第2章「魔王」
「ハルオ!」
叫ぶと同時に僕は眠りから冷めた。全身から吹出した汗が冷たくなっていく。自分が置かれている状況を把握することに時間がかかった。僕が見ていたのは夢というより今までの出来事そのままだった。召喚される直前までの出来事。まだ気分が悪く目眩と吐き気はあったが、意識ははっきりとしていた。部屋は1瞬洞窟の中のように思えた、しかしよく観察すると土ではなく石のようだ。しかしテレビなどで見た西洋の古い石造りとは違い、粘土をこねて作ったような形をしている。窓もあるが少々いびつな半円型でポッカリと開けられているだけだった。窓から見える空は、自分の住んでいた世界とは全く違う色で、絵画のように美しく恐ろしい色、ベッドは木製のようだが僕が知っている木の匂いではない、初めての毛布の感触、花瓶に生けられた見たこともない植物、明らかに冬ではない高めの気温、異常な光景にもかかわらず、全身の感覚が夢という淡い期待を砕いていた。
ただ呆然とするしかなかった、整理できる状態ではない。僕はうつむき自分の手をただ眺めていた。やがて入り口に掛けられた刺繍入りの布から僕を驚かせまいとする優しい声がした。
「魔王様」
新鮮だが聞き覚えのある声、先程の女性だ。
「……はい」
僕の返事を聞くと厚手の布をめくり女性が姿を見せた。1度見たとはいえ、自分たちとは違いすぎるその姿にはやはり動揺させられる。本の挿絵から出てきたような姿だが、作り物ではないということははっきりと理解できた。
女性は足音を鳴らさぬように気を配りながら、僕の近くまで来てゆったりと跪いた。
その不思議な姿と1連の動作はまるで映画のワンシーンようで僕は目を奪われた。
「ご挨拶が遅れ申し訳ありません、私はククルと申します」
澄んだその声に頭が冴え、慌ててベッドから降り、彼女の前に急いで座った。あまりに急いで座ったため膝に鈍い痛みが襲う。だがそれを気にしているような余裕は無かった。
「顔を上げてください!きっと誤解しています!」
ククルと名乗った女性は急に近づいた僕に驚き言葉を失っていた。僕はあわてて後ろに下がり頭を下げ、前髪で顔を隠した。
「あ、あの、すいません!僕の顔気持ち悪くて!」
今まで子供や女性に悲鳴を上げられ、怖い人にスカウトされてきたこの顔を近づけてしまった。頭が真っ白になり、恥ずかしさでいっぱいになった。
「あぁ魔王様、誤解などではありません」
「その恐ろしい御尊顔は紛うことなき伝説の魔王様です」
やはりさっき言われたことは聞き間違いではなかったようで、ただ何と言っていいのか分からない。褒められているのか貶されているのか分からない。
「そのお顔の模様、隈取、予言通りでございます」
「え?」
理解を超えた世界、ククルが何を言っているのか、ただ呆然と聞き返すしかできなかった。
「魔王様、お身体の具合はどうですか?」
「あ、まだ良くはないですが、さっきよりは」
「では、少しご足労いただけますか?」
ククルは跪いた時と同じように静かに立ち上がり、中腰で僕の方へ手を差し出した。聞きたいことはたくさんある、しかし何から聞いてよいのか分からない。僕はただ彼女に従うことしかできなかった。彼女の手は僕らと変わらず暖かく優しい手だった。
少し目眩が残っていたが、何とか歩けそうではあった。気にかけてくれるククルに大丈夫だと言い彼女の後に従い部屋を後にした。
廊下も僕が寝ていた部屋と同じく石のような感触の粘度細工のような造りで長い絨毯が敷かれていた。まるで巨人が手でこね作ったような建物、廊下に沿っていくつか部屋があるようだが、僕が寝かされていた部屋と同様に扉は無く、代わりに刺繍の入った厚手の布で仕切られていた。布の数を見るに部屋数は多くかなり広い。階段や部屋の向こうから様々な声が聞こえてくる。ここが自分のいた世界と違うと確信を得るには、1つだけ不可解な点があった。なぜ言葉が通じるのか。こちらで目覚めた時聞いた言葉、ククルとの会話、今部屋から聞こえてくる声、それら全てが日本語だった。僕は少し冷静になった頭で様々な可能性を考えたが、結論が出ない虚しい自問自答にしかならなかった。
ククルはやがて大きな扉の前に立った。その前には松明を持った爬虫類のような見た目の2人が左右に立っていた。松明に照らされた扉は大きく見えそこが特別な場所である事を予感させた。門番のように立っていた2人はククルにというより僕に礼をした、僕は慌てて礼を返したが、2人はその行為に驚いているようだった。ククルは2人に扉を開けるように指示し僕を促した。
開かれていく扉から広がる光が、薄暗い廊下を明るく照らした。急な明るさに目を細めた。光に慣れていくにつれ面前に広がる部屋が鮮明になってきた。
そこは世界に召喚された広間、その時は朦朧とした意識だったが、間違いなく気絶する前にいた場所だ。窓から差し込むエメラルドグリーンの光に照らされた細かな雪のように舞い上がる塵と規則正しく置かれた長椅子が森の教会のように演出していた。長椅子に挟まれ扉から真っ直ぐと伸びた道の先には鎧が大きな椅子に腰掛けている。ただ座らされているだけだというのに厳かな雰囲気を感じた、あれはきっと生物ではない。中世のようなこの世界にそぐわないデザインと光沢のない黒のせいで、この空間に合成したような違和感を覚え腕の毛が逆立つ。気絶する前にあの鎧を見ていない、つまりこの世界に召喚された時、僕はあの鎧の前にいたのだ。
「魔王様の黒の甲冑です」
ククルは僕の物だという意味で言っているのだろう、だが魔王が僕であることは何かの間違いだ。彼女達が確信している理由を知りたかったし、何より誤解を解かなければならない。
「あんなものは初めて見ます」
絞り出すように発した言葉にククルは何も言わず、目だけで微笑んだあと少し頭を下げ右手を黒の甲冑と呼ばれたものに向けた。
「お見せしたいものがございます。こちらへ」
真っ直ぐと進み始めたククルの後をついて行く。広間は廊下や部屋より少し温度が低く、石造りで、絨毯の上を歩いていても足音が心地よく響いていた。ククルは黒の甲冑の前で足を止め、しゃがんで僕の方を見上げて胸部分を見るように言った。遠くからでは分からなかったが黒の甲冑は開胸していた、中を見ようとしたが暗くて見えない。ククルは観音型に開いた扉のような箇所の右を指さし言った。
「こちらが、魔王様が魔王様たる証にございます」
そこに掘られていたのは線画で描かれた紛れもない僕の顔だった。が、まるで解剖図のように顔の特徴に線引きで説明文がついている。
火傷の痕には”火傷の痕”目元には”隈取あり、目付きが悪い、3白眼”、頭髪には”天然パーマ”。おまけに顔の下には”魔王アキラ18才、猫背、性格暗め”と書かれている。
「僕だ、名前まで書いてある」
理解が追いつかず固まったまま何も考えることができない、言ってしまえばこの世界に来てからずっとそうで、もはやそれ自体に慣れるしかないのだろうか。とりあえずこのままではいられないと思い、ふと横を見るとククルがこちらを見て得意げな顔をしていた。
「やはり!魔王アキラ様!」
「なにこれ?え?なにその顔?」
待っていましたと言わんばかりにククルが立ち上がり喋りだした。
「この黒の甲冑こそが、我ら魔人に伝わる伝説の甲冑です。ご先祖様達がこの土地を開拓したときに魔神様より授かりました、ご先祖様達は魔神にこう言われたといいます」
ククルは喉の調子を整えるためか少し咳き込んで見せ、目を瞑りなぜか低い声で言った。
「戦争が起きたら多分魔王が来るから、どれくらい先かわからないけど、いずれ、多分、魔王が来るからそれまで大事にしといてね、魔王が来たら無理やりこれ着せてね…と」
ククルの大袈裟な言い方は広間に響き渡った、後ろで門番の2人が涙を拭いている。
(えぇ、魔神なんか軽い)
ククルは自分で言ったくせに感動したのか、人差し指の背で涙を拭っている。もう片方の手は胸の辺りで力強く握っていた。この動作は知っている、ガッツポーズだ。
「それから私達の代で魔神様の予言どおり戦争が始まり、私達はこの鎧に毎朝祈り続けてきたのです、しかし長い間魔王様は訪れず、私達は諦めかけていたのです」
「なんかすみません」
つい反射的に謝ってしまったが、ククルは僕の言葉を遮るように握っていた右手を横に伸ばして言った。
「いえ!それがあの日、3日前の朝!ついに魔王であるあなた様、アキラ様がひょこりと現れたのです!私達の祈りに応えて!」
「いや応えたわけでは、というか僕3日も寝てたんですか⁉」
さっきまでの気品が跡形もなくなってしまったククルに戸惑う暇もなく、ククルの声と動きが大きくなっていった。おそらくもう僕の言葉は聞こえていないだろう。いつの間にか周りには魔人達が増え、その殆どが涙していた。変な魔王を称える歌まで聞こえてくる。ククルは呆然としている僕にようやく気が付き、少し照れた顔で姿勢と服の乱れを正すとその場に跪いた。その姿を見た他の魔人達は次々と同じように膝をつき顔を伏せ黙った。広間はさっきまでの喧騒が嘘のように静まり、ククルだけが顔を上げ口上を述べ初めた。
「魔王アキラ様、貴方様は紛うことなき予言の魔王様です。その猫背、暗い性格、お顔の火傷痕、隈取、そして3・白・眼!っあと名前ぇ!…この日が来るのを我らは心よりお待ちしておりました、我らこれより魔王様に従います」
それは間違いなく練習された演出だった。ククルは何かを期待したような表情でこちらをじっと見ている。ここで僕が今の口上に応えてしまうとこのまま祭り上げられる事は明白だった。1度冷静になってもらいたい、というか武勇伝のように強調していた3白眼の意味を分かっているのだろうか。
「ちょっと待ってください、もう1度それを見せてください」
僕は掘られた似顔絵を指差して頼んだ。ククルは明らかに残念そうな表情を浮かべた。
「あはい、分かりました、じゃあその後で」
いったい何がその後でなのかはとりあえず置いておくことにしよう、他の魔人達もざわついていた。僕はその空気に耐えられず、急いで甲冑に掘られた似顔絵に近づき観察した。
やはりこれは僕だ。アキラという名前だけなら1般的だし偶然の可能性はある、しかし顔の特徴とこの失礼な説明書きに当てはまるのは僕以外に無いだろう。しかし本当に失礼な説明文だ。
なるべく現状を理解しようと頭の中を整理していた。
僕がこれまで認識していた現実を基準に考えてしまっていては埒が明かない、ファンタジー小説や映画のような、いわゆる物語を読み解くように考えるしか無い。
まずトラックに接触した感覚はない、ケガもない、接触する直前に召喚された。人違いや間違いではなく。この魔王の説明書きを見てしまってはそう理解するしか無い。彼らの先祖が出会った魔神と呼ばれる者は僕を知っていて彼らに召喚させた。魔神というのは本当に神様のような存在なのかもしれない。
整理してみたものの実際分かることはこれぐらいしか無い、その中ですぐに解決しないといけない問題がある、戦力として呼ばれたとして僕にはそんな力はない、仮にこの甲冑を来たところで中身はただの高校生だ。もちろん戦争の経験なんか無いし格闘技も使えない。このまま戦場へ駆り出されればあっという間に死ぬだけだろう、そもそも魔人たちはいったい…
「ククルさん、あなた達は誰と戦争を――」
考えを巡らせていて、身体の不調を忘れていたがどうやら限界が来た。唐突に吐き気がこみ上げた、口元を手で抑えたが間に合わず吐瀉物が指の間から吹き出した。ククルが急いで近づいてくるのが分かった。意識が朦朧とし始め、床に手をついた姿勢すら保てなくなりそのまま横たわるしかなかった。
ククルは目の前で倒れたアキラにあわてて近づいた。召喚した時の気絶とは違うことは明らかだった、身体は痙攣し顔から生気が失われつつある。
「誰でも良い!シーを呼んでこい!」
ククルは周りの魔人に向け叫ぶと、アキラの身体を触り状態を確認していた、体がみるみる体温を失ってきている。アキラの状態は深刻だった。
「ククル様!魔王様は⁉」
六等身ほどの体型で全身に毛を生やし赤猫の風体の魔人が息を切らしやってきた。魔王を心配そうに取り囲む他の魔人達はすぐさま道を開けた。
「シー、魔王様が嘔吐し気絶した!見てくれ!」
「はい!」
シーは魔王の身体を触って確認すると、心臓に耳を当て、目をつむった。やがてククルの顔を見て言った。
「鼓動が弱ってきています、恐らく内臓のどこかに原因があるのだと思いますが、このままでは間に合いそうにありません」
「……ここに現れた時のものとは違うのか?」
「あの時は呼吸も鼓動も正常で、深い眠りについていたような感じでした。しかしこれは死に行く状態と酷似しています……恐らく、このままでは」
ククルは動揺を隠せないでいた、周りの魔人達も言葉を発することができず愕然としていた。
「ククル!」
アキラを囲む魔神達を押しのけ武装した狼の魔人がククルに近づいた。魔王を介抱していたククルは青ざめ動揺した顔のまま呼びかけに応えた。
「ヴォー、魔王様が」
「分かっている、だが奴らが北門の方角から進行してきた」
「なんだと、こんな時に」
「20ほどの少数部隊だが全員装甲兵のようだ。今は監視していたダーバの部隊が応戦しているが、時間の問題だろう」
「少数精鋭でこちらの数を減らしに来たのか」
「分からん、だが魔王様が召喚されて3日目の今だ、とても偶然とは思えん」
ククルは憤りを隠せないでいた、魔王はシーが必死の介抱を続けていたが良くなっている様子は無い。最悪のタイミングだった。ククルは鼻を抑えるように手のひらを合わせ、考えを巡らせていた。
「魔王様が狙いだとすれば必ず阻止せねばならない。ヴォーの部隊は急いでダーバの援護へ向かってくれ、到着後の戦線の指揮はまかせる。他の隊長も甲冑の準備が整い次第出陣させる」
「分かった」
ヴォーは急いで立ち上がり、入ってきた方を向いた。
「まて、銃を持っていけ」
「…ああ」
呼び止められたヴォーは生気を失っていく魔王を1度見て目を細めると踵を返し早足に出ていた。ヴォーの出ていった後、ククルは周りに居た魔人に戦闘の準備するよう命令した。魔人達は準備に取り掛かるため急いで広間から出ていった。ククルは再びアキラの近くに跪きシーに呼びかけた。
「魔王様を黒の甲冑のもとへ運ぶぞ」
「今動かすのは危険かもしれませんよ!」
「出来る事が他になにもないなら予言を信じるしかない」
ククルの決意した表情を見たシーは黙って頷いた。2人は魔王の身体を抱え黒の甲冑に近づくと、魔王の右腕を前に持ち上げた。
「私達にはどうやっても起動できなかったが…頼む」
ククルは魔王の手のひらを黒の甲冑の兜へ当てた。
〈ユーザーアキラを確認〉
アキラの手が触れた箇所が光を放ち音声が流れた。その光は真っ直ぐと甲冑の正中線をなぞり走る。ウゥンという振動が光の後を追うように頭部から順に開き始めた。ククルとシーは1瞬驚いた表情をしたが、お互いの顔を見合わせうなずくと、黒の甲冑の中へアキラを座らせた。はみ出ていた足を入れた瞬間、開く動作とは逆に下から順に閉じていった。アキラの身体を完全に包み込むと命を吹き込まれたように目元が赤いライン状に点灯した。
〈人体強化インフラストラクチャーをオフラインで構築開始〉
再び音声が流れ、微弱な振動音がうなり始めた。
「シーは魔王様を見ていてくれ、私は行ってくる」
「分かりました」
ククルはそう言うとアキラの入った黒の甲冑を少し見つめ、振り返って急いだ。