26. 深い森から続く道(2)
「わあ」
明らかに岩であるところのものの内部に魔法史の長の右手が丸々埋まっているのを見て、俺は間抜けな声しか出せなかった。
「しかしなぜ」
不審そうな声を出したのはトァンだ。トァンには再会からこのかた完全に避けられている。まったく目が合わない。しかし今は俺の視線を避けるわけではなく、本当に理解ができないという様子で長の手を見つめている。実際、俺の様子を気にかけながら触ったビューズの手は岩の表面を撫でただけだった。
「あ、そうか。そこから」
俺が言うとトァンはついといった様子でこっちを見た。引っかかったな。にやっと笑うとはっとした様子で目をそらす。
「ワティーグス・ターリクさんは俺たちと同じですよ。いや、厳密にはあなたと同じ?」
「同じ?」
「帰りたいんですよ、ワティーグスさんは」
そう言うとビューズの髪の毛よりもっと薄い青色の瞳が見開かれた。
「グーォウ、俺を全力で押さえつけててくれ」
久しぶりに俺を横抱きにしている熊に頼む。すん、と鼻が鳴って腕の力が強まった。俺は背中を熊に預けたまま巨大な魔法石をとっくりと眺める。
「やめておいたほうが」
止めに入ったビューズにまあまあ、と手を出して言う。
「あなたも見てください。見えます?」
「何がだ」
柳眉を寄せて岩を見たビューズがそのまま黙った。
「ああ」
理解した声だ。
「……影ですね」
近くでスフが言った。
「黒」
俺は呟いた。
「うん?」
ビューズに聞き返される。
「一般的に影って黒ですよね」
「そうだな」
「闇も」
「ああ。何が言いたい?」
俺は黙って一度深呼吸をした。母なるイー、魔法を伝えた。影を見つけ、魔王と呼び、ブイジーに隠遁。そして消えた——
「この影が魔王であり、かつ母なるイーって可能性は、あるんでしょうか」
「どういう意味だ?」
俺は抗いがたい欲求を何とか抑え、岩から目を引き剥がしてビューズを見た。
「どうして俺は今こんなにも駆け出して飛びつきたい欲求に駆られるのか」
ビューズの目の色が変わったので大丈夫ですよ、と両手を広げる。グーォウを信頼しようぜ。
「ねえトァン、ワティーグスさん、俺は母なるイーのことを同時代人だと思う」
もう一度視線を岩に戻しながら俺は続けた。ちらり。ときたま影が横切る。その度に冷たい水風呂に放り込まれたような、かんかん照りの中突然暗雲がよぎって冷たい風が吹いたような、そんな感覚を覚える。
「ずっと使っていた親石に不穏な影が出て、それを調査したら森の異変が見つかった。俺たちと同時代人なら、何を思うと思います?」
「環境破壊」
落ち着いた声は意外にもトァンから出た。
「ね。そう思いますよね。そして異変を起こしているところに近づけば近づくほど、自分は元気になる。自分もまたこの世界を破壊している因子なのではないかと怯えたはずです」
「しかしなぜ消えたのでしょう」
「俺が今にも走り出したい気持ちに取り付かれているのが、その答えなんじゃないかと思うんです」
俺は岩を見据えたまま答えた。行きたい行きたくない、知りたい知りたくない、考えたいもう何も考えたくない。相反する気持ちがずっと頭の中で渦巻き、どんどんわけがわからなくなる。思考を放棄すると体が勝手に動いてしまうだろうという予感だけはする。
「俺は気づいたらこの世界に放り込まれていました。アラアシという場所だと後から聞いた。歴代の賓もアラアシを通ってきたと。そしてワティーグスさん、あなたも」
「ええ」
「入り口は一方通行です。逆戻りしてももとの世界には戻れない。では出口はないのか? ワティーグスさんは魔王が出口だと考えた。そうですね」
「ええ。私の調べる限りにおいて、光の子を連れていた賓がこの世に再び生を受けた形跡は見当たらなかった。実際は間違いでしたが」
「秘匿されていたんだから仕方ないです。実際は賓は光の子としてもう一度別の生を生きる。記録に残されていた光の子は、自らが死んだら今度は魔王に生まれ変わるのだと思っていた。では魔王が死んだら? どうなります?」
「滅びるのではないのか」
ビューズが尋ねた。
「光の子と、もしくは賓と、あるいはその両方と対消滅するとかならありだと思うんですけどねえ……対消滅ってものすごいエネルギーを産むらしいし、そんなの頻繁に繰り返してたらとてもじゃないけどこの世界が無事なままだとは思えない」
首をかしげてから対消滅の概念ってけっこう新しいかと気づいた。反物質とかだから相対性理論とか、そのあたりの話のはずだ。俺は説明できない。それよりも——
「質量保存の法則」
いや、これもちょっとだいぶ新しいって。説明しづらいな。
「また遊んでおられるのか」
「遊んだことなど一度もないです」
むっとした。でも口げんかしていてもしょうがない。
「わかんないことはいくつかあります。賓が光の子へ、見た目が完全にこの世界の人間に生まれ変わるのに、魔力だけは変わらないのはなぜか、とか。同じように迷い込んで生まれ変わってしまったワティーグスさんの魔力がアウグなのはなぜか、とか。ただ、この生まれ変わるっていうところにポイントがあるんじゃないかと俺は思うんです」
俺は首をかしげたままビューズを見た。
「ほかのみなさんは前世とか、違う世界のことととか、考えもしないで生きてきたはずです。そういうことを言うのは俺の世界に属する人たちばっかりだ。たぶんこの世界からはじかれるんじゃないでしょうか」
「はじかれる?」
ビューズが再び眉をしかめた。
「ああ」
納得したような声を出したのはスフだ。
「異質なものだから、溶け込むことを許されない」
しまった、よりにもよってスフにこういうことを言わせてしまったと俺は若干後悔した。一方でスフだからこそわかったんじゃないかとも思う。
「そう。この世界全体からはじかれ続ける。いつまでもいつまでも」
そして俺は老魔法司を見た。
「もとの世界に帰るまでは、ずっと」
「私は帰れるのでしょうか」
長は小さな声で呟く。
「帰れるんじゃないでしょうか。だって岩の中に入れそうじゃないですか」
「岩の中に?」
「俺が今ずっと耐えてる衝動はね、この中に飛び込みたいっていうものなんですよ。意味わかんないでしょ。岩なのに。なぜか飛び込めるってずっと感じているんです」
「つまり」
「この魔法石……魔法岩? が、出口なんじゃないでしょうか」
「しかしそれでは魔王の謎が解けません」
トァンが俺に向かって口を開いたので俺はちょっとびっくりした。さっきまでずっと隣にいるザー・ラムへの通訳をしていたのだろう、小声で話し続けるのが見えていた。
「そうですねえ」
俺はもう一度岩を見た。岩と、その中に隠れる影を。
「母なるイーは何を魔王と呼んだんでしょうね。俺には自己紹介にしか思えないんだけど」
それは現代人のちょっと良くない癖かもしれない。人間を世界にとってのウイルスと捉えるみたいな。
スフが口を開いた。
「母なるイーは世界を守るために立ち上がったと、ガーァゥリユーたちが言っていました。そうだよな」
「はい。くまたちがそれをおぼえています。からすはそれをかたる」
ガーァゥリユーが熊の頭の上から答える。
「しかし私は、母なるイー……が実在するのならば、ですが、その望みは本当は別のところにあったのではないかと疑っていました。今、賓様のお話を伺って、その思いは一段と強くなりました」
俺は首を別の方向にかしげた。
「どういうこと?」
「賓様、今の気持ちを正直にお答えください。お帰りになりたいですか?」
「へ?」
俺は面食らって黙った。
俺はこの世界に属していない。ここにはインターネットもスマホもないし、俺の仕事もない。病気になっても十分な医療を受けられないし、何よりも家族も友人も誰もいない。
誰もいない? 俺は周りを見回した。熊たち。烏たち。言葉で意思疎通はできないけど、一緒に旅ができてほんとに心強かった。彼らがいなければ俺の命は今ごろなかったんじゃないかと思う。スフ。聡明で優しくて、忍耐強い。スフみたいな人がいる社会には希望が持てる気がする。そして……ビューズ。突然現れていろいろ引っかき回して、でもあらゆる点で助けてくれて、すべてを投げ出しているようですべてを自分が背負おうとして、見た目が良くてイケボで、身分も最高に高くて……俺のことを友だと呼んでくれた。
ぶわっと視界がにじみ、俺は慌てて俯きながら瞬きを繰り返した。堪えきれなかった涙がひとつぶ、ふたつぶ頬に転げ落ちる。指の先でぬぐって鼻をすすり、笑おうと思ったけどできなかった。
「……帰りたくない」
小さな声で言った。本心だった。この世界で得たすべてのものを後ろに置いて、もとの世界に戻るのが耐えられなかった。胃に穴を開けそうな仕事、電車に乗って行って帰ってくるだけの毎日、書類の山、本音と建て前、選挙のことしか考えてない議員と次の異動ばかり気にしている上司。周囲に流されて生きるのにはぴったりだ。でも俺は、それだけじゃない毎日を知ってしまった。もう、戻りたくなかった。
「申し訳ありません」
本当にすまなさそうな声色でスフが言った。
「ビューズ殿下は賓様をお返しになるまいとなさっている。そして賓様もそのお気持ちをわかって受け止めていらっしゃるように感じました。そういうものだろうと私も思います。そして母なるイーも同じだったのではと思ったのです」
スフは首を巡らして岩を見つめた。
「そして留まり続けるために光の子に生まれ変わった」
「つまり」
俺は何とか気を持ち直して後に続いた。
「魔王も、賓も、光の子も……すべては母なるイーが作った方便だったってこと?」
「はい。次の生で眼前に現れた似たような黒髪の……同じ言葉を話す同世界人を捕まえて、賓とお呼びになったのではないでしょうか。捕まえて、というと悪意がある言い方ですが」
スフは小さく笑った。
「賓、光の子、魔王。そのつながりを信じ込まれたみなさまは、語られたように生を繰り返された。魔王になど、なっていないのかもしれません。実際この場に魔王がいるとはどう考えても思えない。幾度かの生を繰り返し、いつか納得されてお戻りになったのかもしれませんね」
この場所から。そうスフは言った。
「賓様の世界の方がこちらに留まり続けると魔法に不具合が発生する。本来存在しないルウシイをお使いになるせいでしょうか。魔力量がお強いことも災いするのかもしれません。しばしおいでになり、すぐにお帰りになるのであればそこまで問題ない。そのための入り口と出口でしょう。しかし母なるイーが長きにわたり留まってしまったせいで」
「均衡が乱れて死の風が吹くほどになった、か」
ビューズが呟いた。
「はい。その壊れが未だに修復されていないのではないでしょうか。魔法史の長以外にも、迷い込んだまま幾度も生を繰り返している方がいらっしゃるのかもしれません。いると考えたほうが自然です」
「その場合、ほころびはどんどん大きくなり続ける一方だ」
俺は納得した。
「じゃあ、俺が走り出して岩に飛び込みたいと思うこの衝動も、本来そうするべきだからだということになるな」
それはしんどいなあ、と思って、でも何だかよくわからないけど笑ってしまった。やだなあやだなあと思いながら結局ずるずるとそのまま行ってしまうのか。いかにも俺らしいかもしれない。




