急報
話は同じ日の昼前にまで遡る。サルン郊外を遠く離れた東、大烏の道を、西へと全速力で馬を駆る騎兵の姿があった。サルン郊外で後発隊と待ち合わせていたシュマルゥディス先発隊からの伝令である。ちょうど対面からはシュマルゥディス・トツァンド混成隊がごくゆっくりとしたスピードで西へ向かっていた。馬は混成隊の正面向こうから全速力のまま突っ込むかと危ぶまれたが、直前でなんとか速度を落として横付けに止まった。すぐさま傭兵たちが得物を片手にそれを取り囲む。
〝何があった〟
隊列のなかばからだく足で近づいてきた馬上で、シュマルゥディス卿が不機嫌そうに尋ねた。
〝申し上げます〟
息を整えていた兵は騎乗したままで声を張り上げた。
〝我が隊は熊の集団に攻撃を受けて壊滅。賓様を奪取されました〟
〝何?〟
地の底を這うような卿の声が響いた。驚いたのはシュマルゥディスだけではない。熊車の中のトァンもまた、表情をマントの中に隠したままぴくりと身動きをとった。
〝熊の集団とはどういうことだ〟
車内にも響き渡るシュマルゥディス卿の声はわかりやすく苛立っている。
〝子細は不明であります。一個大隊ほどの熊が烏の群れとともに急襲。休ませていた馬たちはこの一頭をのぞいて蹴散らされ、隊は移動の手段を失いました。サルンへは徒のものが伝令に出ております〟
〝人的被害は〟
〝馬に踏まれたものが数名おりますが、命に別状はございません〟
やりとりに耳を傾けながら、プーリア王国第一王女はぽつりとつぶやいた。
〝一個大隊〟
〝どうなさいました〟
魔法史の長が向かいから尋ねる。
〝サルンの領主館に配備されている熊はトツァンド城と同数でしたね〟
〝私がおりましたころはそうでしたな〟
長の肯定にうなずき返すとトァンはふたたび押し黙った。
〝いや、まさか〟
長はトァンの沈黙が意味するところを察して思わず声を出した。
〝シュマルゥディスは賓様にあり得ないほどの不敬を働きました〟
トァンは少しだけ幕を押しあげて外の様子をうかがった。昼の太陽光がこたえたらしくすぐに幕を元の位置に戻すと言葉を続ける。
〝長よ、プーリアはすでに禁忌を破ったのです。もはや何が起こってもおかしくはございません〟
〝と、申しますと〟
光の子の意味するところを理解できずに長はフードの中で豊かな眉根を寄せた。しかしトァンがふたたび口を開く前に、熊車の扉が強く叩かれた。
〝なんでございますかな〟
長ののんびりとした返事に性急な声が答えた。シュマルゥディス卿だった。
〝話は聞こえておろう。熊の謀反だ。この熊車も何を企んでいるかわからぬ、ここで降りていただき熊は我々の監視下に置く〟
〝果たしてプーリアの熊なのですかな〟
〝ほかに何がある〟
押し問答が始まりかけたふたりのあいだを、静かだがはっきりとした少女の声が切り裂いた。
〝わたくしは王都へ参ります。熊たちも同様です〟
〝殿下、なりませんぞ。今はたいへん危険な状態にございます。お降りください〟
〝断ります〟
普段からもの静かで主張が少ないトァンらしからぬ、あまりにはっきりとした発言に魔法史の長は耳を疑った。扉の向こうが殺気だった。シュマルゥディス卿はふたたび低い声で告げた。
〝王女殿下におかれましてはわがままが過ぎることがございますな〟
金属がこすれ合う音がした。長は思わず叫んだ。
〝王族の御前です! 荒事は〟
しかし最後まで言いきることはなかった。トァンが素早い身のこなしで長の前を横切ると片手で幕を上げた。抜き放たれたシュマルゥディス卿の刀に陽光が反射してきらめく。その光に向かい、トァンは隠しから取り出した魔法石を投げつけた。
白い閃光とともに地鳴りのような音が周囲を満たした。シュマルゥディス卿はつかを握った右手に鋭いしびれるような痛みを覚えて思わず刀を取り落とした。熊車を取り囲んでいた兵たちがひるんだすきに、光の子は古代神聖語で叫んだ。
「熊たち! 進みなさい! 先へ、賓様のもとへ」
四頭の熊たちはこころえたように足並みを揃えて走り出した。地響きを立てて進む熊車を前に、すでに光に怯えていた馬たちは竿立ちになり、傭兵たちはあわてて飛びのいた。
突然のことに魔法史の長は口をぱくぱくとさせていたが、熊たちの足が速く騎兵も追いつけないことを確認すると揺れる車内で細く長いため息をついた。
〝殿下〟
息を落ち着けながら長はできるだけ普段通りに聞こえるように努めて声を出した。
〝はい〟
大声を出したことなど人生で一度もないかのような静まった声でトァンは答えた。
〝これからどうなさるおつもりで〟
〝熊たちは賓様がどこにいらっしゃるかを知っています。この場は熊たちに任せます……賓様の無事を確認するまでは。そして我々は王都へ参ります。兄上、トアル=サン殿下を頼れば、もっとも適切で迅速な方法で送り出してくださるはずです〟
〝トアル=サン殿下から早熊の応えはまだなかったと聞きますが〟
〝グューウォァウは賓様を救出した熊たちの一個大隊と合流したのではないかとわたくしは考えます。熊たちはサルンから遣わされたのでしょう。おそらく現在も賓様と行動をともにしているはずです〟
〝さようですか〟
長はそこはかとない違和感を覚えながら相づちを口にした。
〝ビューズ殿下を頼るわけにはまいりませんか〟
〝世嗣殿下はシュマルゥディスと通じている可能性があるとわたくしは見ております〟
〝シュマルゥディスと〟
努めて平坦に発声したはずの長の言葉には隠しきれない困惑が混ざっていた。
〝子細はまだ伏せておきましょう……ただわたくしは、ひとまず今は領主殿下のもとへまいります。賓様もきっと今サルンにいらっしゃるはずです〟
言いきるともはや話すべきことは何もないという様子で、光の子はマントの中に静かに沈みこんでいった。魔法史の長は、その短くない人生で見知った事柄ゆえに心の中に落ちてきた違和感と戦いながらひとり考えこんだ。四頭の熊たちは足並み乱れることなく、可能なかぎりの早足で大烏の道を西へとひた走っていた。