18. 風の塔(3)
行くぞ、と言ってからが長かった。ビューズは熊たちに言いつけて、秘密裏に旅支度を風の塔に持ちこませた。着替えに予備の短剣、水の革袋に糧食。曰く、北岸にはプーリア人がほとんどいない。生きていくのに必要なものはすべて用意していかなければならないと。言っていること自体はもっともだと思うのだが、何というべきかビューズの様子は必要な準備を淡々と行っているとはいいがたかった。干し肉はこれがいいかあちらにすべきか、着替えは何着、などと言っている様子はまるで遠足だ。おやつは三百円までですよ。
昨日は姿を見なかったまだらの烏もいつの間にかやってきた。一緒に行くつもりらしい。熊の頭の上に止まって準備の様子を眺めている。
「……あと何分くらいかかりますかね」
手伝おうとしたらあなたは座って待っていろと言われてしまった。しばらくは黙って待っていたのだが、だんだん苛々してきた。口に出して言ってしまってから、とげのある言い方だったなと後悔した。しかしきょとんとした様子で振り返ったビューズは会話の内容に頓着していない。
「何分?」
きょとんとしている。
「あ、分って言いませんか」
日本語の単語が古代神聖語に流入しきっていないのかな思い込んで俺は答えた。
「一日の四分の一カマーグの、そのまた六十分の一です」
ビューズはますます怪訝そうな顔になった。
「あなたの国では時間をそこまで細かく管理するのか」
「むしろしないんですか?」
思わず声が上ずった。
「せぬ」
まるで理解できない、と言わんばかりの表情に何と答えていいかわからなくなった。分単位、秒単位で時間を管理する——いや、厳密には管理されることに慣れきってしまっているせいで気づいていなかったが、よく考えてみればプーリアの生活にはほとんど分なんてものは必要ではないのだ。電車の時刻表があるわけでもない、通話料金が徴収されることもない。この世界に迷い込んで以来、そもそも何分何秒を気にしたことがなかった。なかったよな?
「ほんの数分のことにございます」
いや、違った。俺ではない人物が分に言及したことが、あった。あれはトツァンド城で最初に目覚めたその日のことだ。大声を出して気が遠くなって、次に気づいたときに俺は聞いたのだ。自分は寝てしまっていたか、と。そしてそのときトァンは答えた。ほんの数分、と。
「ビューズ」
今も忙しく荷造りをしている第一王子に近づいて俺は尋ねた。
「いかがなさった」
「古代神聖語の語彙にあって、プーリア語にない単語、概念、そんなようなものは存在しますか」
「……するだろうな」
ちょっとの間考え込んでからビューズは答えた。
「ただプーリア人は、プーリア語の語彙にないものをわざわざ表現したりはせぬだろう。そのもの自体が理解できぬのだから。先ほどの分、のように」
「そうですよね」
そう呟いた俺の様子がおかしいと見たのか、ビューズはひょいと眉を上げた。
「何か気がかりか」
「光の子だったらどうでしょう。習わずとも古代神聖語が話せるのであれば、ほかのプーリア人に理解できない語彙を使って話したりすることはありますか」
「あったようだぞ」
ビューズの返答は伝聞形だ。
「当時の侍従長が判断して、余は妃殿下と子たちとは別の階で暮らしていたのだ。トツァンドの影響を恐れたのだろうな」
「あまり関わりがなかったんですか」
「さよう。だが世嗣邸の使用人以外で第一王女の様子を伝えてくるものがあってな。ワティーグス・ターリク、今はトツァンドで魔法史の長をしているはずだが」
「あ、はいお世話になりました」
顔を直接見たのはほんの二、三回だけど、と思いながら俺は返事をした。ちなみに、ビューズについてあまりいいことを言わなかった張本人でもある。
「ワティーグスは余に魔法応用技学の手ほどきをした教師と言っても過言ではないのだ。幼いころはよく魔法の話をせがんだ。話のついでにと、ワティーグスは階下の子どもたちのこともよく伝えてきた」
階下の子どもたちとはきょうだいのことだろう。そんな他人行儀な、と思ったが、実際ビューズにとっては他人のようなものなのかもしれなかった。
「ワティーグスは第一王女が光の子である可能性をほかのものたちより先に察していた。まだ幼児の時分だ。普段は王族らしく気を張ることを覚えつつある年齢だが、寝起きに己を律することは難しい。そのような際に、ふと出てしまうのだとな」
「古代神聖語がですか?」
「ああ。古代神聖語と何かの混淆のようなことを言うのだと申しておった。何だったかな、よく見る夢があったようだ。何か帳面のようなもののことを言っておったようなのだが、その語彙が古代神聖語にはない」
「手帳?」
俺は代替候補を思い浮かべてみた。しかしビューズは首を振る。
「ええと、じゃあ、ノートとか」
「それだ。あなたの語彙にはあるのだな」
「ありますねえ」
生返事を返しながら、俺は思い出し笑いをしてしまった。ノートと言えば思い出があるのだ。
「『えー、またノートどっかにやっちゃった』みたいな?」
俺は笑いながら言った。これは先生の口癖だ。手に持っていたものをぽんとそのへんにすぐ置いて、置いたことを覚えていない人だった。
ビューズの答えはなかった。さすがにトァンのキャラじゃないもんなと思って顔を上げると、丸く開いた茶色の目と視線がかち合った。
「そうだ、その声色、その言葉遣い……どうしてあなたは知っているのだ」
ようやく絞り出されたのは驚きの声だった。どうしてと言われても困る。これは俺の恩師の、四年前に失踪した年近い非常勤講師の、口癖のようなものだったのだから。
「……たまたまじゃないでしょうか」
別に隠し立てすることもない。俺は言葉を続けた。
「昔の知り合いの口癖だったんですよ。よくノートをなくして探していた」
「……そうか」
ビューズはまだ納得してはいないのかもしれないが、とりあえず俺の事情は理解してくれたようだった。
そのあと黙々と荷造りを終え、俺たちは風の塔の地下室からトンネルを通り崖の途中に穿たれた岩棚に出た。熊たちの案内が先だった。案内役の熊たちは後ろに下がり、二頭の熊が岩棚の先端に立って俺たちふたりを振り返った。行きますよと言っているのだ。
俺とビューズはそれぞれ荷物を持って熊にまたがった。俺が乗っているのはサルンからずっと一緒に来てくれている熊だ。顔の見分けはまだいまいちつかないけど、耳の下から首あたりの毛流れで判別がつくようになってきた。
「今さらだけどさ、お前、名前なんて言うの?」
ふと尋ねると熊は振り返って口を開けた。
「グューウォァウ」
「グューウォァウ? 早熊の?」
面食らった俺に向かって、そうですよ、というように目をぱちぱちさせている。じゃあ何だ、サルンから帰る途中に俺を見つけて助け出してくれたのか? 独断で? でも仲間の烏と熊もいた。この生き物たちのコミュニケーションはいったいどうなっているんだろう。
「熊に名前があるのか」
隣でビューズがあまりにも頓珍漢なことを言うものだから、俺の驚きはひっくり返ってどこかに行ってしまった。
「名前、つけないんですか」
「つけぬな。お前にもあるのか」
質問はビューズがまたがった熊に向けられている。熊はグューウォァウと同じように振り返ると声を出した。
「ギュォウ」
「なるほど」
ビューズは頷く。
「それぞれの個体が出せる固有の音というのが名となるのだな……トツァンドではみな名で呼ばれていたのか」
「ええ。みんなそれが当然みたいな様子でしたけど」
「さようか」
興味深そうに言ったビューズは考え込むかのように見えたが、気分を変えるためだろう、ぱんと胸の前で両手を叩くと後ろの熊たちに声をかけた。
「我らは参るぞ。準備はできた。頼んだぞ」
熊たちはわかりました、というように鼻をふんふん言わせると、魔法石を起動させるために塔の上へと登っていった。
俺はそわそわしながら岩棚の下に広がる湖面を眺めた。高い。あまり見ていると高低差で目眩がしそうだ。ここを飛ぶなんて未だに信じられなかった。ジェットコースターみたいなんだろうか。それともオープンカーみたいな? いや、状態からするとスカイダイビングが一番近いんじゃないだろうか——経験はないけれど。それに、絶対やりたいとは思わないけれど。
いろいろと考えて上の空だったせいだろう。俺は魔法の発動に気づかなかった。それは想定していたような大風でもなければ、光ったりとか大きな音が鳴ったりとかそういうエフェクトも設定されていなかった。ふと気づくと足の下に岩棚がなかった、それだけだ。ただただ眼下には青い湖面が広がっていた。慌てて顔を上げると隣で熊に乗ったビューズが宙に浮いている。振り返ると、後ろに残してきた風の塔はすでに手のひらくらいの大きさになっていた。熊たちはとくに緊張する様子もなく、普段通り四つ足で立っている様子だった。空中で、だけど。
「……飛んでる」
「意外と快適だな」
やや声を張り上げなければならなかったが、ビューズとも普通に会話ができる。
「……思ってたのとちょっと違いました」
俺は思い切って縮こまっていた脚を伸ばしてみた。そよそよと風を切る感覚が気持ちいい。ぶらんこに乗って遊んだ子ども時代のことを思い出した。
「それは良かった」
世嗣殿下は澄ましている。
「しかしこれから少し風が強まろうよ……ほら来た」
ビューズの言うとおり、背中に風が当たる感覚が急に表れた。ぐん、と両脇で湾の切り立った崖が後ろに飛んでいく。上体が後ろに引かれかけた俺は慌てて熊の首にしがみついた。
「熊に任せておれば大丈夫だ。一日の一カマーグもあれば着く」
四時間か、結構長いな、と思った俺の目の前が開けた。湾を出て、広々とした湖面に出たのだった。昨日の大荒れは片鱗も残っていなかった。ただただ青く、ところどころに金色の波頭を立てる大湖は静かで、そこには悪意などかけらもないように感じられた。




