24. プーリア・トァン
湖の覇者ブガルクの本領を、プーリア・トァンは図らずも最良の席で鑑賞することになった。ぎりぎりまで喫水を浅くした小型軍艦は、プーリアの常識では考えられないほど浅瀬まで漕ぎ入れることができた。イェフニムごとに水深を測り、慎重に船を進める。櫂を漕ぐ奴隷たち自身が底荷替わりになっていた。非常に無防備な動きだ。本来であったならブイジー城から船の動きは丸見えになっただろう。しかし濃い霧が軍艦の姿を陸から隠した。
錨を下ろした軍艦上で攻城用投石器を改良したものが作動し、三人の斥候が崖の上に送り出された。うちひとりはトァン本人であった。すべての可能性を検討するのであれば、ブイジー城にプーリアの関係者誰かが辿り着いている可能性が捨てきれない。仮に古代神聖語で会話が行われたら、ブガルク兵は内容を理解できない。そういう理由からだった。
魔法石を口内に含んだブガルク兵ふたりは兵服に身を包んだトァンと遜色なく身軽に動いた。霧は深く、イェフニム先も見えない。懸念点は熊の嗅覚のみだった。もし嗅ぎつかれて奇襲を受けたら、トァンを残してふたりは撤退するようにと申しつけられていた。
三名はひっそりとブイジー城に忍び寄った。人のいる気配はすぐにわかった。二層目の窓から死角になる場所を選び、トァンは耳をそばだてた。
「……かしトァン殿下にそのような秘密があったとは」
「長ですら気づかなかったんでしょ。よくぞ今までずっと隠し通してきたもんだ」
ブイジー城の中は音が反響して話し声を聞き取るのが難しい。一方、外からであれば声は窓を通って明瞭に聞こえた。グーォウとともに姿を消したはずのスフと賓が話していた。どういった経路を通ったのかは不明だが合流したようだ。なるほどガーァゥリユーも伴っているのだろうとトァンは考えた。自らの秘密がすでに暴かれていることについては覚悟をしていた。もとよりブイジーはそのためにある城であったから。聞いたことと考えたことをさらさらと帳面に書き付けていく。斥候の間のやりとりはすべてプーリア語の筆談で行われた。
「あなたはいつ気づいた」
よく知る、しかしここで聞くとは思わなかった声がしてトァンは目を丸くし、それから急いで帳面に発言者の名と内容を書き付けた。
しばらくののち、城内の一行は霧が晴れたら深森へと向かうつもりであることがわかった。その確認を最後に三名は静かに塔を離れた。
“それは慎重にことを進めねばならなくなりましたな”
言っている内容とは裏腹に、僭主ザー・ラムはおもしろそうに言う。船尾楼には大隊長とラム、それに船長が詰めている。机を挟んだ向かいにはトァンも座っていた。
“極端な話ですが、賓様の身に何かがあっても国が平穏無事である限り王都は気に掛けないでしょう。しかし”
“お世継ぎがとなれば話は別。それはそうでしょうな”
“なぜ王都は世嗣殿下の渡りを許されたのでしょう”
いかにも不可解だという表情でトァンは呟く。
“許されてはおらぬのではないかな”
ラムはそこまで驚いてはいないようだった。
“とおっしゃいますと”
“助けた使命感か、お立場からの逃避か。貴い身分の方が自ら危険に身をさらすのはそう珍しいことではありませんよ。しかし”
そう言ってにやりと笑う。
“おそらくは触発されたのでしょうなあ”
“触発、ですか”
“吾輩もわかるような気がいたしますよ。友の存在とはときに偉大だ”
ブイジー城の勢力は不明だが、熊の数が人間の数を上回ることを前提とするべきだとトァンは言った。魔法石はトァンの手持ち分しかない。兵の数は十分だが、魔法石が足りない。力で押し勝とうとするにはやや心許なかった。トァンの希望を叶えつつ、ブガルク軍が自在に展開するための方策が練られた。霧と闇を利用するため、出発は夜と定められた。
日暮れ後すぐに精鋭部隊が展開した。三手に分かれて進み、ぐるりとブイジー城を取り囲む。その中にはトァンばかりかザー・ラム本人の姿もあった。周辺は静まりかえっていた。これが偽りの沈黙でないことをトァンは願った。
繰り出し式のはしごが掛けられ、第三層、第二層の窓下まで兵が上った。トァンが細心の注意を払って観音開きの扉を開ける。そしてまた沈黙が下りた。
ラムが右手を挙げた。瞬時にその動きは主から最も遠いところで待機する兵まで伝わる。するりするりと闇の中から人型が生まれて窓の中へ、扉の中へと滑りこんでいった。
一瞬のち、塔は喧噪に包まれた。熊たちの立てる怒号の中に、トァンがよく知る人々の叫びが聞こえる。王女の心は罪悪感でずっしりと重くなった。と、ブガルク兵が二名、ぼんやりと光る桶のようなものを抱え持って扉から走り出した。
“問題ございません”
トァンはそばにいるザー・ラムに伝えた。僭主は頷き、大隊長に下命する。大隊長は声を張り上げた。
“小一隊、退却!”
号令とともに十名ほどの兵が塔を離れた。うち二名に抱えられた魔法石がぼんやりと光りながら遠くなっていくのをトァンは見つめていた。
ラムとトァンはブイジー城の扉の前に立った。僭主が一歩踏み出そうとするのを制し、王女が言う。
“わたくしが”
“悪役をお引き受けになるには殿下は可憐すぎるように思われますが”
“ありがとうございます”
トァンは微笑んだ。それが慰めであることを——その実は真逆であることを少女はよく知っていた。
“しかしこれはわたくしが始めたことです。汚名もわたくしが進んで受けましょう”
きりりと表情を引き締めて石段を上りはじめた少女の後ろ姿に向かい、大湖の覇者は呟いた。
“あなたのこれからに幸の多からんことを。いやまったく、我々には幸運だけが足りておらぬ”
石段を上りきった少女の登場で第二層はわずかにざわめいた。硬い毛に包まれたもの、瞬膜がついたもの、白目の大きいもの、黒、赤、茶、青、ありとあらゆる目がトァンを見つめた。手前のほうから一対一対を見つめ返し、それらに失望の色が浮かんで逸らされるのを当然のように受け止めた。
最後の二対の目に辿り着くころには、室内の中心部まで進み入っていた。星の光が窓から降り注いでいる。弱々しいスポットライトを浴びて、王女は立ち止まった。
「まさかお前が国を売り渡すとは。トツァンド城主よ」
少女の兄が、まず最初に言葉を発した。青い髪は星明かりの下でもはっきり視認できる。しかしより目を惹くのはその喉元で光る長剣だった。精鋭部隊のうちのひとりが脇に立ち、迷いのない姿勢で切っ先をプーリアの王位継承者に当てている。右腕を軽く振れば、第一王子は絶命する。トァンにはその号令をかける権限が与えられていた。隣にしゃがみ込んだもうひとり、黒髪の男はといえば、別の兵によってこめかみに短剣を突きつけられている。
トァンは素早く目を動かして第一王子の様子を確認した。ひとり寝具の上に寝かされている。右腕は布で吊ってあった。負傷しているのはひと目でわかった。本来であればこの中でもっともたくましく、もっとも権威を持つ男が無残にも力を奪われて床に転がっている。けっこうなことであった。ここはそういう場所なのだ。後のものが先に立ち、強いものがくじかれ、弱いものが世界を救う。事実熊とスフの助けなしには満足に食事ひとつ採れなかった隣の男が今、この一行の中心人物になっているではないか。
トァンはちらりとそちらを見、また兄の喉元で鈍く光る刃に視線を戻した。黒髪の男の視線も同じように動いた。おそらく身動きの取れない第一王子をかばおうとしたのだろう、右腕は中途半端に伸ばされたまま止まっている。トァンから逸らされた数々の目は、今やビューズの喉元でひたりと止まったままの刃を睨みつけている黒髪のこの男にすべて注がれていた。この場の全員が彼の動向を息を呑んで見守っている。
長い無言ののち、トァンは小さく微笑みを浮かべて兄と視線を合わせた。
“世嗣殿下におかれましてはずいぶんと無茶をなさったようで”
当然のように発したのはプーリア語だった。黒髪の男がわずかに目を見張る。その後ろに控えていた
スフが小さな声で通訳を買って出たようだった。
“賓様をお連れする仕事は、御身には重すぎる荷ではございませんか”
「役割を放棄したものがよく言う」
茶色の目が不機嫌そうに細くなる。一カマーグムと少しお目にかからぬ間にずいぶんと表情豊かになられた。
“果たしてどうなのでしょう”
少女の微笑みは変わらなかった。
“子どもの愚かな虚言だ、妄想だと、もはや仰せにならないのですか”
歳の離れた兄は虚を突かれたように黙り、視線を落とした。しかしプーリア語で話しかけられたものに古代神聖語で返すとは、また驚くほどに賓への忠誠心が篤くなったものだ。妹が光の子だとは、頑ななまでに信じようとしなかったのに。
「トァン」
呼びかける声は予想外のところから出た。
「どうする……これから何をするつもりですか」
王女は微笑みを消した平坦な顔で声の主を見つめた。再び出会ってこの方、今の今までできるだけ見ないようにしていた男の顔を。
やつれた、と思った。この二カマーグム弱はこの男にとって厳しいものであったろう。肌つやは悪くなり、目の下の隈に疲労の色が濃かった。
トツァンドで相まみえたときには、すでにもう記憶に残る若々しい、どこかまだ幼いところのある顔ではなくなりつつあった。マントの向こうから見える表情は、学生というよりは大学窓口の向こう側にいるほうが似合った。職業としての顔。そこから男が今置かれた状況を推測するのはそう難しいことではなかった。遠い記憶。この身として生まれ落ちてから十数年も経つと、それが本当に自らの身に起こったことなのかどうか実感すら湧かなくなる。幼いころ乳母に聞かされた寝物語のひとつだったのではないだろうかと、そんなふうに思い込んでみたくもあった。
可能だったかもしれない。周囲の誰もが内心光の子の存在を真には認めず、ルウシイを見ても見ないふりをし、トツァンドそのものを歴史の中に埋もれさせようとしていた、あの頃であれば可能であったかもしれなかった。熊と烏がアラアシで黒髪の人間を保護したとの第一報が入ったときですら、その後に待ち受ける任務はトァンにとって現実味がなく、ぼんやりとしていた。寝台の上、枕の中に埋もれたそのかんばせを見るまでは。
しかしはっきりした。すっきりとした。ずいぶんと迷いのない顔をしている。不条理を一身に受けて、世のため人のためと身を粉にするような男ではなかったはずだ。今だってそんなことは考えていないだろう。できるだけ周囲に溶け込みながら上手い着地点を探すようなことが得意だった。そのままでここまで到達したのか。流れ流されて、それを自覚して受け止めることにより、何かを見つけたのか。
この男が、自らの記憶にある人格を求めて失望する姿が見たかった。だからあえてゆっくりと微笑み、答えた。
「お知りにならなくて良いことです。ここでこのままお待ちいただきますよう。兵には丁重におもてなしするよう申しつけましょう」
「今でもずいぶんご丁寧にご挨拶いただいてますが」
返された嫌みったらしい笑みのどこにも、トァンの期待していた失望の色は見られなかった。視線すら外されない。お前には何も期待していないと言外に言い渡されたように感じ、ややたじろぐ。
「今にも霧が晴れるやもしれません」
東風が弱まってきた。明日の朝には霧はもうまったく見られないだろう。だからこそ、兵を動員する必要があった。
「霧が晴れたら、あなた様はおひとりでも歩き出されてしまうでしょう。ご自身では制御が効かないでしょう。ですからあなた様がもっとも傷つけたくないものを人質に取るよう申しつけたのですよ」
よく訓練された兵たちは、一瞬の目の動き、体の向き、声の出し方で相手の守ろうとする対象を見抜くことができる。それを見極めるための奇襲でもあったのだ。まさか我が兄がそれだとは、思いもしなかったが。
「何を」
「お持ちになっていた魔法石はブガルク軍が使用します。……ほら、もう到着したようですよ」
発言を遮り、静まるようにと身ぶりをする。一糸乱れぬ行軍の足音が近づいていた。小型の軍艦とはいえ二百人の大隊が配備されている。ブガルクには石弩も、大砲もある。呼吸さえできれば、総員であれば、熊たちであっても恐るるに足らない。
「プーリア・トァン。お前と手を組んだ、ブガルク側の要求はなんだ」
世嗣殿下が口を開いた。こちらを睨みつける両眼にかかる髪の毛があまりに青いので笑い出しそうになる。自分がブガルクに——実の祖父に売り飛ばされることを恐れているのか。
“それは当事者間でお話しいただきましょう”
同盟者にわかるようプーリア語に切り替えるとトァンは振り返った。重い足音に続き、星明かりの下でもはっきりと目立つ碧玉色の髪の毛が暗闇から現れた。




