26. 深い森から続く道(3)
「つまり、私は帰れるのですな」
湿っぽい空気が流れる中、突如生き生きとした声がした。魔法史の長だ。
「もう、繰り返さなくて良いのだ。私は私の人生に帰れるのだ」
今度ばかりは長は涙を隠さなかった。
俺は気を取り直して咳払いし、熊に抱かれたまま背筋を伸ばした。
「ワティーグスさん」
俺の呼びかけに長は顔だけ振り返る。
「もう行かれますか」
「ええ。どうせ帰っても碌な世界ではない。そんなことはよくわかっておりますとも」
老人は泣きながら笑った。
「碌な人生ではありませんでしたし、碌な社会でもなかった。大統領に至っては最悪です」
俺はちょっと目を丸くした。それ、人生のネタバレじゃない?
「しかし私の人生だ。私の生活、私の生きる場所だ」
「そうかもしれませんね」
何となく言いたいことはわかる気がした。ここに留まり続けるかぎり、けっして俺たちの生は終わらないのだ。何を成し遂げても、どんな悪に手を染めても。それは夢みたいなものじゃないのか。
「ワティーグスさん」
俺はもう一度言った。
「ワティーグスさんのステージ、見に行きたいです」
老人はきょとんとした後、破顔した。
「お探しください。私はあなたに気づきますよ。小劇場はひとりひとりの客がよく見える」
「たしかにそうですね」
俺は苦笑した。そうだった、俺だけはこっちでもあっちでも顔が変わらないのか。
「じゃあ、いつかまた、ニューヨークで」
「ええ。お待ちしています」
頷いた老人は前を向き、そして二度と振り返らなかった。その体が綾錦のように輝く白い岩に飲み込まれて見えなくなっていくのを、俺たちは無言で見送った。
「あなたも行くのだな」
いつの間にか隣に立っていたビューズが下を向きながら言った。非難しているわけではない。でも歓迎もされていない。ただ、厳然とした事実を前に最後の確認をしているのだった。石碑に刻まれた文字を読むようなものだ。
「ええ」
俺は頷いて、しばらく考え、そして言った。
「また、来ます」
「どうやって?」
顔を上げたビューズは俺を睨みつけた。
「適当なことをおっしゃるな。一度去って……」
「やってみなきゃわかんないでしょ」
お怒りの第一王子をなだめるために、俺は熊の腕の中で体をひねると両手をしっかりとした肩の上にぽんと置いた。ビューズは口を開けたまま止まり、そして黙った。
「やってみなきゃわかんない。止めてしまったらそこで終わりだ。進めば何か見つかるかもしれない。あなたが教えてくれたことです」
なんかあなたはずいぶん俺に感謝してるみたいだけど。俺がもらったものだって、たくさんあるんだ。
笑いかけた俺は、両手を伸ばしたままで固まった。世嗣殿下が長い左腕を回して、がっしりと俺の肩を抱いたからだ。
「そうだな。あなたの言うとおりだ」
声は震えていた。
「また会おう。待っている」
「ええ。ちょっと時間が掛かるかもしれないけど、道を探してみますよ」
お互いの顔が見えないのをいいことに、俺たちはしばらくそのままの姿勢を保った。
“素晴らしい”
老僭主の呟きにトァンはわずかに眉を寄せた。
“友情が、でしょうか”
“いえ、そうではありません”
老人は微笑む。
“これから、があることです”
“閣下?”
“殿下にのみお伝えしましょう。殿下がこの情報をどう料理なさるかはご自由です。吾輩はぼんやりとプーリアで物見遊山を行おうとしていたわけではありません。トアル=サン殿下以外の勢力が、ブガルクに対し危機感と敵意をもっていることももちろん確認しております”
トァンは頷いた。この大湖の覇者ならそのくらいのことは当然しているだろう。
“仮に吾輩がトアル=サン殿下との会合に現れなかった場合。つまり吾輩の気が変わったか、吾輩の身に何かが起こった場合です。そのときには”
緑の双眼が少女の顔をじっと見つめた。
“サルン、シュマルゥディス、それにトツァンド、そしてステムプレの各地。ブガルクの勢力が及んだ土地で、蜂起が起こります。いや、すでに今起こっているはずです”
“どういうことですか”
少女は思わず一歩後ずさった。
“時限装置のようなものですよ。一定の条件の下に発動する命令です。頭が落とされれば、体の各部がそれぞれ頭となって働きます”
ザー・ラムはにっこりと笑った。
“もちろん吾輩とて要らぬ戦は好みませぬ。戻り次第平定に尽力いたしましょう。ただしそれはあなたや兄上たち、それにプーリアの諸侯たちのお望みになる形ではないやもしれませぬ”
トァンはじっくりと老僭主を眺めた。今ここでこの老人を儚くすることはできる、と少女は判断した。この近さ。百人隊との距離は十分に離れている。すぐにでもその口内から魔法石を奪い取れば。その状態で刃物を持ち出せば。可能だ、と思った。しかしその場合、百人隊の攻撃対象はすぐにトァン自身、そして第一王子やスフ、熊たちに移るだろう。互角に戦うことは可能かもしれない。しかし生き延びるのは難しいだろう。ここで全滅したら、プーリアの急を救うものが減る。そして彼も、戻れない。ビューズと抱き合うよく知った男の姿を見て、トァンは心を決めた。ゆっくりと微笑みを浮かべ、言う。
“それではわたくしたちも急がねばなりませんね”
その様子を見た老人は感嘆したようにあごを上げ、言った。
“やはりあなたはプーリアの国境に捨て置くにはもったいない方です”
トァンはもう一度微笑むと、仲間たちのほうへ歩いていった。
俺は魔法石の目の前で熊に降ろしてもらった。とうとう行くのか、という後ろ髪を引かれる思いと、さあ早く、と急く思いとが交錯するのを、どこか他人事のように思いながら岩の表面に手を触れた。たしかに硬い感触がするのに、俺の右手はすっとその中に入り込んだ。
俺は再び深呼吸をした。深呼吸をして咳き込まないというのはいいものだ。
「トァン」
俺はある確信を持って声を掛けた。
「あなたは残るんでしょう」
後ろで驚いたような気配がした。俺は思わずにやりと笑い、それから口がへの字になるのをなんとか堪える。そうだよね。戻りたいなんて、あなたこそ思うはずがないんだ。
「ワティーグスのような人物がこの世界に存在することを、わたくしは知ってしまいました」
期待していなかった答えが返ってきた。思わず振り返ると、水色の瞳が俺を見ていた。
「考えたこともございませんでしたが、帰る道筋すら思い浮かばないまま終わらない悪夢を生きている人がたった今苦しんでいるやもしれません。わたくしはその解決策をひとつ知っている。力になるための立場ももっています。見捨てるわけにはまいりません」
その視線には迷いがなかった。
喉の奥が不如意に締まるのを感じながら、俺は思わず笑ってしまった。それでこそあなただ。結局誰かのために手を差し伸べずにはいられないんだ。
「あなたらしくていいと思います」
俺は思ったままを告げて、頭を下げた。少女も同じようにした。あ、左胸に手を当てるの止めたのね、と思って、お辞儀を返してくれる意味に気づき、また視界がにじんだ。
「じゃあ、俺は行ってきます」
旅行にでも出かけるかのように極力気楽そうに声を掛けて、俺は岩に向きなおった。
“お前とて行ってはならぬ法はないだろう”
ビューズは歩み寄ってきた妹に言った。むしろ異世界からの客人が帰途につくことでしか均衡が保たれないのであれば、この娘も——この娘こそ、帰るべきではないのか。
“戦が始まります”
遠ざかっていく男の黒髪を見つめたまま、トァンは隣に立つ兄に小声で伝えた。
“どういうことだ”
驚き、思わず詰め寄った第一王子に距離を取るよう手で伝える。
“くわしいお話はこれからいたしますが、ブガルクとどのような関係を取り結ぶかについてはお考えいただきますよう。そしてわたくしは、知ってしまった以上今この国を離れるわけにはまいりません”
兄は黙り、自らより身長の低い妹をとくと眺め、言った。
“そうか”
岩に片足を踏み入れんとするその矢先だった。後ろから再び声がした。
「大峯くん」
懐かしいしゃべり方だ。でも声が違う。
「携帯の番号、変えた?」
閉じた口からばっと息が出た。もう自分が泣いているのか笑っているのかさえわからなかった。
「変えてないです。ずっと大学時代からあの番号のまま」
「じゃあ、変えないでいて」
声は言った。
「私のはたぶん解約されちゃってるだろうから。何とかして電話する」
「……わかりました」
いいよ、MNPでも何でもしてやる。仮に長期欠勤で失職してても、ずっと契約してる。料金は自動引き落としにして口座に冬のボーナス残りを全部ぶち込んどく。だから。
「約束ですよ」
振り向かずにそう言って、俺は真っ白な極彩色の中に体を投げ入れた。




