北見の塔
冷えて湿気をたっぷり含んだ重たい西風がびゅうびゅうと横殴りに吹きつけてくる。渦を巻きながら漂う霧が顔をなで、髪の毛をしっとりと濡らしながら遠ざかっていった。俺を背後から抱きこんでいる熊の温かさがなければ今ごろ凍っていたかもしれない。寒いし息がしづらかった。
「ご無事か」
ぞんざいな声が上から降ってきた。青髪の世嗣殿下が隣でどうでもよさそうに言っている。どうでもよさそうなのに礼だけ尽くすというのはいったいどういうことなんだろうと、もう何度目かわからないが考えた。
俺たちは王都を出て、街全体を背後から取り囲むようにしてそびえる山を登っている途中だった。もうすでにずいぶん高いところまで来ている。プーリアの街は霧の中に霞んで見えなかった。熊の背にまたがってえっちらおっちらと数時間ほど山道を登った先に、唐突に吊りゴンドラがあった。なめらかな流線型を描く本体はいったい何でできているのか検討もつかない。近寄ると植物をかたどった細かな装飾が施されているのがわかった。かなり手が込んでいる。
ゴンドラは岩場にぴんと張られた太いロープから下がっていた。ロープの先は霧なのか雲なのか判別がつかない白いもやの中に消えている。この中につっこんでいくのかと思うとあまり愉快ではなかった。しかしほかにこの先進むすべはない。だから今はおとなしく乗りこんで、熊にくっついている。
ビューズはゴンドラに据えつけられた魔法石に手をかざしている。魔力はゴンドラの中でなんらかの作用を経て動力になる。これも失われた魔法の技術らしい。しばらくすると小さくぶうん、とうなるような音が聞こえて足元が浮いた。ゴンドラが揺れながら動きはじめたのだ。
「ここから見張り台まで行けるんですか」
俺の問いにビューズは霧のほうをまっすぐ見据えたままうなずいた。
「さよう。ただし時間がかかるぞ。少し休まれよ。のちほど魔力の係を交代していただくやもしれぬ」
俺はほとんど感じたことがないんだけど、魔法石に魔力を流しこむのはかなり疲れる仕事であるらしい。だから日用品の魔法石は熊によってメンテナンスされる。とくに大変なのは魔力を一定量出しつづけるということだそうだ。俺からしてみれば普通に呼吸して動きまわるほうがよっぽど体力的に厳しいんだけど。
とりあえずわかりました、と返事をして、俺はゴンドラの隅っこにうずくまった。熊がぴったりと背中をつけてくれるので温かい。今朝真冬用だという分厚くて動きづらい重たいセーターを渡されたときは王城のものの正気を疑いかけたけど、今となっては空気の層を含んだ衣類がありがたかった。
さて、どうしてこんなことになっているのかの説明をしなければならないだろう。昨日は城門でつまみ出されるどころか、先祖伝来の賓専用室にごく丁寧にしかしあっさりと通された。この賓専用室というのがすごく、ものすごく、気おくれがするほど豪華なしつらえなのだ。床は複雑に細やかに織りあげられた絨毯が敷きつめられ、窓のない石壁は上から緻密な彫刻が施された木の装飾パネルで覆われている。
天井からは細工物のシャンデリアがいくつもおりていた。光源はもちろんアウグだが、真ん中の大きなシャンデリアだけ魔力が込められていない。中央からは美しい組紐が手の届く高さにぶらさがっていた。端に魔法石がついている。完全に照明の引き紐だ。なんとも懐かしくなって握った瞬間、手のひらにぱちりと響く衝撃が訪れて室内が一気に明るくなった。
「……電気ついたな」
思わずつぶやいた俺に対して、いっしょに部屋に残された熊と烏が「そりゃそうでしょう」と言わんばかりの明るい表情を向けた。
面倒な話はすべて済ませてくるので待たれよ、そう言って先に部屋を出ていった第一王子が戻ってきたのはずいぶんあとになってからだった。ドアにノックの音が響き渡ったとき、俺は長椅子でうつらうつらと船を漕いでいた。用意された茶を飲んでぽろぽろと崩れる軽い焼き菓子を満足するまで食べたせいか、今朝までの疲れがどっと出てしまっていたらしい。
「もう間もなく王が来られる。よだれを拭かれるが良い」
ビューズが冗談なのか本気なのかわからないどうでもよさそうな顔で言うので俺はあわてて口の端をこすった。よだれは垂れていなかった。
「王、前サルン領主サルトー、それに妃殿下も伴われるだろう」
そう言ってビューズは電気のついたシャンデリアを見上げた。ルウシイだ、わかってる。でも定義上電気としか思えない。
「さすがすべて灯されたのだな」
ビューズはつぶやくと視線を俺に戻して言った。
「賓殿、あなたは今プーリア一高い位におられる。何があっても決してひざまずかれるな。王に対して陛下も、余に向かって殿下も無用だ」
「……気味が悪いですね」
これまでいろいろしてきた嫌な想像と、結果的に与えられているよくわからない地位と信頼と役割が脳内でごちゃごちゃに入りまじった結果、正直な本音が漏れた。
「それで、王様はなんてお呼びすればいいんです?」
「王は王だ。名前はない」
ビューズは短く、しかし反論できないような口調できっぱり言うと、すぐ戻ると言いのこして部屋を去っていった。
そのあとが大変だった。何しろ賓専用室に入って俺の前に並んだ途端、王と王弟以下ビューズ含めた四人が額を絨毯につけてひれ伏したからだ。
土下座されたことはあるだろうか。学生時代、飲み会の勢いで土下座されたことはあるし、なんならしたこともある。ああいう場ではだいたい土下座した瞬間に誰かが乗っかってきたりひっくり返されたりと茶化されて全体がうやむやになってしまう。冗談でも双方のためにあんまり良いことではないよ、やめなさいとあの人は言ったけれど、視界を自ら完全に塞いだ状態で誰かの前に平伏するということの恐ろしさを俺はまったく知らなかった。今わかった。だって踏もうと思えば踏めるのだ。一国の王の頭を。
なんとか顔をあげてもらい、さらになんとか椅子を手配して各々に座ってもらうことに成功するまでのあいだにどっと冷や汗をかいていた。特別扱いとは程度があるから気分が良いものなのであって、なんというべきだろう、人外というのか、常識の範疇外にあるものとして扱われるのは非常な恐怖なのだということを俺は学んだ。ビューズですらつねにかしこまった様子で頭を下げ、視線を一度も合わせてくれない。それが振りだということはわかっている——と思ったが、今までのどうでもよさそうな態度のほうが演技だったのではないかと不安になってくるほどだった。
会見の趣旨は、王の娘であるトツァンド城主の不手際を詫びることだったようだ。何やらいろいろと言われた。煎じつめると怒ってくれるな、祟ってくれるなということなのだろうなと俺は考えてさびしい気持ちになった。そんな力などどこにもないのに。
どう考えても俺が拉致されたのはトァンのせいではない。気を取り直してそう言ったのだがトァンのことを気遣っているだけだと思われるらしく話がこじれる。悪いのは賊(どっかの領主かもしれないけど賊だということでとりあえず押し通した。話がよけいこじれそうだったからだ)、トァンも俺も被害者、と納得してもらうまでにずいぶん時間がかかった。
主に話していたのは王で、たまに王弟が口を挟んだ。ビューズはずっと黙っていたし、王妃に至っては顔を深く伏せていて表情どころか顔かたちすらよく見えないほどだった。しかしなんとなく、頭の形とか髪の毛の感じなどがトァンに似ているなと思った。母親なのだから当然なのだけど。一方でビューズにはあまり似ていなそうだとも思った。
同じようなところをぐるぐるぐるぐると話す時間がたらたらと経過し、俺たちはようやく一定程度の結論めいたところにたどりついた。王はこれから定期船に遣いを託し、サルン領主へ書簡を出す。書簡とはいうものの、要はなぜトツァンドの早熊による知らせを己のもとでとどめていたのかという詰問だ。こういうのって関係性が損なわれるから慎重にやるもんだと思っていたけど、だいぶダイレクトな感じで問いつめるつもりなようだった。どうやら王は俺が想像する以上に息子に腹を立てているらしい。賓の来訪はプーリアにとってものすごく重要であるらしいことが改めて伝わってきた。
それはともかく、だ。定期船がサルンに戻るのは一カマーグ後だ。出港までの中五日、船はプーリアの港に停泊する。サルンに着いたら着いたで中三日とどまり、その後王都に帰ってくる。サルン領主から返事が返ってくるのは最速で八日後になるわけで、返答しだいでその後の対応を考えるのだと王は言う。つまり、俺はそれまでまったくやることがなくなってしまった。
会見が終わって全員が退出したあと、疲れはてた俺は長椅子に寝そべっていた。緊張が解けたのもあるし、平伏されたショックからなかなか立ちなおれなかったのもあるし、八日後まで身動きが取れないとわかって拍子抜けしたのもあった。ぼんやりしていたせいかノックの音が聞こえなかった。熊が部屋のドアを開けたのも、迎え入れられた人物が長椅子の側に立ったのも気づかなかった。
「余は明日北見の塔まで参ろうと思う」
突然のイケボに俺は寝そべったまま飛びあがった。変に力が入って肋骨のあたりが痛む。肺が押されて盛大に咳が出た。呆れたような顔をして青髪の侵入者が背中を叩いてくれた。
「もう少しわかりやすいように声をかけてくださいよ」
咳で涙目になりながら俺は言って起き上がった。ビューズが手を貸してくれる。
「お怒りなのかと思ったぞ」
ぞんざいに返してくる茶色の目が、いつもとちょっと違う表情なのに気がついた。何か遠慮しているような、怖がってすらいるような。しかしなんとなくふれないほうがいい気がして、気づかないふりをしたまま俺は答えた。
「お父上の融通がもう少し利けば最高だと思いますが、おおむね気分は良好です。八日間くらい休めるみたいですし」
半分嫌味だ。ビューズはふむ、と言うと絨毯の上にどっかりと座った。やけにさまになるのがちょっと腹立たしい。
「深森の様子が気にはならぬか」
痛いところを突かれた。そこなのだ。八日後まで身動きが取れないと最初に判明したとき、脳裏をよぎったのは「魔王」の二文字だった。俺だってそんな言い伝えが実在するなんて信じてやしないんだけど、だからといって魔法史の長やトァンが嘘をついているとも思えなかったし、実際この世界にはなぜか日本語が存在するのだ。古代神聖語という名前がついて、魔法やしゃべる烏、二本足で立って仕事をする熊、そしてこの国の太母と言い伝えられる女性と密接な関わりがあるとされて。
「……気になりますね」
少し逡巡したのち俺は正直に答えた。世嗣殿下はうなずくとあなたも来られると良い、と言った。
「北見の塔ってなんですか」
「対岸を見守るために設置された山上の見張り台だ。深森に異変があればわかる」
「ああ、王様が登るっていう」
「さよう。本来であれば王以外が訪うことは許されぬのだが」
また何か不穏なことを言っている。
「余の知るかぎり、王はその責務を十分に果たしてはおられぬ」
「塔に登るのは定期的な仕事なんですか?」
「年に一度だ。春例祭の終わりに王が妃を伴って登り、ブイジーに向かって祈りを捧げる」
ほほう、と俺は思った。なるほど、王が祭司だといわれる所以だ。
「聞くかぎりけっこう大事そうな行事だと思いますけど」
「そうだ。しかし王はこれまでも途中まで道を行かれて引き返してきていたし、このたびも塔までは行かれぬだろう。代わりとして余が参る。これまでもそうしてきた」
祭の役割を勝手に変えるって大丈夫なんだろうか、と言いかけて俺は思いあたった。だからこそ王はあんなに俺に対する不敬を恐れていたのか。すでに守らなければいけないとされる伝統を破っていたから。
「なんでまたそんな役割放棄を?」
質問に対しビューズは非常につまらなそうな顔をして鼻を鳴らした。
「妃殿下のためだ。お体が弱く、とてもではないが北見の塔までの道など耐えられぬと王は考えておられる」
「奥さんが大事だから、やりたくないと」
いい夫じゃないかと、そう思ってしまった。たぶんこの国の常識からいえばものすごく駄目な王なんだろうけど、でも自分が後悔しないように判断して動くだけの頭と行動力はあるわけだ。だって、後悔ほど不毛で、しんどくて、八方塞がりなものはない——そう考えたとき極力思い出さないようにしていた顔が脳裡に浮かんだ。やってしまった、と思った。
「面倒ごとは息子に押しつけてだがな」
明らかに動揺したのを隠せていない俺の様子にはふれず、世嗣殿下はふたたびつまらなそうに言った。
「でも、いい夫婦じゃないですか」
なんとか絞り出した俺の言葉にビューズは小さく笑った。
「王は前妃が余を産んだのちに儚くなられたのに負い目があるのだ。二度同じ思いをせぬようにか、トツァンドの娘を娶ったことに後ろ暗さでもあるのか、まあおおかたそういったものすべてというべきだろうが」
「……ん?」
俺は思わず首をかしげた。前妃? トツァンドの娘?
「ご存じなかったか」
ビューズは眉をあげて言った。そうして俺はビューズの髪の毛が青いのはブガルクの血を引くせいだということ、トァンとトアル=サンとは母親違いのきょうだいであること、トツァンドの血統が光の子を生む特異なものであることを知ったのだった。
「しかし世嗣殿下はぶらぶら平和に暮らしているのが仕事なんじゃないですか」
一連の話を聞いた俺には疑問がひとつあった。
「その通りだ。それがどうかしたか」
「なのにビューズはお父さんの分まで働こうとしている。ごきょうだいには伝統の破壊者だ、不まじめな兄だと思わせておいて」
「そうだな」
「自分の好きなようにしようとは思わないんですか?」
思ってもみない質問だったらしい。第一王子はきょとんとした。きょとんとした顔を見て、俺はなんだ、こいついい奴だな、と思った。優しくて思いやりがある、ただのいいお兄ちゃんじゃないか。
「余は余の思うがままにしておる」
しばらく呆けたのち、ビューズはそう小さな声で言った。
そんなわけで、俺たちは真冬用の装備を身につけて北見の塔に向かっている。ゴンドラの手前まで登って引き返してしまう王に代わり、ビューズは毎年この道を行き来している。道を迷うこともなく、慣れた様子だ。ゴンドラに乗ってからもしばらくは魔力を注ぐのに集中していた。
「ご存命か」
たいへん失礼な声が上から降ってきて俺は顔を上げた。もちろん生きている。
「代わりましょうか」
イエスノーを答えるかわりに尋ねた。よく見れば整った顔立ちにうっすらと汗がにじんでいる。寒風吹きすさぶ高山なのにもかかわらずだ。
「お願いしたい」
予想外に素直な返事だ。ビューズは俺の場所を空けるために立ち位置をずらした。
ゆっくり立ち上がると、動きに合わせて熊も起き上がった。どうやらだいぶ心配されているようだ。トツァンドで初めて目が覚めたころに比べればだいぶ動けるようになっている。なので、そんなに頼りないかな、と少々不本意だった。
うっすら銀色みを帯びていた魔法石はビューズが手を離すとすぐに白に戻ってしまう。ゴンドラの動きも鈍くなった。俺はビューズが示すとおりに両手を出し、ちょうどボウリングのボールくらいの大きさがある魔法石を覆った。
ぱあっ、と音がするような鮮やかさで俺たちは黄色い光に包まれた。ルウシイが魔法石の中で輝いている。青い遊色が黄色い海を魚のように踊った。ぶうん、というゴンドラの音が突如として高くなってきーきーと響いた。
ビューズが何か叫んだのと、俺が後ろにひっくり返ってゴンドラから放り出されそうになったのと、熊が大きな爪で俺のセーターを掴んだのはほぼ同時だった。今までののんびりした進行は一体なんだったんだと尋ねたくなるほどのスピードを出してゴンドラが爆走している。速度に体がついていかなくて壁にへばりついた。慣性の法則だ。もう風が当たっているのか、空気が攪拌されているのか、ゴンドラの中で竜巻が発生しているのかなんなのかよくわからない。俺の両手はとっくに魔法石から離れているのに速度はまったく落ちなかった。
「今回ばかりは皆の命が危なかった」
熊の片手にひっつかまれてゴンドラの床に引き倒されたビューズが息をはずませながら言った。俺は俺で熊のもう片手に引っかけられたままだ。床に転がって咳きこみながら上を見上げた。すごい勢いで白い霧が飛んでいくのが見える。
「これ、どういうことです?」
あえぎながら尋ねるとビューズはわからぬ、と答えた。またしてもずいぶん素直だ。
「わからぬが、お前はこれを予測していたのだな」
後半は俺たちを引っ捕まえた熊に向けて言った言葉だった。熊ははいそうですといわんばかりのまじめな顔をしている。
「おそらくだが、あなたは桁違いに魔力量が多いのだ」
しばらく黙ったあとビューズは言った。風を切る音が強くて、そばまで近づかないと聞きとれない。
「部屋の明かりをつけるまでにどのくらいかかった」
疑問文だ。
「昨日の話ですか? あの紐の先についた魔法石を触って、すぐ」
俺の答えにビューズは黙ってうなずいた。
「あの照明にはくず石ばかりではあるが二千の魔法石が取りつけられている。とてもではないが人がひとりで魔力を込められる量ではない」
「まじかよ」
思わずつぶやいてしまった。化け物扱いされているというのは甘かったのか。プーリア人から見たら俺は実質的に化け物なのか。
「あの照明はつねに魔力を込めずにおくのだ。賓が訪えば必ずあの組紐を手に取る。そして賓であれば、かならずおひとりですべてに魔力を込めることができると、そう言われていた」
そして俺はそうしたというわけだ。加えて、ビューズの言葉に思い当たることがあった。
「廟での儀式」
俺が魔法石に手を当てる前、責任者らしき人物が同じ動作をした。魔法石は少しだけ光ったがその輝きはすぐに消えた。
「さよう。廟に光を灯すことができるのはルウシイだけ、ではない。賓だけなのだ」
「トァンは……光の子ならどうなるんです」
「試したことはなかろうが」
魔力の量からして無理だろう。光の子の兄は小さく息をつくとそう言った。
実の兄が言うならそうなんだろうな、と思いながら俺は考えをまとめようとした。この世界の物理法則——いや、魔力法則といったほうがいい。魔力法則をぶっ壊しているらしい俺がなぜここにいるのか。これはどう考えても不自然なことだ。世界というのは均衡によって成り立つものだと俺は思う。質量保存の法則とか。エネルギー保存の法則とか。雲が雨になったり、川へと流れていったりしても、トータルで見たときに大気圏内の水素と酸素の量は変わらない。俺が均衡と呼ぶのはそういったもののことだ。
同じような法則がこの世界にも当てはまるのだとしたら。桁違いの魔力を持つ俺と均衡が取れる対極の存在が必要ではないだろうか。そう思った。そして気づいてしまった。それが魔王なんじゃないだろうか。
つまりどういうことだろう。魔王が生まれて均衡が崩れたせいで俺がこの世界に飲みこまれたんだろうか。では魔王を斃すとはどういうことだ? 魔王が消滅したら、そのときこの世界での俺はどうなるんだろう。
「魔王を斃すって」
つぶやいても返事がなかった。聞こえなかったかなと思って顔を向けると、ビューズはごろんと床に転がるという第一王子らしくない姿勢のまま難しい顔をして空を見上げていた。
「魔王を斃すってどういうことなんでしょう」
「言ってくださるな」
もう一度言ってみるとやや早口の返事がさえぎるように答えた。俺は青髪を戴く整った顔立ちをじっと見つめた。かき乱された冷たい風がゴンドラの中に乱入してきて、俺たちの服をばたばたとあおって飛び去っていった。小さく、長く、熊が細い息を吐いた。
「言ってくださるな」
険しい顔で宙をにらんだまま、ビューズがもう一度低い声で言った。
沈黙が落ちた。俺は口を閉じるとビューズと同じように上を向いた。俺の考えたことはこうだ。もし仮に均衡を崩す存在である魔王が俺を呼んだのだとすると、魔王が消滅したら俺の存在もこの世界から消える《﹅﹅﹅》。消えるとはどういうことか。もとの世界に——二十一世紀の日本に戻れるのか。それが一番ありそうだ。でも、もしそうじゃなかったら。この世界のことはこの世界の中で完結させるしかないのだとしたら。俺がこの世界から消えるとはどういうことだ《﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅》?
ずっと続いていたきいいとという音が急に弱くなった。高さは変わらないが音量が減っている。と、体が今度は進行方向のほうにずるずると引っぱられたのであわてて床に這いつくばった。ゴンドラはぎいぎいため息をつくと、ごとんごとんと何かに引っかかって弾みながら停止した。
何か考える前に熊が俺を抱き上げていた。
「え、いいよ、自分で」
言いかけて肺が苦しくなった。高度が高いという話は伊達じゃないらしい。熊の顔が「無理しないで」と言っている。
「着いたな」
俺たちのあとから起き上がった世嗣殿下はひとこと言うと、ひらりと優雅にゴンドラの壁を飛びこえて向こうの地面に降り立った。
あれほどまでに渦巻いていた霧はどこへ行ってしまったのか、ぴかぴかに晴れわたった空が頭上いっぱいに広がっていた。ふたつの太陽はちょうど中空で出会うところで、お互いに強い光を放ちながらじりじりと近づいている。俺たちは灰色っぽい峰にできた岩場の尾根道に立っていた。右も左も見渡すかぎりくだり斜面の礫原で、石の間から丈の短い植物がぽつぽつと生えだしていた。だいぶ標高が高いようだ。眼下は白く霞んでいる。霧の渦巻く地帯をつっきって——いや、違う。どうやら俺たちは雲の上にまで出てきてしまったらしい。
「こちらだ。あなたは熊に乗ってこられるといい」
声がしたほうを振り向くと、ビューズはすでに尾根道を少し進んでいた。今日だってあの甲羅をしょっているはずなのにずいぶんと身軽だ。尾根道は少し傾斜をつけてさらに上へと向かっている。振り仰ぐとかなり先に塔のような奇岩のようなものが見える。
「あれが北見の塔だ。もうすぐ着くぞ。あなたの魔法のおかげでいつもの半分もかからなかった」
第一王子はそう快活に言うと俺たちに背を向け、さっさと坂を登っていった。
奇岩と見えたものはやはり大きな岩だった。ちょっとした商業ビルくらいの大きさだ。ごつごつとしながら肌ざわりはつるりとしている岩肌に、不思議なことにらせんを描いてのぼる石段がついていた。それだけが後から取りつけられたもののようで、色も石の質感も違っている。しかしボルトやナットは見当たらないし、支えるための構造材もなかった。ただ石段だけが岩肌に突き刺さっている。
「それも魔法、ゼウムによるものだと考えられておる」
石段を感心しながらしげしげと見上げている俺にビューズが声をかけた。
「言われている、ということはこれも失われた技術ですか」
「さよう。ゼウムで土くれや砂を出すことは誰にでもできようが、それをこのような形にまとめ上げることは今では不可能だろう。ともあれ、登るぞ。この岩が北見の塔、頂上が見張り台だ」
石段と石段の間は数十センチくらい隙間が空いていて、下をのぞくと地面がまっすぐ見通せた。塔にぶつかって巻きあげられた風が足元から吹きあげてくる。怖い。けっこう怖い。俺は熊にしがみついているだけだったけど、ビューズは俺たちを先導して危なげなくひょいひょいと進んでいる。やはりよっぽど慣れているらしかった。
塔の頂上は平らで、十メートル四方くらいの広さがあった。その一端に岩石を積みあげてできた台のようなものがあって、筒状の何かがすえつけられている。ちょうどハイキングコースの見晴台にある、コイン式の望遠鏡みたいだ。ひとつだけ違う点がある。この円筒にはレンズがはまっていなかった。目を当てても、ラップの芯をのぞいたときのように青空が丸く切り取られるだけだ。
「遠見めがねだ。これはパニイをこうして使う……先に言っておくがこれも失われた技術だ」
そう言いながら世嗣殿下は隠しから三つの魔法石を取り出した。円筒にある三つのくぼみにとん、とん、とんとはめていき、めがねの手前側に手をかける。みるみるうちに魔法石の中のパニイが輝きだした。
「のぞいてみられよ」
誘いに応じてもう一度目を当てると、少し歪んだ雲海が拡大された状態で広がっていた。細かい霧が波のように折り重なって流れていくのがわかる。
「雲が多いですね」
目を離して俺は言った。上下左右自在に動かせる望遠鏡の反対側をこちらに向けてのぞきこむと、たしかにさっきまでなかったレンズが円筒の中にできている。失われた魔法すごいな。
「もうしばし待とう。昼には雲海が晴れるはずだ」
ビューズは鷹揚に答えた。
第一王子の予測はぴったり当たった。空を眺めてのんびりしているとみるみるうちに雲は晴れ、礫原の下に広がる草地とその先の木々が見えはじめた。視線を下に落とすととても遠くにきらめく水がある。
「あれが大湖だ。この見張り台から見えるのは手首より先の部分で、ブイジーとその奥にある深森はちょうど対岸あたりに位置する」
ビューズがめがねに片目を当ててあちこちを見ながら説明してくれる。しかしある一点に到達すると、その表情がぐんと険しくなった。
「……おかしい」
「おかしい?」
「余が最後にここを訪ってのちまだ一カマーグムと少ししか経っておらぬ」
「はあ」
話の流れがわからない俺は面食らって相づちを打った。
「例祭、春に行われる新年の祭のときだ。そのときはまだこうではなかった」
そう言ってビューズは場所を少し移動した。
「ご覧になると良い」
俺はめがねを持ってのぞきこんだ。拡大率に慣れるまでのあいだ、もやもやと動く黒っぽい何かが視界いっぱいに広がっているなと思った。しだいにその輪郭がはっきりしてくる。それは木だった。葉の濃い緑が黒にも見える木だった。木なのだが、何かがおかしい。その違和感のでどころがわかるのにまたもうしばらく要した。
「動いてる……?」
「厳密には、急速に成長しているというべきだろう。少し視界を動かしてみられよ」
ビューズのアドバイスに従ってめがねを下に向けてみた。ざわざわもやもやと木々の先端が動く。。芽吹きの様子を早回しVTRで見ているかのようだった。俺が眺めている間にも黒っぽい緑の範囲が広がって、周辺の森を飲みこんでいる。しかし様子がおかしいことに、飲みこまれているほうの森の木々には葉っぱが一枚たりともついていなかった。それどころか、木肌がやたらと白っぽい。こういう様相を俺は教科書で見たことがある。酸性雨で枯死した森だ。
「枯れてるんでしょうか」
「そのようだ。立ち枯れの範囲が広がっているようにも見える」
言葉に従ってさらにめがねを下に動かすと湖面に出てしまった。右にずらすと枯れた森と生きている森の境界が見えた。境界線はやはりもやもやと動いているように思われた。つまり深森を中心として黒い森が生長し、同心円状に枯れた森が外側へ広がっているのだった。
「……こういう話は、トツァンドで聞きました」
自分の声が少し震えていた。言い伝えは、ただの言い伝えではなかった。プーリアが代々語り継いできた凶兆が、紛れもなく出現していた。本家本元の、その存在がどうであるかはともあれ。
「……魔王か」
ビューズがぽつりとつぶやいた。
そのまま俺はしばらくなすすべもないままぼんやりと深森が拡大するのを眺めていた。途中でパニイがなくなりそうになったのでビューズが魔法石を取りかえる。そのときにめがねが少し動いて、視界が湖面でいっぱいになった。
「……でかい船がいますね」
条件反射で口に出していた。おそらく現実逃避だ。しかし頭の中から不吉な二文字を追いやりたかったのは第一王子も同じだったようで、どんな船だ、と尋ねてくる。
「手こぎのオールが船腹から大量に出ていますね。ガレー船か」
「奴隷船だな。見ても良いか」
ビューズは急に食いついてきた。熱心に、しかしおもしろくなさそうな表情を浮かべて眺めている。そしてもう一度俺にめがねを譲ると言った。
「あれはブガルクの船だ。戦争奴隷を漕ぎ手に使ってこの湖を縦横無尽に……とはいってもこの手首から先にはやって来るのは前代未聞だが、ブガルクの手の及ぶ範囲ならどこにでも赴く小型軍艦だ」
「ブガルク?」
俺は驚いてもう一度船をじっと眺めた。遠見めがねはおそらく数十倍程度の拡大率なので、甲板上にどんな人がいるのかまではわからない。それでもマストの上にはためく旗や、船首あたりにつけられた飾りなどは目をすがめて見ることができた。
「剣と、あれは斧、いや鎌? どっちにしろ武器じゃないですね」
旗にも船首にも、二種類の刃物がぶっちがいになった紋章があしらわれている。
「さよう。僭主ザー・ラムの紋章だ。自身が農業奴隷の身分から成りあがったゆえ、剣と鎌を紋章としている」
鼻を鳴らしてビューズが言った。
「ってことは」
俺は思わず世嗣殿下の顔をまじまじと見た。おもしろくなさそうな表情は浮かべたままで、しかしそこまで焦った様子もなくビューズはうなずいた。
「ザー・ラム本人が乗船していると見て間違いなかろう」
「なんでまた」
俺の質問には答えずビューズは両手を挙げてあらぬ方向を見ている。
「愚かだ。近視眼で夜目も利かず、俗物であるとはつねづね嘆いてきたがさらに愚かであったとは」
表現の割に悲しそうにも響かない、どちらかというと芝居がかかった声色でビューズは言った。
「ザー・ラム……のことじゃないですね」
そう言って俺は黙った。俗物、と言われればビューズが今までに指名してきたのはひとりしかいない。実の弟にしてサルン領主の第二王子トアル=サンだ。
「そうだ、余はあの男には相まみえたことはないしそうしたいとは露ほども思わぬ。サルン領主を百人束ねてかかっても叶わぬ能の持ち主、愚かさとははるか対極にある男だ。まさか大湖沿岸随一の危険人物を、諸手を挙げて迎え入れるとは。まこと愚かだ、愚か以外に名のつけようもない」
俺はビューズの言ったことを測りかねて首をかしげた。
「つまり、あのブガルクの船は敵対してではなく、招待されて来たと?」
「十中八九そうに違いない。そしてしっぽを振って待つのは余が血を分けた弟だ。これを悲劇と呼ばずしてなんという」
相変わらず芝居がかかっているビューズの言葉にどう答えたものか考えあぐねて、俺はまためがねをのぞいた。ブガルクの奴隷船は北見の塔の見張り台にとって死角に当たる、北西の対岸あたりからまっすぐ大湖をつっきってサルンへ向かっているようだった。オルドガルといったか。あのあたりの支配が行き届いている港から出たのだろう。
湖面に浮かぶ船の姿はそう多くなかった。実際には小さな漁船なんかは出ているんだろうけれど、小さすぎて見えないだけかもしれない。その中で、ふと俺は動く影をもうひとつ見つけた。
「……ブガルク船よりはずっと小さい……たぶん半分にも満たないサイズなんですけど、帆船が右から左……だからサルンからこっちに向かって? 航行していますね」
俺が言うとビューズは眉間にしわを寄せてめがねをひったくった。
「なんと」
しばらく見つめていたビューズがつぶやいた。今度は本当に驚いているようだった。
「ご存じの船ですか」
「存じているも何も、あれは王族の特別船だ。普段であれば新年の祭以外で使われることのない船だ」
「王族の?」
そう聞いて俺はてっきりトアル=サンが海上でブガルク船と落ち合うつもりなのかと思った。密漁とか密輸とかだとよくある、海上で出会って秘密の品をやりとりするとかいうあれだ。しかしビューズの予測は違った。
「妹御があなたを追ってきたな」
「トァンが?」
俺はびっくりして湖を見おろした。裸眼ではトァンの様子はおろか、湖を走るブガルク船ですら見分けることができない。
「ああ、旗が見えたぞ。間違いない、あれはトツァンドの紋章、熊と烏だ。トアル=サンを振り切ったか、上手いこと丸めこんだか知らぬが、陛下の勅を待たずに王都に乗りこむなど女にしては肝が据わっておる」
言い方にややかちんときたが、それよりも心配なことがあった俺は尋ねた。
「トァンは大丈夫なんでしょうか、その、港に入る前に」
ハワウで攻撃を仕掛けるというあの塔のえじきにならないだろうか、それが知りたかった。
「問題ない」
俺の心配をよそに第一王子は涼しい顔をしている。
「余はサルンを出る前に大家の商人づてに下命をした。プーリア・トァンに王都への入市を許可すると。そのことは陛下にも申しつたえておる」
「いつの間に」
領主館の憲兵と夜の鬼ごっこをしているあいだか前かあとか知らないが、そんな余裕があったのかと俺は呆れた。
「しかし本当に来るとはな」
あごに手を置きながらビューズは感心している。
「どちらにせよ一両日程度は湖上に留め置かれるだろう。出迎えの準備がいるからな」
「準備?」
「王都を『本来の姿』に戻さねばならぬからな」
含みのある言いっぷりだ。
「本来の姿って」
「話すと長くなるが、王族や諸侯は王都にたぶらかされておるのだよ。あなたがご覧になったあの王都の姿は覆い隠されておる。王族や諸侯が入市する新年には市はすべて取りはらわれ、異国人は戸内に身を隠し……」
しかしビューズの言葉が最後まで言いきられることはなかった。背を向けていても気づいて振り返るほどのまばゆい光が突然空を覆った。下から上へ一直線に太陽でも投げつけたようだった。熱はないのに焼け焦げるような感覚が俺を襲った。
光は湖上から出ていた。目を射るような刺激を感じた。遠く眼下にある湖上に水の柱が立っているのがかろうじて見えた。竜巻だろうか? それは空中へと高く伸びていて、白く光りながらうねっている。龍神だといわれれば信じたかもしれなかった。
そして遅れて爆風と轟音がやってきた。耳を直接やられた俺たちふたりはバランス感覚を失ってよろよろよろめき、つんのめった。風が足元をすくう。目の端に急斜面の礫原が見えた。やばい、滑落すると思った瞬間、熊の爪がふたたび俺たちをこの世に引き戻した。
あたり一帯砂ぼこりが舞って、目に細かい塵が入る。痛い。涙で前が見えないなか、俺は熊に支えられながらなんとか遠見めがねのところまで這っていって湖面を見おろした。さっきまでのきらきら輝く平和な姿は失われていた。波なのか雲なのか叩きつける雨なのかわからないものが大湖を灰色に覆っている。嵐が吹き荒れているようだった。さっきまであった船の姿は、ブガルクのも、王族のも、影も形もなかった。
「……何があったんでしょう」
砂ぼこりを吸ったせいでひとしきり咳をして倒れ伏したあと、ようやく呼吸と姿勢を取り戻した俺は呆然としてつぶやいた。声がしわがれてかすっかすだ。
「やりおったな」
ビューズはひとりで何かを納得している。
「やりおった?」
「おそらく学院だ。余とともにハワウの制御を研究しておるのだが、最近出力を上げるほうに関心を持つものたちがおった。……おそらくは奴らが」
ビューズのハワウといえばあの亀の甲羅だ。魔力をジェット噴射することで本人の走りをアジャストする。その出力を上げると、どうなる?
「もしかして、兵器を作っているということですか」
声が震えた。
「そういうことになろう」
「自分のとこの王族の船に向かって、兵器を……?」
声だけでなく体まで震えてきた。あの美しい少女は、一体何がいけなくて、そんな目に。
「学院が狙ったのはトツァンド城主ではなかろうよ。ブガルクの奴隷船だろう。特別船が見えておったらさすがにこのような暴挙は働くまい。おそらくサルン領主はどこにも根回しをせずに僭主を呼びつけたのだ。突如ブガルクの軍艦が現れるのを見て周囲が何を考えるかも思いいたらず、興味すらなかったのだろうな」
「ブガルクを追いはらうために新しく作った兵器をみさかいなく発動させて、第一王女の船まで巻きこんだと」
言っている間にもさらに声が震えてきた。恐怖ではない。猛烈に腹が立ってきたのだ。
「さて、どうすべきかな」
ビューズは俺の様子にとくに気を払わず、ひとり何事かを興味深そうに考えこんでいる。その様子を見ていたら、意思を認識するよりも先に体が動いていた。
「どうするべきかじゃない! 俺たちのやることはひとつでしょう。トァンを探しにいかないと! もしかしたら対岸まで押し流されているかもしれないじゃないですか!」
マントの襟首をふんづかみ、がたがたと揺すりながら俺は叫んだ。言いながらまた強烈な咳が俺を襲う。肺が、心臓が言うことを聞かない。自分の体を思い通りに動かすことすらここではままならない。
「落ち着かれよ。お体に障る」
しごくまじめに言っているらしいのにまた腹が立つ。
「落ち着いてます。十分落ち着いてますとも。猛烈に腹立てていることを自覚するくらいには落ち着いています!」
「良いか、トツァンドの幕引きは永らく王家諸侯の間で課題でもあったのだ。女城主の時点で行き着く先はほぼ見えたようなものだったが、このまま城主不在になれば問題がひとつかた……」
片付く、と言いたかったんだろう。言わせるものかという気迫で俺は叫んだ。
「人ひとりの人生犠牲にしてか!」
つかんだ胸ぐらから手を離せない。自分でもびっくりするくらいの力が出ていた。指先がうまく言うことを聞かない。俺よりビューズのほうがずっと背が高いので、しがみついてぶらさがっているといったほうが正しかった。みっともないような気がする、と頭の中の見てくれを気にする部分がちろりとささやいたのをふたたび怒りでねじ伏せた。
「女ならどうでもいいんですか。女性だって子どもだってひとりの人間ですよ。いや違うか。あなたたちにとっては男だってなんだってたいした価値なんかないですね。ものだ。所有物だ。奴隷も熊も烏も大差ない。全部自分の一存でどうにかできるもんだと思ってる」
言いながら涙が出てきた。俺は知っていた。知っていて、それを見ていて、何もできなかった。
「まあ女性にはわからないよ!」
あのとき教授はそう言って笑っていなかったか。教授よりも明らかに正しかったのは先生のほうではなかったか。卒論室は微妙な雰囲気に包まれてはいなかったか。それを打ち破るような勇気を、俺はかけらも持ち合わせていなかったのではないか。だから、帰り道に駅のホームで先生を見かけたときに、その顔から光という光がすべて失われていたのにもかかわらず、声を掛けることすらできなかったのではないか——
「国とか領地とか諸侯とか、いろいろ言ってらっしゃいますけどね、そんなもんは庶民から見たらくそ食らえだ。自分らがいるから民が生きてけるだなんて思いあがってないか? 逆だよ逆。毎日を平凡に暮らすひとりひとりが畑を耕して家畜を育ててものを売って金を作って、それであんたたちは生きてるんだ。そのことを学べなかった王侯貴族が俺の世界でどうなったか教えてあげるよ。全員首をはねられて死んだんだ。いい気味だ」
ふたたび猛烈に咳きこんだ。立っていることもままならずうずくまりながら、肺が全部ひっくり返って口から出てしまいそうな咳を俺はくりかえした。腹が立ちすぎて途中からは言ったことすらよく覚えていなかったが、とりあえずこの第一王子を——そしておそらくはその背後にあるこの国自体を——敵に回すようなことを言った自覚はあった。
「いや、いいです。どうせこういうのは住んでる世界が違う人には伝わらないんだ」
咳が去って、喉をひゅうひゅう言わせながら俺はつぶやいた。それは日本語のただの慣用句だったけど、この状況では文字通りの意味で伝わってしまうことに気づいた。こちらから伝わる努力を拒絶したも同然だった。
「俺はひとりで行きます」
意地になっていた。なんとか立ち上がると、手の甲に濡れた感触がした。四つ足で立った熊がまじめな顔をして俺を見上げている。いっしょに行きますよと、そう言われた気がして少し涙が出そうになった。
「待たれよ」
背後で声がしたが振り返らなかった。熊にまたがろうとして力が入らず無様にずり落ちた。情けない。情けないけど腹が立っていたので体は動いた。
「待たれよ」
もう一度声がして腕がぐいと引かれた。
「やめてください、あなたはあなたの好きなようにすればい……」
「そうさせてもらおう」 耳元でビューズが言って俺を抱き上げ、熊に乗せた。
「先ほどあなたが言いかけたことだ。魔王を斃すとは」
俺の肩に手をかけたままビューズは言った。行きのゴンドラで俺が考えたことだ。強い魔力同士が戦うとはどういうことなのか、と。
「黙れって言ったじゃないですか」
「言うた。あなたが妹を探して対岸に赴くというのであれば、結果は同じだと言いたいのだ」
「同じ?」
「深森は成長を続けている。あなたが対岸に渡れば、対峙することは不可避だ」
「だって俺はそのために呼ばれたんじゃないですか」
俺はずっとトァンの話をしているのに、この世嗣殿下はピントのずれた返答ばかり返してくる。苛々して俺はふたたび強い口調になった。
「そうだ」
ぽつりとビューズは言った。静かな表情だった。
「そうして余は得がたい唯一の友を失うというわけだ」
その言葉があまりに素直にぽとんと落とされたので、俺は継ぐべき二の句を失った。
言われたことの意味を考えている間に、ビューズがふわりと俺の後ろから熊にまたがった。
「戻る。お前は賓殿の負担にならないようにゴンドラまで歩いてくれ」
そう熊に言うと俺に対して続けた。
「無理なさらず寄りかかられると良い。目を開けているので精一杯であろう」
その通りなのだった。単純に咳で体力がだいぶ持っていかれていたし、山の薄い空気もいいかげんしんどかった。すっと頭の重さがどこかに行って倒れてしまうような感覚が、さっきから数十秒おきくらいに襲ってきている。
「いや、俺は行くので」
邪魔をするなという気持ちを込めて言うと世嗣殿下が鼻を鳴らした。
「存じておるぞ。余も参ると申しておるのだ。あなたひとりで対岸まで無事渡れるものか」
だから安心なされよ、という言葉を聞いたのは覚えている。そのあとは何だか温かいものに包まれたようなぼんやりとした心持ちになって、いつの間にか意識を失っていた。
試し読みは以上になります。『深い森へと続く道』完成版は本編に加え、サルンで起こったサイドストーリーを描いた短編、おまけの掌編をつけた330ページ・24万字程度の長編になります(予定)。販売開始は2021年9月26日の「ジャンル迷子オンリー」より。販売ページは別館1617のBOOTHを検索してご覧ください。