆け寄っていった。
「カテリーナ!」
「旦那様……。私、無事にあなたのお子を、産めました……」
「ああ、よく頑張った。……ありがとう。愛しているよ」
ベッドのところで、父と母が言葉を交わしている。
クラウディアはそんな両親の邪魔をするのはよくないとわかっていたし……それに、どうしても確かめたいことがあった。
部屋の反対側にはお湯の張られた小さな浴槽があり、その前に立っていた産婆がクラウディアを見て柔らかく微笑んだ。
「……お嬢様、こちらが弟君です」
「……ええ」
クラウディアは産婆が差し出す白いおくるみを緊張しつつ覗き込み――そこですやすや眠る真っ赤な顔の赤ん坊を見て、泣きたいような笑いたいような気持ちになった。
「……弟、なのね」
「はい。とても元気なおぼっちゃんです」
「……。……こんにちは。私が、お姉様よ」
優しく呼びかけておそるおそる、赤ん坊に手を差し伸べる。まだ目も開いていない弟の頬は、触れた指先が沈むのかというほど柔らかい。
出産を終えてうとうとしていた母も、少し意識がはっきりしてきたようだ。クラウディアと産婆が母のもとに向かうと、泣いたばかりなのか顔中涙まみれの父が生まれたばかりの息子を見て、またしても泣きそうな顔になった。
「……かわいい子だ。本当にありがとう、カテリーナ」
「……はい。……クララ、そこにいる?」
「はい、お義母様」
クラウディアが身を乗り出して顔を覗き込むと、疲弊してもなお美しい義母のカテリーナは柔らかく微笑んだ。
「……この子のこと、よろしくね」
自分の隣に寝かされた息子のおくるみに触れた母が言うので、クラウディアは胸からこみ上げるものをぐっとこらえて、しっかりうなずいた。
「もちろんよ。だって私は……お姉様なんだから!」
もう、あんな未来にはしない。
この温かい場所は、弟は、世界は――クラウディアが、守っていくのだから。
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神様もうちょい頑張れよと言いたくなりますね




