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虚無に微笑む  作者: Sora
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序章

人間には心という灯がある。


喜びに声を弾ませ、悲しみに涙を落とし、怒りに拳を震わせ、愛に笑みを向ける。

それらの感情は人間を人間たらしめる証明だ。


だが、まれに心を持たずに生まれ落ちる者がいる。

そこにあるのはただの器。

虚無を抱えたまま形だけで生きる存在。


「それら」は人の仕草を真似て笑い、涙を演じ、怒りを装い、愛を囁く。

その姿は仮面をかぶった人形のようでありながら、時に人よりも人間らしく映る。


人は自分と異なるものを恐れ、拒絶する。

一方で同じ強さで目を逸らせず、底知れぬ興味に縛られてしまう。


だが「それら」に近づくときは注意しなければならない。

「それら」の闇は膨大で、他者を飲み込むことで生きているからだ。


哲学者ニーチェはこう言葉を遺している。




――深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ――






2000年6月25日 AM1:16


46歳の警官 橋本隆志と25歳の新米警官の前田修司は"通報"を受け、パトカーを走らせている。


「家に来て。でしたっけ?住所だけ言い残して通話が切れたって…。子供からの通報でしょ?イタズラじゃないんですか?」

運転席の前田は気怠そうにハンドルを握ったままつぶやいた。


「通報が入ったなら行かんとな…。にしても子供からの通報ってのが気になるな」

助手席の橋本がぼやき、窓の外に視線を投げる。


「正直、警察ってもっと刺激のある仕事だと思ってましたよ」

前田は笑い、ハンドルを小刻みに叩いた。


「刺激?」

「はい!もっとこう犯人を追いかけたり、戦ったりとか。ドラマとか映画みたいに!」


目を輝かせる新米に橋本は深いため息を漏らす。

「そんなもんない方が平和でいいんだ。滅多なこと言うなよ。警察官は」

「危険な仕事なんだぞ!でしょ?もう何度も聞きましたよ!」


前田は笑って続けた。

「でも一度くらいは“サイコパス”ってやつ、捕まえてみたいですよね」

「サイコパス?なんだそりゃ」

「橋本さんサイコパス知らないんですか?サイコパスってのは普通から外れてて人間じゃない…そうですね、つまり怪物ですよ。異常な殺人鬼にサイコパスが多いんです。ほら!昔の洋画でも…」


意気揚々と話す前田を横目に、橋本は鼻を鳴らして会話を切り、前方を指差した。

「ここだぞ」


2人の警官の目の前に木造三階建ての古びた家が街灯の下に沈んでいる。

外壁の塗装は剥がれ、窓枠には黒ずんだ雨だれがこびりついていた。

カーテンは閉じ切られているのにどこか内側からの視線を感じる。


6月の湿気は重く喉にまとわりつき、額にじっとり汗が浮く。


「…嫌な予感がするなぁ」

橋本の声には微かな不安があった。

警官生活で何度かだけ立ち会った“人が死んでいる現場”

その時と同じ、言葉にできない淀んだ空気が漂っており、生活の気配が欠け落ちている。


「とりあえずインターホン押しますね」

何も気にしていないかのように前田が軽やかに玄関に近づき、勢い良くボタンを押した。


ピンポーン――。


無機質な音が夜に響いたが応答はなかった。


「やっぱイタズラ…」と口にした前田がドアノブを回すと鍵は開いていた。


「空いてますけど…。入ります?」

「俺の後ろにつけ」


橋本の語気は鋭さを帯びた。

その変化に前田は思わず瞬きをした。

温厚だった先輩の声がまるで刃のように尖っていたからだ。


玄関を開けて中に入った瞬間、むっとした鉄臭が鼻を突いた。

目の前に2階へと続く階段があるが、その先は暗く闇に沈んでいる。

その光景が余計に緊張を高めた。


その時――。


アハハハハ


玄関右のドアの奥からテレビの笑い声が響いた。

場違いな明るさが不気味に反響する。

橋本は汗ばむ手でドアを押し開けた。


暗闇の中に浮かび上がったのは凄惨な光景だった。



男女の遺体がX字に重ねられ、喉は大きく裂かれている。

切り口は深く、血が床へと溢れ出していた。




鉄の臭気が肺を満たし、吐き気が込み上げる。

橋本と前田は一目でこの男女が殺されていると認識した。


「…っ!なんだこれ」

橋本の喉が張り付き、声はかすれた。

死体は何度か見たことがある。だがこんな殺され方を見るのは初めてだった。


「はぁ、はぁ」

前田は蒼白な顔で口を押さえ、足を震わせた。

理屈も分析も浮かばない。ただ「わからない」という恐怖が2人を支配する。


「ま、前田…、報告、報告しろ!」

橋本は震えを押し殺して怒鳴った。


「は、はいっ」

前田は無線に手を伸ばし、どもりながら現場を報告する。


胸の奥に冷たいものが張り付く感覚にまた橋本は息を詰まらせる。

そして疑念が渦巻いた。


――子供は無事なのか?

――犯人はまだ家の中に潜んでいるのか?


その時だった。


遺体の奥にあるテレビの光に照らされたソファに…子供がいた。

アイスを食べながらじっとバラエティ番組を見ている。

無表情のまま異様な臭気にも親の死にも動じていない。

目はガラス玉のように光を反射している。


状況の意味不明さに橋本は絶句していた。

警察官として動かなくてはならないという責任感で、重く感じる体を動かして子供に近づく。


「君は…何をしているんだ?」


本来なら「大丈夫か」と声をかけるべきだ。だが異様な佇まいに圧され、言葉は変わっていた。


子供は声に反応し、ゆっくりと橋本の方を向く。


唇には甘い液体がついている。

溶けかけたアイスに目をやった後、その子供が静かに口を開いた。


「アイス食べてるんだけど」


声に抑揚はなく、ただ事実を述べるだけ。

意図していなかった返答に橋本はただ困惑した。

現実を理解するために質問を続ける。


「…いや、その…どうしてこんな状況で」

「蒸し暑いからだよ」


背筋を凍らせながら橋本はさらに問いを重ねた。


「…君が通報したのか?」

「うん。父さんと母さんが死んでたからね」

「君は無事なのか?」

「俺は2階にいた。叫び声が聞こえたから降りなかったんだ」


まるで宿題を忘れたことを説明するかのような軽さ。


「名前は?」

京田きょうだ じん


その淡々とした答えに橋本は息をのむ。

そして、どうしても聞かずにはいられなかったことを聞いた。


「…ジンくんは家族がこんな状況で何も感じないのか?」


仁はほんの少し考える仕草をして言った。

「あぁ...普通は泣いたり怒ったりするものなんだよね?」


そして、溶けたアイスを指で拭い取りながら続ける。

「じゃあ次からそうするよ」


感情とはただ覚えて真似するだけの“演技”。

そう告げられたように橋本は思えた。


背後から足音が近づく。

「橋本さん!」


前田だった。血の気の引いた顔で無線を握っている。

直後、無線からノイズ混じりの声が響いた。


《〇〇周辺で服に返り血を浴びた男性を確保。繰り返すー》


「確保されたの犯人ですかね?」

前田は安堵に似た息を吐く。


だが橋本にはその声が遠く霞んで聞こえていない。

意識はソファに座る少年から離れないからだ。


『橋本さんサイコパス知らないんですか?サイコパスってのは普通から外れてて人間じゃない…そうですね、つまり怪物ですよ』


車内で前田が軽口のように言った言葉を思い出す。

その“怪物”が今、目の前にいる。

アイスの棒を舐め、テレビを見るその子供は「心のない人形」のように橋本は感じていた。


同時に確信が生まれる。




「あぁ、これがサイコパスだ。」






24年後ーー2024年8月12日


真夏の夜、署内は突如ざわめきに包まれた。


電話の受話器を取る音、無線の雑音、椅子を引く金属音。

刑事たちが一斉に立ち上がる。


猟奇的な殺人事件が発生したのだ。



その喧騒から少し離れた一角に淡々と事務処理を続ける男。

髪型は黒髪の七三に整えられ、黒いスーツにはシワひとつない。

その風貌は署内の誰よりも刑事に見える。

足元のゴミ箱にはアイスの空き箱がいくつも放り込まれており、甘い匂いがわずかに漂っている。


「…京田くん」

捜査一課課長の堂島がおずおずと声をかけた。

書類を抱えたまま落ち着かず視線をさまよわせ、口を開きかけては飲み込む。

頼りなさを隠しきれないその姿は幹部らしからぬ小心者。


「捜査本部に来てくれ。君も必要だ」


男は顔を上げ、冷ややかな眼差しを堂島に向ける。

その瞳には感情の欠片すらなかった。




京田 仁。

両親の惨殺現場でアイスを食べていた、あの少年だ。

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