第1章「現世」
目の前で子どもがひきつけを起こすのではないかというほど泣き叫んでいる。もちろん周囲の視線はその少女とその原因であろう僕に注がれている。この後僕に起こることは大体予想がついている。野次馬の中から勇気ある者が僕を問いただしに来るのだ。
「ちょっとあなた何をしているの⁉」
これはデジャビュでも予知能力でもない。
「いえ……僕は通りすがっただけですよ……」
「え?じゃあこの子は何でこんなに」
子供は泣き止むどころか優しい女性の出現で少女の鳴き声はさらに大きく大げさなものとなった。少女が悪いわけではないが僕も悪くない。少女は自分が泣いている理由を勇気ある女性に説明しようとしているようだが、泣きすぎた事によるしゃっくりで上手く喋れていないようだ、しかしその小さい手はしっかりと僕を指差していた。
「やっぱり何かしたんじゃあ……とりあえず警察に連絡を――」
その女性の行動は当然だろう。この場でなければ、僕が当事者でなければ、むしろ好感を持てる行動だ。泣き叫ぶ少女に指を刺された男、長い前髪で顔も見えずおおきな身体を隠すような猫背で、声も小さい。どう考えても怪しいだろう。
「はあ……そうですよね、そうしてください」
怪しい風体とはいえなぜ何もしていない僕が抵抗や言い訳をしないのか、それはこの状況と似た経験を何十回と僕はしてきたからだ。
(いつものように警察の到着を待とう、その方が最終的には早く終わる)
俯いたまま警察に電話をかける女性を前に少し泣きそうになりながら呆然と立ち尽くしていた、その時1吹きの木枯らしが横から僕の前髪をかきあげた。
「え?え⁉」
あわてて前髪を押さえつけたが時既に遅し、女性は僕の顔を見てしまったのだ。がっつりと
「か、顔が怖い!」
(そんなストレートに……)
「――あの本当にもう大丈夫ですから」
「いえ!早とちりしただけではなく、失礼なことまで、本当に申し訳ありません!」
座り慣れた交番の質素な椅子は、少し動くだけで軋む音がする。暖房はついているが古い交番なので足元から冷気が入り僕は身をすくめていた。顔なじみのお巡りさんは苦笑いで僕の側に立っている。僕の眼の前では先程の勇敢な女性が何度も頭を下げ平謝りしている。
「まあお嬢さん、本人も気にしていないと言っていますし、この辺で」
困った顔で救済を求める僕の顔を見てお巡りさんが助けに入った。顔を上げ、申し訳なさそうに僕を見た女性は顔を赤くし今にも泣き出しそうだった。
「お詫びをさせてください」
こちらが申し訳なくなってくるようなか細い声でそう言った女性は、もう1度ゆっくりと頭を下げた。それを見た僕とお巡りさんは顔を合わせ何も言えず重い空気が流れた。
「アキラ!」
突如あげられた僕の名前、その声に1同は目をやった、そこには息を切らし、交番のドアに手を掛けている茶髪の青年がいた。
「ハルオ、ごめん」
見慣れた友人の顔に安堵し僕は少し泣きそうになっていた、それと同時に今日の待ち合わせ場所が交番になってしまったことが申し訳なく思い、呻くように謝罪した。息を整えたハルオはお巡りさんと女性に軽く会釈すると、交番の中に入り僕の肩に手を置いた。お巡りさんもまたハルオの顔に安堵していた、こういった事は初めてではないのだ。
「おねえさん大丈夫ですよ!こいつ慣れっこなんで!」
「え?」
「こいつ顔怖いんでこういう事何度もあるんですよ、この交番でも有名人ですよ!」
ハルオはそう言って笑ってみせた、お巡りさんも確かに有名人だと笑っていた。女性は急な展開にあっけにとられ、笑っている2人と恥ずかしさから頬をかいている僕を眺めていた。
「じゃあお巡りさん、これから2人で遊ぶんでこいつ連れていきますね!」
ハルオに肩を押され、僕らは交番を飛び出した。
「2人とも気をつけてな!アキラ、次は子供が泣くまでに逃げろよ!」
後ろからお巡りさんが手を振っていた。ハルオは笑顔で手を振り返し、僕は顔を真っ赤にして会釈した。遠くで女性が慌てて飛び出し、何度も頭を下げているのが見えた。
「ハルオいつもごめん」
「気にすんなよ、おかげでお巡りさんとも顔なじみだ。」
ハルオは冗談交じりに笑ってみせた。ハルオが言ったようにこういうことは初めてではない、何度も子供に泣かれ、警察を呼ばれ、ハルオに迎えに来てもらっていた。
「いつもありがとう」
「おう!それより2人でいる時くらい前髪楽にしろよ、それあんま前見えてないだろ」
「うん」
僕は指で髪を横に流し、目が見えるようにした。額にかいた汗を冷たい風が冷やし心地よさを感じた。
「ハルオはこれ見ても気持ち悪くないの?」
「気にするのも分かるけど、実は模様みたいでちょっとかっこいいと思ってんだよ!ってのは不謹慎か?」
僕は顔の左側には大きな火傷の痕がある、左目もやられており白く濁っている。さらに目の周りには隈があり、火傷の痕と相まって自分でも鏡を見るのを避けるほどおぞましい顔になっている。
「いや、うれしいよ」
気遣いもあるのだろうが、そう見せないハルオの優しさに救われる。いつも。
「スミレさんは?」
「スミレは先に雨やどりで待っててもらったよ」
雨やどりというのは僕らがよく行く喫茶店だ。マスターが優しく、学生でお金がない僕らにサービスしてくれる。
「じゃあ急いで行かないと」
「そうだな、じゃあ走るか!」
鼻筋にツンと来る寒さと、白くなり始めた息が秋の終わりと冬の始まりを感じさせていた。
「いらっしゃい」
高校3年間何度も通った喫茶店のドアの音を鳴らすと、暖かさ、コーヒーの香り、窓から差し込む西日が照らす店内、寒い外との差にまるで別世界に来たような感動を覚え小さくため息がでる。ここ以上に居心地の良い店はないと感じた。
「いつもの席にいるよ」
白髪の長毛を結って、グレーのひげを蓄えたマスターは、僕ら2人に優しく微笑んだ。
僕らはマスターに挨拶し、空いている時は必ず座らせてもらっている場所へ向かった。いつもの席から肩ぐらいの黒髪を元気に揺らしスミレさんが手を振っていた。
「アキラくん大丈夫だった?」
「なあに、いつものことだよな!」
スミレさんの質問にハルオが応えながら、僕らは革張りのソファ席へ座った。
「ハルオには聞いてないでしょ、まあ大丈夫だったのなら良いだけど」
スミレさんは僕を見て安堵した様子で微笑んだ。
「心配掛けてごめん、いつも」
「アキラくんが悪いわけじゃないでしょ、大丈夫よ」
3人が揃い1息ついた時、マスターがお冷とおしぼりを持って席にやってきた。コースターを敷き、奥から順に水を配り終えると、温かいおしぼりを手渡してくれた。
「アキラくんお疲れさん、みんないつものでいいかい?」
少しかすれたマスターの声は低いが聞き取りやすく、初めて聞いたときは店内に優しく広がるようなその声に憧れた。僕は小さくはいと言い頷いた。
「うん、ブレンド3つすぐ用意するね」
マスターはそういうとカウンターに入りコーヒーを用意し始めた、程なくして香ばしい香りと共にコーヒーが3つ運ばれてきた。ザラッとした素朴な風合いのカップ、少し油の浮いたコーヒーにミルクと砂糖を少し入れ、僕らはコーヒーカップを持ち上げてお疲れと言い合った。
「もうすぐ卒業ね」
「そうだな」
通路側から見る2人の表情は逆光もあって少し暗く感じた。卒業したらこうやってみんなで会う機会も減るだろう、半年ほど前から付き合い始めた2人は同じ大学を受ける。遠くはないが電車で1時間弱くらいだ。
「アキラはやっぱり就職するのか?」
「うん、あの工場にもう決まっているから」
見た目と暗い性格から雇ってくれる場所は多くはなかった、何社か受けたが落ち続けた。その中で僕を受け入れてくれたのは車の部品を作っている工場の社長だった。社長はいい意味で正直な人で、僕を見た時まず火傷の痕について聞いてきた。社長はその理由に涙を流し僕を雇ってくれた。同情があることに少し引け目を感じたが、他の面接で腫れ物のように扱われた僕にとってまっすぐ対応してくれた社長の気持ちは嬉しかった。
「奨学金使えば、進学もできたんじゃないか?」
「ハルオ」
僕に迫るハルオをスミレさんが静止した、この話題は何度か繰り返していた。ハルオもスミレさんも僕のためを思って進学を勧めているのは分かっていた。
「勉強が遅れていた僕には、2人と1緒に高校卒業できただけでも嬉しかったよ。それに施設を出ないといけないから、生活しながら勉強は難しいと思うよ」
西日が沈み始め、店内は少し暗くなっていた。日が陰った店内の温度が下がって行くのが分かった。マスターが店内を明るくし、暖房の温度を上げていた。
「2人はすごいよ、あんな1流大学を受けられるなんて、絶対合格できるよ」
「ありがとう、頑張るわ」
「大学行っても、就職しても、ここで会おうぜ」
ハルオは僕の肩を叩いて笑った、3人共笑顔だった。どうなるかは分からない、会う機会は減る寂しさはある。でもハルオが言えば僕らはずっと1緒にいられる気がしていた。
店を出ると辺りはすっかり暗くなっていた。温かい店内で火照った身体に冷たい空気は心地よかった。
「日が落ちるのが早くなったね、みんな気をつけて帰るんだよ」
マスターに見送られ、3人で歩いて帰りはじめた。
「アキラ、施設の門限大丈夫かよ」
「うん、大丈夫だよ」
アキラはスマートフォンを見ながら、いつもより遅くなったことに気づき、心配してくれた。
「そうか、じゃあ俺スミレを送っていくから」
「アキラくん、また明日ね」
僕らは信号で止まり、別れの挨拶を交わした。
「うん、気をつけて!」
僕は手を振り信号待ちをしている2人を後にした。
「アキラ!またな!」
後ろからハルオが大きな声で横断歩道を渡りながら手を降っていた。僕は手を振り返すと帰路の方を向いた。道路に車は少なく静かだった、坂になっている向こうから明かりが広がっていた。やがて見えてきたのは大きなトラックだった。不自然に揺らめくライトが不気味で無意識に目で追った。赤信号の交差点まで距離が縮まっているというのに、スピードを落とす様子がない。僕は急いで振り返って走りながら叫んだ、2人は気づいていない。やはりトラックはスピードを緩めていない。僕は道路に飛び出し叫んだ、2人は驚いた顔で振り向いた。すぐ行動したのはハルオだったすぐさまスミレさんを突き飛ばし、僕に手を伸ばした。ハルオは諦めていなかった、僕まで助けようとしていたのだ。その気持だけで僕は十分だった。ハルオの伸ばした手とすれ違うように右手を斜めからぶつけた。
「ばかやろう!」
手を伸ばしたまま後ろに飛ばされていくハルオの姿を見ていた。もう真後ろにいるトラックの音でハルオが何と言ったか本当は聞こえなかった。でもハルオはきっとそう叫んだと思った。