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水面下の天秤

#第10話「水面下の天秤」


ロンドン・チャールズストリート、英国外務省・地下会議室


分厚い扉の向こうに響く時計の音が、冷たい石造りの空間に重く響いていた。

長い楕円形のテーブル。その一端に座るのは、イギリス外務特使ハロルド・バートン卿。

年の頃は五十代半ば、鋭い目つきと柔らかい声を持つ老練の外交官だった。

対面には、焦げ茶色の外交鞄を持った男――佐藤和義、日本の臨時外交特使。

年末のスイス派遣の後、秘密裏にロンドン入りし、今日ついに本会談の席に着いた。

「ようこそ、お越しくださいました、佐藤氏。お噂はかねがね」

「こちらこそ、バートン卿。貴国の迅速な対応に、感謝いたします」

握手の手が、ほんのわずかに震えていた。

それは冷気のせいか、あるいは緊張か。

バートンは資料を一瞥し、手元の小さなメモに目を落とす。

「まず、我々の立場を明確にしておきましょう。英国は現在、ナチス・ドイツとの決戦に向けて全力を挙げております。欧州戦線が最終局面にある中、貴国との戦争継続は、正直、望ましいとは言えません」

佐藤は小さく頷いた。

「我が国としても、12月24日の"攻撃"によって、状況が変わったと理解しております」

「核兵器、ですな」

バートンの言葉は静かだった。だが、鋭さを秘めている。

「米国からの報告は、すでに本国にも届いています。爆心地が広島、推定出力は戦術規模――しかし、問題は兵器の威力よりも、それを"使用した"という事実です。しかも、我々は貴国が同様の規模、あるいはそれ以上の魔導兵器を保有していることも、独自の情報網から把握している」

佐藤は息をのんだ。バートンの目は、確信に満ちていた。

「……どこまでご存知ですか?」

「東京空襲における"不可視の防壁"。それが貴国の魔導による防御であったこと。そして、マリアナにおいて米艦隊が全滅した際、気象観測機が捕らえた、非自然的な気流と火球現象。科学的に説明がつかないが、確実に"人為的な何か"が発生していた。――それを我々は"魔導による戦略兵器"と見なしています」

重苦しい沈黙が降りた。

バートンはゆっくりと、口を開く。

「英国としては、これ以上の戦略兵器の使用は、世界秩序に対する重大な脅威であると考えています。――ゆえに、日本との停戦交渉を進めるべきだ、というのが本国の判断です」

「……アメリカはどう動くでしょうか」

「フランクリン・D・ルーズベルト氏は怒りに支配されていますが……彼の在任期間も、長くはないでしょう。すでに国内では戦争継続への懐疑も広がっている。英国が日本と停戦合意に至れば、アメリカも単独継続は困難になるはずです」

佐藤は、ようやく胸の奥に一筋の光が差すのを感じた。

「条件は?」

「まず、戦略魔導の即時使用停止。次に、占領地の速やかな返還と満州及び中国からの撤退。そして、英国と共に米ソ主導の戦後秩序において一定の役割を果たすこと」

佐藤は手帳に条件を書き留める。

その筆致は迷いなく、静かだった。

「英国は講和の仲介を行う。ソビエトの進出を防ぐためにも、極東での戦火は早急に収める必要があります。我々にとっても、日本の戦略魔導は、ソ連に対する"楔"たり得る存在だ」

「……なるほど」

バートンは微笑んだ。

「我々が恐れているのは、狂った超大国同士が、ただ力を競い合う未来です。――日本が、祈りの力でその未来を変えられるならば、協調の道は、必ず開けますよ」

佐藤は小さく笑った。

「祈り、ですか。……そう願いたいものですね」

二人は静かに立ち上がった。

手を取り合い、停戦の第一歩を確認する。

――その裏では、未だ誰も知らぬ戦いが、着々と準備されていた。


――東京、首相官邸・特別会議室。

小磯国昭首相は、静かに湯呑を置いた。外は12月の灰色の空。

「重光、佐藤からの電報を確認したな」

「はい。英国は停戦に前向きです。あとは、わが国が踏み切る覚悟を示せるかどうか……」

「――軍をどう説得するか、か」

会議室の重い扉が開き、陸軍参謀本部の草壁少将が足早に入室した。小柄で目の鋭い男だ。制服の襟にうっすらと血のような染みが見えたのは、夜通しの混乱の証だった。

「首相、講和など、まだ早すぎます。敵は原子爆弾を用いた。それに屈して手を差し出せば、帝国の威信は地に堕ちます」

重光は手を上げて遮る。

「原爆に対抗できる手段が、我が国には存在します。魔導、です。だが、それを再び用いれば、今度は世界を敵に回すことになる」

「ならば、世界を屈服させればいい!」

机を叩く音が響く。草壁は言葉を選ばなかった。

「マリアナを再奪還したことで、米国は戦略的に不利に陥っています。今こそ、トラック・パラオ・フィリピンを奪還し、米国艦隊を太平洋から叩き出す好機です。原爆一発で戦争の流れが変わると思っているなら、それは幻想にすぎません!」

「幻想ではない。現実だ」

静かに、小磯が言った。

「広島で何が起きたか……見たことがあるか、草壁少将?」

「……それは」

「跡形もなく街が吹き飛び、人も建物も消え去った。灰となった。死者数は既に十万を超えると報告されている。これは戦争ではない。殲滅だ。非戦闘員への無差別攻撃であり、文明の終わりを告げるものだ」

「しかし、我々にもヒノカグツチがある!」

「それをもう一度使えというのか?」

今度は重光の声が震えた。

「世界は我々の"祈り"を見ている。神崎中尉が発したものは、帝国の力ではなく、"祈りの形"だった。それを、報復のためにもう一度発動するのか? 祈りを兵器に貶めるのか?」

草壁は言葉に詰まった。

「ならば、貴官らはどうするおつもりか?」

「講和交渉を進める。我々はその準備を整えている。英国との合意に基づき、スイスで米国を交えた四者会談を行う構想だ」

「米国が応じるとでも?」

「英国が揺さぶる。今なら可能だ。――戦争を終える好機を、軍の意地で潰すつもりか?」

沈黙が落ちた。

だが、沈黙の中で何かが芽吹きつつあった。

それは、希望か、あるいは破滅の芽か。


――1944年12月28日、未明。

広島の惨劇からわずか4日後、横須賀軍港の海には鉛色の霧が立ちこめていた。


停泊中の巨大な影――戦艦「大和」。

その艦体に、ひときわ異質な気配をまとった兵器が積み込まれていた。

艦中央、甲板上に厳重な結界と封印のもと、安置された木製の箱。漆黒の封に神代文字が刻まれ、封護符がびっしりと貼られている。

「戦略魔導兵器・ヒノカグツチ」。再び運用態勢に入った、それは最終兵器の証明だった。


その搬入を見守る神崎真は、口を結んだまま動かなかった。


「ここで、君とはいったん別行動になる」


速水中佐が静かに言った。港の片隅、霧に紛れて言葉は重く響く。


「中佐……」


「俺たちは東京に残る。お前をここに送るのは、上層部の命令だ。大和の艦内には”例の急進派”――香椎海軍中将が乗っている。さらに彼の護衛として、”あの”曽根崎が乗艦している」


「曽根崎……? 第二期の魔導師で……噂は聞いてます。血も涙もない冷徹な制圧魔法使いだと」


「ああ。陸軍所属だが、海軍と手を組んだらしい。君が艦内で動ける余地は少ない。だが、何かあったときは……冷静に、動いてくれ」


「……はい」


それは、事実上の送り出しだった。

神崎は、大和と運命を共にする立場に立たされたのだ。


艦に乗り込む神崎の背中を、速水と桐原が見送った。

桐原はいつものように気のない顔で煙草を吸っていたが、その火が微かに震えていた。


「……神崎は、きっと戻るさ」


「信じよう。俺たちの”祈り”を」


――その頃、東京・陸軍魔導研究所。


「速水中佐が何を考えているか知らんが、陸軍が一枚岩だと思うなよ」


魔導部長官室。

堂々と机に脚を乗せるのは、陸軍本省の山科大佐。急進派の理論的支柱とされる男だ。

彼はすでに、速水や桐原らの動きを警戒していた。


「神崎真は貴重な”戦略魔導適正者”だ。だが、我々には”実験”のデータが足りない。もっと戦場に出し、能力の限界を探る必要がある」


「祈りじゃないんですか? 魔導は」


「祈りも、科学も、すべては国家のためにある。感傷に浸る時期ではない」


山科の背後の棚には、魔導研究の極秘ファイルが並んでいた。

その中には、”次世代魔導師育成計画”、”広域封魔術の軍事応用”、そして”量産型魔導戦士”の構想までが記されていた。


――帝国は、魔導の暴走を止められなくなりつつあった。


一方、神崎が乗り込んだ「大和」では、整然とした儀礼の中にも異様な空気があった。


「君が神崎中尉か。話は聞いている。帝国の希望だそうだな」


甲板で出迎えたのは、香椎海軍中将。

軍服の襟を正し、眼鏡の奥から冷ややかな視線を向けてくる。


「我々は、米軍を太平洋から一掃する。広島の件は、むしろ好機だ。我々の”祈り”が、米国に対していかなる力を持つかを世界に示すべき時が来たのだよ」


「……それが、本当に”祈り”であるなら」


神崎の言葉に、香椎の口元が吊り上がった。


「甘いな。現実を見たまえ」


艦内ではすでに、護衛の魔導兵士たちが配備されていた。

そして曽根崎大尉――目元を覆うように髪を垂らした、無言の青年が、神崎に軽く頭を下げた。


「よろしくお願いします、中尉殿」


その笑みは、氷のように冷たかった。


――12月29日、未明。


大和は出港した。

燃料は十分とは言えず、同行するのは数隻の護衛艦艇のみ。これが「最後の航海」であることを、誰もが理解していた。


神崎は艦の後部、海を見下ろす高台に立ち、遥かなる洋上を見つめていた。


「……これが、本当に最後の戦いになるのか」


彼の手のひらには、未だ封じられたヒノカグツチの感触があった。

祈りと、怒りと、迷いとがないまぜになった心の中で、ひとすじの風が頬をなでた。


その風は、どこへ向かうのか。

神崎自身にも、まだ分からなかった。



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