守られた東京と狂騒
#第3話 守られた東京と狂騒
1944年秋・霞が関 政府上層部会合
内閣情報局の地下室には、沈黙が流れていた。
数日前、帝都・東京を襲った米軍の大規模空襲は、突如出現した“結界”により失敗に終わった。空は裂け、炎は弾かれ、市街地は守られた。
この奇跡を、彼らは“魔導防壁”と呼んだ。
「事実確認は取れている。防壁は、京都本部より転属中の部隊が展開したもの。『第一式対空結界術式・大都心型』――正式な制式名称だそうだ」
静かに告げたのは、情報局長の後藤だ。男の顔には疲労がにじんでいるが、その眼だけは冴えていた。
「魔導の力が、ついに実戦投入されたというわけか」
つぶやいたのは、外務省大臣・重光葵である。彼は懐中から報告書を一冊取り出し、開いた。
「米国は依然としてこの現象の解明に至っていない。特異な“超常的干渉”としか分析されていない。ただ、奴らは確実に警戒を強めている。パール・ハーバー以来の驚愕だ」
「我が国にとっては好機ともいえる」内務省次官が低く言う。「この力をもって講話を優位に進めることができる。米国は未だ本土攻撃にまで踏み切っておらず、外交交渉の余地は残されている」
「……ただし」後藤が遮った。「これは“防御”であった。もし“攻撃”に転じたとき、米国の出方は読めない。講和を優先するにしても、今はまだ“静観”すべき段階だ。こちらの手の内が知られていないうちに、慎重に動くべきだろう」
一同は頷いた。魔導が戦局を動かす力であることは明白だったが、その制御に自信がある者は誰もいなかった。
「魔導兵器の存在を隠蔽し、あくまで“都市防衛用の新型兵器”と位置づける……今はそれで充分だろう。だが、軍部がどう動くかは――」
【同日午後・参謀本部会議室】
軍令部・参謀本部・陸軍省――いずれも階級章が重く感じられる男たちが集まる会議室に、沈黙はなかった。
魔導の力が東京を守ったという報が、彼らの士気を異様に高めていた。
「魔導部隊が実戦で成果を上げた。これは大きいぞ。敵爆撃機を無力化し、首都を守り抜いたとなれば、我が国の士気は回復する」
「大本営にとっても吉報ですな」軍令部次官の田所中将が言う。「制式術式が本物ならば、これを攻勢にも転用すべきだ。もはや防衛のみに留まるべきではない」
「異議はないが、現場の部隊と技術者たちは慎重な構えらしい。特に京都の魔導研究本部は、あくまで“祈りと守護”を理念にしている。攻撃への転用には宗教的・倫理的反発が予想される」
「ならば、懐柔せよ」
参謀本部の奥に座っていた、白髪交じりの男が静かに言い放った。陸軍省の中枢にあり、実質的な魔導兵器推進派の中心人物――多田原軍政課長である。
「彼らを政府に取り込む。栄誉と予算、特権を与える。信念ではなく、組織に生かせ。戦場で成果を出した者には報いを。研究者たちには“より大きな舞台”を提示すればよい。……それが国のためならばな」
「南方に反転攻勢を仕掛ける足場として、マリアナを奪還できれば、空母と魔導の連携も見えてくる」別の将官が呟く。
「グアム、サイパン……連合軍の補給線を断てば、米国の戦意も萎えるはず」
会議室には熱気が充満していた。
それは、東京が焼かれなかったという安堵から来るものではない。
“我らの手に切り札がある”という、危うい自信だった。
「ヒノカグヅチは、どうなっている?」
「完成間近との報告です。京都にて最終試験段階にあります」
「間に合うか。次の戦いまでに――」
【同日・京都 魔導研究本部】
比叡山の山裾に築かれた「陸軍魔導研究本部」は、厳重な警備と森に包まれた静寂の中にあった。
外界の喧騒とは無縁に見えるその場所も、今は騒然としていた。
「第一術式、正常展開。帝都防衛は完遂しました」
報告を終えた若い術士に対し、老練な研究官たちは頷くものの、顔に浮かぶのは達成感ではなく、不安と困惑だった。
「本来、あれは未だ“実戦想定下の臨界試験”段階だったはずだ」
中央会議室にいたのは、研究主任の四条博士、術式開発課長の神尾、そして現場運用部の数名だ。
「速水中佐の判断だ。あの状況で躊躇していたら、東京は灰になっていた」
神尾は静かに告げたが、四条は深く息を吐いた。
「……理解はしている。だが、問題はその“成果”が何を呼ぶか、だ」
結界は理論上、広域の物理・熱・衝撃干渉を無効化する構造体であり、戦略的な都市防衛兵器として開発が進められていた。
その展開には、高密度の霊素と精密な“祈念構文”の維持が必要であり、実際に都市規模で展開されたのは初めてだった。
「成功した今、軍部は必ず攻撃術式への応用を求めてくる。“ヒノカグヅチ”の完成も早まる」
神尾は眉をしかめながら頷く。ヒノカグヅチ――それは対都市、対艦隊に向けた戦略魔導兵器、いわば“魔導による報復力”の象徴だった。
「私たちの術は、守るためにあるはずだ」
一人の術士が声を上げた。彼は若く、まだ制服に不釣り合いな眼差しをしていた。
「国家も、人も、文化も……東京を守ったのは、祈りだった。あれを“兵器”として使うことが、正しいとは思えません」
その言葉に、沈黙が落ちる。
「……君の言葉に、私も共鳴したい。しかし現実には、国家という巨大な意志がある。我々はその中で、せめて“祈り”が意味を失わないように、踏みとどまるしかないのだ」
四条博士の声には、苦い覚悟が滲んでいた。
そのとき、部屋の扉がノックされた。
「報告。速水中佐、帰還中との連絡が入りました。直ちに本部へ向かうとのことです」
微かなざわめきが走る。
東京で術式を展開した当事者であり、実戦で魔導を用いた初の将校。
軍部と政界の視線が、今や速水に集中していた。
「これで、彼も“象徴”になるな。政治が、戦争が、彼を放ってはおかない」
神尾の言葉に、誰も反論しなかった。
この静かな聖地にも、嵐が近づいていた。