港町とつむじ風
人生で一、二位を争う、いや、ぶっちぎりで第一位だと断言してもいい。最悪に不快な目覚めだった。体中いたるところが痛い。夜露のせいで衣服はぐっしょりと湿り、相変わらず嫌な臭いを発していた。
俺を連れ去った一団は前の前の晩から移動しては止まり、移動しては止まりをくりかえしながら街道を西のほうに進んでいる。方角がわかるのはスフから太陽の位置を聞いていたからだ。大太陽は西から東、小太陽は東から西。俺が運ばれているのは小太陽の進む方向といっしょだった。
今、一団は草地にとどまって休憩と食事をしている。煮炊きをする匂いが鼻をくすぐった。馬たちも鞍を外され、ひとときの自由時間を思い思いに楽しんでいる。俺自身が置かれた状況から考えると、滑稽なくらいにのどかな風景だった。俺はそれを荷車のすきまから眺めた。四肢の自由が利かないので起き上がる努力はすでに放棄していた。腹が減った。喉が渇いた。頭が痛い。とにかくしんどい。考えることそのものがしんどいくらいにはしんどい。
〝〜〜〜〜〜〜〟
急に声をかけられて俺は反射的に体をこわばらせた。兵士と物理的な接触があると一気に最初の恐怖感がよみがえってくる。昨日から幾度となくこのような機会をくりかえしているのだが未だに脈が上がる。膝が震えるのが止められないし隠せない。
聞きとれない言葉に首を振って、声のするほうを見た。兜までしっかりかぶった鎧姿が立っていた。器を荷車の上に置くと、俺の肩に片手をかけて引き起こす。頭がずきんと痛んだが黙っていた。何か反応を示すことも恐ろしかった。どんなことが相手の癇にさわるかわかったものではない。今の俺には逃げ場がない。
しかし騎士たちは存外穏やかな性格の持ち主なようで、俺が恐れることなど何ひとつ起こらないのだった。食事を持ってきた騎士は器を再度持ちあげて俺の前に座った。
まさかの「あーん」なのだ。拘束は一度も解いてもらえないのに、ちゃんと飯は食わされる。飯とはいっても器に入っていたのはパンと乾燥肉をふやかして味付けした薄いスープのようなもので、お世辞にも旨いとはいえない。しかし空腹には勝てなかった。何が悲しくて武装した男から直接飯を食わせてもらわなければならないのだと思いながら、しかし腹が満たされてくると少し心が落ち着いてくるのも事実だった。俺はようやく騎士の顔をまともに見上げることができた。
兜に顔の大部分は隠されている。直接見えるのは目元だけだった。ごくごく薄いはしばみ色の目には好戦的な色などまったく見られない。勘違いでなければ、荷物のように転がされている俺の姿を気の毒がっているようにすら思われた。
食事が終わってしばらくのちも、一団が動き出す様子は見られなかった。放っておかれた俺はしかたなくまた荷車に転がった。手も足もぐるぐる巻きにされているのでほかにできることなどなかった。俺はぼんやりと空を見上げた。いい天気だ。雲は小さくちぎれて高く浮かんでいる。右目の端と左目の端にそれぞれひとつずつ太陽が輝いていた。日本の夏とはまるで違う、からりとした天気だ。プーリア人はこのいい陽気から身を隠さなきゃならないなんてな、などと場もわきまえずのんきなことを考えた矢先、視界を黒い影がひとつ横切った。
影はぐんぐん近づいてきて、最後は羽音を立てて荷車の手すりにとまった。グレーがかったまだらの烏だった。まだらは先祖返りしないんだよなとわかっていたけど、俺は思わず小さな声でやあ、と話しかけた。
黒目のまわりを白い毛でふちどった烏は首をかしげ、ひと声大きくかあ、と鳴いた。やはり先祖返りじゃなかったかと苦笑いした、と、背後の茂みががさりと鳴った。
見張りの騎士が体に緊張をめぐらせたのと、大きな黒い影がよぎったのとはほぼ同時だった。次に見たのは草がまばらに生えた地面で、すぐ後に視界がぐっと流れて揺れた。剣や槍を携え、叫びあいながら騎士たちが走ってくる。次の瞬間にはまた空が見えた。獣の匂い、覚えのあるちくちくとした毛の肌ざわり。状況がある程度わかったときには、俺は文字通り手も足も出せないまま熊の腕に抱かれて街道を爆走していた。
背後の大声が小さくなっていき、最後には聞こえなくなった。追っ手から遠く離れても熊はしばらく走りつづけていたが、ふと立ち止まると俺を地面に降ろして顔を近づけた。熱い息が首筋にかかり、俺の背筋は粟肌だった。しかし熊はその牙で器用に俺の縄目を食いちぎっただけだった。
熊はまたすぐに俺を抱き上げた。抵抗はしなかった。誰が敵か味方かと考えることすら無意味に思えるなかで、こいつらは大丈夫だという謎の確信めいた思いがあった。俺は小声で礼を言った。
「ありがとう」
熊は小さくうなずいて目をぱちぱちとまたたかせると、ふたたび後ろ足で走りはじめた。しばらくゆるやかなのぼり坂が続いた。ふいに視界が下に開けて長い城壁が行く手に広がった。街だ。坂をくだりきったあたりには壁外の市街地が発展している。昼日中だがぽつぽつと人通りがあった。マントを頭からかぶっているのはプーリア人だろう。それ以外の人たちもいる。だぶっとした服で体を覆っているので肌の色はよくわからないが、みんな派手な色の帽子をかぶっているなと思った。
熊は人目をかまわずに走りつづけた。市街地に近づくにつれ、俺が帽子だと思ったのは人々の頭髪だったことがわかった。オレンジ、赤、青、緑。どうにもファンタジーだ。たしかにこんな世界では、黒髪が逆に冗談みたいに映るのかもしれない。
と、ふと近くで大声がして俺は反射的に身をすくめた。熊は首を曲げて声のしたほうをちらりと見やり、そのまま走るスピードを上げた。熊の肩越しに大声の主が見える。さっきまで俺を拘束していた兵士たちよりは簡素な鎧を身につけた数人の集団だった。鎧たちは俺の姿を認めたのか、それとも二足歩行でひとり走る熊に違和感を覚えたのか、とりあえず大急ぎでずんずんと距離を詰めてくる。熊はひょいと建物と建物の間の路地に走りこんで、俺を物陰に隠すように置いた。鎧の立てる乾いた音が怒鳴り声とともに近づいてきた。熊が小さく唸る。直感がやばいと告げた。足がすくんで震えたその瞬間、俺の右腕を温かい手ががっしりと掴んだ。
「騒ぐな」
反射的に悲鳴を上げかけた俺に対して聞き覚えのない声が耳元でささやいた。声を殺していてもわかるほど美しい、低い声色だった。そんなことを考えている暇はないのに、ついうっかりイケボだなと思ってしまった自分が悔しい。
「憲兵だ。捕えられるとまずいことになるぞ」
そう言うと声の主は俺から少し離れたようだった。耳元で風が動いた。しかし二の腕は未だしっかり掴まれたままだ。
「ついてこい」
ふたたび声が聞こえるなり、俺は背後から思いっきり引っぱられて不格好にたたらを踏んだ。
石造りの立派な倉庫、端材でとりあえず四方を囲ったというていの作業小屋、木造の商人長屋に積みあげられた輸出用木箱の山。そんなものの間をかいくぐりときには飛び越え、俺をひっつかんだ人物は港町じゅうを走りまわった。いっしょに走ろうとしてすぐ、俺は自分の足がまったく動いていないことに気づいた。文字通り引っぱりまわされているのだった。常人の早さではない。仮に五体満足な状態だとしてもついていけないスピードで、しかも壁にぶつかるのを急ブレーキでぎりぎり回避したり、逆に唐突に加速して積み荷の上から屋根に飛び上がったりする。とてもじゃないけど信じられない。こんな走り方が人間にできるわけがない。
数分なのか数十分なのか、走りまわったのちに放りこまれたのは二階建て倉庫の一室だった。倉庫群が小さな中庭を囲んでみっしりと建っている。南に中庭を望む二階は日当たりが良い。きらきらと細かいほこりが空中を舞っているのが見えた。部屋の扉が閉まるのを確認した瞬間、今まで気づかなかった鼓動と汗と体温が一気に襲ってきて俺は咳きこみながら床にくずおれた。
「異世界からの客人は体が弱いというのは真だったようだな」
俺を連れまわした人物がやや呆れたように言う。俺がさらにげほげほとむせていると、ひやりと冷たいものが頬に当たった。ガラスのデキャンタだった。
「柑橘を入れた水だ。飲んでおけ。追っ手は十分にまいたからゆっくりで良い」
ぶっきらぼうな声色はスフや魔法史の長に似ている。イントネーションが日本語と違うのだ。プーリア語のような、歌うような。
デキャンタを無言で受け取ると、俺はそろそろと体を起こして直接口をつけた。冷たい。旨い。喉を水が潤しつつ冷やしていくのが体感としてわかった。
「あ……」
りがとう、と言いかけて、警戒心が頭をもたげた。こいつは誰だ?
「あなたは」
俺が言い直すと、目の前でマントのフードがばさりと音を立てた。かぶっていたのを取りはらったのだ。
背の高い男性だった。年は俺より上に見える。髪の毛はトァンの瞳よりもやや濃い明るい空色で、その下にある顔と瞳は茶色かった。すっすと近づいてくる身のこなしからするとどうやら良い生まれの人物だと推察できた。
問題は肌の色だ。トァンよりもずっと濃い色だった。ただ単に茶色いならそれはそれなのだが、目の前の男の肌色には大きなムラがあった。ムラだ。なんだか、水彩絵の具を適当に塗りたくったような——
「余の肌色を不思議に思っておるな」
無造作な声がした。無造作でもイケボってどういうことだ。黙ってうなずくと男はうなずき返してくる。
「これは肌を果汁で塗っておるのだ。秋になる木の実の、食うことができぬ外側の果肉を使う。一度塗ると四カマーグは落ちぬ。夏に動きまわるには便利なものよ。先ほどの憲兵も塗っておったろう」
「そこまで見ている余裕はありませんでした」
正直に返事をしてから何を普通に会話しているんだと焦った。まだ目の前のこいつが何者なのかさっぱりわからないのに。——待って。今こいつ「余」って言った?
「正直なのは良いことだ」
つまらなそうにそう言うと、男は手近な木の椅子を引っぱってきて雑に腰をおろした。そんな身ぶりまでもが非常に優雅だ。
「まだ余の正体がわからぬようだな」
そう言って細める目が、誰かに似ている。
俺は頭をフル回転させた。明らかに生まれ育ちの良い、青い髪、「余」、常人ではありえないほどの早さで走り回る——
合点がいった俺は頭を上げた。
「わかった気がします」
「当ててみよ」
「プーリア王国第一王子。プーリア・ビューズ殿下ですね」
トツァンドで教えてもらった。現王家の次代を担うきょうだいは三人。第一王子で世嗣のプーリア・ビューズ。第二王子でサルン領主のトアル=サン。第一王女のトァン。三人のうち青髪の男性で、魔力がハワウなのはビューズだ。
「我が妹が世話になっているようだ、賓殿」
答えあわせのかわりにそう返事をよこすと、男は俺を頭のてっぺんからつま先までじろじろと眺めまわした。
「貴人ではあらぬな。しかしそれなりに学は積んでおるようだ。武人というには線が細い。富裕な商人の子か」
床にぺったりと倒れ伏した状態からようよう起き上がったばかりの俺は少し気まずくなっていずまいを正した。
「俺のことですか」
「ほかに誰かおるか」
相変わらずつまらなそうに返事をしてくる。
「しがない一労働者ですよ。俺の仕事は役人です」
「ほほう」
そう言うとまたこちらの顔をじっと見る。そして言い放った。
「妙な顔だな」
「みょ……?」
あっけにとられてリアクションが遅れた。妙な顔って言った? 俺の顔見て? 直接的すぎない?
トァンの兄だというのがうなずけるほど、たしかにこの王子様は見目が良かった。ずいぶん額が秀でていてそこからまっすぐに鼻筋が降りてきているという、ほかのプーリア人と同じでちょっと変わった顔立ちではあるんだけど、パーツはバランス良く整っているし立ち居ふるまいも上品だ。だからといって人の顔見て妙って失礼すぎない?
ふざけんなと言おうと思って口を開いた瞬間に、今自分が考えたことが時間差ではね返ってきた。ちょっと変わった顔って思ったな。それ、口に出したら目の前の王族様が言ったのと大差なくないか? 言わないからまし? 心の中でこっそりと、口にはできないような言葉で相手を馬鹿にしたり、裏でひそひそやりとりしたりするくらいなら、面と向かって正直に言ったほうがよっぽどましだって、俺は以前思ったことがある——
葛藤しながら結局何も口に出せない俺を見てどう思ったのか、ビューズはふむ、とつぶやいてから言った。
「別に悪い意味ではない」
そうしてついと立ち上がって中庭に面した窓のほうへと歩いていく。
「ずっと妹の馬鹿な狂言だと思っていたのだが」
逆光で影になった人物が窓際でそう言った。
「狂言?」
気を取りなおして俺は聞いた。
「妹はプーリア語を話すより先に古代神聖語を話したのだ。その話は聞いておるか」
「ええ、だいたいは」
「習い覚えもしない言葉を話すなど薄気味の悪いことがあってたまるかというのがそのとき余の思ったことだ」
「まあたしかにちょっと考えづらいですよね。でもその割には日本語、じゃない古代神聖語がお上手じゃないですか」
「わが妹御が栄えある光の子だというのだ。父王の治世か、わが世かは知らぬが妹が存命のうちに賓が訪われるという。王位継承者が古代神聖語のひとつも話せぬようでは申し訳が立たぬ」
意外とまじめな返答だった。魔法史の長の話では世嗣の第一王子はもうちょっと——
「意外だと顔に書いてあるぞ」
振り返ったビューズは眉を上げて言った。ここで取りつくろってもしかたないなと、俺は正直に答えることにした。
「聞いていたお話の印象とちょっと違っていたものですから」
「話か。次は余が当ててみせよう」
第一王子はうなずいて言うとひょいと窓枠に腰掛けた。
「魔法応用技学のことにしか関心を持たぬ変人。伝統など歯牙にもかけず口を開けば貿易と兵力の話しかせぬ。王位を継いでプーリアに封じられるくらいなら他国と手を結ぶこともいとわぬ。そんなところか」
「……まあだいたいは」
俺はためらいつつ肯定した。トァンであれば曲がりなりにもきょうだいであるわけでもう少し違った話が聞けたのかもしれないが、好々爺めいた魔法史の長はああ見えてなかなか舌鋒鋭かった。
「あなたはどう思った」
「はい?」
「余について妹たちから聞いて、どう思ったかと尋ねておる」
「まあ、そうだろうなと思いました」
「そうだろう?」
「現状に対してどこかおかしいと思う。何か変えたいと思う。自分で考えたり調べたりする。その結果伝統や慣習からの逸脱が起こることは、ある意味で当たり前です。俺の属する社会では、少なくとも」
世嗣殿下はふむ、と言った。
「理想郷のようだな」
「問題はいくらでもありますよ」
「たとえば?」
「いちばんの問題は、人間はそう変わることができないということじゃないですかね。技術や制度が進化しても、人間そのものが立派になるわけじゃないんです。だから逸脱に対する反発だってつねにある」
揉めごとを起こすな、そのくらい我慢しろ、そんなんでやっていけると思うな。
「豊かになって幸せになるかと思いきや、もっともっとと人間は貪欲になって争いを止めない。武器で人を殴るだけじゃなくて、札束で人を殴る世界ですよ。上に立つものは結局金を持っている人のほうしか見ないし、俺みたいな小役人はその間でてんやわんやするだけだ」
ちょっと実感を込めすぎちゃったなと反省しながら、でも言いたいことを言ってやったなと少し満足した。あまり考えないようにしていたんだけど。俺のその様子を見て、青い髪の王子は初めて興味深そうな顔をして両眉を上げた。
「あなたが言うのは本当のことなのだろうな」
しばらく俺の顔をじっと見つめたのちにビューズは言った。
「人間というのは悲しいほどに欲深な生き物だ。留まるところを知らぬといえば良いのだろうか」
「しかし殿下はずいぶん魔法の発展にご熱心だと聞きましたけど」
「ビューズで良い」
俺の反論に対して面倒くさそうに答えると第一王子は言葉を続けた。
「わがプーリアが国外からどのように見られているか、知っておるか」
「ええと、羊を飼う国民。暮らしぶりは素朴だけど織物の腕が良いので各国が交易したがる。魔法のことと熊の知性のことは秘匿しているので外国の人は知らないはず。烏についてももちろん」
「さよう。大方の商人どもは利権を握らせておるからぺらぺらとプーリアについてふれまわったりはしない。もっとも我が国の主導権が保たれていることが前提だが。ブガルクはじめ各国首脳はプーリアをただの小国としか見なしておらぬだろう」
ちょっと引っかかる言い方だった。
「そうじゃない人もいるということですか」
「あなたは我が国を訪れてどう思った」
「ええと、町がきれいすぎるなと。生活を見ていると俺の世界では中世……俺にとっての現代からはだいぶ昔で、病気が流行しやすかった時代に似ています。そのわりに町も人々の見た目もきれいさっぱりしている。パニイとアウグのおかげで簡単に体が洗えて掃除も行きとどくからだと今は理解していますが……最初は変だなと思いました」
「あなたは歴史家か」
納得したようにビューズは言った。
「厳密には違いますけど似たようなものです」
たしかに史学科を卒業した俺は神妙に答えた。
「あなたと同じような疑問を持つ者もおる。他国と比べるとプーリアは病での人死にが少ない。とくに子どもが死なぬ。なぜかとな。またやっかいなのが金持ち連中だ」
「やっかい?」
「プーリアのような織物を自国で作らせようとするのだな。しかしできぬ。魔法と熊たちの裏での働きなしに多人数の職人を機の前に座らせておくのは至難の業だ」
「生産の秘訣を知りたいと」
産業スパイのような者たちが送りこまれるのだろうか。
「さよう。他の場所ならともかく、ここサルンには異国人がありふれておる。どれが間者でどれがただの商人なのか、容易には見わけがつかぬ」
そう言って王子は何かを考えているようだった。俺はスパイについて考えた。産業スパイじゃない、政治的なスパイだ。そもそもなぜ俺が今ひとりでここにいるかというと、トツァンドに乱入してきた武装集団に引っさらわれたからだ。彼らと目の前の男との間に関係がないと、言い切れるだけの知識が俺にはない。状況にあまり流されてはいけないと自戒した。
「わが妹御の立場はわかりやすいな。プーリアはこのままで良いというのだ」
突然ビューズはふたたび話しはじめた。
「素朴な民、熊と烏とが手を取り合う、母なるイーの祝福に留まる幸せな国だ。その内実がいかにあるかについて今は言及せぬが」
そう言うとふっと鼻で笑った。
「弟さんもそうなんじゃないんですか」
「トアル=サンか? あれは驚くほどの俗物よ。見事に覆い隠してはおるがな」
「俗物?」
「弟は弟は余を王に封じることには異論がなかろう。しかし一方で余が生み出している技術が生じる利益はほしいのだ。できるだけ多く」
「なるほど」
適当に相づちを打ってから少し躊躇した。好奇心が湧いてきてしまったのだ。
「もしよろしければ知りたいんですけど」
「なんだ」
世嗣殿下は相変わらずだるそうに答える。
「でん……ビューズは何を研究しているんですか」
殿下、と言いかけたらおきれいな顔でにらまれたので俺は口ごもりながら世嗣の名を呼んだ。
「見るか」
俺の質問に眉を上げた第一王子は窓枠から離れて立ち上がった。
「ここの屋上であれば問題なかろう。ついてくると良い……が」
不自然なところで言葉を切って眺めまわされる。
「何でしょう」
「ずっとその格好のままでいるつもりか」
そう言われると反論のしようがない。広場でこづきまわされたあと馬の上で吐いて、そのうえ丸一日以上同じ服を着つづけている。汚れているし、嗅覚が鈍っているけど端から見ればだいぶ臭いに違いない。
「風呂を使ってこい。この扉の向こうに洗い場がある」
その方向を指さされて、俺はおとなしく指示に従った。
アウグとパニイの魔法石を同じ数だけ湯涌の中に入れて、お互いがぶつかるようにざらざらとかき混ぜる。衝撃で放出された魔力が入り混じりあって、数秒後の湯涌の中はちょうどいい温度の湯でいっぱいになる。どうにも奇妙な風呂の沸かし方も、ここ数日でずいぶんなじんでしまった。洗い場にあった石鹸を使って丁寧に頭の先からつま先まで洗うとだいぶ人心地がついた。
湯からあがってくると着替えが用意されていた。王制国家で次期王位継承者のものを着るなんてやばいんじゃないかとおののいたが、広げてみるとさっきまで俺が身につけていたのとたいして変わらない、簡素な服だった。お忍び用なのかもしれない。そもそも王族が護衛もつけずに市井をうろうろしている時点でいろいろ普通じゃなさそうなので、言っても今さらなんだろうけど。
そんなことを考えながらも手は自然に棚に伸び、ハワウの魔法石を取りあげていた。こすりながら髪の毛を乾かす。魔法石は種類ごとに分けられ、木製のトレーに並べられていた。第一王子はだいぶ几帳面な性格のようだ。
こざっぱりしてもとの部屋に戻ると、室内にはお客さんが増えていた。とはいっても人間ではない。ちんまり座っているのは神妙な顔をした熊で、その左肩には見覚えのある柄をしたまだらの烏がとまっていた。熊の顔は未だに見分けがつかない。つかないがわかった。さっき俺を救出してくれたふたり組に違いない。
「あなたの友人のようだが」
背後から声をかけられて俺は振り返った。
「……なんと説明すれば良いのか」
どこから話せば、そしてどこまで話して良いのかためらって言葉を濁した。ビューズはふん、と鼻をならす。
「たしかに話が長そうだ。先にご所望のものをご覧に入れよう」
再度ついてこい、と言うと、世嗣殿下は部屋の隅にあるはしごをするするとのぼっていった。
この世界に来て体力が落ちている上に、丸二日くらい荷物のように運ばれたせいで俺は自力ではしごをのぼることすら叶わなかった。二段目くらいにしがみついて息をついている俺を見かねたのか、後ろから熊がやってきてひょいと抱き上げられた。まるで子どものような扱いなのが居心地悪かったが、おかげでなんとか屋上に出ることができた。
屋上の四隅には丸太の柱が立てられていて、その間に張られたロープからよしずのようなものがぶらさがっている。簡易的な目隠しなのだろう。隙間に手を入れてのぞくと正面に広い水面が見えた。
「ここは」
「サルンの新市街だ。知らずに来たのか」
呆れたような声が背後からしたので俺は振り返ってうなずいた。サルン、湖に面した港町だ。ここから王都に向かう船が出ているという。もともとはトァンたちといっしょに来るはずだったのだ。
「本当に訳ありのようだな」
つぶやきながら世嗣殿下は屋上にすえつけられた小さな卓の前に腰を下ろした。
「そちらがちょうど風上になる。見える範囲で遠ざかっておれ」
そう言いながら魔法石をひとつ取り出す。ハワウで銀色に輝いていた。
「ご存じの通りの魔法石だ。刺激を加えると魔力を出す」
「ええ」
「魔法石の大きさによって込められる魔力の量が異なる。大きいものなら多量に、小さいものなら害のない程度に」
「そうだったんですか」
いわれてみれば風呂やなんかで使うものはわりとサイズが揃っているのに、照明に使われているアウグの大きさはまちまちだった。
「……余の研究の主眼は、魔力の出力を制御することだ」
なぜか無言で俺を眺めまわしたあと、ビューズは説明を続けた。
「指ではさんで刺激を与えれば一定程度の出力を維持できる。しかしとても弱い」
俺はうなずいた。ハワウであればちょうどドライヤーくらいのそよ風が吹く。便利だ。
「魔法石同士をぶつければ一気に魔力が噴出する。短時間しか持続せぬし、出力は内部の魔力量に依存する。こちらで調節することができない」
一瞬でいっぱいになる湯涌を思い出しながら俺は再度うなずいた。
「魔法は便利だが、そのわりに単純な用途でしか使用できぬ。主な理由が制御不可能であることによる。では賓殿、出力を制御して場合に応じた魔力を利用するための方策はあるだろうか」
いきなりテストが始まったので俺は一瞬フリーズする。魔力のことも魔法石のことも門外漢だから、たぶん俺はとんちんかんな答えしか出すことができない。開きなおろう。
「大きな魔法石を指で挟んだら、小さいのより魔力量は上がるんですか」
「上がるな」
「では大きな魔法石を使うようにするのはどうなんです?」
「魔法石は森で熊たちが採掘する。まれに大きなものも見つかるがほとんどはくず石のような大きさだ。あまり現実的ではない」
「なるほど」
俺は考えこんだ。ルウシイと呼ばれる俺の魔力とは静電気なのではないかという疑惑が脳内で消えずに残っている。だとすれば魔法石は電導性があるわけで、電気を通すといえば金属だ。金属は高熱で溶かすことができて……
「小さい魔法石から大きい魔法石は作れないんですか?金属みたいに」
「良い線だ。余も同じことを考えた」
第一王子はうなずくと懐から短刀を出した。
「魔法石は意外ともろく、強い力を加えると砕ける。そこで見ておれ」
そう言うとビューズは短刀のつかを魔法石に叩きつけた。
俺が驚いているひまもなく、瞬時にぶわっと強い風が吹き荒れてすぐやんだ。思わずつぶってしまった目を恐る恐る開けて、俺はビューズのほうへ近寄った。
「触ってみよ。すぐに変化するぞ」
そう言われて手を伸ばした先には砕けた魔法石があった。交通事故現場に残った窓ガラスみたいに粉々になっている。すくうとさらさらと指のあいだを落ちて——固まった。
「固まった?」
思わず声に出ていた。ビューズは涼しい顔でうなずくと、俺の指の形にそって固形化した魔法石のなれの果てを取りあげた。
「すでにあなたの魔力が込められておる。たしかにルウシイをお持ちのようだ」
かかげられた魔法石——それは石というよりも溶けて固まったガラス片のようにひしゃげて平らな形をしていた——には、青と金色の遊色が見える。
「金属は強く熱すれば液状になる。同じように加工できぬかと鍛冶に持ちこんだが成らなかった。一定以上の熱を加えても、今のように砕ける。粉々にはなるが液状にはならぬ。そして外気にふれると瞬時にひっつきあって固まってしまう」
「加工しにくいんですね」
「さよう。くわえて人の肌にふれているとすぐにその魔力を帯びてしまう。扱いがいちいち面倒だ」
「なるほど」
俺は自分の手の形にそって固まった魔法石を見ながら考えこんだ。一度砕いて型に入れるにしても、入れている間に固まってしまいそうだ。これはたしかに難しい。
「これは余の推測だが」
ビューズは別の新しい魔法石を取り出して解説を続けた。
「魔法石は外気にふれる部分のみ硬化して石のようなさまを呈しておるが、その中はつねに礫状なのではないだろうか。そう考えた理由がこれだ。少しさがっておれ」
そう言って今度は短刀の鞘を払うと、刃先で魔法石の表面をなぞりはじめた。一度目はとくに何もなかった。二度目に同じ線をなぞると、刃の痕がうっすらと白く光った。三度でふたたび強い風が巻きあがった。風が静まったところでビューズは石をひっくり返した。刀でつけた傷からさらさらとまた砂がこぼれて、すぐに固まった。
ビューズは無言で俺に魔法石を投げてよこした。砂がこぼれたところはつららのような形になっていて、力を入れればぽきりと折れそうだ。石の中にはすでにハワウが込められて銀色に光っている。
「なるほど」
俺はまぬけに同じ相づちをくりかえした。固まった表面に傷をつけると内部の砂がこぼれ出す。そして外気にふれた部分はすぐに固まる。
「こういうわけだ。魔法石自体に加工を施すのは現実的でないと余は結論づけた」
「たしかにそんな感じですね」
「では魔法石には手を加えずに、魔力だけを制御する方法はないか」
「魔法石の外側に壁を作って、そこからの出し入れに干渉する、みたいなことですか」
言いながら思い浮かべていたのは電池だった。俺の貧困な想像力ではやはり魔力は電力にしか思えない。
「さすがだな。その通りだ」
しかし世嗣殿下のお眼鏡には叶ったようだ。満足気にうなずくとビューズはばさりと音を立ててマントを脱いだ。
誉れ高きプーリア第一王子の、マントの下の姿を見て俺はコメントする能力を失った。首の下から腰の上にかけてが楕円形の金属で覆われている。表面は曲面がかっていて、なんというか亀の甲羅と呼ぶのがぴったりの形状だった。正直な感想を言えば、滑稽だった。
「……なんですかそれは」
ようやく絞り出した言葉がぶっきらぼうになっていたのは許してほしい。日本でこんな人に出会ったら全力でつっこんでいるところだ。
「この中に魔法石が入っている」
ビューズは俺のリアクションをとくに気にした様子もなく答えた。
「湯涌を考えてみろ。アウグとパニイの魔力は噴出して湯となるが、湯涌が壊れていなければ外にはみ出すことはない」
「……そうですね」
腹の上に生えた亀の甲羅からなんとか思考を引っぺがして俺は返事をした。言われてみればそうだった。普段使っている風呂の原料はあくまで魔力なのであって普通の湯ではない。でも普通の湯のように使えていた。
「ハワウも同様、風を防ぐことのできる素材であれば魔力を封じ込めておける。そしてここだ」
殿下が指ししめすのは腹の左下あたりだ。よく見ると甲羅に魔法石がふたつはめ込んである。
「ここに余の指を添えることで反発を起こし、魔力を出す」
ビューズが指を当てると、たしかに風が起こった。そよそよと俺の髪の毛を泳がせる。
「先のように飛ぶほどの勢いがほしいのであればたなごころで魔法石全体を覆えば良い。ただしその使い方では一日の四分の一カマーグほどしか保たぬが」
「一日の四分の一カマーグ?」
魔法石の使い方はわかったがほかのところがわからなかった。
「一日は一カマーグムだ」
「カマーグムって六カマーグでしたっけ。それって一週間のことじゃないんですか?」
「一日を分けるのにも使う。あなたの国では違うのか」
「単位からして違いますね……」
混乱のあまり俺は指を使って計算しはじめた。一日が二十四時間だから、六で割るなら一日の一カマーグは四時間に当たる。だから一日の四分の一カマーグは、
「一時間か」
納得した俺は小さくつぶやいた。
ビューズは俺の様子を黙ってしげしげと見ていたが、ふたたびふむ、と小さくつぶやいてから声色を変えて言った。
「現王がプーリアに封じられて十年。このあいだ魔力の制御に没頭してきたが、余が十年かけた結果がまだこれだ。まだだ。まだ足らぬ、何もかもが足らぬ」
足りないとはどういうことだろうかと思いながら俺は首をかしげた。
「俺には一定程度の成果が出ているように見えますけど」
ビューズはふん、と鼻を鳴らした。
「この装置を持ってみるか。重いぞ」
そう言っておもむろに肩と腰に回したベルトを外しはじめる。甲羅がずれて、がちゃんと音を立てながら屋上に落ちた。
俺は黙って立ち上がるとベルトに手をかけてみた。よいしょ、と力を入れるがびくともしない。さすがにこれでは恥ずかしいぞと思って息を詰め、さらに力を入れると頭が真っ白になった。あ、やばいなと思った次の瞬間、肩に暖かくて重たい手がかかった。見れば熊が呆れたような顔をして俺の後ろに立っている。完全に「やめておきなさい」と言っている顔だ。
「その熊の言うとおりだ。賓殿には荷が重すぎる。いや、たいていのプーリア人にはといったほうが良いな」
ビューズが言った。
「何がこんなに重いんですか」
まだちょっと視界が白い。息を切らせて熊に寄りかかりながら尋ねると世嗣殿下は面倒くさそうに答えた。
「アウグを使った照明は見たことがあるな」
アウグの照明器具ならトツァンド城でたくさんお世話になった。わりとよく知っているといっても良いだろう。
「部屋をひとつ照らすのに、あの照明がどのくらいの重さになるか知っているか? 魔法石の数は?」
「……考えたこともなかったですね」
正直に答えるとビューズはうなずいた。
「トツァンド城の特別室には入られたな。あの室内で使われている魔法石の数は千二百。重さは……まあ想像がつくだろう」
「千二百」
俺はつぶやいた。魔法石ひとつひとつはそう大した重さじゃない。手のひらにふたつ三つは載るサイズなのだから。でも百持ったら重いな、と感じるだろう。
「照明の大きさは……だいたいこの甲羅くらいでしたね」
ついうっかり甲羅と呼んでしまった。怒られるかな、とひやっとしたがビューズは名称に関心はないらしい。そうだ、とうなずくと話を続けた。
「この中にもだいたい千の魔法石が入っている。最大出力を一日の四分の一カマーグ保つにはそれだけの量が必要ということもあるが、ほかにも理由がある」
「なんですか?」
「なんだと思う?」
質問に質問を返されたがさっぱりわからない。わかりません、と答えた。
「魔法石を詰めた空間に隙間があるとお互いにぶつかるな」
ビューズは言う。そのヒントでぴんときた。
「摩擦を起こさないようにぎっちり詰めている? そうしないと魔力が噴出してしまうということですか?」
「そうだ。さすがに千の魔法石が暴発すればこの容器も保たぬ」
「じゃあちょっとしか魔力が必要ないからといって、半分とか、それ以下とかしか魔法石を入れませんみたいなことはできないんですね」
「その通りだ」
俺は無骨な金属製の甲羅を見つめた。甲羅の曲面と体に当たる平らな面は鍛冶仕事でぴっちりとつなぎ合わされているようだ。考えようによっては爆弾を背負っているようなものだ。千の魔法石の入った。
「あれ?」
俺はつぶやいた。あることに気づいたからだ。千個の魔法石があるということは、誰かが千回魔力を込めているということだ。一日使ったら魔力が尽きるとして——
「毎日魔法石に魔力を込めているのはビューズですか?」
「そうだ。余の言いたいことはだいたい通じたようだな」
世嗣殿下は俺の顔をのぞきこんで言った。整った顔立ちがぐっと近くに寄ってくる。イケメンぶりにやや腹が立った。
「たとえばだ。王族の住まう場所の魔法石は、だいたい熊たちによって維持されておる。トツァンドに配備されている熊の数は六十で一個大隊」
「あ、そんなにたくさんいるんですね」
俺はまぬけな相づちを打った。
「さよう。そのうちアウグを使えるものは約半数か」
「千二百個の魔法石。毎日一頭あたり四十の魔法石に魔力を込める」
「特別室だけでな」
第一王子は青い眉を上げた。
俺は思わずこめかみを揉んだ。特別室のアウグだけで千二百。ほかの部屋、城全体を合わせたら?
「……ものすごく効率が悪い気がしてきました、魔法石」
「そうだ。携帯性に優れており、何度でも再利用が可能なのは利点だ。しかしそのまま使うにはあまりにも力が弱い。かと言って余の研究も重量の問題には未だ歯が立たぬ」
文脈についていけていない自信はある俺だが、少なくともビューズが何かに焦っていることはわかった。
「プーリアは……いや、余が親愛なる王族・諸侯各位は少々調子に乗っておられるようだ」
あまり楽しくない笑いを含んでビューズは言った。
「確かに魔法石についてはプーリア外では知られておらぬ。しかし諸国は右も左もわからぬ幼児ではないし、言葉の通じぬ野生の熊ではましてない。ザーハットクヮバハウゼナマキイ周辺の地理については学んだか」
大湖のことだ。俺はうなずいた。
「概要は」
「では大湖が最近どう呼ばれているかも聞きおよんでおられるな」
「ザー・ブガルク。大ブガルク湖、と」
「さよう。ブガルクは魔法を知らぬ。しかしずいぶんと兵力をあげて領土を拡大しておる。……湖までも我が物と主張するほどだ。このままでは奢ったプーリアは一掃されるぞ。自ら名乗るとおりの、大ブガルクにな」
「それであなたは魔法を発展させたいんですね」
「それ以外にこの地を守る方法があるならぜひ教授願いたいものだな」
美形の王子は皮肉げに口を歪めて笑った。
「……だいたい以上が、俺が説明できることです」
言いきって俺はかたわらのデキャンタから柑橘水を注いで飲んだ。いつの間にか日暮れを過ぎていた。室内は窓から遠い隅のほうから徐々に薄青い闇に包まれはじめている。
トツァンドにたどりついてから今日城壁のそばで腕を引かれるまでの俺の話だ。なぜ薄汚い格好をしてひとりでうろついていたのだと尋ねられ、結果的に来し方を説明するはめになった。
黙って聞いていたビューズは小さくため息をつくと立ち上がった。アウグのカンテラを灯そうとしたのだろう、窓のそばまで歩いていくと机上に手を伸ばしてしばし止め、そして振り返った。
「明かりをつけるのはやめておこう」
そう言って世嗣殿下は窓から離れる。脈絡がわからずに俺は首をかしげた。
「あなたはご自身が思っているよりも面倒なことに巻きこまれている」
音を立てずに椅子に座り直したビューズは噛んで含めるように言った。
「ここにはあなたはいない。余もいない。誰もおらぬのだ」
「どういうことですか」
不穏だ。せっかく安全なところに来られたのに、という思いがよぎって俺はややぎょっとした。この王子様が本当に信頼できるのかどうか、根拠が何ひとつないというのに、俺はすでに安心しはじめている。
ビューズは答えず唇に指を一本当てた。とまどって黙った俺の耳に突如近づいてくる足音が聞こえ、続けざまにドアを叩く音があたりに響いた。屋外だ。
「静かに」
音に反応して思わず動いた俺の肩を、第一王子が長い腕を伸ばして押さえた。
そのままの姿勢で黙っていると、階下で窓の鎧戸がばたりと開く音がして話し声がした。会話の声は低くなったり高くなったりしながらしばらく続き、そして止まった。今度は遠ざかっていく足音が石畳に響く。隣の建物、その隣、と同じことをくりかえし、そして足音は去って行った。
周囲が静まったことを十分に確認してからビューズは口を開いた。
「階下は……いや、この建物全体は余の大家が倉庫として使っておる。何があっても階上に借家人がいることを匂わせなどしない。安心なされよ」
「今のは誰ですか」
「サルン領主館の憲兵だろう」
「弟さんの、ですか?」
どうして世嗣殿下は弟から隠れているのか。わけがわからず問うとビューズは薄闇の中でにやりと笑った。
「先ほど弟は俗物だと言うただろう」
「そうでしたね」
「俗物なのだよ。目先の利益のためにあなたを誘拐するほどには」
「はい?」
大きな声が出かけてやばいと思い、口を手のひらで覆いながら喉に力を入れたのでしゃっくりのような変な返事になってしまった。さすがにちょっと恥ずかしい。俺だっていい年なんだ。
世嗣殿下はというとやはり俺の様子にはたいして注意を払っていないようだった。深々と椅子に座りなおし、あごに手を当てて腕を組み考えこんでいる。
「何かを企んでいるとは思っていたのだ。しかし余が予想していたよりもまずそうだ」
「どういうことですか」
二度目の問いにビューズはようやく説明を始めてくれた。
「あなたがトツァンドを訪れたのはちょうど一カマーグ前だと聞いている。光の子が出した早熊は翌々日にサルンに到着した」
一カマーグは六日だ。もうそんなに経ったかと思いながら俺はうなずいた。
「トアル=サン……我が弟は早熊に対し迅速に返答を渡した。『しばし待たれよ』と」
「しばし待たれよ?」
俺はおうむ返しにくりかえした。
「表向きの理由は、あなたと光の子を迎えるための準備をしたいということだ。あなたたちは王都への道すがらサルンを経由する。領主として歓待しないわけにはいかないと」
「はあ」
ところがどっこい、誘拐されたということか。わけがわからない。
「表向きは、だ。実態は違う」
ビューズが身を乗り出してきた。薄墨色の室内で明るい茶色の目がきらりと光った。小さな声が告げた。
「おそらくトアル=サンはこれから数日の間に何ごとかを密かに行うつもりだ。なんなのかは余もわからぬ。しかし確実なことがひとつある。あなたか、妹か、どちらかがその間にサルンに滞在すると都合が悪いのだろう。ふたりともやもしれぬ」
俺は思わずうつむき、同じくらい音量を絞った声で答えた。
「都合が悪い、とは」
「王に告げ口でもされると困ると思ったか」
ビューズは軽々しい様子でそう言うと俺から離れた。
「それが証拠に、光の子が早熊でよこした伝達が止まっておる。領主館から王都への遣いが出る様子がない。定期船は明日出港したら一カマーグ後までサルンを訪わない」
「定期船以外で王都へ行く可能性は?」
「ない。港に入っても追い返されるのがおちよ」
「それで俺を襲ったと。まだちょっと意味がわからないんですが」
「襲ったのはトアル=サンの手のものではないだろうな。諸侯のうちに手引きをするものがあったか」
ビューズはあごに手をやって黙った。考えているときのくせらしい。
「揃いの革鎧を身につけた騎乗集団だと言ったな」
「はい」
革鎧、という言葉を聞いた瞬間、腕に鳥肌が立ったのを自覚した。これはあれだ、ちょっとトラウマになったかもしれない。革鎧が。あの乾いた音と匂いが蘇って少し胃が気持ち悪くなった。
「……シュマルゥディスの領主が傭兵を雇いにステムプレへ行っているな。そろそろ帰途についているはずだ。ついでにトツァンドに寄って古なじみに会おうとしてもおかしくはあるまい」
意外なことを聞いて俺はあっけにとられた。
「なんでまたステムプレに」
ステムプレ、と口に出した瞬間に、赤い目と金髪を備えた司書の若者を思い出した。儀式の日、自分は廟に入れないのだと言って笑っていた。俺にはその笑顔が少し寂しそうに見えた。記憶にある、まったく別のシチュエーションの、まったく別の人の笑顔と重なって少しどきっとしたのを覚えている。
「ステムプレは今以前のブガルクと似たような状況にあるのだ」
「氏族社会だと聞きましたが」
「そうだ。地縁、血縁集団同士で互いに争いをくりかえしている。そのせいで武力に秀でたものも出ているし、一方で家畜を失って傭兵として生きるしかなくなっているものも多い」
日本の戦国時代と同じだ。一般的には戦国大名が領地の農民を徴兵して戦っていたというイメージが強いけど、実際には金で雇われた傭兵が広範囲で活躍していたことがわかっている。なんとなく想像がついた俺はうなずいた。
「ステムプレの親分より良い賃金を出せば雇われてくれるということですか」
「とシュマルゥディスは主張していた。ブガルクへの警戒を強めるため、昼夜問わず働ける民が必要なのだとな」
「そのシュマルゥディスが、俺を?」
「私兵に揃いで革鎧を与えられる領主は多くない。シュマルゥディスなら可能だ。国境警備のために王家から譲り受けているからな」
そこでビューズは不自然に黙った。今度はその意図が俺にもわかった。ここから先はただの推測になるのだろう。国外勢力との接触がもっともありうるふたつの領地が、おそらくは共謀して何かたくらんでいる。不穏だが、軽々しく決めつけて断罪して良いことでもない。
「たいへん興味深い」
しばらく黙ったあとビューズは晴れやかな声で言った。場違いさに俺は面食らった。よく見ると世嗣殿下はかなり暗くなった室内でもわかるくらいにっこりと笑っている。
「ここで顛末を見届けたい気も山々だ。ぜひともそうしたいところだ」
晴れやかな声のままでビューズは言って立ち上がった。すたすたと俺に近づいて、ぽんと両手を肩の上に置く。押さえる力が意外と強かった。
「しかしあなたは王都へ行かねばならぬ。ひとりでというのも言葉が通じぬのでは心許ない。よって余が同行するほかない」
「王都へ」
「そうだ」
「ビューズが」
「その通りだ」
そう言うと第一王子は俺の肩を解放した。
「あなたを誘拐した勢力は光の子をトツァンドに足止めするはずだ。それが一カマーグになるのか二カマーグか、それともそれ以上か知らぬが、うかうかしている間に深森が手遅れになってはもはやどうしようもない。あなただけでも王都へ行かねばならない」
俺は首をかしげた。
「ビューズは魔王を信じていないと聞いたのですが」
「信じてはおらぬ」
ふたたびあっさりと世嗣殿下は認めた。
「妹と同じ口調で古代神聖語を話す賓が訪うなどといった夢物語と同様、信じてはいなかった」
どうもこんにちは夢物語です。心の中でお返事をしてから俺はもう少しまともなことを口に出した。
「では俺のことも賓とは認めない?」
「いや」
ビューズは珍しく歯切れの悪い口調で言った。
「余の信じるところとは別に、目の前にある現象は認めねばならぬ」
「なるほど、合理的だ」
「昔話にも真実が隠されていることがあるな」
「自然災害の言い伝えとかですね。あると思います」
「そうすると、荒唐無稽と思われる魔王の説話にも何か我々が汲みとるべき教えがあるやもしれぬ」
「なるほど」
「つまりあなたの訪いはやはり急を要するやもしれぬのだ。王都へは可及的速やかに移動せねばならぬ。明日の定期船に間に合うように手配しよう」
ビューズの声色は真剣だった。その剣幕に押されて、俺はいつの間にかうなずいていた。