27. エピローグ
水の流れる音がする。だから山の移動では沢に下りるのは御法度なのになあ、熊の方向感覚はどうなってるんだ、と思って目を開けた。固い地面に横になっている。木漏れ日がまぶしかった。
「おい、大丈夫か?」
ずいぶん流暢な古代神聖語が聞こえる。
「大丈夫? 熱中症?」
こちらは年配女性の声だ。古代神聖語が話せる年配女性ってそういえば会わないな、まあ恐ろしいほどの男性社会だしな——と思ったところで見下ろす顔と目が合った。ホモ・サピエンスだ。
慌てて起き上がった。トレッキングに出かけた当日に歩くつもりだったルート上の沢がぽこぽこと音を立てて流れている。俺は沢沿いの簡易舗装道路に横になっていた。歩いた記憶があるのはもっと山頂に近い遊歩道までで、そこからいつのまにかアラアシに辿り着いていたはずだ——
「大丈夫? 頭打った?」
もう一度年配の女性に尋ねられて慌てて首を振った。高齢者のハイキンググループに発見されたようだ。
「大丈夫です。頭も痛くないしちゃんとしゃべれます」
そう言って笑ってみせた。
「一応病院行ったほうがいいよ。ほら、車道まで一緒に行ってあげるからタクシー呼びな」
親切だ。ありがとうございます、ととりあえず笑って見せて、立ち上がるときに自分の格好に気づいた。あの日と同じ服、あの日と同じリュック。尻のあたりに違和感を覚えて左手で探るとポケットからスマホが出てきた。充電はたっぷり。日付は——二千十六年四月二十九日。午後一時。さっきスマホを見てからまだ一時間も経っていない。あれは山頂だったから——
さっきだって? さっさと元気に歩きはじめた高齢者グループの後をのろのろと追っていた俺は衝撃で立ち止まった。さっきって何? とたんにプーリアでの思い出が頭の中を駆け巡った。熊の毛がちくちくしたこと。おしゃべりなガーァゥリユー。スフに、トァンに、魔法史の長。そして最後に、目を赤くして俺から体を離したビューズのことを。
帰ってきてしまったのだ。しかも時間すら経っていなかった。俺があの世界で過ごしたよすがなど、何ひとつ残ってはいない——
スマホを持ったまま両手で頭を抱えて思わず後ろを振り返った。山道と沢があるばかりだった。と、袖の中に入っている何か硬いものが右目と頬を打った。何だろうと右袖をまくると、手首に腕輪と鎖がついている。
「トァン」
俺とビューズを拘束する偽装を解いてもらってなかった。何の金属でできているんだろうと初めて考えた。鈍く輝いている。鍵どうしよう、と思った瞬間に前から声が掛かる。
「おーい、大丈夫?」
だいじょうぶです、と、ちっとも大丈夫ではないのに反射的に返事を返そうと振り返ったとき、左手に持ったままのスマホが震えた。着信だ。
当然の習いでディスプレイを見る。電波が弱い。切れないといいけど、と思いながら発信者の名前を見て固まった。「公衆電話」になっていた。
「携帯の番号、変えた?」
「じゃあ、変えないでいて」
「何とかして電話する」
「約束ですよ」
深森で交わした会話を思い出して心拍数が一気に上がった。スワイプしようと右手を挙げると鎖が服の中でじゃらじゃらいう。体中が細かく震えた。俺は言うことを聞かない人差し指を何とか動かしてディスプレイに滑らせ、目をぎゅっとつぶってスマホを耳に当てた。
(了)
草稿が書き終わりました。毎話お読みくださっていた方がいらっしゃると思います。推敲ほぼなしの読みにくい連載だったかと思いますが、本当にありがとうございました。とても励みになりました。
推敲版の今後については別館1617のウェブサイト及びTwitterでご報告します。よろしければそちらもご覧ください(「別館1617」で検索してください)。
それではまたの機会にお目に掛かりましょう。ご愛読ありがとうございました。




