表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
深い森へと続く道(WEB試し読み & 草稿)  作者: 赤星友香
草稿(2021年6月連載終了)
45/55

21. ブイジー(2)

 ブイジー城は近くで見れば見るほどよそよそしく、冷たく感じられた。外壁はモルタルでも流したようにつるりとしている。いやに整った丸い形が不気味だった。おそらくゼウムでつくったのだろうとビューズが言った。いつの間にか雲が出ている。日はふたつとも陰ってしまった。冷たい風が塔の向こうから渡ってきて俺たちに吹き付けた。


 どう見ても俺たちを歓迎しているようには感じられない——無人のはずなのにそう思うというのは変な感じだった——塔を眺めていたら、突然グューウォァウの頭からまだらの烏が飛び立った。烏はかあ、とひと声鳴くと吹く風に流されつつ湖のほうへと羽ばたいていく。数秒後には小さな点になってしまった。


「どうしたんでしょう」

「烏は敏感だ。気配を察して怖じ気づいたのかもしれぬ」

ビューズの掠れた声が耳元でする。もしそうなら、あなただって逃げたしたほうがいい。そう言いそうになったけどこらえた。でも熊たちはそろそろ解放してあげてもいいよな、とだけ頭の片隅で考えた。


 最後の起伏を越えて俺たちは塔の門前に立った。外壁と同じ素材でできた観音開きの扉は、俺が片手で押すと簡単に開いた。ただしビューズが俺に支えられながら押したときにはうんともすんとも言わなかったが。この場所で力を十全に保っていられるのはルウシイを持つものだけだということが前提になっているつくりなのだろう。


 薄暗い城の中は倉庫になっているようだった。片隅に錆びついた大剣が立てかけてあるかと思えば、隣には農作業用かと思われる手押し車が半分朽ち果てた状態で転がっていた。ガラスの嵌まっていない小さな窓から絶えず冷たい風が吹き込んでくる。風が吹き払ってくれるお陰かほこりっぽくはなかったが、その代わり隅の吹きだまりにはさらさらとした砂が積もっていた。


 俺は荷物の袋からアウグのカンテラを出して明かりを灯した。片手でかかげ持つとゆらゆらと暖かい光が冷たい石壁を照らした。天井は高いが、塔の高さはよりはずっと低かった。どうやらこの塔は何層にもなっているようだ。外壁にコンクリートブロックみたいなものが斜めに点々と張りついている。飛び石状の階段だった。


「俺は上の階に行ってみます。ここで休んでてください」

すでに壁にもたれてしゃがみ込んでいたビューズに声をかけた。そして熊たちのほうに少し歩み寄った。入り口付近で警戒するように外を見ている。

「お前たちも休んでいていいよ。……いや、もし帰りたければ帰ってもいいんだ」

何を言っているんですか、と言わんばかりの黒い二対の瞳と目が合った。抗議をごまかすように軽く笑って、俺は言った。

「とりあえず行ってくるよ」

「余も後から参る。無理はなさるな」

背後から弱々しい息づかいの声が聞こえる。どっちがだ、と思ったが言えなかった。俯いているからどうせ見えないよな、とわかっていたけど俺は頷き、もう一度笑みを浮かべて、カンテラを手に不安定な石段を上っていった。


 塔の二層目は生活の場だったらしい——この塔の住人に生活らしいものがあったのなら、だけど。すでにぼろぼろになったシンプルなベッドに、箪笥が腐ったののなれの果てみたいな物体が置いてあった。後はがらんとしていて、人がいた痕跡があるだけにその空虚な感じが気味悪かった。


 三層目には石造りのテーブルのようなものが据え付けてあった。その上には比較的大きな窓がある。そこからの眺望で、俺は納得した。


 俺たちが歩いてきたのと同じような、緩やかな起伏のある草原が続いていた。こんな場所でなければ、羊が草を食むのにぴったりな風景だ。しかしもちろんそんな穏やかな情景は実現しない。死の風に吹かれる場所だからだ。草原の果てにはぽつぽつと木々が生え、その木々は徐々に立ち枯れの様相を示し、さらに真っ白な死んだ森へと続いていた。その先には緑というよりは黒といったほうが良さそうな色合いの森がふくれあがっていた。ふくれあがっていた、というのは見たままを正直に言うとそういう感じに見えたということだ。死んだ森による白い帯状の枷をはめられつつ、その枠を飲み込み破壊して今まさに外に広がろう広がろうとしている。感じられるのは圧倒的な生命力だった。


 しばらくの間俺は呆然と深森を見つめていた。母なるイーはこれを毎日見ていたのか。じわじわ、じわじわと、森がこちらに迫ってくるさまを。緑の森が死に絶え、黒い森がむくむくと力を蓄えていけばいくほど元気になっていく自分の体に、母なるイーはいったい何を思ったのだろうと俺は思った。今にもこの世界のすべて——母なるイーが愛したであろうすべてを皆殺しにせんばかりの勢いで増殖を続ける、自分と同じ空気を喜んで吸う、森を毎日眺めて。母なるイーが俺と同じ日本の、ほぼ同時代から来た人間であることを俺はすでにまったく疑っていなかった。


 あちらこちらをさまよっていた意識がふと物音に気づいた。苦しそうな息づかいが聞こえる。石段から次の層に出るための穴に顔を突っ込むと、もう一層下のほうでぼんやりとアウグのカンテラが灯す明かりが見えた。ビューズだ。


「無理はしないでくださいよ!」

さっき言われたようなことを叫ぶと、俺は天井を見上げた。ここが塔の最上層かと思っていたが違う。五メートルくらいはありそうな天井の一部に穴が空いていた。その下の壁にはボルダリングみたいな、でもより心許ない突起がぽつぽつと出っ張って俺のいるところまで続いている。両手両足を使って上るための装置だ。とても今の状態のビューズが上れるとは思えなかった。熊たちだって厳しいだろう。でも、俺なら行ける。たぶん。


 魔法石の良いところは、魔力をその中に封じ込めておいてくれるところだ。俺は右腕にカンテラをかけると、そのまま突起をつたって壁を上りはじめた。オイルランプならとてもじゃないけど危なくてこんなことはできない。でも明かりがないと暗くて突起すらよく見えない。とはいえ暗いのはそれはそれで僥倖だったかもしれない。命綱なしで数メートル上るのだ。普段の俺だったら絶対やらなかったはずだ。この世界に迷い込んで鍛えられたのか、それともビューズも熊もまともに体を動かせない状況で使命感を感じてしまったのか、——いや、単に張り切ってるだけかもしれない。だとするとたちが悪いな、と苦笑しながら俺は暗い壁を上っていった。明日は太ももが筋肉痛になりそうだ。カンテラから放たれる明かりが石壁に丸い輪をつくってゆらゆら揺れた。


 辿り着いた最上層は、下と比べるとずっとひんやりしていた。そして真っ暗だった。窓がひとつもないのだ。立って手をまっすぐ上げると、天井に指先が触れた。部屋というよりは屋根裏といったほうが適切かもしれない。


 カンテラであちこち照らすと、王都の賓専用室にあったような飾り紐がぶら下がっているのがわかった。反射的に握ると、ぱっと視界が明るくなる。

「電気ついた」

以前も言ったようなことを口にした俺は、この屋根裏に意外なものが納められているのに気づいて目を丸くした。


 目の前にあるのは小さな本棚だった。塔と同じ材質で作られているらしい。本棚の中には俺のものではない、しかしものすごくよく見覚えのある紙類が、製本された状態で並べられていた。文房具屋や大学の購買に必ずある大学ノート。人気の雑貨屋で売っている再生紙を使ったメモパッド。A6サイズのルーズリーフ式システム手帳はボール紙の表紙がぼろぼろになりかけていた。どれもものすごく古く思われた。該当する製品が最初に生産された年より、百年も二百年も前から存在していたのではないかと思われるほどの古さだった。


 俺は手近な大学ノートを一冊手に取った。のど部分についた糊はかなり劣化していて、俺が開くとぱりぱりと乾いた音を立てて粉が飛び散った。紙もだいぶ黄ばんでいるが、きちんと状態を保っている。技術の勝利だ。もちろんそれだけでなく、乾燥している冷暗所というこの部屋の環境も幸いしたんだろう。ボールペンで書かれたらしい字もちゃんと読めた。


 そう、読めた。手にしたノートの最初の数ページには講義ノートのようなものが日本語で書かれていた。よく読むとどこかの企業の新人研修のときのメモだということがわかった。数ページめくると唐突に日記が始まる。困惑、混乱、恐怖。俺がこの世界で覚えたのとよく似た感情が書き綴られている。ノート群を目にしたときに勘づいてはいたが、書かれたものを読んで俺は確信を深めた。これは俺より前にプーリアを旅して、深森へ向かって行った歴代賓本人たちが残したノートだ。


 最初のノートをぱらぱらとめくって本棚に戻そうとしたとき、俺はそれまで気づいていなかった一冊のノートを見つけた。ほかのものよりやや小さかったので陰になって隠れていたようだ。引っ張り出してその形状を確認したとき、心臓がずきんと強く収縮した。


 ページ数が多いノートだった。文豪や画家などに愛されたという触れ込みのある、ちょっと値が張るけど人気の高い製品だ。野外で机なしに書き付けるのにちょうど良いハードカバーがついている。皮革調の表紙に合わせた黒いゴムバンドは劣化してちぎれ、カバーに張りついていた。先生がフィールド調査のときに愛用していて——そしてよくどこかにやって探し回っていたあのノートと、同じものだった。


 ゴムバンドのなれの果てを取り去り、慎重にノートを開いた。心臓がどきどきいっているのが耳の下の、首元のあたりで強く響いた。震える指が遊び紙をめくり、最初のページを出した。無地のページに書き付けられた文字を見た——その瞬間、自分の感情が何であるのかを自覚するよりも早く、俺の両目からぼろぼろと大粒の涙がこぼれてきた。


 マントで止まらない涙を乱暴に拭いながら、俺は震える体を何とか抑えてノートに書き付けられた文字に目を通していった。最初は黒のボールペンで、途中でインクが切れたのだろうか、青、緑を経由して最後はシャープペンで文字が綴られていた。劣化に配慮して赤は使わなかったのだろう。飛ばし読みで最後のページまで辿り着いた。俺はしばし呆然としていた。そのままもう一度最初から読もうとして深く息を吸い込むと、大きく胸と唇が震えた。気を張っていないと年甲斐もなくしゃくり上げそうだった。そのとき、下から聞こえる荒い息づかいが強くなり、続いて苦しそうな咳が続いた。


「ビューズ」

震える声を可能なかぎり押し隠して穴から話しかけると、下でアウグのカンテラがゆらゆら答えた。

「余なら大丈夫だ」

苦しそうな掠れ声が石造りの建物に大きく反響して響く。

「何か収穫はあったか」

「ええ」

答えてからどう説明したものか迷い、しばらく黙った。そして素直に言うことにした。

「収穫はあるんですけど、どう説明していいのか迷っています。もう少しだけ調べさせてください」

震え声に気づかれただろうかと恐れたが、俺の声も大きく何度も反響して響いたせいで細かいニュアンスはわからなくなった。

「そうか」

「しんどいでしょ。少し休んでいてください、ここに上ってくるのは無理だ」

「……そうさせてもらおう」

石段の代わりについているものが何なのかをカンテラの明かりで確認したらしい。ビューズはため息をひとつついて答えた。


 一層下のビューズの様子を意識の片隅で気に掛けつつ、俺はノート読みに戻った。手にしていた黒いノートだけでなく、最初のも、ほかのにも目を通した。読んでいるうちに少しずつ気持ちが落ち着いてきた。どの賓たちも概ね同じ経験をし、同じ経路を通ってブイジーにまで辿り着いている。少なくともトツァンドで誘拐されるような経験をした人はいなそうだった。


 ノートの冊数を数えると全部で九冊あった。俺みたいにノートを持たない賓も多かっただろうけど、複数の経験を知ることができたので大枠を掴めたのは良かった。ひと通りすべてのノートに目を通した俺は、階下に向かって声をかけた。


「ビューズ、起きてますか」

「ああ」

起きているとは言うもののくたびれ果てた、眠たそうな声が返ってくる。

「傾向と対策がわかったかもしれません」

受験勉強のようなことを言いながら、俺は屋根裏に取り付けられたルウシイの照明をぼんやり眺めた。

「傾向と対策?」

「賓に選ばれたあなたのための、北岸旅行手引き。ブイジーから深森まで」

旅メディアのようなことを言いながら、ひとり笑う。ひどい旅行もあったもんだ。

「まずこの部屋に何があったかというと、帳面、ノートです。歴代……」


 突然ものが石の床に強くこすられる音がして、叫び声が響いた。ビューズが何か声を上げかけて咳き込む。そのままがちゃがちゃという金属音とごんごんという揉み合いの音が響く。すべての音が反響して何が何だかわからなくなった。


「どう……」

穴に首を突っ込んでどうしました、と声をかけおわるより、もう一度の叫び声が聞こえ、その声の主であるビューズの体が下の穴からもう一層下へ落ち込んでいくのが見えるほうが先だった。穴のふちにはそれを見下ろす白マント姿がひとり。


「ビューズ!」

俺は色を失って慌てて下へと下りはじめた。乱入者に背中が丸出しになるなんて、そんなことを考える余裕もなかった。両手両足がすべて突起にかかるよりも早く、どん、という嫌な音とうめき声が聞こえた。気持ちが焦る。半分くらい下りたところで、左手が手汗ですべった。慌てて両膝を使って突起を抱き込み、なんとか落下を免れる。しかししたたかにぶつけた膝が痛んだ。


「殿下?」

しかし驚いたのは俺だけではなかったようだ。穴のふちに立って下を見下ろしていた白マントが驚愕したようにささやく。その声はずいぶんと年老いていて、そして聞き覚えがあった。


おさ

俺は呟くと最後の一メートルくらいを思い切って飛び降りた。そのまま白マントのもとに駆けつけてフードを脱がす。もうずいぶん前にトツァンドで別れて以来会っていない顔がそこにはあった。魔法史の長、ワティーグス・ターリクだ。


 老人は俺が誰であるかに気づいて、さらに狼狽したようだった。そんな、とかまさか、とか呟いて口をわななかせている。それにかまっている暇は今の俺にはなかった。


「ビューズ! ビューズ?」

白マントを感情任せに床へと突き飛ばすと、俺は急いで石段を下っていった。自分の声がわんわんと響くのが不気味で不安を掻き立てた。手すりも何もないただの飛び石を下りていくのはかなりスリリングだったが、気持ちが逸って身の安全にまで気を配っていられなかった。最後の段を転がるように離れると、下から二層目、寝室だったらしい部屋の隅に転がる第一王子のもとに駆けつけた。


 すでに日が暮れている。ほんの少しの残光の中で陰になったビューズの顔が真っ白に見えて俺は息を呑んだ。肩を揺すろうとして、神経に損傷があったらいけないと思い直す。


「ビューズ!」

頼むから生きていてくれという思いを込めて耳元でささやいた。と、長い青いまつげが震えてまぶたがぼんやりと開く。その視界に入りたくて顔を近づけた。

「気持ち悪くないですか? 痛いところは? 折れてたりとかは」

「……ああ」

絞り出すような声はさっきよりも弱々しい。思わず右手を伸ばしてビューズの左手を掴んだ。大丈夫、温かい。その体温に泣きそうになる。


 動けそうですか、と聞こうとしたときだった。急に喉に衝撃を受けて体が強く後ろに引かれた。荒い息づかいがする。混乱しながらできるだけ目を動かすと白マントが見えた。魔法史の長にヘッドロックを掛けられているのだ、と理解したころにはちょっと意識が白くなっていた。的確に頸動脈を圧迫してきていやがる。ふっ、と締め付ける力が弱まって、俺はその場にひっくり返った。


意識がはっきりするまで少し時間を要した。俺が顔を動かして状況を確認すると、老人が短剣を倒れたままのビューズの喉元に突きつけているところだった。ちょっと待て、相手は王位継承者だぞ、というあまりに常識的な突っ込みはこの際通用しないだろう。

「そこから動くな」

長は震える声で言うとこちらを睨んだ。


 倒れた際に背中を打ったらしい。肩甲骨がじんじんと痛んだ。さっきぶつけた膝も熱を持っていることに今さら気づく。満身創痍とはこのことだ。今までの俺だったらそのままひっくり返ってしばらくの間倒れていただろう。しかし今日一日で驚いたのとショックを受けたのと上手く説明できない涙を流したのとで、俺の頭は最高潮に覚醒していた。さっきの突き落とされるビューズの顔が脳裏をよぎり、新たに力が湧くのを感じた。簡単に言うと、ぶち切れたのだ。右手が支えを探して宙をさまよった、と、何か掴みやすいものに出会った。力任せに引っ張ると動いた。そのまま言葉にならないわめき声を上げて、俺は老人が動くよりも早くその脳天に何か掴んだものを振り落とした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ