21. ブイジー(3)
「……ちょっとやりすぎた」
ほかに誰も突っ込んでくれないので俺は自分で呟いた。俺の右手が掴んだのはぼろぼろになったベッドの足で、引っ張ったら枠の一部とともに本体からちぎれて手の中に残った。それを老人の頭に思いっきりぶつけたわけだ。血はほとんど出ていなかったが、幸か不幸か、相手の意識を奪ってしまった。
「大丈夫、生きてる」
老人の口元に手をやって呼吸を確認した俺は振り返って言った。言いながら、さっきビューズの落下に狼狽したのとはえらい違いだと自覚した。その差は何だ、と心の片隅で囁くものがいたがひとまず無視する。とりあえず今は俺たちの安全を確保しなくては。
さて、振り返るとそこにはちょうどよろよろと石段を上ってきた熊がいた。口にロープをくわえている。援軍、素晴らしい。礼を言ってとりあえず魔法史の長をぐるぐる巻きにするのに使った。
立ち上がったところで、床に何か光るものがあるのに気づいた。近づいてみると魔法石だ。アウグがほとんど消えかけていて、濡れている。——濡れている? 首をかしげていると掠れた声が背後から聞こえた。
「……何が」
ビューズだ。片肘をついて上半身を起こしているところだった。
「何があったのか、というと、俺にもよくわかりません」
何となく気まずくてへらっとした笑いを浮かべながら返事をした。近づいて体を支える。
「どうして熊たちも気づかないようなやり方で侵入してこれたのか。あなたを突き飛ばすほどの体力があるのか。……そもそも目的は何か」
言ってからああ熱くなってるな、俺、と思った。
「体調、大丈夫ですか」
自分の熱を逃がすために話題を変えた。近くで見るビューズの顔色はだいぶましに見える。まあ、茶色く塗ってるから本当のところはよくわからないんだけど、さっき一瞬息が止まるかと思った、あの死人のような顔色ではもうなかった。
「右肩が痛むが動かせる。大事ないだろう」
「良かった。……良かった」
思わず二回繰り返していた。
「俺、今めちゃくちゃ腹が立ってるので、なんかやらかしそうだったら言ってください。物理的に止めるのは難しいだろうけど」
「あなたが何かするのを想像するほうが難しいが」
ビューズの指摘に苦笑いした。
「俺、やっぱり性根が小役人なんですよ、きっと。小心で周りの顔色をすぐ窺う。そのくせして大義名分を手に入れたと思うとすぐに偉そうな態度を出す」
友と呼んでくれたあなたに対して、いつまでもいつまでも敬語が取れないのも、そう。最後の例は口に出せなかった。
話しながらビューズの体を壁にもたせかけた。
「ちょっと待っててください。カンテラ取ってきます」
カンテラをふたつぶら下げて戻ると、ビューズの低い声がした。それに返す老人の声も。一層上で聞くと、わんわんと響く音声は何を言っているのかさっぱりわからない。古代神聖語なのかプーリア語なのかすら聞き取れなかった。なるほど、これだと長も上にいるのがどこの誰なのか見当がつかなかったのかもしれないなと思う。俺たちだとは知らずに襲ったのかもしれない。だがそれはそれ、これはこれだ。
「ワティーグスの状態は問題ない。多少怪我はしているだろうがそれはあいこだ」
戻ってきた俺に顔を向けてビューズが言った。魔法史の長も簀巻きにされた状態でこっちを見ている。
「それはそれは。……謝りませんよ」
後半は長に向けて言った。カンテラを長と俺たちふたりの間に置くと、俺はしゃがんだ。聞きたいことはたくさんある。しかし俺が口を開く前に長は思いがけないことを言い出した。
「このままじわじわと息の根を止めるおつもりか」
そう言って俺を再び睨む。意味がわからなくて首をかしげた。
「首を絞めてるつもりはありませんけど」
さっきにあなたに絞められたのは俺だし。そう思いながら返事をする。
「死の風に吹かれ続けている。同じことです。そうやって殿下の命も奪うのでしょう」
本格的にはてな顔になった俺の後ろでビューズが小さく、しかしはっきりとした声で言った。
「余は自ら好き好んで着いてきたのだ。賓殿のお荷物になっていることは自覚しているが、その逆ではないぞ」
「ありえません」
長はきっぱりと言った。やけに自信がある言い方だ。
「トァン殿下の迷いなきご様子もおかしいと思ったのです。もう少し警戒しておくべきだった。最初からおふたりで計らっておいでになったのでしょう。そうでなければブガルクがこんなに早くここまで手を回せるわけがありません」
「はい??」
困惑した俺はビューズのほうを見た。俺とブガルクの接点なんて一ミリもない。もし何か疑われているのだとすると、もしかして、と思ったのだ。ビューズはひどく厳しい顔をして床を睨みつけている。
「……なんかみんなそれぞれに思い違いをしている気がするんですけど。俺たちはブガルクの支援など受けていません。トァンにだって襲われて以来会ってない。むしろザー・ラムがやってくる前に何らかの体制を整えなくてはならないと思っている」
俺は言った。言外に、ビューズはラムと接触してなどいない、ということを伝えたかった。
「あなたさまにはわからぬのです!」
唐突に張り上げられた声の剣幕にぎょっとした。長は大声を出した代償で激しく咳き込んでいる。背中をさすってやろうという気持ち——にはならなかった。
「何を申しているのだ」
ビューズも困惑して眉根を寄せている。咳が治まった長は、荒く息をしながら掠れた声で続けた。
「髪の毛の黒い、あなたには。最初から外見的特徴が一致するあなたはアラアシで行き倒れていようと熊たちが烏たちが気にかける。速やかに保護される。目を開けば黒。話しはじめれば日本語のあなたには、何も、何ひとつとして、わからないのです」
「日本語」
俺は長が口にした単語をひとつ繰り返した。
「日本語です。あなたにとってはただの第一言語だ。たまたま該当する国に、該当する外見で生まれただけではないですか。それでひとりこの国で崇められ、ひとり無事にお帰りになる権利を有している。……英雄の名を、恣にして。笑わせる」
皮肉げに歪む年老いた唇を俺はじっと見つめた。
「そうです、とんだお笑いぐさだ。その陰に幾人の……いや、幾千の苦しみがあったかなど、思いを馳せられたこともないでしょうな」
俺は黙って聞いていた。直感に基づくひとつの仮説が心の中に浮かんだ。いや、まさか。しかしさっき屋根裏で読んだノート群の記述も、その仮説を支えるべく頭の中にぽこぽこと湧き上がる。
「ひとつ聞いてもいいですか」
一気に喋って再び咳き込む老人に俺は尋ねた。
「ワティーグス・ターリクさん、あなたの国籍、ええと、ナショナリティ、は、どこですか。もしくはどこでした、か」
老人の喉がひゅっと鳴った。咳で疲弊したせいだけではないことはわかった。
「アメリカです。二十一世紀のね」
頭の骨格が俺とは、俺の知っているホモ・サピエンスとは大幅に異なる老魔法司は、ぎらぎら光る目で俺を見返して宣言した。
「ある日気づけば見知らぬ草原で行き倒れていた。体が上手く動かない。何とか辿り着いた見知らぬ街で、助けを求めれば捕縛された。牛馬に劣る扱いで移送され、言葉のわからぬまま何らかの判決らしきものを下され、様子がわかった頃には港湾労働のための奴隷として売り飛ばされておったのです。最後は積荷の間に潰されて死んだ。ひどい人生です」
老人は淡々と話した。俺の知らない、奴隷制度がまだあったころのプーリアの話を。
「次の生はプーリアの子として生まれました。ああ、この世界に囚われてしまったのかと理解したのは幼子のころです。今はもうない地方領主の三男坊でした。順調に学院で頭角を表しましたがあとひとつというところで権力闘争に負けましてな。老後は侘しいものでした。そのまた次の生からは数度学院を目指しました。一度はとんとん拍子にものごとが進み、トツァンドに分院を建てることにすら成功しました。古代神聖語は要ですから」
ビューズが息を呑む音が聞こえた。俺はというと、結局学院には一度も足を踏み入れなかったなと考えていた。今ワティーグス・ターリクがそこで働くトツァンドの学院。それをつくったのも、またこの人だというのか。
「何度も何度も絶望しました。いつになったら終わるのか。いつになったら抜け出せるのか。いつになったら……死ねるのか。光の子にはなりたくない、光の子にだけは生まれたくないと、強く願いながら一生を終えるのです。次もまた生まれてしまうことがわかっていますから。そう思えば戦乱の最中のブガルクに生を受ける。あれはあれで地獄ですぞ。成り上がった今の僭主の手、いや手と言わず腕、肩、頭……全身はどっぷりと血に塗れておりましょう。私はといえばわけもわからぬまま、ひもじい難民の子として命を終えました」
暗い微笑みがしわだらけの顔に浮かんだ。
「そしてようやく今生です。古代神聖語のこともかなりわかってきた、ブイジーにさらなる資料があることも、それらの知識を積み増せば深森から我々の世界に帰ることができることも今の私にはわかっておるのです。当代の王に光の子が生まれたと知ったときには体が震えました。とうとう私の番が回ってきたのだとね」
不思議な、強い光を湛えた目が俺を見据えた。俺は何と言っていいのかわからず、黙って見返した。
「だから私は注意深く待っていたのです。光の子と賓の行動が別れるときを。光の子の足が単独で北岸の地を踏むときを。光の子さえいれば、魔王は満足する。光の子を連れたものは、帰ることを認められるのですから」
この世界に迷い込んでしまった地球人がもとの世界に帰るためには、光の子という生け贄が必要だ。ワティーグス・ターリクの持論はこうだった。どうやってその結論に辿り着いたのかはまだ判然としないが、疑いは少しも持っていないらしい。
「ひとつ教えてください。あなたはトァンのことをそれなりに気に掛けて大切にしていたようだけど。わざわざ友人兼部下としてステムプレ出身のスフを司書にしようとするくらいには」
心は痛まなかったのだろうか。幼子のころから成長を見守ってきた少女を、犠牲にするという計画に。
「見せしめてやるためですよ。光の子に、現実を突きつけるためです。哀れな、八方塞がりの境遇に生まれたものをそばに置きつづければ、いかに自らが恵まれた立場なのか、いかに多勢の犠牲によってその生が成り立っているのか、いやでも知ることになりましょう」
飢えたような目がぎらぎらと光った。俺は首を振った。それじゃあ、何も変わらないじゃないか。この国の今の苦しさを、ただあとから追認するだけの行為だ。少なくとも俺たちの世界はそこから脱却するための方法を、何度も何度も模索してきたはずだ。俺は役人だから知ってるんだ。倫理研修で最初に言われることだ。「公私にわたり高い倫理観を保持して行動せよ」。俺たちの世界の倫理は、多少でもましな世界をつくってきたんじゃないのか。
「それが現代人のやることですか。ねえ、それが自由の国アメリカの本音なんですか。いっぱい間違いを繰り返して、でもその反省に立つ国だと、証明したんじゃないんですか……黒人が大統領になった意味は、何だったんですか」
ビューズにはわけがわからないよな、ごめん、と思いながら話しかけた。しかし俺の言葉が終わらないうちに、老魔法司は噛みつかんばかりの勢いでつばを飛ばしながら叫んだ。
「わたしはプーリアの民だ!」
俺はあっけにとられて黙った。目をらんらんと怒らせて老人はがなり立てる。
「わたしはワティーグス・ターリクだ。わたしはプーリア人だ! 誇り高きプーリアの民として、自らの身を立て、ここまで生きてきたのだ。哀れな迷子などではもとよりない。寄る辺なく怯えてさまよっていたようなものではないのだ。違う。違う! 私は私だ!!」
支離滅裂だった。現代のアメリカ人だと言えば転生を繰り返したと主張し、それでも自分はワティーグス・ターリクなのだと叫ぶ。でも、何となくだけど言いたいことは伝わった。そしてその理解した内容に、どう返していいのかわからなかった。
俺の世界の人間がこちらの世界に迷い込んだとして、帰る道筋が見つからないまま命を落としたとして。何度も何度も、その記憶を持ったままでこの世界に生まれ落ちてしまった。長の言葉に従えばこの世界に囚われるということだ。その経験を幾度も繰り返して——つまり幾度も生きて、死んで。そしてまたその記憶を持ったまま、生まれて。そんな地獄があるだろうか。いつまで経っても出ることができない、悪夢のような、しかも夢じゃない、ご飯が食えなければ腹が減る、殴られれば怪我をする、現実の世界で。
ひとしきり咳き込んだ老人は、しかしそれで多少頭が冷えたらしい。掠れた、しかしさっきよりはだいぶ落ち着いた声で俺に話しかけた。
「あなたは、何年から来られた」
「2016年です」
長の求めている答えが何なのかよくわからないまま、事実だけ答えた。長はその応えにわずかに目を見張り、そして静かに言った。
「それではこれ以上は言いますまい。いかにそのアメリカで、人の命が、尊厳が、軽んじられたか。オフオフブロードウェイから俳優がひとり消えても周囲の誰も気にしない、気にしている余裕など微塵もない、それが世界の大国アメリカの、私の知っている、いや知っていた、私にとっての現在……そして遙か遠い過去の、現実の姿です」
「何があったんですか」
「あなたもそのときになればわかります」
老魔法司はその表情にわずかの諦念を浮かべて言った。目ばかりが強く光っているのが印象的だった。
「なるほど」
俺は呟いた。おそらく長は俺にとっての未来から来たのだと理解したのだ。未来から先に来て、数え切れないほどの時間をすでに過ごし、そして今俺とここで対峙している。その重さを仮に想像しようとしてもしきれないことくらいはわかった。でも俺には言わなければならないことがあった。
「ワティーグス・ターリクさん、残念なお知らせがひとつあります」
俺はゆっくりと言った。
「あなたがもとの世界に帰るためにここに来たのはわかりました。その方法が見つかったと考えていることも。でも、本当にものすごく残念なんですけど、たぶんそれ間違いです」




