19. 北岸
ふたつの太陽がそれぞれ空の端へとかかりはじめた午後遅く、ふわふわと移動していた俺たちは徐々に高度を落として少し開けた高台に着陸した。湖岸に接する山々のうち、そう高くないものの中腹だった。高台全体が大きくて平らな岩に覆われている。周囲の山々には気持ちよくまっすぐ伸びた針葉樹林が広がっていた。
俺たちを運んできた風は最後にするりと体の周りを一周するように吹き、そして消えていった。そのよすがを追うように振り返ると、遠い遠い向こうに王都を擁する南岸の山脈が見えた。あの辺りのどれが風の塔で、どれが北見の塔なんだろう。目を凝らしてもわからない。たぶん東京から見る富士山くらいは離れている気がする。そこそこの距離を飛んできたんだなと実感した。
熊にまたがった人間がふたり空を飛んでいるわけだ。湖上から見とがめられるのではと密かに心配していた。それどころか北岸に近づいたらオルドガルの人々からも見えるかもしれない。攻撃されたらどうしよう、などと考えていたのだが杞憂だった。昨日のできごとのせいだろう、渡っている最中も今も船影はひとつも見当たらなかった。波間に漂う船の残骸が見えることも覚悟していた。しかしそれらしいものすら見当たらなかった。端的に言うと、ここまでの道のりで俺たちを見つけたものが皆無なら、俺たちが見つけたものも何ひとつとしてなかったのだ。
ビューズは俺に背を向けていた。母なるイーがその最後の日々を過ごしたというブイジー城と、その先にある深森の方角を向いているのだろう。ビューズの肩越しに同じ方角を眺めてみた。
山の斜面が足元から、左から、右から、正面から下っていって谷底へと続いている。全体が柔らかな緑色をした森で覆われていた。きっと谷には川が流れているのだろうなと思ったが山の上からではわからない。ずっと先に視線をずらすと、山々の向こうに平地が開けているのがぼんやりと見えた。うっすらと山地全体にかかる霧がじゃまだ。よく見えない。あの先にブイジー城があり、深森があるはずなのだ。行かなくては、早く行かなくては。せき立てる声が胸の内で騒いだ。谷の向こうから目が離せなくなったまま、俺は無意識のうちに歩き出そうとしていたようだった。
「おっと」
軽い調子で放たれた言葉とともに左腕を掴まれて我に返った。背の高い世嗣殿下が声の調子に似合わないまじめな顔で俺を見下ろしている。
頭が混乱した。今俺は何をしようとしたんだろう? 落ち着け。落ち着かなくては。そう頭を巡らして、ここにやってきた本来の目的をようやく思い出した。トァンの特別船だ。
「……オルドガルのほうに流れて行ってしまったんでしょうか」
ようやく声を出した俺に対してビューズは無言だった。そのままじっと見つめられた。何とも形容しがたい視線だった。俺、やっぱり何か変かなとひっそり焦りはじめたタイミングで、ようやくビューズは口を開いた。
「……やはり北岸以外に行こうとは思われなかったのだな」
「はい?」
俺は面食らって返事をした。言われた意味がわからなかった。
「魔法応用技学による攻撃。それによって竜巻か嵐かが巻き起こったと考えられる。そうであればすべての常識が効かぬ。これまでにそのようなことはなかったのだから」
ずっと考えていたことらしい。言葉はすらすらと口をついて出てくるようだった。
「しかしあなたは迷いなく探しにいかねばならぬと言った。対岸まで、と。サルンまで押し戻されたとは考えなかったか? サルンと言わずとも北東の諸領、それこそシュマルゥディスなどに流れ着いているやもしれぬ。そのような可能性をすべて排除して、あなたはここに向かうことを希望したのだ」
俺は当惑してビューズの顔をじっと見ていた。何を言っているのかは理解できるけれど、改めて指摘されるとどうしてなのか自分でもよくわからなかった。何で俺はトァンが対岸に流されたと思い込んだんだろう?
「呼ばれているのだろうな」
沈黙の意味を理解したらしいビューズは小さくため息をつくと言った。
「あなたは呼ばれているのだ。魔王にか、深森か、はたまた別の何かなのかは知らぬが」
「呼ばれている」
俺は呟いてさっきの方角に目をやった。緑で覆われた起伏のある地形が視界の果てまで続いているだけだった。それなのに目が離せなくなりそうだ。俺は無理やり視線をはがしてビューズのほうを向いた。
「……呼ばれている、の、かもしれません」
掠れた俺の声に、ビューズはまじめな表情のままで頷いた。
がさがさと熊が下生えをかき分けていく。俺の腰くらいまでの高さだろうか。同時に山登りもしているのだから、自分で歩こうとしたら相当難儀しただろうなということは容易に理解できた。
熊は俺たちを背負っている。乗せている、のではなく文字通り背負っている。背負われているほうは手足をかろうじてぶらんとぶら下げてはいるが、体が熊に密着しているので身動きが取れない。上体としては、完全におんぶされた乳幼児だった。ビューズが持ってきた荷物の中に入っていた、熊用の負ぶい紐を使っている。人間だったら子どもに使うようなものだが、熊の場合は違う。人間を背負うときに使うのだそうだ。ちょうど今のような、足場の悪い場所を四つ足で通り抜ける必要があるときなどのために。
俺たちは進路を山頂へと取っていた。山々の向こう、ブイジー城と深森に強く惹かれる気持ちはなかなか止まなかった。しかし正体不明なこの欲求に従えるほど素直になれなかった。むしろ強く惹かれていることを自覚してしまったせいかもしれない、意地でもこのまま行ってはやらないぞ、俺はトァンを探しに来たんだという気持ちがむくむくと湧いてきたのだ。そうビューズに伝えるとやや心配そうにしていたが、一応は俺の意志を汲んでもらえることになった。
そこで登場したのが負ぶい紐だ。まさかの赤ん坊状態にだいぶ当惑したのだが、実のところちょうど良かった。なぜなら、こうやって今山を登っている真っ最中も早く戻らなくては、進む方向が反対だ、という突発的な衝動が襲ってくるのだった。最初は考えないようにしようとしてみた。逆効果だった。夜眠る前に思い出してしまった過去の苦い経験のように、意識の外に追い出そう追い出そうと試みるほど、頭の奥深くに食い込んで離れなくなるのだ。
体がずんと斜めになって、思わず変な悲鳴が口から出た。熊がぐいっと上体に力を入れて岩場を登ったせいだ。悲鳴がきっかけになったのだろう、後ろのビューズから声をかけられた。
「気分はいかがだ」
「落ちるかと思いましたけど大丈夫です」
まだ慣れないですね、負ぶい紐、と続けて笑うとそうではない、とやや不満げな声が下からした。
「戻りたくはならないか」
「そりゃめっちゃなりますけど」
熊の肩越しに赤茶けた地面が見える。ぽつぽつと草が生えている。ちょうど足元の不安定な礫原を通っているようだった。
「でも、たぶん平気です。ああ、俺はすごく、理由はわかんないけど、ものすごく深森に行きたいんだな、と納得できたので。俺ひとりなら理解すらできなかったと思うんですけど」
「さようか」
ビューズのほうはまだ納得していないようだった。何がそんなに心配なんだろうと思いながら言葉を続ける。
「でも不思議ですよね、本当に魔法のような力が働いているなら……俺とトァンがふたりで行かなきゃ、その力は納得してくれないはずなのに。俺だけで行ってもしょうがないはずだ」
しばし沈黙が落ちた。再び熊ががさがさ、と下生えをかき分ける音がして、視界が緑色になった。同時にずっと斜めの状態でぶら下がっている感覚だった体が水平に近くなる。歩きやすく、木々がしっかり生えている場所に出たようだった。草がこすれ合う音が大きい。ビューズの声を聞き逃したかなと耳をそばだてたとき、ぬっと視界にギュォウの顔が現れた。俺とグューウォァウの隣に並んだのだ。
「そのことなのだが」
ギュォウに負ぶわれたビューズが言いにくそうな表情を乗せた声で言った。
「仮に深森が……そして魔王が欲しているのがあなただけなのだとすると、理が通るのではないだろうか」
「たしかに」
一瞬納得しかけた俺だがすぐに疑問が首をもたげた。
「でもそれだと光の子はいったいどういう役回りなんですか? 必要ないのに一緒に行く?」
尋ねると再びビューズは押し黙ってしまった。その表情を窺い見ようとして、俺は熊の背中に生えたごわごわとしたたてがみに頬をこすりつけて顔の向きを変えた。世嗣殿下は見覚えのある表情で下生えが広がる地面を見下ろしていた。それは北見の塔に向かうとき、ゴンドラの中で上を見上げてひっくりかえっていたあのときの、眉間にしわを寄せた厳しい顔だった。
早朝の白々とした光の中で目が覚めた。マントの上にかぶった毛布にはびっしりと朝露がついている。夜を徹して歩き続けてくれた熊たちは真夜中すぎに俺たちを大山脈地帯の反対側の裾野、オルドガル領内にある小さな尾根で降ろした。そのあとおそらく二、三時間程度の睡眠を取って、今に至る。
ビューズはすでに起き上がって、岩にもたれた姿勢でどこかを見ていた。俺が近づくと、視線を動かさないまま小さな低い声で言った。
「熊たちの慧眼は素晴らしいな。向こうからは我々が視認できない場所で、こちらからは様子を窺うことができる」
尾根道はうねうねと曲がりくねりながら浜へと下っていく。それなりに眺めが良いのだが、下から丸見え、というには木々が生えすぎている。大きな音を立てたり、不必要に動き回ったりしなければ、烏の目でも持たないかぎり見つかることはなさそうだった。
「あそこにある天幕はザー・ラムのものだ。幸か不幸かは知らぬが、無事だったと見える」
ビューズが小さく指さしたのは平地に置かれたサーカスのテントのようなものだ。真っ赤で、円筒状で、傾斜のある覆いの頂上には三角旗が立っている。
「そしてこれも良い知らせか悪い知らせかはわからぬが」
ビューズが耳元で言った。
「天幕の前にわが妹君の旗が立っている」
「え?」
思わず大きな声が出かけたのをビューズの大きな手のひらが塞いだ。
「入り口の前に男がひとり座っているな……プーリアの民のようだ。護衛だろう」
口を塞がれたままテント周辺を眺めた。テント入り口は起立した兵士によって守られているようだった。そして、少し離れたところにぽつねんと座っている影が見える。旗竿はその脇に突き立てられていた。
「どういう意味なのか説明してもらってもいいですか?」
ビューズの手を掴んでずらすと俺は声をひそめて尋ねた。
「平和的な訪問の場合、自らの旗を従者に持たせて会見所の前に立たせる。交渉が決裂した場合、大きく振る。友軍に見せるためだ。地に突き刺したまま従者が座して待っているということは」
ふむ、と言って続ける。
「会見が長時間に及んでいるということだろう。まさかのまさかだ。トツァンド城主がザー・ラムと手を組んだぞ」
言っている意味が、にわかには理解できなかった。トァンは俺を追いかけて特別船を出したはずで、それがどうしてオルドガルでブガルクと同盟を結ぶような話になるんだ?
「予定変更だ、賓殿。我々はできるだけ迅速にブイジーに向かわなくては」
言うなりビューズは熊たちを呼び寄せて負ぶい紐の支度を命じた。熊たちは驚くでもなく、落ち着いた様子で指示に従う。
「ちょっと、どういうことです? トァンはどうなる」
俺は声を低くしたまま詰め寄った。ビューズはそう信じ込んでいるようだけど、もしこれが平和的な会見じゃなかったらどうするというんだ。
「それに、ザー・ラムはあなたの」
お祖父さんじゃないですか、と言いかけた口は再び塞がれた。
「ならぬ。それは言ってはならぬぞ」
ビューズの表情は真剣だ。
「ブガルクが送り込んだ末娘は現王の愛妾として一生を終えたのだ。子を成してなどおらぬ。良いな」
理解ができないことばかりだ。俺はあっけにとられたまま黙るしかなかった。つまりそれは、プーリアは世嗣がブガルクの血を引いていることをずっと他国に対して秘匿しているということなのか。
呆然としている間に熊に包まれてしまった。同様にして背負われたビューズが俺を振り返る。
「細かいことは道々考えよう。あなたにご説明できることもある。ただとにかく、一刻も早くここを去ろう」
行くぞ、のひと声で熊たちが走り出す。いつの間にか昇りはじめた大太陽の光が木々の間から差して長い影を作っている。わけがわからないまま、熊上で揺られる日がまたひとつ始まってしまった。




