祈りの盾
# 第二話「祈りの盾」
風が、ぬるい。
季節は春を迎えているはずなのに、どこか焦げた匂いが鼻をつく。空を仰げば、うすい煙が滲んでいた。東京の空が、本来の色を失って久しい。
神崎 真陸軍中尉は、防空壕の上に立ち、風の中に立ち尽くしていた。
手には、古びた魔導式の祈祷札。紙に刻まれた術式の文様は、かすかに脈打つような光を帯びている。これは、祈りによって起動する“結界術”の触媒――それが、これから数時間後に東京を覆う「最後の盾」となる。
「やっぱり……来るか」
空のかなた、かすかに重低音が響いた。地鳴りにも似たその振動は、やがて幾重もの螺旋となって近づいてくる。敵機。B-29による大編隊爆撃。米軍の焼夷弾攻撃は、ついにこの日を迎えた。
そのとき、背後から静かな声が響いた。
「本部から許可が下りた。結界術式の発動を認可する」
声の主は、速水 蔵人中佐。南方戦線で数々の戦果を挙げた歴戦の軍人であり、神崎の直属の上官だ。だが、彼の名が一部で知られているのはむしろ、“魔導適性者を守り抜く者”としてだった。
神崎は、緊張にかすかに震える指先を見つめながら言った。
「……俺一人で、本当に守れるんですか? この街を」
「違うな」速水は静かに首を振った。「お前は祈る。術式を発動するのはそのためだ。だが守るのは――この国だ。お前一人じゃない」
その言葉に、神崎の胸の奥で何かがかすかに灯る。
この日までの道のりは、長く険しかった。1930年、偶然発見された“魔導適性反応”。それが軍事転用可能な力であると判明するまでに数年を要し、さらに国家として制度化されるまでに十年近い歳月を費やした。神崎はその最初の“育成課程”の一期生だった。
「術式の安定は未検証だ。だが、これは試作じゃない。実戦だ。……お前の力を信じる」
速水はそう言い残すと、部下たちへ指示を飛ばすため、すぐに移動していった。
神崎は再び空を仰ぐ。敵機のシルエットが、かすかに視認できる距離まで近づいていた。
これは、祈りであると同時に、戦争である。
神崎は深く息を吸い、結界の構築地点へ向けて足を踏み出した。
結界構築地点は、皇居を中心とした半径五キロ圏内――都心部の一角に設けられていた。すでに陸軍と魔導本部の合同部隊が周囲を封鎖し、設営は最終段階に入っている。陣地の中央に置かれた巨大な術式円には、朱と金の文様が絡み合うように描かれ、その周囲を囲むように五名の補助術師が配置されていた。
神崎は無言で自らの位置に立ち、術式円の中心に祈祷札をかざす。
「神崎真、術式円中心に到達。心神安定、気流正常。術式、展開可能です」
通信機を通じて本部に報告を終えると、すぐに結界の核となる“祈り”の準備に入る。京都本部が十年かけて作り上げたこの魔導陣は、形式的には兵器に分類されてはいるが、起動条件はただひとつ。術者の「祈り」の純度、ただそれのみだった。
技術でも、力でもない。
この国の空を守りたいという、真っ直ぐな祈り。それだけが、魔導を動かす。
「……これが、俺にできることなら」
神崎は目を閉じ、ゆっくりと深呼吸をした。彼の脳裏に浮かぶのは、戦地で亡くなった訓練同期の顔、爆撃で焼かれた街の光景、そして、南方戦線から戻ったばかりの速水の虚ろな目――すべてが、この“祈り”に宿る。
彼が祈祷札をゆっくりと術式円の中心に置いた瞬間、空気が変わった。
術式が応答し、円の文様が淡く光を放つ。補助術師たちが一斉に呼吸を合わせ、共振が起きる。神崎の胸元から、心臓の鼓動に重なるように魔力の波が広がっていくのが分かった。
「神崎の祈り、波形安定。術式、展開開始!」
背後から通信士の声が響く。作戦本部に詰める軍将校たちは、その場に立ち尽くし、初めて目の当たりにする“結界術”の発動を固唾を飲んで見守っていた。
すると、誰かがつぶやいた。
「……これは、武器じゃないのか……?」
「違う」速水中佐がはっきりと答えた。「これは、盾だ。人が人を守るための、最後の術式だ」
空の音が変わる。遠くから近づいていたB-29の爆音が、ついに真上へと達し、空が低く唸った。敵機の機影が幾十にも重なり、炎の雨を落とす準備を始めていた。
術式円が輝きを増す。神崎の瞳は閉じられたまま、全身から発される祈りの力が魔力の波となって空へと放たれる。やがて、それは肉眼でも見える“結界の幕”として広がっていく。淡い金と白のベールが、静かに、だが確実に、東京の空を包み込んでいった。
その光景を、ある老女が家の軒先から見上げていた。
「……ありがたいことじゃ。神さまじゃろうかねぇ」
違う。これは神ではない。
これは、人が人を想い、願い、守ろうとする“祈り”の形なのだ。
結界は、今まさに完成しようとしていた。だが同時に、それを試す最初の“審判”が、すぐそこまで迫っていた――。
最初の閃光が、夜空に弧を描いた。
B-29から投下された焼夷弾は、空中で破裂し、細かく分裂しながら火の粉を降らせる。その数、数千。まさに“炎の雨”だった。
しかし、その雨は落ちなかった。
空一面に張り巡らされた金白の結界にぶつかり、焼夷弾は空中で停滞し、崩れ、砕け、光の泡となって弾けた。まるで空そのものが拒絶しているかのように。
「……成功だ。結界が……結界が弾いたぞ!」
本部の通信室が歓声に包まれる。ラジオを通じて状況を見守っていた参謀本部、内務省の代表たちも言葉を失ったように沈黙した。結界の内部、東京の街には、焼け落ちる火の粉は届かない。
速水中佐は静かに目を閉じた。
「……守ったか」
しかし、結界の持続時間は限られている。魔力の供給は神崎一人に依存しており、その祈りが途切れれば、術式は崩壊する。
神崎の額には汗が滲んでいた。両の手は微かに震え、呼吸も乱れている。それでも目を閉じ、祈りを続けるその姿は、まるで祭壇に立つ神官のようでもあった。
「あと三分持たせろ。敵の第一波はそれで終わる」速水は短く命じた。
補助術師たちが周囲で術式の安定に全力を尽くす。その中に一人、神崎の同期だった少女――南雲葵もいた。彼女は神崎の様子を見つめながら、結界の補強式を唱え続けていた。
「真……あんたは、いつも無茶する」
第二波、第三波の焼夷弾が降ってくる。結界の膜が震えるように波打ち、部分的にひび割れのようなきらめきを見せる。だが、それでも崩れない。
やがて――爆撃の音が徐々に遠ざかり始めた。B-29の編隊が旋回し、次なる目標へ向かう。
東京の空は、守られた。
しばらくして、祈祷札が淡く光を失い、術式が静かに終了する。神崎はその場に崩れ落ちた。速水がすぐに駆け寄る。
「生きているな」
「……当たり前です」神崎はかすれた声で笑った。「これで、誰かの家が燃えずにすむなら、それで……」
速水は、彼の背をそっと支えながら言った。
「よくやった。お前の祈りが、この街を救ったんだ」
速水中佐の言葉は、夜風の中に溶けた。
その言葉を受け取るように、神崎はゆっくりと目を開ける。身体は鉛のように重く、指先まで感覚が薄れている。それでも、心は――確かに、生きていた。
「救えましたか……本当に」
「少なくとも、今日という一日は」
速水は神崎の肩を支えたまま、ゆっくりと立ち上がらせた。彼の顔には、かつて南方戦線で見せていたような、鋭さではなく、どこか安堵にも似た表情が浮かんでいた。
「……もっと、人を殺すために使われると思っていました、魔導は」
「俺もそうだった。だがな……人が願ったのなら、それはきっと、道を違えずに済む」
神崎はそれに答えず、目を伏せる。そして、結界が展開されていた空を見上げた。光はすでに消えている。金白のヴェールは幻のように静かに散り、今はただの夜空が広がっていた。
星が、いくつも瞬いていた。
「……綺麗だな」
「皮肉なもんだ」速水が笑った。「爆撃の中で祈りを飛ばしたら、空が見えるようになった」
そのとき、足音が近づいてきた。補助術師たちが術式円を整理しながら、それぞれの持ち場へ戻っていく。その中に、南雲桜の姿があった。神崎の姿を見つけると、彼女は小走りに駆け寄ってきた。
「馬鹿!」
開口一番、頬をぴしゃりと叩いた。
神崎は面食らって目を丸くしたが、桜の瞳が潤んでいるのを見て、言い返すことはなかった。
「なに勝手に突っ走ってんのよ……一人で全部背負うつもりだったの? 祈りは、独りじゃ持てないのよ!」
「……すまん」
「謝って済む問題じゃないわよ!」
速水は少しだけ目をそらしながら、そっと二人の横を離れた。無言で一服の煙草に火を点ける。煙の匂いが、焦げたような土の匂いと混じって広がった。
神崎は、桜の前に立ち尽くしたまま、ぽつりと呟いた。
「俺さ……怖かったんだ。あの空の下に、もう誰かの泣き声が響くのが」
「……うん」
「何もできなかったくせに、偉そうな口きいてるって、自分でも思う。でもさ、祈ったら……本当に、何かが届いた気がしたんだ」
桜はゆっくりと神崎に歩み寄る。そして、そっと彼の手を取った。
「なら、これからも祈り続けて。私たちは、そのためにここにいるんだから」
温もりが、冷えた手に染み込んでいく。神崎は小さくうなずき、ようやく少しだけ表情を緩めた。
そのとき、速水の懐の通信機が小さく唸った。彼は一度目を閉じて煙を吐き、受信ボタンを押す。
「……速水中佐か。こちら中央本部。防御結界作戦、東京方面にて成功を確認。被害最小限」
「了解。結界はすでに消失。術者は生存、意識あり」
「よし。――ところで、一報入れておく。陸軍上層より通達。結界術の再検討と応用展開が決定された。……次は、南方戦域にて“攻勢術式”の準備に入る。至急、京都本部へ戻れ」
速水の眉がぴくりと動いた。
「攻勢……? ヒノカグヅチの実戦投入か」
「詳細はまだだ。ただし、魔導は新たな戦力とみなされた。軍部の期待は高い。お前には現場統括が命じられるだろう」
「了解した。……それだけか?」
「……ひとつ忠告だ。魔導が“祈り”で動くのは、今だけかもしれん」
通信が切れる。
速水は小さく舌打ちをし、煙草を揉み消した。神崎と桜に近づき、口を開く。
「神崎、南雲。急ぎ荷をまとめろ。明朝、京都へ戻る。次は……“攻撃”の研究だ」
神崎は顔を上げる。
「……もう、守るだけじゃダメなんですか」
「その問いを忘れるな」速水は低く、鋭く答えた。「それが、お前たちが“魔導師”でいる意味だ」
東京の空に、夜明けが訪れようとしていた。
新しい一日が、戦争と祈りの狭間で、また始まろうとしていた。