23. 作戦会議(1)
ビューズの指示に従って留め金を外し、甲羅のふたを開ける。曲面のほうを下にして、体に当たる側を外す。ハワウが込められた魔法石が中にぎっしりと詰まっている。暗い室内がほんのりと明るくなった。
「はい」
ひとつつまんで、ビューズの口元へ運ぶ。世嗣殿下は口を開けて受け入れた。
ちょっとどきどきしながら俺はビューズの様子を観察する。いち、に、さん。とくに意味もなく数を数えた。大丈夫だ。いきなり蛙になったりしないし、口から爆発したりもしない。良かった。
「どうですか?」
俺の問いかけに対してビューズは迷いながらも頷いた。
「良い……ように思う。ちょっと立ち上がってみてもいいだろうか」
「ええ。何かあったら受け止めます」
俺は両手を軽く開いてビューズの前に立った。その手を左手で掴んでビューズがそろそろと立ち上がる。今にも倒れるかもしれないと思うと自然と受け止める体制で腰が低くなった。だが大丈夫だった。少々息は荒いが、ビューズは何とか両の足で立ち上がった。
「……いけましたね」
「ああ。面倒をかけた」
「とんでもない。ちなみに、どのくらい魔力減ったか確認してもいいですか」
「ああ」
そう言いながら世嗣殿下は口をためらいなくぱかりと開ける。赤い舌の上に銀色の魔法石が乗っている。唾液に濡れているせいでより輝いて見えた。ちょっとエロいな、と思いながら目視で確認する。
「そこまで変化ないみたいです」
「そうか」
もごもごと返事が返ってくる。喋りやすいように魔法石を口の端に追いやっているのだろう。俺はだらりと力なく垂れ下がったビューズの右腕を見ていた。
「肩、やりましたね」
「うむ」
ちょっとばつが悪そうに言う。
「痛みます?」
「……ああ」
一瞬否定しようとしただろ。思わず睨むと視線が逸らされた。子どもか。
「とりあえず吊りましょう。あとは冷やすものがあるかな」
下の荷物を見てみるかと振り返ったところで床に転がっている人物のことを蹴飛ばしそうになって思いだした。体力の消耗が激しいらしく気絶するように寝込んでしまった魔法史の長だ。ルウシイ以外の魔力が込められた魔法石を口内に入れると多少呼吸が楽になる、という情報をもたらしてくれたのはありがたかったが、まだ拘束は解いていない。ビューズが自分の身を自分で守れるようになることのほうが優先だと思ったからだ。
「そろそろ解いてやっても良いのではないか」
世嗣殿下のほうが怒るに遅く許すに早い。この鷹揚さは立場上培われたものだろうか、血筋だろうかとよけいなことを考えながら返事をした。
「いーや、俺はまだ腹を立ててますよ。あなたが落ちていくのを見たときはほんとに肝が冷えた」
死んでしまったら、どうしようかと思った。
「シュマルゥディスにさらわれたときですらあんなに怖くはなかったです」
正直に言ってから気恥ずかしくなった。下の様子を見てきます、とだけ小さく言って、急いで石段を下りた。
魔法石を口に含んだ長と熊(名をグァガというそうだ)は、いとも簡単にブイジー城へ侵入した。グューウォァウとギュォウが倉庫の隅で寝ていることには気づきもしなかったそうだ。きっとふたりとも疲れ果てて眠っていたんだろう。そのまま石段を上り、話し声がすることに気づいた。ブガルクの先兵だと思ったそうだ。予測を裏付けるかのような青髪が見えた。グァガには待機するよう命じて、ひっそりと忍び寄って下層へと突き落とした——プーリアの王位継承者を。慌てふためいた俺が長を絞め殺しかねない剣幕で飛び出してきて、ようやく自分の勘違いに気づいたのだという。ただ、疑いは晴れなかった。今度は俺たちがブガルクと手を組んだのではないかと、そう勘ぐったのだという。まあここまでは嘘ではないだろう。だからといって許せるかというとそんなことはなかったけど。
俺がカンテラを持って荷物に近づくと、そばで伏せていたギュォウがむくりと上半身をもたげた。その隣には小さくなった熊がもう一頭。よくよく見ると体格自体が少し小柄だ。
「お前がグァガか」
尋ねるとへいその通りで、というように目をぱちぱちさせる。まだ年が若いのかもしれない。
「俺、めっちゃ腹立ってるんだけど」
思わず話しかけてしまった。
「お前がわざわざ手伝って連れてきたってことは、長にもそれなりの言い分を認めていいって思ってるってことなんだよな」
熊は真面目くさってそうですね、と言わんばかりの表情をしている。
「とりあえずトァンやビューズを害するつもりは、ないと」
荷物を開きながら呟いた。信用していいだろうか。あの突き飛ばし事件さえなければ容易にそうしただろうに、俺は未だに態度を決めかねている。
洗いざらしの布をあるだけ引っ張りだし、一枚をパニイで濡らした。貴重な魔力だけどしょうがない。上に戻ってビューズに肩をはだける許可をもらう。しぶしぶながら同意をもらった。
右肩関節の内側が不自然に盛り上がっている。ホモ・サピエンスなら鎖骨があるあたりだ。この世界の人間の骨格も大幅には変わらないだろう。
「鎖骨が折れたのかな」
「おそらくそうだろう」
俺の予測は複数通りの意味でビューズによって肯定された。
鎖骨なら高校のときに柔道部の友達が折っているから何とか様子がわかる。まずは姿勢を固定すること、と聞いた。そうすると鎖骨が自然に元の位置に戻る。場合によってはつなぐ手術もするそうだけど、もちろん今はそんなこと望めない。たすき掛けをするように布を巻くとビューズの口から小さなうめき声が漏れた。
「我慢強いって言われません?」
なんか喋ってたほうが気が紛れるだろうと思って声をかけた。
「……そうあることを求められてきた」
「まあそれもそうか。支配階級ですもんね。……締めますよ」
ぎゅっと布を引っ張って結ぶ。ビューズの息が荒くなった。
腫れ上がっている場所にハワウの魔法石を置いて、その上から濡らした布をかぶせた。すぐにそよそよと風が起こる。湿布代わりだ。放射冷却効果を期待しよう。続いて残りの布で三角巾を作って、右腕を吊る。以上。あとは熱があまり出ないことを願うのみだ。
下から取ってきた毛布を二枚使ってビューズを寝かせた。
「すまない」
小さな声がする。
「結局何から何まであなたの足手まといになってしまった」
「そんなことはないですよ」
俺は本心から言った。
「もし仮に俺ひとりだったら、今日を正気で乗り切れたかどうかわかりません」
まだ俺が読んだもののことを全部は話していない。長がなぜ考え違いをしていると俺が思ったのか、その概要を説明したところで長がパニックになってしまったから。でも、話すとか話さないとかそういうことにかかわらず、こういうときに誰かが——友人が一緒にいてくれるのはとても慰められるものだった。
「一緒に来てくれて、ありがとうございます」
そう言ってぎこちなく微笑んだ。
「礼を言うのは余のほうだ」
柔らかな声が返ってきた。しばらくの間塔の中は静まりかえっていた。そのうち、穏やかな寝息が聞こえはじめた。
俺はそのまましばらくビューズの隣に座っていた。長のロープを解かなければと思いつつ、何となくまだ恐れていた。力では俺のほうが勝てることはわかっている。だから、俺が恐れているのはたぶん長自身ではない。長が見てきた、経験してきた年月のほうだ。
そうこうしているうちに目を覚ましたらしい長から乾いた咳が聞こえた。立ち上がってその口に魔法石をひとつ放り込む。しばらくすると息使いが落ち着いた。
「なぜあなたがビューズ殿下とともにおられるのです」
真っ先に聞くことがそれかよ、と苦笑いをこぼしそうになった。
「助けてもらったんですよ。……シュマルゥディスから」
その名を言うと未だに体が震えた。無意識のうちに右手で左腕を握り込んでいる。爪を立てるのが痛くて気づいた。
「それよりも、ワティーグスさん。あんたずいぶんビューズの評価が低くありませんでしたっけ。トツァンドで」
「それはそうです。あなたを近づけまいとしていたのですから」
「どういうことです?」
「お目にかかって思いました。ビューズ殿下はあなたのような人に好意を抱くだろう。友となろうとするだろう。お年も近い」
「そうなってはまずい?」
「私の目の届かないところで、いろいろと画策されては困りますからな」
「発想がまるで悪の黒幕だろ」
思わず素で突っ込んだ。長は小さく乾いた笑い声を上げる。
「でも、それだけじゃない。俺にだけじゃないですよね。ビューズを誤解するように仕向けたのは」
「もちろんです。下のお二人との間には適度に亀裂が入るようにね。王家が一枚岩になってはやっかいなのですよ」
「すみません、訂正します。『まるで』悪の黒幕じゃない。あんたは黒幕そのものだ」
「失敗しては何の意味もありません」
長は静かに言った。
「何から何まで思い通りにならないことばかりだ……一番の誤算はあなたに根性があったことですが」
「失礼な」
そうは言ったけど怒りは感じなかった。むしろ笑ってしまいそうだった。その意見は正しい。流れに流され、面倒ごとからは逃げ続けるという惰性の維持によってここ数年の俺の生活は形づくられていた。
俺はため息をつくとカンテラを持って立ち上がり、ロープの結び目に手を掛けた。黙々と解いていると、目の前の背中から声がする。
「よろしいのです?」
「いいです。俺が戦うべきはあんたじゃないっていうことに今気づきました」
ロープがするりと解けた。
「俺は寝ます。いいですか、明日からちゃんと働いてもらいますから」
「諦めないのですか」
「俺はね、惰性で動くのが得意なんですよ」
にやりと笑ってやると不思議そうな顔をする。
「もう諦めないほうに舵を切ったんでね。このあとは惰性でやりきりますよ。あんたが諦めるのは勝手ですけど」
「なるほど」
長は小さく呟いた。
「なるほど」
その声は掠れていて、聞き間違いでなければ小さく震えているように思われた。
予想に違わず、その夜ビューズは高熱を出した。東西の空がうっすらと明るくなったころ、俺はグューウォァウに頼んで水汲みに行ってもらった。水筒がほぼ空になっていたからだ。湖からの霧が押し寄せ、あたりは真っ白に煙っていた。まさに五里霧中、どこにどうやって向かえばいいのかすらわからない。ビューズの体調もある。一日はここから動けないだろうと思った。
簡単な朝食を食べた後、俺は屋根裏まで行ってノート類をすべて下に持ってきた。あまり動かすと劣化が心配だったが、ビューズが自力で上れない現状ではやむをえない。
「これは歴代賓の残したノート……記録です。たぶんおふたりは読めないんじゃないかと思うんですけど」
適当なページを開いて見せた。覗きこんだ二対の目が納得の色を見せる。
「これは?」
尋ねるビューズは声まで熱っぽい。体温が測れないのがもどかしい。そこそこしんどいはずだ。本当だったらゆっくり寝ていてほしいけど、そうも言っていられない状況だった。
「古代神聖語、いや、日本語の、俺の時代における一般的な書き方です。この言語は歴史的経緯でめちゃくちゃ文字の種類が多いんですよ。あなたたちが古代神聖語として使っているのはそのうちの一部です。だからたぶんこれは賓と……そして光の子にしか読めない。この世界ではね。そのようにして代々読まれてきたんだと思います。ふたりが深森へと旅立つ直前に。ときたま賓がノートを持っていたら、残されるノートが一冊増える」
「そこに、書かれていたのか。その」
言いにくそうにしているのは熱のせいだけでもあるまい。
「賓が光の子に生まれ変わり、光の子が魔王になる。そうです。ただ、誰がいつ言い出したのかは判然としない。この内容が含まれているノートは全部で三冊でした」
俺は該当するノートを取り分けた。大学ノートが二冊。そしてゴムがぼろぼろになった、ハードカバーのノートが一冊。
「賓が光の子になるのは、光の子本人が証言していると書かれています。だから間違いではないでしょう。その後の、光の子から魔王、は、現状では証明しようがない」
俺は深呼吸をした。
「ただ、魔王にすでに会っている人物がひとりだけこの世に存在します。その人ならわかるかもしれない」
「我が妹御か」
「はい。……そして俺にとっては、今世界で一番会いたくない人です」
「どういうことです」
ずっと黙っていた長が不審そうな声を出した。そりゃそうだよね。わからないと思う。
「彼女はおそらく、プーリアとオルドガルに壊滅的な被害を出した魔王を斃す役割を与えられた賓でした。ワティーグスさん、あなたが話してくれた死の風の当事者です。このノートに、なぜ当時深森へ向かうのが遅れたのかの経緯が書かれていました。そしてノートの前半には、こちらの世界に渡ってくる前に書かれた、彼女の当時の仕事についての記述があります。この内容を……俺は読む前からある程度知っていました」
「まさか。お知り合いということですか」
俺はもう一度大きく息をついた。このことをビューズにもわかる言葉で説明する努力がしんどい。とりあえず長に通じればいいか、と思って一息に喋った。
「ええ。俺の大学時代の恩師であり、博士論文を書いていた休学中の大学院生であり、四年前に唐突に姿を消した、……俺の好きな人でした」
「それは、さすがに」
魔法史の長がささやくように言った。ご老人に気の毒そうに言われるとダメージがでかい。思ったよりでかいぞ。
このあとの話をどう続けようかと迷っていると、長が立ち上がった。
「失礼。小用に」
半分は、いやそれ以上が思いやりだろうと受け取った俺は黙って頷いた。




