22. 湖上の霧
トァンとの丸々一夜に及ぶ会見を終えた後、ブガルクの僭主ザー・ラムはただちに新たな軍艦を手配させた。オルドガル各領との関係は友好的な同盟だとされているが、その実良港はすべてブガルク軍によって押さえられている。東の果てにあるデンコットにすら、ほんの数時間のうちに到達できる距離に小型の軍艦が配備されていた。
その日のうちにデンコット沖に停泊した軍艦は、翌早朝にザー・ラム以下側近とプーリア・トァンを乗せて東へ出航した。特別船はブガルク軍の協力を得て修理されることになった。ドフューはトァンをひとりで向かわせるのをしぶったが、トァンが首を頑として縦に振らなかった。ここから先は何が起こるかわからない。本来光の子と賓しか訪わない地だ。プーリアの民を引き連れていき、危険にさらすわけにはいかないとトァンは言った。それよりも、あなたがたは行方をくらませた魔法史の長を探してほしいと。
湖は凪いでいた。短いプーリアの夏が始まって以来吹きつづけていた西風がぴたりと止んでいる。ふたつの太陽は分厚い雲の上に隠れたまま出てこない。夏とは思えないような気温の低い朝だった。その理由を探りたいかのように、トァンは船首に近い甲板上に立って進行方向を見つめていた。下層甲板で櫂を動かす奴隷たちの掛け声が規則正しく低く響く。
“さて、そろそろ教えていただいても良いのではないですかな”
ふくよかな声が背後から聞こえてトァンは振り返った。ザー・ラムその人がひとりで近づいてくる。
“魔王とはいったい何なのでしょう。どうしてあなたは……あなたがたプーリアは、それほどまでにその存在を恐れているのです”
“魔王とは何か。何なのでしょうね”
そう言いながらラムに向きなおったトァンは、もう一度進行方向を振り返った。霧が深く湖面にまで立ちこめはじめている。行く先の陸地はその木々も山々も、すべてが白いベールの中に隠れていた。
“わたくしがブイジーから森を抜け深森へと続く道筋を辿るのは、実はこれが初めてではございません”
トァンは口を開いた。
“しかし以前のわたくしはわたくしではございませんでした……姿形も、身分も、育った場所も、名も。……名に関して言うのであれば、当時わたくしは名を持たぬものも同然でございました。プーリアの人々はわたくしをこう呼びました……そうとしか呼びませんでした。『賓様』と”
“それはいつ頃のお話かな”
ラムはさして驚くふうでもなく尋ねた。
“今からどれほど昔になるのでしょうか。正確な年月はプーリアでは失われております。ただわかっていることもございます。それはわたくしが……そして光の子がブイジーに到達するのが遅れたこと。それによってオルドガルの一領が一兵卒に至るまで壊滅し、王都プーリアにも甚大な被害がもたらされたことです”
“それはそれは”
ラムは声を上げた。
“東岸の魔女の禍。西岸ではそのように呼びます。今からおおよそ五百年は昔の事件だ”
そして口を閉じると目の前の少女を値踏みするようにじっと見つめた。フードを脱いだ銀髪が曇り空の下で鈍く光った。
“生まれ変わりと、そうおっしゃるのですな”
“さようでございます”
問いかけと言うよりは確認に近いラムの言葉に対し、トァンは静かに肯定を返した。
ラムは後ろで両手を組むと、あたりの甲板をゆっくりと歩き回った。考えをまとめるときのくせだった。軍靴に包まれた足は、先だっての会見時よりも重たい足音を周囲に響かせた。
“お教えください、殿下。どうしてそのときあなたはお遅れになったのでしょう”
“恐れたからです。わたくしを導く光の子が……旅の終わりに待つものを”
“魔王ですか”
“そう、とも申せます。光の子はこう信じていたのです。賓が光の子に生まれ変わり、光の子は魔王に生まれ変わる、と。これが母なるイーの初めから魔法を与えられたプーリアに定められた運命なのだと”
“魔王に直接まみえて確かめられはしなかったのですか”
“わたくしは魔王を見ておりません。魔王はわたくしを見たのでしょうか。それもわからないのです”
“それでは何をご覧になったのですか”
問いかけるラムを、トァンは微笑みをすべて消した顔でじっと見つめた。そののち再び振り返り、手すりにもたれて霧の先を見つめた。
“石です”
少女は言った。
“非常に大きく、美しく、まがまがしく、すべてを思い出させて何もかも忘れさせるような……巨大な魔法石を、わたくしは見ました”
「賓様」
ほとんど白髪といって良い少年の髪が強い風に吹かれて舞った。その下にある顔は髪の毛と同じくらい蒼白だった。
「わたしは、行きたくありません」
気の毒だなと、胸が痛んだ。この子は自分が魔王に生まれ変わると信じている。そしてそのとき、自分と相打ちして果てるのは私だと。それが本当のことなのかはわからない。しかしこの世界の命運がこの少年の肩に——少なくとも半分は——かかっているのはたしかなことのようだった。なんと残酷な。まだほんの子どもじゃないか。プーリアは十五で元服するのだという。それを聞いたときは平安時代かと思わず呟いてしまったが、この少年はまだその年齢にも満たないのだ。いくら前の人生の記憶があるとはいえ、トツァンドに生まれてまだ満十三年と少しを数えたばかり。学びたいことも、遊びたいことも、——しのこした恋も、あっただろうに。
「サンド」
私は少年の名を呼んだ。努めて明るく、朗らかに。
「このまま放っておいてもいい。ここでごろごろしながら流れる雲の数でも数えてればいい」
私たちはブイジー城第三層にある礼拝室の床に座っていた。朝からずっと風がひたすらに吹き込んでくる大きな窓からは、枯れ果てた上にほとんど深森に飲み込まれそうになっている森と、延々と広がり続ける草原が見えた。草原はこの二日三日くらいでずいぶん豊かに育った気がする。稲刈り前の田んぼみたいに、風に波打ちながらさわさわと快い音を立てていた。
「しかし」
反論する少年の喉仏が大きく動いた。薄い金色の目はせわしなく大山脈地帯の状態を確認している。
「また山肌の見える面積が増えました。このままでは死の風が山を越えてしまう……もうプーリアには到達したやもしれません」
「どうだろうね」
私は呟いた。
「それの何が悪いんだろう。ここに来て以来私は今までにないくらい元気だし、君もいつもより顔色が良かった」
今の顔色は史上最悪だけどね、と心の中で付け加える。
「私たちを苦しめる世界のすべてが壊滅して私たちだけ残るなら、それはそれでいいと思わない?」
本気で言っているわけではなかった。思考実験みたいなものだ。この責任感が強い少年が、そんなことを良いと思うわけがないのは当然わかっていた。彼は苦しむ。自分を犠牲にすることで救えたはずの命を思って、いつまでも苦しむだろう。誰も真相を知ってくれもしないのに。名前すら残らないかもしれないのに。感謝してもらうなんて、夢のまた夢なのに。
これはどちらかというと自分に言い聞かせているのだった。私の膝は、足は、体全体が、今にも深森のほうへと走りださんばかりにうずいていた。呼ばれている。抗いがたい強い力で惹きつけられていた。その先に待つものが祝福だろうと破滅だろうとかまうものか、行きたい、それだけだと心までが叫ぶ。
もう自己犠牲なんかこりごりだ。私ひとりが我慢すればなんて、誰か見ていてくれる人がいるなんて、報われない努力もあるが報われる人は必ず努力しているなんて、そんなことを思って必死で耐えていたんだ。馬鹿みたいだ。結局誰ひとりとして私の味方になんてなってくれなかった。君もだよ、と懐いてくる薄顔男子のことを思い浮かべてさすがに自己嫌悪に陥った。あの子は学生だから。味方になるならないじゃなくて、こっちがヘルプしてあげなきゃいけない立場だから。まだついこのあいだ院に入ったばっかりなんだから。
「……どっちにしろ、もう無理か」
呟くと視界が滲んだ。サンドの話を聞くに、私はこれから何度か転生を繰り返して、世紀の大悪役として往生する定めらしい。味方になってくれなかったと大人げなく非難することも、困ったことがあったら相談してねと心の内をすべて押し隠して笑うことも、私にはもうできない。もう、遠くなってしまった。
最下層から苦しそうな息づかいが聞こえる。熊と烏にくわえさせてあげる魔法石も今朝で底を尽きた。今の魔力が失われたら、彼らの息は止まる。わかってる、わかってるんだ。私もサンドも、痛いくらいに理解している。
顔を上げると、金色の目がこちらを見ていた。拭った涙の後が痛々しい。
「行きましょう」
「行こうか」
声がハモった。そのことにふたりで驚いて、ちょっとだけ笑って、また泣いて。そして立ち上がった。私たちの最後の旅が始まる。
活動報告に大湖周辺の地図を掲載しました。よろしければご覧ください。




