25. 子どもたち
ブガルクの兵服を身につけたトァンが露悪的にふるまっているのはすぐわかった。芝居が下手なんじゃない。むしろ上手いと思う。トァンと近しい人ほど騙されている。黙って見守るガーァゥリユーの尾羽がだらりと力をなくして垂れ下がっているのが気の毒だった。
なぜわかったかというと、俺がトァンとは顔見知り程度の間柄でしかないから——そして、今のトァンを形づくった人、この場にいる中では俺以外が誰も知らない人のことを、わりとよく知っていたからだった。あの人は息をするように助力を惜しまない人だった。それがたぶん本人を追い詰めた。トァンだってよくわかっているだろう。だからこそ今回ばかりは同じ轍を踏むまいと努力して、結局同じことをしている。
こうやって先生とトァンのことをある程度切り分けて考えることができるようになったのは魔法史の長の話を聞いたからだ。ビューズのことで未だに腹は立てているけど、感謝もしなければならないなと俺は思った。
トァンに気を取られていたから、ビューズが喧嘩を売っているのに気づくのが少し遅れた。でも俺の目は言葉を発するあごがわずかに震えているのを見逃さなかった。足音がする。ご本尊の登場だ、と気づいたとき、目の端にちらちらする位置にある刃物のことを一瞬忘れて、ビューズの顔を隠すように体が動いていた。
とうとう現れた、噂にだけは何度も聞いたブガルクの僭主は、老年に入ってなお明るい緑色の髪を豊かにたたえていた。その下には同じ色の双眼が燃えるように輝いている。重そうな鎧をさほど苦もない様子で身につけていた。なるほど天下を統一するのはこういう人物なのかと、俺は織田信長にでも会ったかのように場違いに感心してしまった。豊臣秀吉のほうが近いかもしれない。
ザー・ラムの燃える瞳が俺のほうを向き——感心したようにすがめられた。ビューズをかばった右手に力が入る。と、視線はすぐに逸らされた。そして俺の後ろをかすめて止まると、驚愕したように見開かれた。
“〜〜〜 〜〜 〜〜〜”
途切れ途切れに発せられた言葉には、上手く説明できない情感がたっぷりとこもっていた。俺は老僭主が泣き出すのではないかと思った。そして何がそうさせたのかと振り返り——ようやく理解した。
俺の後ろにはスフが俯き気味に立っていた。見上げる俺にはその顔がよく見えた。赤い目。金色の髪。鼻筋から秀でた額にかけてのラインは、やはりビューズとよく似ていた。
「ビューズ殿下」
あえてだろう。スフは古代神聖語で話した。
「トァン殿下が売り飛ばそうとなさったのは、あなた様でも国でも賓様でもありません。むしろおふたりには最後まで誠実であろうとせんがために、この結果をお選びになった」
そう言うとスフは顔を上げて僭主の顔をまっすぐに見た。
「売られたのは、私です」
スフと顔の輪郭がよく似ている、ビューズ。その秘匿された母は、ブガルク人。その父は農業奴隷から一代にして大湖の覇者にまで成り上がった、僭主ザー・ラム。俺はラムの顔をとっくりと眺め、それからもう一度スフに目を移した。突きつけられる短剣が視界のじゃまだななんて危機感のないことを考えながら。もう一度ラムを見た。疑いようがなかった。肌の色、年齢差によるしわの数の違いはあれど、ふたりの顔は誰が見ても一瞬で納得するほど瓜ふたつだったのだ。
“妹の、子よ”
震える声を聞き、たしかにこの僭主が老人であることをスフは実感として受け止めた。老年と呼ぶにはまだやや早い歳で儚くなった祖母のことを思い、その年齢に二十ばかりを付け加える。たしかに大伯父と呼ぶに相応しい年齢である、と、自らに、そして記憶の中の祖母によく似た、しかししわの多い顔を見て得心した。
ブガルクの戦乱は森林の過伐採から始まったと聞いている。禿げ山となった土地は夏の嵐で土石流を生み、いくつかの衛生都市がそれによって消滅した。残されたわずかな資源を奪い合う支配層の争いは、小作農たちの生活を壊滅させてしまった。
祖母の生まれは大湖から流れだすブガルク川沿岸だと聞いている。毎年の氾濫と上手く付き合う必要はあるものの、土地は豊かで多くの小作農は貧しくもなく豊かでもなく暮らしていたという。穀倉地帯であった。つまり資源争奪戦のその始めに狙われる土地であったのだ。
戦で畑は焼かれ、家族はばらばらになった。兄以外の誰の消息も掴めないと聞いた。碧玉色の髪に瞳を持つ兄と、紅玉色の髪と瞳を持つ妹。色が鮮やかであれば鮮やかであるほど良いとされるブガルクで、互いが互いの色を映えさせるふたりは極上の戦利品として扱われた。いくつかの貴族の間を点々と売り飛ばされ、最終的に領主の一族のうちのひとりに買われた。長じるまでは小姓として——つまり慰みものとして飼われることが確定した絶望の中で、兄は奴隷たちの逃亡計画を聞いた。
彼らの計画には隙がないように思われたが、ただひとつ、少なくともひとりが屋敷に残って内から門を閉める必要があった。兄はこっそりとその役を買って出た。妹の自由を保障することと引き換えに。幼い妹は何も知らされず、ただ夜眠っていただけだった。目覚めたときにはブガルクの境界を越えていた。兄のところに戻してくれと泣く妹の願いは、ついぞ受け入れられなかった。
逃亡した奴隷たちのあるものはオルドガルで留まり、あるものたちはそこから船に乗って沿岸諸地域へ出て行った。王都プーリアで財を成したものもいるはずだということをスフは知っている。何かあったら、食うに困ったら頼れと渡された連絡先は未だに隠しの中の帳面に書き付けてある。
祖母はというと、東に夢を見たものたちに連れられて大山脈地帯を越え、あろうことか深森のすぐ近くを通り、ステムプレまで逃げた。とくに不都合はなかったと聞いている。魔王を信じないスフの疑念はこのために培われた。ステムプレである氏族に拾われ、彼らはステムプレの民となった。失われた自由がそこにはあった。内乱がふたたび彼らを襲うまでは。
祖父は戦に出て行き、二度と戻ることがなかった。祖母に似なかった父は、敵対する氏族に母と息子がスパイ扱いされることを恐れた。息子は母親譲りの金髪と、祖母と同じ赤い瞳を持っていた。家畜をすべて処分し、変えられるものは貴金属に変え、一家はサルンへと逃げた。
そこから先の生活はスフの記憶にもよく残っている。祖母が儚くなってからさほど間を置かずに、両親が自分に私塾へ行くよう言いつけてきたことも。当時はまったく理解していなかったが、今となってはわかる。養う口が減ったぶん、息子の将来のために投資することが可能になったのだ。文字通り祖母の命を吸い取って今自分はここにいる。
会いたかったろうに。戦をともに生き残った、唯一の肉親であった兄に。策略で成り上がり、最終的には主に手をかけ、ブガルクの支配者となったことは風の噂で聞いていた。祖母はそのことに心を痛めた。それとともに、港町サルンならいつかはと、期待する気持ちがなかったわけでもないだろう。でなければなぜ慣れない、きつい仕事である港湾労働などを選んだのか。仕事を選べば、今でも健在であったかもしれないのに。
そしてそれは同じことだとスフは肉親に当たる知らない男の顔を見て思った。ラムとて、自分に会いたかったわけでもあるまい。幼い日に離ればなれになった妹と、最後にまみえることを夢見て東へ東へと進んできたのだろうに。自分が生まれたばかりにあなたの妹はこの世を去ったのだと伝えたくて、口を開いた。
しかしスフの体はそこで硬直した。矍鑠たる老僭主の、鎧越しの硬く強い抱擁によってさえぎられたからだ。
“よくぞ立派に成長した、妹の子よ”
言葉は鎧に反響してぶんと響いた。
“わたしは”
スフはあえぐように言った。
“あなたの妹の命を食らって長じたようなものです……閣下”
“子どもとはそういうものだ”
ラムは体を離すとスフの両肩に手を置いて言った。農具から武器に得物を変えて働き続けた手はがっしりと大きく、分厚かった。
“吾輩とてそうだ。親が子を生かそうとしたから、今ここに立っている。そこにおるわが孫にしても同じこと……本人はその食らった血を呪っているやもしれぬが”
スフはラムの視線を追って振り返った。主の兄と、ぴったり目が合った。隣に座り込んだ賓客が優しい目でこちらを見ていた。
「きょうだいの孫同士。つまりふたりははとこだったってわけか」
俺は改めてふたりの顔を見比べて言った。
「想像だにしなかった」
ザー・ラムの命で突きつけられた剣から逃れたビューズは少しぼんやりとしているように見えた。ビューズの左手と俺の右手は腕輪についた鎖でつながっている。腕輪の鍵はトァンが掛けて行ってしまった。今ここには、俺たちの監視のために残された兵が百ばかり残っているだけだ。
「アキクとお前はまったく似ていないな」
「祖母に生き写しだと、幼いころから言われていました」
ちょっとぎこちない会話は古代神聖語のせいだけでもないだろう。微笑ましいなあと思って見ていた俺とスフの目が合った。
「そういえばさ、」
聞きたいことがあったんだった。
「どうしてさっき売られただなんて言ったの?」
「……私は少々肉親を誤解していたかもしれません」
のろのろとスフは言った。
「もしかしたらビューズ殿下も同じことをお考えになっていたかもしれませんが」
「同じこと?」
俺は首をかしげた。
「後継者探しです」
「ザー・ラムの息子はすべて戦で散っている。娘たちがどうかは詳しくは知らぬが、プーリアに寄越してきたのが病弱な末子であった時点でいろいろ察することもあろう」
ビューズが話を引き継いだ。
「え、それはつまり……後継者がいない」
それでスフもビューズも、それぞれザー・ラムに連れ去られることを恐れていたというのか。スケールが大きすぎてちょっと理解できないけど、明日から市長やってね、みたいな感じ? いや違うか。もっとイメージが悪い、仮想敵国みたいなところの代表者だから。そこの子どもがわりみたいな役割だから。俺の脳内にとある教授の顔が浮かんだ。思い出しただけで腹が立つな。
「めっちゃやだな」
正直な感想が口をついて出た。
「しかし今日の様子だとそんなに心配することもなかったね」
安心させるつもりで言ったがスフは微妙な顔をしている。
「親類の情から、私たちを探していたというのは嘘ではないと思います。……ただ、それだけの単純な人物でもないでしょう」
「余も同意見だ。あれは油断ならぬ」
「まあ、そりゃそうか」
相づちを打つ俺の脳内では織田信長と明智光秀と豊臣秀吉、そして最後に徳川家康の有名な絵姿がスライドショーのように現れては消えていった。
さて、俺たちがこんなのんきな会話をしているのには理由がある。兵の半分を率いて出て行ったザー・ラムとトァンに、俺たちがまったく頓着していない様子を見張りに見せつける必要があったのだ。とはいえ話の内容を聞き取られるのも面倒だ。古代神聖語で雑談をするのが、一番ちょうど良かった。
ばれないように、ばれないようにと意識しながら、俺たち三人と魔法史の長、熊たちは少しずつお互いの距離を縮めていた。俺の後ろには今グーォウがいる。ちょうどいい感じだ。俺は軽く首を巡らして、皆の視線を確認した。そろそろか。さて、どうするかな。
「春はあけぼの……」
だめ。ハイソすぎる。
「祇園精舎の鐘の声」
説教臭いか。俺の気分が萎えそうだ。
「男もすなる日記というものを」
——だめだ。元祖なりすまし詐欺、今の状況で考えると腹が立ってくるし日記といえば先生のことを考えてしまう。
「何をやっておるのだ」
ひとり一問一答を繰り返す俺に対してビューズが呆れたように小声で話しかけた。
「ちょっと黙ってて。今いい感じに呪文っぽいの探してるんですから」
「古代神聖語なら何でも良かろう」
「プーリア語でなんか喋って? って言われたらどう思います?」
「……夫婦漫才はいいので」
スフが冷たい声で割り込んできたので思わず吹いた。その音で見張りの兵がひとり怪訝そうに振り返る。危ない危ない。
「どうして漫才なんて語彙がプーリアにあるんだよ」
毒づきながらも笑って少し気持ちがほぐれた。思いついた。よし、これで行こう。状況的にもぴったりだ。
「つれづれなるままに、日ぐらし硯にむかいて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしゅうこそものぐるおしけれ(先生もそんな気分だったのかも)。いでやこの世に生れては、願わしかるべきことこそ多かめれ(ほんとにな)。みかどの御位はいともかしこし(ビューズ頑張れよ)。竹の園生の末葉まで、人間の種ならぬぞやんごとなき(化け物は俺のほうだけどな)。一の人の御ありさまはさらなり、ただうども舍人などたまわる際はゆゆしと見ゆ(まんま僭主だ)。その子うまごまでは放れにたれど、なおなまめかし(スフのことかな)。それより下つ方は、ほどにつけつつ時にあい、したり顏なるも……今だ!」
最初不思議そうに見ていた見張りたちが、徒然草第一段を暗唱する俺の様子に唖然としたあと警戒の色を見せ、後ずさった。おびえの中に隙ができたところで叫んだ。危ないとこだった。清少納言あたりからの記憶が怪しいんだ。
掛け声を聞いたグーォウが親石を放る。俺は空中のそれにめがけてルウシイたっぷりの親石を投げつけた。轟音と爆風。感覚としてはウォータースライダーに変な姿勢で入っちゃったときに似ていた。ぐるぐると回りながら、熊のかぎ爪が服を引っかけるのを感じた。曇り空は青くないなあと当然のことを思った。もう朝になっている。霧が晴れていた。




