19. 北岸(2)
なかなか飲み込めなかったのだが、ビューズは本気でトァンに、かつザー・ラムに見つかることを恐れていたらしい。しばらくの間は俺たちは無言で進んだ。熊たちはブイジーに向かう最短コースを選んで、行きとは違うところを通っていく。小さな尾根をひとつ越え、谷を渡り次の峰に取り付いたところでようやくビューズは安心したらしい。唐突に会話が始まった。
「臆病者と笑われもしようが、余は心の底からあの僭主にまみえたくないのだ」
ビューズが言った。しかし今度は俺のほうが気もそぞろだった。
「そうですか」
状況がそれどころではなかったのだ。俺の目にはどう見ても断崖絶壁にしか見えない急な斜面を、熊たちは四つ足すべてを使ってよじ登っていた。当然ながら負ぶわれているほうの俺たちは足を空中にぶらぶらさせている。似たようなシチュエーションは何回か経験してきたけど、今回ばかりは魔法の手助けがない。超アナログだ。落ちたらどうなるんだろうと、それしか考えられなかった。
「事実は事実として見よう。敵対関係があるとはまるで思えぬ」
世嗣殿下は俺の様子にお構いなく話を続ける。ずっと落ちることばかり考えていても精神衛生上良くないかと思い直して、俺は会話に加わってみることにした。
「それはトァンとラムがということですか?」
「ああ」
「しかし、まったく意味がわかりません。それじゃ手当たり次第に王族と接触を試みてるみたいだ」
「その通りなのかもしれぬよ」
「うぇっ」
ビューズが言うのとほぼ同時に、熊が崖に突き出した岩に前足を掛けてぐっと登った。俺はというと一回体が垂直よりも後ろにのけぞり、力が入っていなかった首がぐっと曲がって空が見えた。胃がひゅっといって縮まった。端的に言ってすごく怖い。気づけば変な声が出ていた。
「紐に手を掛けておいたほうが良い」
そういうことは早めに言ってほしい。熊が岩を乗り越え終わったので俺の上半身も反動をつけて元に戻った。死ぬかと思った。息を切らしながら必死でしがみつく俺と淡々と登っていく熊、どこかがおかしいんだけど笑いどころがわからない。
「仮にそうだとして、ラムにはどんなメリット……利点があるんですか?」
直前の話題に戻って尋ねるとビューズはそれだ、と言う。
「あの僭主の東征はまるで不可解だ。森林資源を求めて、とは言っているが表向きの理由だろう」
「ブガルクには森がないんですか?」
「なくなったというべきだな」
「切りすぎた?」
「その通りだ。ブガルクの武力は戦争奴隷と、もうひとつ別の要素に支えられている。グァフヌン……あれは古代神聖語では何というのか」
「どういうものですか?」
「材料に木炭が必要なことはわかっているのだが、それ以外が不明だ。火をつけると爆発する」
「なるほど」
火薬だな。
「黒い煙が出る?」
「そうだ」
黒色火薬だ。
「火薬といいますね。火の薬品、というくらいの意味です」
「火薬か。ブガルクの戦には火薬が重要な役割を果たしてきた。陸でも海でもかまいなしに火をつける」
「で、火薬の作り方はわからないと。太刀打ちができないわけですね」
「大山脈地帯以西の諸国はな。それに加えて武器も鎧も金属を多用する。これも製造に燃料が必要だ」
「なるほど。でもだからといってオルドガルの森を全部切りつくしたわけでもないんでしょう?」
「さよう。これは商人たちから得た……厳密には余の耳目が得た情報だが、オルドガルの伐採にはそこまで積極的でないように見受けられるな」
「ふうん?」
それがビューズの言う不可解さだというわけだ。
「何かこう、オルドガルでは役者不足みたいなことはありえないんですか? 特定の樹種が必要とか」
「それであればなおさらプーリアへ向く意味がないな。ブガルクの植生とより近いのは本来オルドガル西側のはずだ」
「それもそうですねえ」
それでは本当に森が目的ではないのだろうか。
「プーリアはただの通り道だったり?」
「それもあり得ると考えている」
「でもその先ってステムプレしかない……」
ステムプレしかない? 何を言っているんだと気づいて俺は言葉を続けられなくなった。ブガルクがオルドガルを欲しがるのには意味があり、プーリアにも意味があり、でもステムプレにはないとでも言いたいのか。なぜ? 森がないから? でもザー・ラムの目的はおそらく森林資源ではないのではないかというのがそもそもの発端で——
「ステムプレ内の扮装がブガルクの差し金という噂もある」
俺の様子にかまわずビューズが話を続ける。自分自身に対して心の中に湧いた思いを一度振り切って俺は返事をした。
「混乱に乗じて何かを企んでる、ということですか」
「そしてプーリアには平和裏に道を提供せよとな」
「たしかにそれならサルンとトツァンドにそれぞれ接触しようとする理由がわかります」
「他国のとはいえ元首が利用するのであれば大街道が必要だ。ステムプレへ向かうのであれば大烏の道を使うしかあるまい。それぞれ終点と始点の地の領主というわけだ」
「でも、ステムプレには何が?」
ステムプレには何もない。さっき疑問に思った理由はそれだと自覚していたので、俺は言葉を注意深く選んで尋ねた。行ったこともないのに、ちょっと話を聞いただけなのに、他国と比べてステムプレには何もないと、そう思い込んでいる。氏族社会だと聞けば未開文明なのかなと思ってしまう。そうとは限らない。そうとは限らないのに、先入観の力というのは恐ろしいものだ。
「そこだな。それが余にもわからぬのだ。アキク……あなたの側用の父に尋ねてみても、とくに思い当たらぬと言うのでな」
「スフの」
俺は久しぶりにスフのことを思い出した。そしてそのことに後ろめたさを覚えた。スフは今どこにいるんだろう。無事だろうか。トツァンドに留まっているだろうか。それとも?
「あ」
「いかがなさった」
「スフ、トァンと一緒に行動しているんじゃ」
「可能性はあるな」
世嗣殿下は熊にぶら下がっている状態で器用に腕を組んでなるほど、などと言っている。何でこんなに余裕そうなんだと考えたところで、この人はわりと普段からこういう無茶をやっているのじゃないだろうかと思い当たった。これまでの行動を思い返してみてもそうだ。いちいち迷いがない。迷いがないということは、ある程度見通しを立てていると言うことだ。なぜ見通しが立つのかというと、似たような経験があるからではないだろうか。
「ただ父にわからぬものが子にわかるとも限らぬ。とくにその司書は幼児のころにステムプレを出て以来プーリアで暮らしているのだろう」
「と、聞いていますが」
「しかしたしかに、我が妹御がステムプレの民を連れていればあの僭主の興味を惹くかもしれぬな」
「でも、仮にザー・ラムのほうがその程度の理由で動いているとしてですよ、どうしてトァンが相手にするんです?」
トァンは俺を追ってきたのではなかったのかという思いがあった。そうビューズに告げられたときは申し訳ないような気持ちが強かったが、ひるがえって俺よりもほかの人物の都合を優先したのかと考えるとどこかおもしろくなかった。勝手なものだ。
ビューズは小さくため息をついた。
「ふたつ可能性がある。ひとつは野心だ」
「野心」
「あなたもご存じのように、プーリアではいかに身分があろうと女が自らの身を立てることは叶わぬ。あれが仮に何らかの野心を持っているのであれば、外の勢力と手を組むことも厭うまい」
「それはあまり穏やかじゃないですね」
あの落ち着いた様子の少女がそんなことをするだろうかと俺は首をかしげた。ビューズの話しぶりから察するにそれは利敵行為になるし、場合によっては内乱の志ありと認められかねない。
「もうひとつの可能性のほうがより穏やかでないぞ。魔王によって敵を滅するのだ」
「敵って」
「この場合は外敵だ。戦の意志ありと見ればブガルクもその標的となろう」
「え」
「賓客であるあなたと行動を一にしていないのも好機となる。プーリア国内の事情に巻き込むわけにはいかないと考えるだろうからな」
「つまり同盟と見せかけて」
「深森に誘い込み、そこで本懐を遂げる」
「……まずくないですか」
「まずいだろうな。頭を失ったブガルク、そしてその影響下にある広大な沿岸地域が混乱に陥ることは必須だ」
戦国時代の幕開けと相成るわけだ。いくら湖と大山脈地帯に阻まれているからとはいえ、プーリアもまったくの無影響でいるわけにはいかないだろう。つまり。
「どちらの可能性であってもトァンを止めなければならないと、そういうわけですか」
「ご明察だ。そのためにはあなたも余も見とがめられるわけにはいかなかった。余は余で姿を見られれば僭主が察する。黒髪のあなたのことは意味がわからぬだろうが、わからぬならなおさらだ」
「そうか」
トァンの取りうる選択肢については、本当に? という疑念が強かった。しかし王族であるビューズが、しかも一応血を分けたきょうだいとして言うのだからそれなりに説得力がある。どちらにせよ可能性があるのだとしたら、先回りしたいと考えるのは道理だ。
「それじゃあ、急がなくてはなりませんね」
と、熊がぐっと力を入れて最後の岩場を乗り越えた。その先は平らだった。西側に断崖絶壁を持った峰の頂上に出たのだった。目の前には比較的なだらかそうな尾根が高度を下げながら東に向かっている。眼下の森は途中から淡い霧に包まれ、先のほうは見通せなかった。しかし俺は急に膝のあたりにうずきを感じた。この先に、ある。そう直感が告げた。ちょうど昨日、風の塔に吹かれてこちら側の岸に辿り着いた、あのときに受けた感じによく似ていた。
「ああ」
はやる気持ちが気の乗らなそうな声で遮られた。不思議に思って隣を見やると、熊の背に張りついたビューズが俺のことをまじめな顔で見ていた。
「……これは言うべきかどうかずっと逡巡しておったのだが」
しばらく迷った後世嗣殿下は口を再び開いた。
「もうお気づきだろう。あなたは魔王と同じくらい、もしくはそれ以上に、この世界の均衡からはみ出した存在だ」
深森とは何か。魔王とは何か。魔王を斃すとは何か。俺というこの世界では規格外の魔力を持つ存在がどうして世界の均衡を壊さずに今存在していられるのか。そのことに対する、ひとつの答えだった。
「魔王がいるから、俺がいられる、そう言いたいわけですよね」
「あなたが魔王に近づくとき何が起こるのか、余にはわからぬ」
明るい茶色の目が俺の視線を捕らえた。
「……俺は自分を犠牲にして世界を救いますなんてことは言えないし、実際そんな局面に立たされたら一も二もなく這いつくばってでも逃げ出すんじゃないかっていう自信があります」
言いながら苦笑いしてしまった。情けない。こんなときにヒーローだったら、それでも行かなくては! と言うのかもしれない。俺にはとうていそんなことは言えなかった。
「問題はふたつあります。今ここで逃げ出しても、結局俺にはこの世界に逃げ込むべき場所がない。俺の世界に帰りたくても、その方法がわからない」
笑うと茶色の目が痛ましそうな色を湛えて細くなった。いやいや、いいんだ。俺のためにここで悲しまなくてもいい。
「そしてもうひとつのほうが俺個人にとっては重大なんですけどね……。昔ね、全然違う状況なんだけど、似たような選択肢を突きつけられたことがあるんです。つまり、直感と惰性が正反対の答えを突きつけてくる瞬間です。俺はそのとき惰性を取った。そしてものすごく後悔しました」
喉が渇いて唇を舐めた。口内が乾燥していて上手に舌が動かない。
「今、俺の直感は迷わずあなたと一緒に行くべきだと言います。俺の惰性はこんな他人の面倒ごとなんて一瞬でも早くかかわるのを止めるべきだという方向に思考を常に向けようとしている。俺はというと、採るべき選択肢はとっくにわかっていて、ずっと抗ってる。惰性で」
ビューズは静かに俺の話を聞いていた。俺が答えを出すまで黙っていてくれるつもりなのだろう。俺はもう一度唇を舐めた。
「うん、決めた。行きましょう」
本当に良いのかと、青髪の下の目が問う。
「さあ、俺の気が変わる前に。行きましょう」
もう一度言うと俺は熊の首を軽く叩いた。頼んだよ、と呟くと小さな声でウ、と返してくる。すまないな、ブイジーに着いたら一度ゆっくり休んでくれとそう思った。
「感謝する」
小さな、小さな声でビューズは言った。絞り出すような声だった。
「光の子の代わりとはならぬだろうが、最後までお供しよう」
いやいいですよ、あなたはちゃんと帰って王様にならなきゃ。そう言おうと思ったけど、喉が乾燥していてうまく声が出なかった。代わりに曖昧に笑って、俺は熊が進みはじめた方向に視線を向けた。




