王都
荷車の荷物と貨物船の荷物、どっちのほうがましかなんて、人生で一度も考えたことがなかった。そもそも荷室に乗るという発想自体ふつうは浮かばないだろう。まれに陸上自衛隊が駐屯地に向かって移動しているのを見ることがある。オフロードも楽々走れそうなトラックには大きな幌がついていて、そこに迷彩服の隊員が詰めこまれている。すげー大変そうだなと人ごとのように思っていた。実際人ごとだったし。
しかしそんな俺もトツァンドを出てこのかた、まともな方法で長距離を移動できていない。トツァンド・サルン間は簀巻きにされて荷車の上だったし、サルンの街中へはビューズの魔法で吹き飛ばされたも同然。そして今は、面倒を避けるためと称して王都プーリアへ向かう定期船の中の、甲板上に積みあげられた木製コンテナのひとつに、なぜか王族ひとり熊一頭烏一羽といっしょに詰めこまれている。
とはいってもコンテナ内部はちょっと高級なカプセルホテルくらいの広さがある。のびのびと寝っころがることはさすがにできないけど、足を伸ばして座るくらいなら可能だった。暗いうえにつま先が熊のごわっとした毛皮に埋もれることを気にしなければ、おおむね不快ではない船旅のように思える。
どうしてこんなことになっているのかというと、存在を気取られないように隠れて行動したからだ。サルン領主トアル=サンはわりと本気を出して俺のことを探していた。昨夜ビューズの隠れ家を出て港にたどりつくまでの間にも二度ほど憲兵だか衛兵だかに出くわしそうになった。王都への定期船に乗りこむこと自体はスムーズにできた。ビューズが隠れ家の家主を通じてすでに話をつけてくれていたのだ。そんなわけで、波止場に着いた俺たちには身を隠す場所として空きコンテナが用意されていたのだ。
コンテナは大型のすのこを組み立てて箱にしたような形をしている。木材と木材のすきまに目を近づけると外の様子がうかがえた。ざぶんざぶんと音を立てて船は進む。西から吹く向かい風に帆を張って、間切り《タッキング》で航行していた。見渡すかぎり湖面だ。大湖というだけあってあまりにも大きく、まるで凪いだ海みたいだった。
すでに早朝サルンを出港してから数時間くらいは経っているはずだ。サルン・プーリア航路は約二万一千イェフニム。イェフニムはイェフニの十二倍で、イェフニは指の先から肘までの長さだそうだ。夏期の定期船は一日の一カマーグ(つまり四時間だ)につき最低でも千イェフニム進む。だから二十一時間——一日の五カマーグと四分の一くらいでプーリアに着く。到着は夜中から明け方くらいになるそうだ。六進法と十二進法の間で頭がごちゃごちゃになりながら、おおよその目安をビューズに教えてもらった。
当のビューズはというと、アウグの魔法石をふたつ灯しながら手紙のようなものを読んでいる。先ほど重たい革靴の足音ともにコンテナの隙間から差しこまれた紙片で、この定期船を運行している商人(隠れ家の家主とは別人らしい)からのものを船長が届けてくれたのだという。赤い光に揺らめくきれいな青髪を見るともなくぼんやりと眺めていると、読みおわった紙をかさかさとたたみながらビューズがふむ、と言った。
「どういった手紙なんですか」
なんとはなしに聞くと読むか、と突き出してくる。受けとってみたが当然ながら読めるわけが——あった。分かち書きのひらがなで書かれていたからだ。
「みなとまち だいいちはとば しようていし ようせい。 ごくひにて ひんきゃく くるよし」
俺は小さな声で一行目を読み上げた。ひんきゃく、賓客か。くるよしは来る由。極秘にて賓客来る由?
「なんですかこれ」
思わず顔を上げて尋ねていた。極秘の賓客もよくわからないし、そういう話が商人から回り回って第一王子にひっそりと届けられているのもわからない。
「サルンの動向を港町から探らせておるのだ。一カマーグに一度めぼしい話題をまとめて届けてくる」
「探らせてって」
俺は呆れた。この人は王族で、しかも王位継承者なわけで、なんでそんなスパイみたいな真似をしなきゃいけないのか理解に苦しんだからだ。
「第一王子である余がなぜそのようなことを、と聞くか」
「だいたいそうですね」
俺は正直に答えた。
「あなたはもしかしたら勘違いしているかもしれないが、余はサルンでは居候の身だ」
「居候?」
「サルンは領主の街であり、領主は第二王位継承者だ。世嗣はそこに住まいをひとつ持ち住まわされているだけにすぎない」
「じゃあサルンの政治や行政にはたずさわっていない」
「たずさわる資格がないといったほうがより正確だな」
王子様は鷹揚に答えた。
「でもそれで王族が務まるんですか」
俺は食いさがった。俺にとって中世のイメージはあれだ、家族経営の大企業。基本的に良い役職は身内に回して、どうしても人が足りなくなるとしぶしぶ外から人を「入れてあげる」。だから王族は国政の中で良い地位を占めているに決まっている。
「務まるか務まらないかでいえば務まるのだ。むしろぼんやりとして何ものをも邪魔せぬのが世嗣の務めだ」
「ぼんやりと」
「世嗣の俸給は王都が負担する。世嗣がふらふらぶらぶらとしているのは王都が安泰であるためで、王都が安泰であるのは深森が安定しているからだ」
ビューズは解説する。
「つまり世嗣殿下はプーリアの平和を象徴するというわけですか」
「その通りだ」
「なんでそんなしくみを」
「王都のことは聞いたか」
「王様が祭司なんでしたっけ」
「そうだ。まあそれは建前ではあるが」
そのまま世嗣殿下は説明のしかたを考えているようだった。
「ともあれ、王都は人々の行き来を拒絶する。王族も王都に参ることができるのは年に一度のみだ」
「ああ、そういえばそれも聞きました」
「もっともそれも建前だ」
「……そうですか」
何から何まで建前なんだなと思いながら俺は適当な相づちを打った。
「世嗣は王都への入市をいかなるときも拒まれない。ただし王都までの手段まで保証されるわけではない」
「……つまり自分でなんとか王都までたどりつけたら、あとは自由にして良いと」
「そういうことだ。余はそれゆえに港町の商人たちと懇意になる方法を選んだ。商人たちにとってもっとも重要なものが何かわかるか」
「信用でしょうね」
あまり何も考えずに俺は答えた。二十一世紀は信用経済によって成り立っている。コンビニ後払い、クレジットカード、住宅ローン。世嗣殿下はというと間髪入れない答えにやや驚いたらしく、さすがだな、とつぶやいてから言葉を続けた。
「その通り、信用だ。余はそれなりの手段を使って信用を勝ち取り、このようにして目と耳と足を手に入れた」
そう言いながら茶色く塗った形の良い手が俺の持つ紙片を指す。目となり耳となる人物が集めてきた情報だ。
「しかし古代神聖語とは手が込んでいますね。その商人がこれを?」
ふたたび紙面に目を落としながら尋ねると、ビューズは否と答えた。
「これは港湾労働者のひとりが書いたものだ。ステムプレからの難民で、息子が置いていった古代神聖語の教科書から読み書きを覚えたと。港湾労働者にしておくのはややもったいないが、余の耳目としては申し分ないのでな」
「息子が置いていった?」
ステムプレ、港町、古代神聖語。俺はスフから聞いた身の上話を思い出した。もしかして。
「そういえば息子が今トツァンドで働いておるはずだ。あなたは会うているのではないかな」
その一言が決定打だった。
「スフのお父さん?」
「ああ、そのような名前だったな。やはりご存じか」
「ご存じも何も、スフは俺の側用を務めてくれて……」
異国出身でさげすまれていても、才能と努力で認められたんですよ、そう言いたくて、でも俺の言葉は熱を失って尻すぼみになってしまった。
俺を襲ったと思われるシュマルゥディスはステムプレの傭兵を雇っていたとビューズは言っていた。もしそれが本当だとしたら、トツァンド城に残されたスフの立場はまずいものになっていないだろうか。賓がさらわれて、犯人は鎧を着こんでいて正体がよくわからず、でもそのまわりを外見だけではっきりと特徴がわかるステムプレの傭兵が囲んでいたら? トツァンドの人たちは俺の事件をどう受けとっただろうか。ステムプレ出身者全体への印象が悪化したりはしないだろうか。
「……無事でしょうか」
情けない声でつぶやいていた。正直、今の今まで自分のことで精一杯だった。ほかの人のことなんか考えていられなかった。しかしここに来て突然、昨日ビューズに言われたことが実感を持って俺を襲った。
「あなたはご自身が思っているよりも面倒なことに巻きこまれている」
俺の一挙手一投足が、他人の人生を大きく変えてしまうかもしれない。そんな影響力を持ったことはなかった。俺だってもういい歳だ。あつかましく尊大でいられた時代はとっくに終わっている。気づいたころには、若かった俺の目の前からはあれもこれも失われていて、人生の目標までわからなくなっていた。自分の足で自分のストーリーを歩む——少なくとも一度は歩んだことのあるような人とは、何もかも違っていたのに。
「トツァンド城主は女で狂信的だが、少なくとも愚かではない。悪いようにはせぬだろう」
俺が思い浮かべた嫌な考えはすでにお見通しだったのだろう。なんでもないように世嗣殿下は言った。その口調がどこか引っかかった——が、今の俺には深く考えている余裕がなかった。
濃紺の空がうっすらと白むころ、湖岸に接してそびえる頂のてっぺんを西と東からの太陽が赤く染めはじめた。夜通し逆風をいなしながら走りつづけた船は今、細く裂けた湾の入り口に錨をおろしている。崖地の間に突如として姿を現す湾は、その最奥に王都プーリアを抱きこんで静かに眠っていた。
昨晩夕食のあと眠ってしまった俺がコンテナからのそのそと顔を出すと、帆桁にとまったまだらの烏が顔だけで振り返った。かあ、という挨拶の声がしじまに響く。冷たい空気がきんと顔を刺して、俺は思わずビューズに渡されたマントを体のまわりにかき寄せて身震いをした。俺の黒髪を見ると周囲が落ち着かなくなるので、人目があるときはフードを被っておけと言われている。失礼な話だ。
湾は切り立った崖の間に横たわっている。ぎざぎざとした陸地は湾の幅を少しずつ狭めながら王都プーリアへと船をいざなう。熟練の航海士と、柔軟な漕ぎ手のどちらが欠けても王都にはたどりつけない。水深は浅く、定期船のような大きな船は湖底に沈む大きな岩をぎりぎりのところで回避しながら航行しなければならない。完全に明るくなった日中でないと座礁する恐れがある。そのため今は時を待っているのだった。
甲板の下から煮炊きの匂いが温かく立ちのぼる。朝だ。無意識で鼻を動かしていると、後ろからくしゅん、と小さなくしゃみが聞こえた。振り返ると熊があくびをしていた。快適とまではいえないまでも、それぞれがコンテナの中で身を寄せあって眠った。熊の体温のお陰で、風の吹く甲板上に置かれたコンテナの中でも温かかったのだ。なんとなく仲間意識みたいなものが芽生えつつあった。おはよう、と思わず声をかけるとぱちぱちとまばたきを返してくる。
ビューズはどこに行ったかなと首をめぐらせると、船首のほうに髪の毛が青い人影が見えた。仁王立ちになって湾の奥を見つめている。
「おはようございます」
コンテナからはい出して声をかけるとビューズも烏みたいに顔だけで振り返ってああ、と言った。そのまますぐに前を向いてしまう。
世嗣殿下は何を見ているのだろうと目やにのついたまぶたをこすりつつ視線を向けた。ビューズは切り立ったぎざぎざの崖の、その頂上あたりにじっと視線を据えている。
「王都の守りはこの複雑な湾形だけではない」
唐突にビューズはしゃべりだした。なんの話だろうと思いつつもとりあえず耳を傾ける。
「魔法だ。この崖地にある峰のいくつかは、港の塔に据えられた魔法石と連動して風を起こす。魔力の強いものが操ればこの船くらいは簡単に転覆させることができる」
言いながらビューズは片手を崖のほうに向かって振った。俺は朝日が当たる部分がだいぶ広くなってきたその頂あたりを眺めた。魔法が組みこまれた装置があるなんて全然わからない。崖には木も草も生えておらず、ざらざらとした断面をさらして朝の澄んだ空気の中にそびえ立っていた。
「だいぶ怖いですね」
言いながら、俺は不思議に思って首をかしげた。今まで接してきたプーリアの魔法は明るくしたり、湯を沸かしたり、髪の毛を乾かしたりとずいぶん可愛らしいものだった。ちょっとした便利グッズの域を出ない。ビューズが開発中の移動装置がだいぶ発展系に感じられるくらいだ。見た目は甲羅だけど。
「それって、だいぶ複雑な魔法なんじゃないですか」
そう尋ねると第一王子はうなずいた。
「複雑というよりも、機序が判明しておらぬのだ」
「でも、使えてるんでしょう?」
どうやって動くかわからない巨大装置を動かしてるとかめっちゃ怖い。やめてほしい。そう思ったのが俺の表情から伝わったのか、ビューズは渋い顔をした。
「厳密には失われたといったほうが良いのかもしれぬ。その歴史すら今はわからぬ」
「えっと、つまり」
俺は考えを整理した。
「昔誰かが人為的に組みこんだ魔法装置ではあるけれど、その技術が今では失われている」
「その通りだ。そもそも学院は、プーリアのそこかしこに残されている古い魔法を解明するために設置された機関だ。本来であれば王都でも研究をしたいところだろうが、それは王家のしきたりによって阻まれておる」
「なるほど」
俺は適当な相づちを打ってあたりを見まわした。なんとなくそのあたりの事情はわかる気がした。部外者を王都に入れないのはプーリアのしきたり、伝統。伝統を守るというのはきっと最初は手段だったはずだ。何か合理的な理由があったんだろう。けれどいつの間にか手段が目的にすりかわり、そのタイミングで何か大きなできごとが起こった。それによって数少なくなっていた技術を継承する人材が失われたんじゃないだろうか。こんなことを俺は手に取るように想像することができる。役人だから。
そうこうしているうちに朝食の準備ができたらしい。甲板の上げ蓋がばんと音を立てて跳ねあがり、急にいい匂いが強くなった。ビューズの長い腕が伸びてきて俺のフードをひっつかみ、かぶらせた。
〝〜〜〜〜〜〟
朝食を持ってきた船員が何かを言って、ビューズがそれに返答した。第一王子のくせにだいぶ気軽なやりとりをしているふうに見える。この船の人たちはビューズと顔見知りみたいで、かしこまった態度なんてどこにも見られなかった。
「賓殿、朝食だ。済んだら船が錨をあげるぞ」
船員と話しおえた世嗣殿下は、整った顔立ちを俺に向けて言った。
ひゅっと風を切ってロープが飛ぶ。ロープの先についたおもりがどぼんと音を立てて水中に沈む。船首に立った船員は慎重にロープの目盛りを数えながら後甲板に向かって叫ぶ。舵手が少し舵を動かす。甲板から降ろされた長い櫂が、音頭に合わせてきびきびと水をかく。
このくりかえしで定期船は少しずつ港へと近づいていった。水は恐ろしいほどに透き通っていて、泳ぐ魚の影が砂地に落ちるのまで肉眼で追える。目視ではまるで水深がつかめない。探り探り進むしかないのだった。
ここで港からハワウの攻撃が入ればおじゃんなんだよなあ、とあらぬ方向に緊張しながら、俺は行く手を見つめていた。港に近づいてきたのでビューズが言っていた白い塔が見える。俺たちは邪魔にならないようにふたを取り払ったコンテナの中に入って、ふちに両手をかけて入港作業を見ていた。もっといろいろよく見たいと首を伸ばすものの限界がある。ケージに入れられた子犬みたいだな、と思って、ちょっと自尊心が傷ついた。
崖のハワウも風を吹かず、そそっかしい測量手によって間違った航路が選択されることもなく、船はしばらくして無事波止場に着いた。正真の定期船であることを港の係員と船長が確認し、許可が出ると荷おろしが始まる。このころにはふたつの太陽がかなり高度をあげていた。涼やかな風が吹くのは港町ならではだ。鷗のような鳥が飛びながら鳴きかわしている。
言葉がわからない俺はビューズに導かれるままにおとなしくついていった。青髪のビューズ、マントを頭からすっぽりとかぶった俺、烏を頭に乗せた熊の縦列だ。よほど珍妙に思われるに違いないと思ったが、よく考えればこれはプーリアではさほど珍しくない光景なのだった。
港から少し歩いたところに、崖の上部が大きく湖の上にせり出している一角があった。崖の突端からはごうごうと音を立てて滝が落ちている。水しぶきがマントに降りかかる音が耳元で響いた。ちょうど滝の裏側に俺たちは立っていた。
台風の日に木が風に煽られてきしむときみたいな大きな音が響いた。見上げるとエレベーターのようなしくみの箱がゆっくりゆっくり降りてくるところだった。滝音にかき消されそうになりつつ、神経を逆なでる奇妙な音を立てながら近づいてくる。
これも失われた魔法の技術なのだろうかと思わずビューズに尋ねそうになってこらえた。王城に入るまでは目立ってくれるなと言われているので、俺はしゃべることができない。俺がしゃべるすなわち古代神聖語だし、王都には古代神聖語を解する人間が少なからずいるので、話し方がネイティブのそれだと言うこと、というか一般のプーリア人と全然違うということがすぐにばれる。騒ぎになること間違いなしというわけだ。
ぎぎぎ、と音を立ててエレベーター様の装置は地面に着いた。ばふんと砂ぼこりが舞いあがる。蛇腹の柵ががらがらと開けられ、係員が何か声をかけてきた。ビューズが手振りで入れ、という。俺たちはぞろぞろと箱の中に乗りこんだ。
柵がもう一度閉められ、エレベータはぎいぎい言いながら持ちあがりはじめた。音からしてだいぶ揺れるのではないかと不安に思ったがそんなことはない。二十一世紀のエレベーターに乗っているのと大差なかった。四方を守られた鉄の箱じゃなく、ふたのない木箱がロープで吊りさげられているような見た目だということをのぞけば、だけど。
俺たちは黙って昇っていった。下の人影が豆粒程度にしか見えなくなったなあと思いながら滝の音に耳を傾けていると、やにわにビューズが言った。
「ここからしばらくの間は話していただいて問題ない」
そこそこの大声だった。そうしないと滝にかき消される。俺はひと呼吸おいてからそうですか、と答え、続けざまに尋ねてみた。
「これもハワウの装置なんですか?」
「使われている魔法はアウグだ。滝となって流れ落ちる前の川の水を温めて滑車を動かす」
「ほほう」
蒸気機関か、と俺はうなずいて上を見上げた。ばらばらと滝の飛沫が降ってくる。どこの滝もそうだけど、下から見ると上のほうは霞がかかったようになっていて真っ白だ。
「あなたにプーリアの空気は合わないと聞いているが」
ふたたびビューズが大声で言った。俺は黙ってうなずいた。
「王都はとくに他の都市より高地にある。プーリア人にとってもやや空気が薄い。必要がなければご自分で動こうとはなさるな。熊に乗っておると良い」
それもだいぶ落ち着かないんだけどなあ、と思いながら、俺はわかりました、と返事をした。
しばらく黙って滝とその下に広がる湖面を見ていた。晴れわたった空からふたつの太陽が惜しみなく陽光を注いでいる。絶景といって良かった。それなのになぜか荒涼とした気持ちが俺を襲った。世界で独りぼっちになってしまった気分だった。実際に独りぼっちなのだということにもすぐさま気づいた。ここはどこなんだ、と改めて思った。俺はどうしてこんなところにいるんだ——
「じき上につく」
上を見上げていたビューズが俺のほうに体を曲げ、滝音に負けないよう耳元で言った。
頭上に岩肌が迫っている。エレベーターはせり出した崖にくりぬかれた穴を通って岩盤の上に出て、小さく震えてから止まった。俺たちは熊に乗りその場を後にする。さすがのビューズは顔パスのようで、係員らしき人々はみんな胸に手を当てて一礼していた。
エレベーターのある場所は荷揚げ場として使われている。川べりの広々とした空間にたくさんの積み荷が置いてあった。コンテナもあれば麻袋に詰めてあるのもある。その間を人々が立ち働いていた。マントをすっぽりかぶったプーリア人らしき姿は全体の中では少数で、スフのように肌の色が濃い人、アングロサクソン系の人が日焼けしたみたいな赤ら顔の人、さまざまだった。髪の色も茶色から始まり赤黄緑青、よりどりみどりだ。しかし俺みたいに黄色い肌に黒い髪の人は、たしかに見当たらなかった。
俺がきょろきょろしている間に熊は街路に足を踏みいれていた。想像していなかった雑踏に俺は一瞬めまいを覚えた。
白く塗った外壁に構造材が露出している建物がずらりと並ぶ。石畳を踏みしめる靴音が賑やかだ。広い街路には両側に露天が出ていて、やんややんやと売り買いの声が響いていた。ここでも白マントはあまり見当たらず、髪の毛がカラフルな異国人の姿が目立つ。王都プーリアは宗教都市だと聞いていた。想像と現実のギャップがすごい。
熊は道をこころえているかのように目抜き通りをのしのしと歩いていく。しばらく行くとトツァンドと同じような広場に出た。廟なのだろう四角い建物が建っている。トツァンドより主ひと回りくらい大きかった。その向かいに立っている石像は、烏ではなく人間の姿のようだった。
広場をつっきって別の道に入ると、とたんに街路がしんと静まりかえってひと気がなくなった。石造りの古そうな建物が並ぶ。さっきまでのエリアが庶民の街だとすると、こちらは明らかに高級住宅地の様相だった。
「声を出さずに聞いていただきたい」
唐突にビューズが後ろから声をかけたので、俺は黙ってひとつうなずいた。
「この道は王城に通じている。城門であなたには身分を明かしていただくが、まずは何も言葉になさるな」
言葉を切り、少し黙ってからビューズは小さい声で面倒だが、とつぶやいた。
「王城は賓殿を迎える準備ができておらぬ。王都のこの様子では魔王の兆候も正確には掴めておらぬのだろう。しかもよりによって光の子があなたに伴わぬと来た。王に事情を理解いただくのに少々手こずるだろう」
もし王様が俺を認めなかったらどうなるんだろうか、そんな嫌な想像が脳裏をよぎった。おとぎ話ではだいたい偽物というのはひどい目に合う。俺は偽物をやっているつもりはなかったが、かといって本物である自負もない。よくわからないことにいつの間にか巻きこまれていたというのが正しい。その俺が、認められなかったら? 賓様と今まで何の疑問も持たれず呼びかけられていたからこそ、改めて考えた可能性に逃げだしたい気持ちを自覚した。たとえ逃げたとしても、どこにも行く場所などないということも。
熊がゆるゆると坂を登る。カーブをひとつ過ぎると、城門らしきものが前方に見えてきた。
「城だ」
ビューズが告げた。俺は思わず姿勢を正し、生唾を飲み込んだ。