8,分からない距離
リークヴェルを振り切り洗濯場からあまり離れていない干し場へ来ると、片隅に洗った自分の寝間着を干した。
自室に戻ってバルコニーにでも干すつもりだったが、どうやら自分は探されているらしいと分かってしまったので、自室へ戻ればメイドたちに捕まると容易に想像できたので諦めた。
すっかり太陽が昇っている。明るくて眩しいほどなのに、ユフィは重たい心を引き摺って屋敷内へ戻るために身を翻した。
(朝から皆さまにご迷惑をおかけしてしまった……。さっきの鳥の獣人の方にも、わたしきっととても失礼な態度をとってしまって……。わたしみたいな者にそこまでなさらなくていいって、ちゃんとお伝えしないと)
自分のことは自分でできる。だからメイドたちも自分のことなど放っておいていい。
そう伝えて、屋敷の仕事に集中してもらって、できればそこに加わらせてもらいたい。
それくらいしか、できない。
屋敷内はすっかり朝の様相を見せている。使用人たちも働き始め、その動きはてきぱきとしているもの。
こういった光景をユフィも知っている。その中に交じっていたのはそう遠くない過去のこと。……交じっているといってもいつも独りだったけれど。
きゅっと拳を握りしめて、ユフィは近くに見えた光景にすぐに駆け寄った。
「お手伝いします」
「ああ、ありがとう――って、若奥様!?」
窓を拭いていた獣人のメイドはバケツにかけた雑巾を絞るユフィに気づいて仰天。しかしユフィは、絞った雑巾を手にすぐに自分も窓拭きを始める。
ぱっぱっと慣れた行動であるが、メイドからすればたまったものではない。慌ててユフィを止めた。
「わ、若奥様お待ちください! それは私どもの仕事ですので若奥様にこのようなことはさせられません!」
「……。いえ。お気になさらず」
解る。屋敷の主人の妻にこんなことをされては、使用人たちが困るだろうことは。
けれど、だからといって「では任せます」とは言えない。
(せめて、せめてちゃんとお役に立って、ご恩をお返ししないと)
自分にできるのはこんなことだけ。だからユフィはせっせと窓拭きを行う。その傍ではメイドがどうしたものかと手を彷徨わせていた。
しかしそんなメイドも、慣れた手つきで窓を拭きさらに乾いた布で水滴をとるユフィを、やがては驚いた表情で見つめるようになった。
しかし相手は若奥様。止めなければとメイドがもう一度声をかけようとしたとき、それより先に別の声がユフィに向いた。
「ユフィ。おはよう」
穏やかにかけられる声。メイドが一歩足を下げる様子。聞こえた声にユフィははっとその方を見た。
短く少し跳ねた黒い髪。その中にぴんと立つ大きな耳。金色の瞳は優しい眼差しを見せ、腰元の大きく長いふわふわの尻尾がゆらりと揺れる。
朝一番の軽装であるが、どんな格好であっても漂う気品は損なわれないらしいと感じながら、ユフィは無意識に廊下の端に寄り頭を垂れた。
黙ったまま下げられる頭をオルガは見つめ、ゆっくりと口を開く。
「……。ミュレスが慌てて俺のもとへ来たので何事かと思ったんだが、掃除の手伝いを?」
「はい。なにか、お手伝いをと……。出過ぎた真似をいたしました。申し訳ございません」
垂れた頭を見つめ、オルガは困ったように眉を下げた。ユフィが気づかぬのをいいことに口許に手をあて思案する。
垂れた頭と並べられた言葉はまるで使用人が主人に使うもの。しかもすぐに謝罪が飛び出す。
ユフィが公爵邸に来てから胸に生まれた疑念は、やはりと確信を持つに至った。
(やはり、一般的な令嬢の育ちはしていない。となると、ユフィにいきなりの変化を求めるのは酷だが、彼女は俺の妻。表立ってこういった態度を取らせるわけにもいかない)
今後二人で社交会に出たときにでもユフィのこの態度が知られれば、なによりユフィ自身のためによくない。ユフィはもう、次期公爵夫人なのだから。
しかし、そのための基礎がユフィにはない。ノーティル国とオリバンス国では文化や風習にも違いがある。その最たるものは文字言語であり、ユフィはまだ読むこともできない。
(ユフィにはまだまだ学んでもらわなければいけないことが山ほどある。しかし、このままそれを推し進めれば、それはユフィの意思を無視することになる)
ひどいことを言ってしまえば、ユフィは社交会に出なくてもいい。
オルガを拒絶し、オリバンズ国を拒絶し、部屋に閉じこもって外に出ない。そういう態度をとっているとなれば誰も反対を口にはしない。
そういった者は過去にも存在している。しかし、そういった態度はそのままユフィへの評価となり、娶らされたオルガに非難が向けられるどころか憐憫の目を向けられるだろう。
ユフィだけを攻撃させる。ユフィをそんなふうに扱いたくはない。
人間も獣人も分け隔てなく接する優しいユフィを守ってあげたいと思うから。自分がしてきたことに意味と光をくれたから。もうなにも諦めさせず、ともに進みたいと思うから。
「ユフィ。まずは頭を上げてくれ」
オルガの優しい声音にユフィははっとなって、ゆっくりと頭を上げた。
身に沁みついた行動はどこでも変わらないものらしい。頭は上げても顔を上げず俯いたまま、ユフィは小柄な身をさらに小さくさせるように立つ。
その肩が少しだけ震えているのをオルガは目敏く見つけた。
正面に対するとやはり顔は俯いている。けれどその姿勢は数々の他者の言動のせいなのだと解っているからこそ、オルガはなにも言わない。
その傷をゆっくりでも癒していければと心の中で願う。
「手伝いをと思ってくれてありがとう」
「……いえ。わたしにはそれくらいしか……」
「ただ、皆も少し驚いている。この件に関しては少し考えさせてほしい」
「……はい」
食い下がることなどできるわけがない。
なにか手伝いを、恩返しをと思っても、自分がしたことはやはり迷惑。ユフィは思わずぎゅっと雑巾を握りしめたが、メイドがそっと差し出した手に雑巾を返すしかなかった。
なにも、できない。
生かされることになったこの身はこれからなどなにも考えていなかった。
ただじっとしているだけ。魔法が使えるなんて言っても次にも使えるとは限らない、不安定な立場のまま。
足元は暗闇だ。一歩でも進めば奈落に落ちるように。
何をすればいいのかも、何ができるのかも、なにも分からない。
(わたしは、どうすれば……)
それとも、どうにかして国王に会って「魔法が使えるなんて思ってなかったんです。また使えるとは思えません」とでも正直に伝えようか。そうすれば何か変わるだろうか。
(わたしがただいるだけなんて、皆さまのご迷惑に――……)
俯いて視線が下がって、どうしようもなく惨めな己を消してしまいたい。
仄暗い感情に支配されつつあったユフィの視界に、不意に光が入り込んだ。
「ユフィ。君にしかできないことを頼んでも?」
俯いた視界に入るオルガの精悍な顔。普段なら頭を最低限、視線を最大限上げて見える顔が、今の視界にはっきり映っている。
こんなことは初めてだ。突然のことに理解が追いつかないユフィの目には、微笑むオルガがはっきりと映る。
「ああ。こうすればユフィの顔が見える。今後はこうしよう」
どうするの?
驚きから立ち直りつつオルガを見つめたユフィは、オルガが片膝をついて自分を見上げているのだということに気づき、青ざめた。
オルガは公爵子息だ。この屋敷でもっとも立場が高く、国でも有数の人物。
そんな人物に膝をつかせているという衝撃と今後予告に、ユフィは身に沁みついた「己は使用人以下の卑しい者」という認識に従ってすとんっと腰を落とした。
床にぺたんと座り込んで目線はオルガより下げて見上げられることのないように。
急に目線が下がったユフィに少し意表を突かれつつも、オルガは突然の行動に思わずふっと笑った。
「わ、わたしのような者にそのような……!」
「妻に膝をつくのはノーティル国ではいけないのか? 我が国ではなにも問題ない」
「そっ、そうではなくて……」
「膝をつくなと言うのなら……」
少し考えるオルガの声音はどこか楽しそうだ。それを感じる使用人たちは口を挟まず、どこか困ったような微笑ましそうな空気で二人を見守る。
獣人の特徴である尻尾はとくに感情が出やすい。しかし多くの貴族、とかく公爵家ともなると普段はそれを律していることが常。だから貴族が己の感情を尻尾に出すなど、家族か気を許しているときだけ。
オルガも当然にそう育てられている。のだが、その尻尾は今、常とは違う。
ゆらゆらと揺れている尻尾を見ているからこそ使用人たちはオルガの胸中が読める。それが微笑ましい兆候であることもすぐに理解できた。
知らないのはユフィだけ。
頭を抱えるように身を小さくさせていたユフィは、目の前から足が引かれた気配を感じ少しだけほっとした。――が。
「ではこうしよう。これなら俺も膝をつかず、ユフィを見ることができる」
「きゃっ……!?」
腰に添えられた頼もしい力とふわりと浮いた体。軽々と足は宙に浮き、オルガは片腕でユフィを抱き上げる。腕一本で支える力に不安を一切感じない。
軽々と片腕に抱き上げられ、初めての目線といきなりのことに思わずオルガの服を掴む。
視線を向ければ、いつもはうかがうようにそっと見るだけのオルガの顔がはっきりと見え、ついでにゆらゆら揺れる尻尾までよく見える。少し離れて立つ使用人たちの顔まではっきりと。
突然のことに頭は混乱し、しかし降りようにも降りられないユフィはすぐに長い髪で顔の左側を隠した。
見せない。見せたくない。それは包帯があろうとなかろうと変わらない。
ユフィのその手が僅か震えているのを見て取り、オルガは瞼を震わせた。
(深い傷だ……。どうすればそんなふうに隠さなくていいと分かってくれるだろうか)
そっとユフィを床に下ろす。床に足がついたユフィは少しほっとしつつ、俯いた姿勢のままオルガをうかがう。
昨夜もオルガはとても優しかった。安心させるように言葉をくれて、抱きしめてくれた。
ぬくもりのような優しさには安心したが、こういった突然の行動は心臓に悪い。
「ユフィ。俺から頼み事をしてもいいか?」
「はい。なんなりと」
「では、一緒に朝食を摂ろう」
オルガの頼みにきょとんとしたユフィだが、すぐにミュレスが「さあさあ」と背を押したことでオルガとともに食堂に向かうことになった。
朝早くにはすでに部屋から抜け出していたユフィは、身の回りのことをする人間種のメイドたちから「よかったあ」と安堵の言葉をもらい平謝り。オルガはなにも言わずユフィたちを見守り、ユフィを席に着かせた。
ウルフェンハード公爵邸に来た当初から三日間、ユフィはオルガとともに食事をした。そうできたのも、停戦のためという己の立場を弁えていたから。
しかし今、それとはまた違う意味でユフィは弁えている。なのにどうしてか、オルガが隣に座ってともに朝食を摂ることに。
(もう、食事をご一緒するなんてするべきじゃないのに)
それまでは斜めに座っていたオルガが今は右隣にいる。どうしてそうなっているのかユフィにはさっぱり分からない。
若き夫妻に朝食が振る舞われ、オルガはいつもと変わらず手をつけ始める。しかしその隣のユフィはなかなかその手を動かせなかった。
そんなユフィを見つめオルガは「食べないか?」と問うたが、ユフィは俯きばかりで答えられない。ぎゅっと握られた拳を認めたオルガも食事の手を止めた。