26. 深い森から続く道(1)
ぼふっ、もふっ、ぐるぐる、どんどん。擬音にするとこんな感じだろうか。熊が空中で俺を引っ掴んで、衝撃を緩和してくれたのだ。腹にけっこうな衝撃は受けたけど、とくにそれ以外は問題なく俺は立ち上がった。右手の鎖がじゃらりと重い。こっちは本当に鍵を掛けたのか。
「ビューズ、大丈夫です?」
俺は鍵などもともと掛かっていなかったほうの人物に声をかけた。何しろ骨折している。こんな目に合わせるべきでは本来ない。
「ああ、大事ない」
その大事ないって信用ならないけどな、と思ったが、今回は本当のようだ。熊二頭がかりで抱えていてくれたお陰だろう。痛いところもないようでけろりとしている。
「急ぎましょう」
同じように立ち上がったスフの声で我に返って、俺たちはそれぞれ熊にまたがった。ビューズは片手なので俺と同乗だ。体格の大きいグーォウが乗せてくれた。ふたりともここ数日の強行軍で多少痩せているといいなと思った。
走る熊に揺られながら後ろを振り返ると、ブイジー城が音を立てて崩落していくところだった。ダンプカーが土砂を降ろしているときのあの音がする。もうもうとあたりに立ちこめている土煙のせいで、残してしまったブガルク兵たちの姿が見えない。
「怪我人、出てないといいけど」
聞かせるつもりはなく呟いた声をビューズは拾った。
「ああ」
そんな甘いことはないということはよくわかっている。怪我人どころか、死者だって出たかもしれない。もとはといえば俺たちを足止めしようとしたトァンが悪い、それはわかってる。でもトァンは腕輪の鍵をきちんと掛けないで出て行った。そういうことだと理解した。だから見張りを振り切って脱出しようとして——こんな暴力的なやり方しか思い浮かばなかった。
次々と湧いてくるああすれば、こうすればを振り切るために俺は首を振って周囲に声をかけた。
「魔法石、なくしたり飲み込んだりした人は?」
「問題ございません」
「だいじょうぶです」
脇から、空から、次々と声が降ってくる。よし。それならあと丸一日は保つだろう。
「じゃあ、よろしく頼んだよ」
ビューズの肩越しにグーォウに声をかけた。熊の長は小さくウ、と返事をすると、少し走るスピードを上げた。
トァンが何を思ってひとり出て行ったのかは、結局俺にはわからなかった。魔王のところに行ったのはわかる。そして魔王についてなら仮説がふたつあった。ひとつは、光の子が魔王を斃し、次の魔王に生まれ変わる。そして同行する賓は次の光の子になるという説。もうひとつは、深森に強く惹かれるのが賓であって光の子ではないということから、魔王が呼んでいるのは賓だけなのではないかという説だ。両者はそれぞれ全然違う経緯と結果をもつように思われる。トァンはどういう想定でいる? 何をしようとして、俺たちを足止めした?
考えてもわからない。わからないから教えてほしいのに、トァンは対話をほぼ拒否した状態で出て行ってしまった。いいか、仕事はひとりで抱え込んじゃいけないんだぞ。主査の口癖だ。今はそれをそのままトァンに言ってやりたかった。
深森は名前の通りどこまでも深く、どこまでも暗いように思われた。日の光すらほとんど入らないほどに木々は枝葉を広げ、互いに互いを締め付け合い、窒息させようとでもするかのように成長している。トァンを連れた百人隊は、歩行連隊としては少々早すぎるスピードで行軍していた。二回の夜を過ぎ、今は朝だ。トァンとザー・ラムはそれぞれ用意された輿で運ばれている。
“あちらです”
トァンは度々短く方角の指示を出す。迷うことなく、あやまたなかった。最後の方向指示があってしばらくののち、唐突に日の光が一行を照らした。森の中心部へ出たのだった。
“降ります”
そう言ってトァンは地面に降り立った。ブイジー城の周辺よりもずっと丈高く育った下生えの先に、赤とも青とも緑とも、それ以外のすべての色とも見え、実のところ純白であるように思われる、小さな丘ほどの大きさの岩がそびえていた。
“あれが”
同様に輿を降りたザー・ラムがトァンに尋ねる。
“さようでございます。わたくしが見た……見たように思うものです”
それは巨大な魔法石だった。トァンはためらいつつも静かに進み出、岩の前に立った。岩はすべての色できらめき、純白の静けさをたたえていた。
「サンド」
トァンはためらいながら自らの光の子の名を呼んだ。魔王に生まれ変わると信じていた少年の名を。何を期待しているのかは自分でもわからなかった。ただ、そこにいてほしいという思いと、どうかいないでいてほしいという思いが交錯していた。
応えはなかった。岩は静かに輝いていた。苛烈なまでに猛々しく、骨の髄まで凍りそうなほど冷たかった。ありとあらゆる遊色の中にときおり混じる黒い影を感じるたび、喉元を締め付けられるような焦りを覚える。
“なんと美しい“
ザー・ラムは呟いた。己が何をしようとしているのかを頭で理解する前に体が動いた。老いた、しかし力強い右手が輝く白い岩の表面を軽く撫で、しばし留まった。
“冷たいようでいて温かい”
そう言う僭主の手元には流れ落ちる滝のようなパニイが現れた。そのさまをとっくりと眺めたトァンは一度つばを飲み、息を深く吸って口を固く閉じると同じように右手を出して岩に触れた。その手はまるで桶の中の水に浸るように、易々と岩の表面を通り抜けた。
“おお”
感嘆の声を上げるラムとは対照的に、岩の中に手を埋めたトァンの表情は晴れなかった。
トツァンドではぐれた後わざわざずっと賓を追ってきた。その本人をなぜブイジー城に置いて出たのか、トァン自身にもその理由はよくわからなかった。オルドガルに流れ着いたとき、ザー・ラムから呼び出されたとき、これで何かが変わるかもしれないと考え、少し気がゆるんだのは事実だった。みな変えたいと考えていたはずだ。歴代の賓たちも、光の子たちも、このような連鎖は自分たちで終わりにしたいと、そう思っていたに違いない。しかし成らなかった。いつもいつも慣習や、義務感や、立場や、深森に呼ばれる焦燥感から、定まった運命を変えようとする試みは虚しく無に帰していた。だからトァンもまた同様だと思っていた。半ば諦めもしていた。
ただ、まさかよく知る人物が自らの賓となるとは想像していなかった。よく知る人物どころか、まさにあの男がやってくるとは、露だに。巻き込みたくないと思った。己のときは、結局止めることができなかった。同情心から、この子どもを楽にしてあげたいと思った独りよがりから。その連鎖に、自身の責任に、この男を巻き込むことはできないとそう思った。だからといって何を成すべきなのかはわからなかった。自ら望んで伴ってきた大湖一の権力者ですら、何かを成せるとは期待もしていない。ただ、何もしないことが耐えられなかっただけだった。
“以前ここを訪れたとき、わたくしはこのようではございませんでした”
淡々とトァンは言う。
“郷愁と展望、恐怖と友情、憎しみと愛情、今すぐここに入っていって二度と戻りたくないという思いと、一刻も早くここから立ち去りたいという思い……。すべてがない交ぜになりすぐに何も考えられなくなりました。ただ亡霊のように歩み寄り……光の子がわたくしの名を後ろから呼んでいたことは覚えています”
“その後はどうなさったのですか”
ラムの問いかけに対し少女は首を振った。
“あるときわたくしはそのことを思い出しました。と申しましても朧気な……色と風、音。そしてあの逸る思い。何かを成さねばならぬことはわかっているのに、それが何なのかわからない”
トァンはまぶたを閉じた。
“あれは世嗣殿下の元服祝いの場でございました。わたくしは乳母に抱かれ、諸侯から捧げられるとりどりの魔法石を見ていたのです”
“今生ということですか”
“さようでございます。閣下、記憶というのは非常に朧気なものでございます”
トァンは目を開けた。その視線は今だ岩から離れない老僭主の手の、その下で踊るパニイに注がれている。
“魔力のように、一度放たれればもとに戻らない。あったことすら忘れてしまうことも珍しくはございません。ひとりの人の、わたくしのような若輩者の生ですらそうなのです。ひいては前の生の記憶など”
“どのくらい覚えておられるのです”
“それすらもわからないのです。まるで夜に見た夢のようです。わたくしはそこにいたが、それが現実とはにわかに信じがたい。いや、夢なのだとしたら現実ではございませんね”
トァンは静かに続けた。
“悪夢と同じように、朧気な記憶はわたくしを苛みました。ふとしたきっかけで、何かが蘇る。しかしそれを経験したわたくしはわたくしではないのです。最初に話した言葉すら、自らの国語ですらなかった。わたくしは亡霊のようなものです。時代と時代、記憶と記憶の狭間に取り残された”
“吾輩には立派な人間の淑女に見えますな”
ラムはまじめくさって言った。その心遣いを受け取って少女はわずかに微笑む。
“わたくしもわたくしの生を生きられるのかもしれないとわずかに期待いたしました。光の子であることを否定され、トツァンドに封じられたときのことでございます。人並みに働き、悩み、喜び、ああであったこうであったとその与えられた年々の終わりに振り返ることのできるような」
トァンは振り返った。兵たちが騒がしくなっていたからだ。伝令がラムに駆け寄り、何かをささやいた。僭主は頷いて答えた。
“お通しするように”
“そう思っておりました。しかし違った。わたくしはやはり誰のものかも定かでない夢から逃れられないのです。あの方がお出でになったときに、突きつけられたのでございます”
熊の一団が視界に現れた。トァンの目は兄と同じ熊に乗る黒髪の人物に注がれていた。
深森の最奥部にようよう辿り着いたスフは、ゆっくりと感慨を覚える間もなく黒髪の客人を力尽くでねじ伏せるはめになった。
並んで立つトァンとザー・ラムの姿を見、その前にそびえる巨大な魔法石を確認したときには誰もが圧倒された。しばし無言が続いた。と、唐突に第一王子の声が静寂を破った。
「ならぬ!」
声の先を見ると賓がふらふらと魔法石に向かって歩きはじめている。真っ黒なその瞳孔は開かれ、かんばせは自らの意志が宿っているとはとても思えない表情に支配されていた。ビューズが必死で腕を掴み声を届けようとしているが、片手しか使えない上にまだ熱の下がりきっていない身だ。どちらかというとひっかかって引きずられているといったほうが正しいありさまだった。
スフは自らの主を振り返った。片手を岩に置いたまま——見間違いでなければまるで岩の中に埋まっているように見えた——静かな表情で今起こっていることをじっと見つめている。介入する気はさらさらないのだと理解し、スフは身を翻して揉めているふたりに駆け寄った。
「大変申し訳ありません」
そう呟くとビューズに加勢し、背中から体重をかけつつ賓の歩みを足で振り払った。
頭が割れてるのかと思った。頬が痛い。わけがわからなくてパニックになりかけたところで、痛くないほうの頬に誰かの手が触れた。もうすでに見慣れてしまった、空色のまつげに縁取られた茶色い目がこちらを覗きこんでくる。
「……ビューズ」
「正気に戻られたか」
安堵したように呟かれたことで、俺たちが今何をやっているのか思い出した。
先発したトァンとザー・ラムを追って、深森の奥へと分け入ったのだった。早く行かなければという焦る気持ちはどんどん強くなって、深森に足を踏み入れたあたりからは自分を保つのが難しくなった。俺が飛び降りたらビューズも落ちるから、と、それだけを念じて耐えた。耐えていたはずだが、いつの間にここに辿り着いたんだろう。覚えていない。
俺は自由になる範囲で首を巡らした。トァンがいる。ザー・ラムもいた。そのふたりの前には色の洪水があった。いや、違う。白い岩だ。でも白くない。いろんな色がさんざめいている。でもまるで空虚のように思われる。すべてがあって、すべてが失われている。
視線を外すことができなくなった目を何か温かいものが覆った。声が響いて、ビューズの手だということがわかった。
「ご覧になるな。余はこのようなわけのわからないことで友を失いたくない」
「……あれは何」
必死で言葉を探した。何を言われたのかわからない。ただ知りたい、近づきたい。上に乗った重さがじゃまだ。ビューズの手もじゃまだ。四肢をばたつかせようとしたがどれもがっちりと押さえ込まれていてままならない。
「ご辛抱ください」
スフの声が響いて、ああこいつがと苛立った。
俺の意識を奪ったのは、小さな震え声だった。
「これが」
今にも泣き出しそうなそれは魔法史の長のものだった。
「これが」
もう一度繰り返した声の主が遠ざかっていくのが聞こえる。
「長よ」
トァンの声がした。
「何をなさるのです」
「触れたいのです」
老人は答えた。
「ねえ、ワティーグスさん」
聞きたいこと、喋りたいことが唐突に戻ってきた俺は大声を出した。
「どうしてもそこに行かなければならない、触れなければ、逃げなければ、もう二度と見たくない、ずっと見ていたいと思いますか?」
「いいえ」
老魔法司は静かな声で答えた。
「そのような焦燥はわが胸には迫ってきません。……しかし、もっと早くに見ることができればとは思います」
そのあとしばしの静寂があり、周りの人たちが大きく息を呑むのが聞こえた。
「何です? 何があった?」
「賓様」
魔法史の長の声はさらに震えるものになっていた。
「岩の中に手を差し入れることに成功しました……トァン殿下も同じようになさっています。しかしザー・ラム閣下におかれてはそれはならないようだ」
「なるほど?」
疑問がいくつかむくむくと湧いてきて、俺は頭が冴えるのを実感した。
「ねえビューズ、確認したいことがあるんです」
「しかし」
「熊が俺を抑えつけてくれてたら大丈夫じゃないかな。どうだろう、グーォウ」
思ったよりも近くでウ、という声と鼻息がした。
「……危ないと思ったら引き剥がすぞ」
ビューズが渋々といった様子で言った。




