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深い森へと続く道(WEB試し読み & 草稿)  作者: 赤星友香
草稿(2021年6月連載終了)
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21. ブイジー(1)

 日中俺たちを乗せて歩き続けた熊たちは、夕方日差しが長くなりはじめてようやく止まった。あまり高くないふたつの峰の間に、さらさらと音を立てて細い沢が流れている。普通の山登りだったら沢に降りるなんて御法度だ。しかし熊たちにとっては尾根も谷も道として大差ないらしい。最短距離を選んで迷わず進んでいるようだった。


 簡単に夕食を食べ、熊たちに挟まれてふたり横になった。毛布の中にもそもそと烏が入ってきてくすぐったかった。すでに日も暮れて夜空に星が瞬いている。一日熊の背中にへばりついていただけだったけどぐったりと疲れていた。さすがのビューズも同様らしい。誰ひとり言葉を発しない、静かな夜だった。


 早く深森へ行きたいという思いは時間が経つごとにどんどん強くなっていた。こんなに疲れ果てていなければ、ひとりふらふらと歩き出していたかもしれない。危険極まりない。うずうずする思いはあったけど、脳みそはもう活動を停止していたし、体にもまったく力が入らなかった。知っている星などひとつもない夜空を眺めていたはずなのに、いつの間にかまぶたが閉じている。ほとんど眠りかけた意識の片隅で先生、とふと思い、往生際の悪さに苦笑した。


 翌朝日の出とともに行動を開始した俺たちは、昼過ぎには最後の峠を越えてブイジーへと向かい下山を始めていた。高度が下がるとともに気温が高くなるのを感じた。忘れていたけど今は夏なんだ。マントのフードを降ろして日光とそよ風を楽しむのはいい気分だった。灌木がところどころ生えている草原の斜面を気持ちの良い風が吹き抜けていく。深呼吸すると、久しぶりに体の隅々まで酸素が行き渡るような心持ちがした。


「熊たちの歩みが鈍くなったな」

ビューズがふと呟いた。

「プーリア側に戻ってきましたし、安心したのかな。ブイジーには今日着けそうですか? 少し休みません?」

「ああ、……そうするか」

ビューズも少し疲れが取れていないらしい。しんどそうにそう言うと、熊たちに休憩を申しつけた。


 ほかの三名が思い思いに体を伸ばしている間、なぜか元気な俺は近場にあった岩に上って眼下に広がる世界を眺めた。裾野のほうは森だ。ずっと先に大湖の湖面が見えた。左手のほうに向かって緩やかにカーブを描きながら、湾が入り込んで森の中へと見切れている。見切れた先にブイジー城があるはずだと思って目を凝らした俺は、予想外のものを認めて首をかしげた。


 最初は白い帯だと思った。雪、と考えて今が夏であることを思いだし、川かな、と当たりをつけた。しかし白っぽすぎる。よくよく見つめて、その白い帯が何であるかに思い至った。北見の塔から一度見ていたからだ。


 それは森の死だった。白い帯は左手のほうは湖から遠く、右手になるに従って岸のほうへと寄ってきて、その先はまた岸から離れていく。あの帯の中は深森だ。森の死は俺が思っていたよりもずいぶんと湖に近づいているように思われた。ここ数日のうちに、さらに範囲が広がったんだろうか。そう思うといても立ってもいられなくなってきて、俺は岩から飛び降りると残りの三名のほうへ走って戻った。


 俺の足音を聞きつけて、伏せていたグューウォァウが眠たそうな目を片方だけ開けてこちらを見た。首のところに埋まるようにしてまだらの烏が寝ている。ずいぶん疲れさせてしまったと思うと罪悪感が湧いた。もうちょっと寝てていいよ、と声をかけて、俺はこちらも目をつぶって横になっているビューズの枕元に膝をついた。


「深森がさらに成長しているかもしれないんです。ちょっと見てほしくて」

俺が言うとビューズはひと声唸って大儀そうに目を開けた。眉間にしわが寄っている。いつの間にか甲羅、じゃなくてハワウ発生装置も外して傍らに置いていた。こりゃだいぶ疲れている。


「しばし待たれよ」

声までしんどそうだ。

「大丈夫です? 熱でも?」

強行軍が体に堪えたかと思わず額に手を置いてしまった。置いてから王族にそんなことしていいのかなと思い、思ってからそういえばこの国では俺のほうが偉いんだったと気づいた。めちゃくちゃだ。ちなみに熱はなさそうだった。

「そうではないが」

言いながら浅い息をはあはあとついている。起き上がるのに俺の手助けが必要だった。これは立ち上がるどころではないなと思いながら肩に手を掛けた俺は、その体の意外な軽さに驚いた。俺を持ち上げられるくらいの力があるのに。


「あなたは何ともないのだな」

念を押されるように言われる。意味がわからないまま頷いた。

「むしろずいぶん久しぶりに伸び伸びとする感じがしますね。山の空気がいいのかな……って、ほんとに大丈夫ですか?」


 思わず大声を上げてしまったのは、ビューズが急に咳き込んだからだ。軽くむせたとかそんなんじゃなく、ぜんそくか肺炎にでもなっているかのような、胸の奥から肺がひっくり返って出てきそうな、そんなつらそうな咳だった。


「すみません、起きてと言ったほうが馬鹿だった。横になって……もしんどいか。俺に寄りかかってください」

慌てながらいろいろ口走って背中をさすった。ひどく咳き込みつづけているので丸くなっている。いつもよりもずいぶん頼りなく感じた。さぞしんどかろう。俺にも経験があるからわかる。トツァンドに辿り着いたばかりの、トァンに「この世界の空気が合わない」と説明されたころがちょうどこんなんだったもんな——


 背中をさする手の動きが鈍くなった。首筋を嫌な汗が流れるのを自覚する。ビューズはというと咳の発作がひと山越えたようで、鎖骨の下あたりを左手で押さえながら荒い息をつきはじめた。


「声を出さなくていいので教えてほしいんですけど」

俺が言うと小さく頷く。

「何もしなくても上手く息が吸えない感じがする」

こくり。青髪が頷く。

「喋ると一気に目の前が白くなって」

こくり。

「急に動くと頭が痛くて苦しくてそのまま昏倒しそうになる」

こくり。

「それって」

俺まで喉が乾燥して声がかすれた。

「この場所の空気が合っていないっていうことですね?」


 こくり。最後の頷きはややためらいを持って返ってきた。


「あなたの懸念通りなのではないかと思う」

かすれているけどそれもまたイケボな世嗣殿下は背を丸めたまま俺に寄りかかって言った。

「ここの空気は俺にとってはとても良くて……あなたたちには悪い」

「普段の逆だな」

消え入りそうな小さな声で、目をきつく閉じたままビューズは呟いた。


 何と言えばいいのかわからなかった。俺は片手をビューズの背に添えたまま辺りを見回した。たしかに深森はすこしずつ生長しているのだろう。しかしその外側は普通に森がまだ残っていて、緑がある。魔王の出すという死の風がすでに吹いているのであれば、このあたりの生き物がすべて死に絶えていなくてはおかしいんじゃないだろうか。


 俺の目が下ってきた山の稜線を捕らえた。なめらかな草原は途中で途絶えて、次の峰の向こうは針葉樹林が続いている。こんなふうに植生が変わる山もあるんだな。


「ん?」

体をひねって背後の稜線も確認した。あることに気づいたのだ。草原が山を覆っているのはほんの一部のみだった。下手くそなバリカンで毛を刈ったみたいに、森がなくなっているのだ。きっと裾野の森のほうからは、草原が下から上へ放射状に広がっているように見えるに違いない。そしてその森のない草原を、心地よい風がそよそよと渡ってくるのだ。


「これが」

俺は理解した。この場所はおそらく、魔王の復活の最初から、いやもしかしたら魔王が感知されず深森がしぼみきっているときから、ずっといわゆる死の風に吹かれているのだ。下から吹き上がってくる風にどういうわけか耐えられるごく一部の生物だけが、ここで生き延びることができる。たとえば、俺みたいな。


「ビューズ」

ようやく呼吸が整ってきた第一王子に俺は声をかけた。 。気づいてしまったことにショックを受けてはいるけど、今苦しんでいる人たちを放っておくことはできない。


「森の中に入りましょう。それだけであなたたちはだいぶ楽になるはずだ。もう少し休んだら動きましょう」

「ああ」

小さく返事をしたビューズは続けて申し訳ない、とささやいた。俺は強く首を振った。俺がこの世界に迷い込んだ最初の数日は、どこに行くにも何をするにもグーォウとスフが世話を焼いてくれた。だから何とかやっていけたのだ。少なくともシュマルゥディスの乱入までは、だけど。俺が同じように面倒を見てあげることはできないだろう。何しろ相手はひとりに烏一羽、熊二頭だ。でも頼りなくても、多少の助けにならなるはずだ。ビューズをもう少し休ませている間に目安をつけようと、俺の目は最短距離で森に逃げ込む経路を探しはじめた。




 日の光が直接降り注がないくらいまで深く森に分け入ると、さっきまで感じていた生気はしぼんでしまった。急に疲労感が襲う。しかし俺の肩を借りてようやくよろよろ歩いていたビューズは自力で熊にまたがれるようになったし、熊たちは熊たちで体力を回復したらしかった。というかしんどいながらも俺たちを乗せてある程度歩いていたんだから、熊はやっぱりすごい。


 熊たちが面倒な藪を避けながら下山を続けている間、俺は混乱した頭で何とか状況を整理しようと試みた。この世界を滅ぼすポテンシャルのある魔王と、複数の意味で常軌を逸した魔力を持っているらしい俺。どちらもがこの世界の常識からはみ出している異質な存在であると考えるのにはもうあまり抵抗がなかった。問題はどちらかというとそのあり方のほうだ。


「あなた様はわたくしどもの賓様でいらっしゃいます。光を携え、この世界から闇を駆逐していただく方でございます」


 最初に聞いたトァンの言葉はまだ耳に残っていた。闇とは魔王。俺の魔力、ルウシイは光魔法。つまり俺と魔王は光と闇、対極の存在だ。はっきり口に出したことはなかったけど、そういう互いだからこそ近づくと打ち消し合うのではないかと俺は考えていたのだ。ビューズだってきっと似たようなことを予想していたに違いない。


 しかしまさかのまさか、魔王の吐く死の息、この世界のものを苦しめる風を浴びて、俺は文字通り生き返ったように元気になってしまった。そこから容易に導き出される仮説は、俺と魔王は似たもの同士なのではないかということだ。たとえばそれはどういうことか。たとえば、魔王が俺の世界に属する存在なんだとしたら? 俺の存在はこの世界を救うのではなく、この世界を滅ぼすものと同質なんだとしたら。


 そしてもうひとり、俺の世界に属すると考えられる神話上の人物がいる。おそらくプーリアの太母と呼んで良いだろう存在。母なるイーだ。母なるイーはその最後の日々と呼ばれる期間にブイジー城をつくり、最後には魔王と対峙したと考えられている。しかしその母なるイーもまた、俺と同じように魔王と同質な存在だとしたらどうなるんだろう。なぜ賓は母なるイーの再来のようにしてトツァンドを訪れるのか。なぜ魔王は何度でも蘇るのか。なぜ——


「このまま進めば日暮れまでにブイジー城に着くだろう」

自分の中に深く落ち込んでいた思考がビューズの声で引っ張り上げられた。俺ははっとして隣で熊に乗る青髪の第一王子を見た。

「ただしかし余と烏、熊たちにとってはあまり楽しくない知らせがある。ご覧あれ」

そう言ってビューズは片手で上を指さした。釣られて見上げると、太陽光が目を射た。いつの間にか樹冠がずいぶんすかすかになっている。木々の数は変わっていない。枝振りも同じだ。葉が落ちているのだった。視線を落として周囲を見回すと、さっきまであちこちにあった藪が見当たらなくなっている。それどころか下草すらほとんどなかった。熊たちは木の幹しか遮るものがない森の中、枯れ葉をさくさくと踏みながら歩いている。烏はグーォウの頭の上で静かに座っていた。


「息は苦しくないですか」

最初に心配したのはそこだった。この質問は予想していなかったらしいビューズの眉が上がった。

「問題ない。少なくとも、まだ」

「つまり多少は異変を感じているということですね」

「ああ」

隠そうとしても仕方ないと諦めたのか素直に認める。

「しんどくなったら言ってくださいよ。あなたたちに無理をさせてもなんの意味もないんだ」

「しかしあなたはひとりででも行こうとするだろう」

「無理して進んで四人倒れても同じことです」

思わずご尊顔を指さしながら指摘するとビューズはむ、と言いながら黙った。


 しばらくすると森は完全に平地になった。山を下りおわったのだ。さらにしばらくすると、熊たちの歩みが鈍くなった。俺とビューズは熊から降りて歩いた。重たいビューズのハワウ発生装置は外させて俺が持った。サルンでは持つことすら叶わなかったのに今回はちょっと重いな、くらいで済んでしまう。


 さらに行くとビューズの息が上がりはじめた。俺が肩を貸してまたしばらく黙々と歩き、小さな丘をひとつ越えたとき——この頃には木々は本当にまばらになっていた——視界が開けた。右手の丘は、なだらかな斜面が突然断ち切られて断崖絶壁が波に洗われている。王都ほどではないが、落ちたら生きていられるかわからないな、と思う程度には高さがあった。


 そして正面には、突如として古めかしい石造りの塔が蜃気楼のように現れた。円筒形で灰色で、小さな窓がところどころ空いている。全体的に陰気で人を寄せ付けない雰囲気の建物だった。それが崖の上の、なだらかな起伏の続く丘陵地帯にただひとつずっしりと建っているのは何か異様な光景だった。そしてそれが何なのかは、見ただけでわかった。

「ブイジー城だ」

息を弾ませながら俺の隣でビューズが言った。

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