スフ
城長が理不尽な要求に頭を抱えていたころ、もうひとり不安な夜を過ごしているものがいた。トツァンド城別棟の半地下に住む赤目の司書だ。
星の見えない夜だった。鉄格子のはまった小さな窓からひんやりとした空気が流れこんでいた。窓は外から見ると地面すれすれに開けられており、そこからのぞきこむ半地下はさながら囚人部屋のようだった。
見た目に反してトツァンドの半地下は意外にも快適だ。気候が乾燥しているし、夏は涼しく冬は暖かい。しかし今のスフは快適そうな様子とはほど遠いありさまだった。アウグのカンテラをひとつ机の上に置いただけの暗い部屋で、冬山で遭難した不幸な登山者のように小さく体を丸めている。
ステムプレ出身のスフは儀式への参加を許されなかった。廟側の決定だ。スフの主は異議を申し立てたが通らなかった。
資料によれば、賓には熊、烏、人がそれぞれひとりずつついて側用を務める。烏に関しては先祖返りが生まれないという事情で省かれることもあった。熊はトツァンド城の群れ筆頭を務めるものが、そして人はもっとも語学が堪能な司書が、それぞれ選ばれてきた。
スフは側用としての条件を完全に満たしている。古代神聖語の能力は城主の折り紙つきだ。プーリア語はもちろんとして、周辺諸国の言語も簡単な日常会話なら理解できる。側用として賓と光の子に従ってともに旅することはとっくに決定していた。しかし儀式からは省かれた。
スフの第一言語は両親が話すステムプレ氏族の言葉だ。プーリア語は第二言語として幼少期に学んだ。苦労はしたものの習得することができた。サルンに移り住んだのが幼いころだったのが幸いした。プーリア語がわかれば周辺諸国の言語には共通点が多いのが見えてくる。借用の多いプーリア語は大湖沿岸文化の中の鬼っ子であるように思われた。賓に語ったとおりだ。親に似ぬ鬼の子はどこから来たのか。ステムプレでは当たり前のように遊牧民と暮らす犬や猫を国内で見かけないのはどういうわけか。こういったことを普段から考えてはいるが、口に出して言うことはしなかった。自分の身を守るためだ。
廟が気に入らなかったのはこういったものの見方だろうか。そうではない。自分そのものだろう。だからこそスフの憂鬱は強かった。あろうことか世嗣が青髪、しかも直系の絶えたトツァンドには女性王族が城主として封じられるような現代にあってもなお、スフは奇異の目で見られた。城や学院からも距離を置く、国王直轄の廟であればそれはなおさらなのだ。おそらく。
さまざまにわきおこる異論を、これまでにもスフは——そしてスフを見いだした人々は都度実力でねじ伏せてきた。ただし語学に多大な才能を示せるのは、ひとえに自分がたまたま持って生まれた能力による。スフはそのことを自覚していた。
港町ではさまざまな文化が混じりあう。子どもたちは、たとえばトツァンドの子どもたちよりは多くの言語であいさつができるようになるかもしれない。プーリア語、ブガルク語、オルドガルやステムプレの諸語。しかしそれまでだ。どの言語も話せるが、どの言語でも世間話以上のことが言えなくなる。そうすると当然ながら学問などできないし、本も読めない。そういうものは港町育ちには珍しくなかった。スフはたまたま、そうならなかっただけだ。
当然ながら努力はした。家族のうち誰ひとりとして魔法石を扱えない環境にあって、夜に勉強をするには油のカンテラが必要だった。貧しい家庭には私塾へやる学費が精一杯で、それ以上余分なものを捻出する余裕はない。夜は寝るものだ。だからスフは子どものころから働いた。自分の将来を切り開くために。爪を少し長く伸ばしておいて、眠くて勉強がはかどらない夜はぎゅっと指を握りこんで自分の手のひらを傷つけた。痛みがあれば少しは目が覚めた。そうやって文字通り血のにじむような努力を重ねて、今この生活を手に入れたのだ。
スフはすごいねと異世界からの客人に言われたとき、しかしスフは少なからず動揺した。似たような褒められ方は幼いころからしていた。ステムプレがプーリア語を話せるとは、から始まり、古代神聖語の読み書きに驚愕され、渋々ながら認められた司補試験で上位の成績をたたき出したときは同期の司補にすら褒められた。できるはずがないと思っていたことを達成した生き物だから。先祖返りしたまだらの烏のようなものだ。
しかし賓の言葉には今まで聞いたそれとは違った意味が込められているのをスフは感じとった。逆境というものを知っている——自ら経験したのか、間近で見てきたのかは知らないが、その理不尽さに抗うことのいかに困難で疲弊するものであるかを知っている——そしてさらにいうならば、それに飲みこまれる経験を知るものの言う、労りと共感と、そして不思議なことに一抹の妬みを伴った言葉だった。聞いたとき、スフはこの客人に対して恐れを抱いていることを恥じた。それはつねに自身に向けられてきた感情だった。その切っ先の鋭さも、はねのけたときのあと味の悪さも、自らがもっともよく知っていた。
逆境に飲みこまれる。スフはつねにその恐怖を肌で感じていた。プーリアにあってすべてが例外である自分は、何かの均衡が崩れれば容易に今の立場を失う。たとえばより優秀なものが国内から出てきたら、世嗣が有色髪の第一王子ではなく淡い金髪の第二王子になることがあったら、トツァンド城主が変わったら、魔法史の長が引退したら、ステムプレの諸氏族とプーリアとの関係が変化したら。
儀式の時間、参加を拒否されたスフは賓のための資料を取りまとめつつ一日の仕事を終わらせていた。儀式が終わってサルンへ送っていた早熊が戻ってくれば、光の子と賓はもう一日も二日もなく旅立たなければならない。そのときにまでに賓が読んでおくと役に立つであろう記録をスフは蔵書の中から集めていた。古代神聖語の資料は特別室に集められている。つね日ごろから特別室に用がある司書はそう多くないので、立ち働くスフのまわりはひっそりと静まりかえっていた。そのせいで異変を知るのが遅れた。
気づけば城外へ出ることが禁じられており、情報は混乱していた。王族付の騎兵がなぜか馬に乗って乱闘しているとまず聞いた。その時点でありえないことだ。主の安否を思って腹の底が冷えたが、城主に関する情報は入っていないと同僚たちは言っていた。
夕食をとりに食堂へ出向くと、どうやらトツァンド側に負傷者・熊がいるらしいという話になっていた。しかし城主はすでに帰城ずみであるという。それを聞いて心底ほっとした。そしてさきほど、体を洗うために給湯室へ湯涌を取りに行った帰りに恐ろしいことを聞いた。賓が行方不明。乱入者を率いていたのは騎兵で間違いないが、実働部隊はステムプレの傭兵だと。
ひそひそ声で、しかしそこにスフがいることを承知のうえで話していたのはふたりの女中だった。ひとりはあまつさえちらりとスフのほうを盗み見る仕草までした。褐色肌の若者は顔をこわばらせながらもなんとか通常の歩調を持って通りすぎることに成功した。城の一階から半地下に降りるいつもの道がやけによそよそしく感じられた。廊下に吊られたアウグの照明すら敵意をもってこちらをにらみつけているように思われた。湯涌を持って部屋に帰ってきたものの体を洗う気はすっかり失せ、今アウグとパニイの魔法石を片手で掴みながら部屋の隅にうずくまっている。
ご一新後、サルンに寄港することを許されたブガルクの商船が増えた。それは新しい領主、つまりトァンの兄である第二王子トアル=サンの意向によるものだったが、沿岸地域で勢力を増しているブガルクにとっては文字通り渡りに船だった。一気に増えた交易は軋轢を増やし、プーリアのプライドをくすぐった。北狄・西戎・南蛮などと、古代神聖語から借用されてもうながらく使われなくなっていた言葉がふたたび日常会話で口の端にのぼるようになったのは比較的最近のことだ。
国境付近のここトツァンドでは、東夷という言葉の使用は慎重に避けられている。古くから下層民の混血が進んでいたし、羊を飼う日常から褐色肌の人々を排除するのは不可能だ。しかし母なるイーの伝統と魔法を重んじるプーリアの愛国心——それはとりもなおさず純血主義にも火をつけた——が徐々に強固な思想となって社会を覆ってきているのをスフは見ていた。
そこに来て、今日の狼藉だ。王族付の紋章を身にまとった騎兵がどうしてステムプレの傭兵を引き連れて市中で暴れる必要があるのか。どう考えてもまともな理由など存在しない。人々は位の高い、権力そのものであるところの王族付騎兵について考えることを放棄するだろうとスフは思った。その上で義憤や困惑、そして憎悪はわかりやすい方面へ向くだろう。夷狄、そう、東夷であるところの褐色肌の傭兵へと。
突然蹴破るような勢いで部屋の扉が開けはなたれた。なかば予測していた襲来だ。もとより錠はかけていない。どやどやと酒臭い息を吐きながらなだれこんできたのは少し年長の同僚数名だった。ほんの一瞬の思案ののち、スフはうつむいたまま立ち上がった。もてあそんでいた魔法石は隠しにしまった。荒くれた港湾労働者に囲まれて育ったスフだ。喧嘩に弱くはない。しかしここで大立ちまわりを演じても自分には何も利益がない。それどころか、抵抗すればするだけ不利になることを知っている。
髪の毛をわしづかまれ、こづきまわされながらスフは自室を出て階段をのぼった。別棟の通用口が開いている。番をする熊が不在にしているらしいのが不気味だった。
鋲のついた靴底が足元をすくった。スフは砂利敷きの庭に体を叩きつけられた。とっさに受け身を取りながら出方をうかがう。相手はそうとうに酔っ払って気が大きくなっているようだが、場所は選んでいた。仮に物音が聞こえる範囲に誰かいたとしても、それはすべてぐるだ。呼んでも助けは来ないだろう。こんなときにひとり自室に引きこもっているなど後ろ暗いところがありますと自ら宣言しているようなものだ、そう皆で盛りあがった末の私刑であることなど容易に想像できた。
夏の夜に履くにはずいぶんと固い靴が四方八方から降ってきてスフの体を蹴りとばした。頭と両手と体の柔らかい部分を守りつつ、酒臭い息で飛ばされる罵倒に耳をすませる。鋭利な石ころが唇を切って血の味がした。気づけば人数が増えている。これはまずいことになったなと思ったとき、突如として数名が度を失ったような悲鳴をあげた。ぐる、という威嚇の声がする。グーォウだ、と思った刹那、スフの首元は生暖かく大きな口に捕らえられた。
スフを咥えた口で威嚇の唸り声を響かせつつグーォウは少し歩いた。人よりも重い足音がする。いつの間にか中庭は熊たちで囲まれていた。ずらりと並ぶ熊たちは歩みを揃えてゆっくりと近づいてきている。ざり、ざりという規則正しい足音は兵士の行進のようだった。
〝グーォウに乗れ〟
スフの耳元でガーァゥリユーの声がした。突然のことにとまどいつつ、スフは言われたとおり熊の背中によじのぼった。左脚が思うように動かない。熊の頭の、両耳の間に烏がとまっていた。
〝走る、しっかり掴まれ〟
そうガーァゥリユーが言葉を発するやいなや、スフを乗せたグーォウは砂利を強く蹴って全速力で走りだした。
ふり飛ばされないようにしがみついているのがやっとだった。意外と細い熊の首に両腕をしっかりと回し、スフは顔を黒いごわごわした毛並みに埋めた。熊が本気を出すとこんなに速く走るのかと思う。さっき蹴られて傷めた左脚は力が入らず、風になびいて頼りなく揺れていた。
熊は細い街路を右に曲がり左に曲がりしながら町の東側へと向かった。しばらくするとぽん、と道が広くなる。囲い場に出たのだ。ずいぶん遠回りだ。おそらく街路に出ている騎兵だか傭兵だかを避けて走ったのだろうとスフは思った。
走る勢いはそのままに、グーォウは囲い場の隅にある小さな茂みに飛びこんだ。入り組んで絡まりあった木の枝の下には地面がある。体がぶつかる、とスフは身をすくめた。しかし予想していたことは起こらなかった。ふっと地面が消えたように感じ、その消えた空間を熊はそのまま走った。土ぼこりの匂いが鼻孔をくすぐる。足音が反響するしかたから、穴ぐらのような狭いところを走っているのがわかった。しばらくののちふわりと体が浮く感覚があって、次の瞬間スフの腹は熊の背中に叩きつけられた。そして熊は立ち止まった。
習い性で熊にしがみついていたスフだが、しばらくしてどこかにたどりついたらしいことに気がついた。恐る恐る腕を外して熊の背から降りようとして、そのまま尻餅をついた。グーォウが目を丸くして匂いを嗅いできた。大丈夫か、と聞かれている。左膝に嫌な痛みがあった。しかも右脚は右脚で着衣がぐっしょりと濡れている。隠しに入れた魔法石が互いにぶつかって魔力を噴出したのだろう。今はまだ生暖かかったが、これからどんどん冷えていくことを考えるとスフは憂鬱な気分になった。
無言で首を振り、スフは肩甲骨が張り出したグーォウの肩に手をかけてゆっくりと立ち上がった。
〝乗らせてもらってもいいか〟
尋ねるとグーォウはぱちぱちと瞬きをして答えた。
スフたちは今、ぼんやりとした青白い明かりに照らされる空間に立っていた。空気はほんのりと暖かく、乾燥している。天井の高い穴ぐらだった。足元は掃き清められたようになっていて、ざらざらとした岩がそのまま露出している。どうやら天然の洞窟であるようで、人工的な造作は——もしくは熊工的な、烏工的なものも——見当たらなかった。ただひとつを除いては。
何かの手によって作られたそれは、洞窟の中央にぽつんと立っていた。噴水がぼこりぼこりと噴き上がったまま制止したかのようにいびつな形で固まった岩の柱だ。
それは空間の光源でもあった。柱の頂点の、ちょうど成人の胸あたりの高さに球状の石が据えられている。まるで巨大な魔法石のようだ、とスフは思った。内部には光がうごめいている。普通の魔法石と違うのは、その光が赤黄白青とさまざまに入り混じりあっていることだった。色たちは外に放たれると溶けあって青みの強い光となった。
ばさばさと翼の音がして烏が石の台座に止まった。
〝これは親石だ〟
スフの抱いた疑問に答えるかのようにガーァゥリユーはしゃがれた声で言った。
〝親石?〟
烏の言っていることがわからない。なんの話だろうと考えて眉を寄せたスフに向かい、ガーァゥリユーは片足を挙げてかぎ爪をちょいちょいと動かした。手招きをしている。スフを乗せた熊はすたすたと石の前に進んだ。
スフは台座に据えられた丸い石をのぞきこんだ。青白い光が目を突く。やはり大きな魔法石のようだ。地・水・火・風、そこにはすべての輝きがあるのだった。魔力は流れに遊ぶ小魚のように楽しげにひらめく。スフは思わず微笑んだ。よくよくのぞくと中央には絶え間ない渦巻きがあって、光を吸収しては吐き出し、吸収しては吐き出しをくりかえしている。
と、ふと黒い影がよぎった。それは一瞬だけ脳裡にひらめいた思いつきのようでいて、心にあと味の悪い痕跡を残していった。見たのか聞いたのか感じたのか、スフはそれを正確に言いあらわすことができなかった。しかし影があったことは間違いない。スフは目をまたたいて再度石をのぞきこんだが、影がよぎる前のような心楽しい気持ちはもう得られなかった。
〝見たな〟
烏の声は疑問というよりは確認だった。スフは目を上げてうなずいた。
〝今のはなんだ〟
〝魔王だ〟
ガーァゥリユーはあっさりと答えた。あまりにもなんでもないように言うのでスフは思わず自分の耳を疑った。
〝魔王?〟
荒げた声は不気味な様子で洞窟内にしばしこだました。烏は首をすくめて翼のいずまいを正した。
〝魔王だ。今さら驚くことでもないだろう〟
それはその通りなのだった。光の子が生まれ、賓が訪った。彼らがこの世に現れる理由はひとつしかない。しかしスフの胸中は複雑だった。
〝本当に存在するのか〟
心の声はつぶやきとなって唇からこぼれていた。城でなら、間違ってもこんなことは言えない。城でどころか、ごく幼い時分にサルンへと移住して以来、プーリアという国を根幹で支える魔法とその仕組み——それは端的にいうと政治と行政と経済すべてを指す——に疑問を差しはさむことは一度としてなかった。許されなかったというべきかもしれない。誰かが明示的に禁じたのではなく、そのことについて口を開くこと、否、それ以前に考えることまでもが忌避されるような、そういった雰囲気にいつの間にか飲まれていたのだった。
〝残念ながら〟
そう答えるガーァゥリユーの声は本当に残念そうだった。
もう一度あの暗い影がよぎるのではないかと、スフは視界の端で恐る恐る石を見やった。その様子を見ながら、ガーァゥリユーは声をかけた。
〝親石に手をふれてみよ〟
〝これは魔法石なのか〟
スフは尋ねた。もしそうであるなら、自分がふれたところで何も意味はない。
〝そうだ。そして、お前がふれても意味がないということはない〟
烏は胸中を見すかしたようにしかつめらしく言った。
スフは疑心暗鬼のまま、右手を熊の背から離して丸石に置いた。石は人間の頭よりは小さく、両手ですっぽりと覆うには大きすぎるくらいで、手のひらになじんで暖かかった。
親石はしばらくのあいだしんと静まりかえっていた。スフは困ったような顔で手を離そうとしたが、ガーァゥリユーが静かに首を振った。グーォウも頭をあげてじっとこちらを見ている。
〝竜巻〟
ガーァゥリユーの嬉しそうな声に意識を引き戻され、スフは自分の手の下にあるものを見た。驚くべきことに、銀色の竜巻が石の中に発生していた。最初は小指の先ほどの小さな小さな渦だったが、しだいに片手を覆うほどの大きさになってスフの手元にぴたりと寄り添った。
〝ハワウ〟
信じられない気持ちでスフはつぶやいた。恐る恐る右手を少し動かすと、竜巻は従順な小熊のようにその動きに従った。
〝魔法石を持っているだろう〟
ガーァゥリユーが石の向こうから声をかけてきた。スフはうなずくと、名残惜しい気持ちで右手を石から外し、魔力が失われた魔法石を隠しからふたつ出した。
そう、魔法石からは魔力が失われていた。しかしスフの右手の中で、ふたつはあっという間に銀色の輝きを内にもちはじめた。半信半疑のままスフは右手を高くかかげた。魔法石を輝かせているのは間違いなく魔力による光だった。
〝風を吹かせてみると良い〟
ガーァゥリユーが言った。スフは小さくうなずくと、人差し指と中指の間に魔法石をはさみ持って指を動かした。このようにすると石の両面から力が注がれるため、中で反発が起こって魔力がにじみ出してくるのだ。そのことをスフは知っていた。日常的に、当たり前のように目にもしていた。しかし自分にはないものだったのだ。ついさっきまでは。
指のあいだから弱い風が吹いて、石を挟んだ手のひらをくすぐった。顔に近づけてみると風はふわふわと髪の毛を揺らした。間違いなかった。間違いなく、魔法石からは風の魔法ハワウが出ていた。
〝いったいどういうことなんだ〟
困惑が隠しきれないままスフはガーァゥリユーに尋ねた。烏は首をかしげると答えた。
〝魔法は誰にでも使えるのだ〟
〝しかし〟
今まで何度も魔法石を持ってきた。魔力を込めるためではない。魔力がないからだ。魔法石に一切干渉せずに持ち運べる者として重宝されてきたのだ。眠っていた賓から採取されたルウシイを持ったときですら、スフは石になんの影響も与えられなかった。
〝親石はそのものの魔力を呼び覚ます力がある〟
烏は淡々と説明を続けた。
〝烏も熊も、生まれて間もないごく幼い内にこの場所を訪れるのだ。自分の魔力を知るために〟
〝しかし〟
スフは言いつのった。
〝それではプーリアの民はどうなのだ〟
プーリアの民は特別な選ばれし者なのだと教えられてきた。誰でも魔法を使えるのだとすれば、彼らの寄って立つところはすべて失われてしまうのではないだろうか。
〝プーリアの民がなぜ親石にふれずに魔力を持てるのか〟
ガーァゥリユーはスフの疑問を言いかえると、ひと声かあと鳴いた。
〝それはわからないのだ。そういう意味で、確かにプーリアの民は特別なのかもしれない。しかしひとたび親石にふれれば〟
烏は体の横をぴたりとスフに向けて片目でその顔を見据えた。
〝誰であっても魔力を石に込めることができるようになる〟
スフはしばしの間、ガーァゥリユーの話を反芻していた。そしてあることに気づいた。
〝プーリアはこの……親石の存在を知らないのか〟
〝知らない〟
烏は断言した。
〝親石の存在を知る人間はいない。お前以外は〟
〝トァン殿下もご存じないのか〟
〝そうだ〟
〝ではこの場所はいったいなんなんだ〟
突然心細くなって弱まったスフの口調に対し、ガーァゥリユーは高らかに宣言した。
〝ここは母なるイーのトツァンド城だ。トツァンドとは、もともと熊のすみかだったのだ〟
烏の語る話に、スフは思わず目を丸くして周囲を見まわした。どこからどう見ても洞窟だった。プーリアの歴史——スフの意見ではそれはあくまでも神話にしか思えなかったが——によれば、ザインに現れた母なるイーはまず最初にトツァンド城を建てたのだという。角のある獣を追ってトツァンドを訪れたプーリアの祖たちは、そこで母なるイーに出会った。熊や烏と暮らすこと、角のある獣を飼い慣らすこと、古代神聖語をイーから習いおぼえ——そして魔法を使う能力を特別に授けられた。これがプーリアの、スフの言葉に従うなら建国神話の顛末である。
ガーァゥリユーの今の発言は大枠ではプーリアの神話に沿うものでありつつ、肝心なところが異なっている。母なるイーが住まったのは城ではなく、熊の穴ぐらだというのだ。
〝母なるイーはトツァンド城を建ててはいないのか〟
〝いない。母なるイーはこの場所に熊と烏の祖先とともに住まったのだ〟
烏はまじめな声色で答えた。
そもそも母なるイーは神話上の存在ではないのかと重ねて問いかけようとして、スフは思いとどまった。烏や熊たちには不思議な能力がある。熊は人間に教えられずとも親やそれより先の代が行ってきた業務に粛々と取り組むし、烏は先祖返りの子どもがあると当然のように人間のところに連れてくる。まるで種族としての記憶があるかのようだった。スフは動物学には明るくなかったが、もしそのような能力——つまり個としてではなく集団としての記憶のようなものを彼らがもちうるのであれば、遙か遠い昔の祖先について語ることもさほど難しくないのではないかと思えたのだ。
続いて新たな疑問が湧いてきた。
〝プーリアの誰もこの場所を知らないのに、どうして私に教えた?〟
〝いくつかの理由がある〟
ガーァゥリユーは言った。
〝ひとつは賓様のことだ〟
スフは突然夕刻に聞いた話を思い出した。賓は行方不明なのだ。
〝賓様はどうなさったのだ〟
〝襲われ、さらわれた。朋友のグゥルイが下手人の後を追っている〟
グゥルイという烏の名をスフは知らなかった。そもそも当代で先祖返りの烏はガーァゥリユーしかおらず、スフは城の伝書烏を管理する立場にもない。そのあたりにうろうろしている烏たちの見分けなどもとよりつかなかった。
〝下手人というのは〟
尋ねながら背筋が冷えた。自らステムプレへの断罪を確認しているようなものなのだ。しかし烏の答えは予想していたものと少し違った。
〝シュマルゥディスだ〟
スフは目を見開いた。シュマルゥディスといえば深森に接する国境北部地帯を統治する有力諸侯だ。ブガルクの脅威が高まるなかでその労が認められ、ご一新時には武具を下賜された。王家からの信頼は厚い。
そこまで考えて、スフは合点がいった。
〝王族付の紋章を身にまとった騎兵とは〟
〝シュマルゥディスの私兵だ〟
〝下賜された武具から紋章は取り払われるのではなかったのか〟
〝結論としては取り払われなかったということだ〟
しごくまじめな口調で烏は言った。
〝どうしてそのようなことを?〟
〝理由はいろいろある。簡単にいえば都合が悪かったのだろう〟
ガーァゥリユーの答えはシュマルゥディスが王家の紋章をまとうことについてなのか、今日の狼藉についてなのか、それとも両方なのか、スフにはよくわからなかった。
〝都合とは〟
〝トアル=サン殿下はブガルクとの交流を望んでおられる。商人たちのではなく、領主ご自身としてのだ〟
〝どういうことだ。それはプーリアの国是に反するのでは〟
〝そうだ。だから秘密裡に事を運ぼうとしていた。そこにトツァンドが賓到来を告げてしまったのだ。放っておけば賓と光の子がブガルクと鉢合わせる。サルンの街中で〟
〝それはさすがにまずいのだろうな〟
スフは答えながら考えた。サルンの港町を自治する一部の商人を除き、国外のものに魔法の存在は秘められている。スフたちのような下層民は国外出身者であっても魔法を目にしているが、あまり問題にされていない。そもそも数が少なく、かつほとんどがサルンの港町に集住している。しかも自分たちでは魔法が使えないので持ち出すことができない。くわえて、仮に国外の有力者たちに魔法の存在を証明しようとしても、そもそも身分が低すぎて相手にされないだろう。
しかしブガルクの有力者、もしくは僭主ザー・ラム自身が黒髪の賓に出会えば話は別だ。この世界に存在しえない黒髪、しかも見たこともない顔立ちをしている賓を見てしまえば、何かが隠されていることくらいすぐにわかる。それが魔法だと一足飛びに結論づけることはできないだろう。しかしただの小国と侮っているプーリアに、己がまだ見ぬ秘密がある。そう知れば、沿岸地域の覇者としてさぞかし気分が悪かろうとスフは思った。
〝つまり賓様をサルンに入れないために……〟
スフは考え考え口にした。ガーァゥリユーは同意の鳴き声を立てるとあとを継いだ。
〝もしくは秘密裡にサルン入りさせて、都合が良くなるまで拘束しておくために、だ〟
〝それでは賓様はご無事なのか〟
〝大丈夫だ。お怪我はなさっているようだが、グゥルイが途中グューウォァウを見つけて合流し、時期を見はかららって奪還するはずだ〟
ガーァゥリユーはサルンからの帰路にあるはずの早熊の名前を出した。
〝シュマルゥディスはトアル=サン殿下の一味なのか〟
〝我々はそう考えている〟
烏は重々しく答えた。
〝では、私にどうしろと〟
スフが疑問に思うのも無理はなかった。烏と熊で対処が可能なら、なぜ自分が呼ばれたのか見当もつかなかったのだ。
〝次善の策はつねに立てておく必要がある〟
烏はすまして言った。
〝我々は深森に行く。可能なかぎり国境付近を通り、シュマルゥディス領を避けて大回りをする。時間を要する、すぐに出発するぞ〟
〝深森に?〟
スフは再度面食らって大きな声を出した。声はまたこだまして消えていった。
〝賓様と光の子は魔王を斃すため深森へ旅立つ〟
ガーァゥリユーはできの悪い生徒に対するようにゆっくりと言った。スフはうなずいた。もし本当に魔王というものが存在するのだとしたら、それはそうなのだろう。
〝では、魔王亡きあとのおふたりはどうなるのか〟
〝賓様はご自身の世界にお戻りになると聞いている〟
スフは答えた。烏は台座の上でちょんちょんと少し跳ねると、かあ、と鳴いた。
〝そのように言われている。では、光の子は?〟
〝光の子は代々トツァンドの出だ。王都に住まわれるか、トツァンドに帰られるのではないのか〟
〝歴史書には、どう書かれていた〟
烏はふたたび片方の目をひたりとスフに据えて尋ねた。
スフは言葉に詰まった。そもそも魔王というものの存在をほとんど信じていなかったため、何を呼んだかあまり記憶に残っていない。光の子は王都に住んだ。トツァンドに帰った。これらの記述はあった。ではそのあとは?
〝トツァンドの歴史の中に光の子はあったか。トツァンドでなくても良い、サルンの、王都の、このプーリアの歩んできた道の中に、光の子のその痕跡はあったか〟
烏の少ししゃがれた声は洞窟の中で不気味に響いてからしんと落ちた。
スフは烏の言わんとするところを噛みしめた。自らの記憶不足ではなく、歴史書にそもそも記述がないのだとしたら。口を開いては閉じ、もう一度開いて薄く息を吸った。吐き出すときに背中が震えた。
〝トァン殿下は……賓様も、どうなるのだ〟
烏は翼を伸ばした。そして頭の先から尾羽までじっくり時間をかけて身震いをすると、翼を丁寧にしまってから答えた。
〝贄なのだ〟
星の見えない夜だった。昼間であれば羊の群れとともにプーリアとステムプレの民が入り混じり行きかう夏の草原を、重みのある足音を響かせて駆け抜ける影があった。スフを乗せた熊だ。
〝魔王が何なのかは未だ誰にもわからない〟
全速力で走る熊から振り落とされないよう、スフは早駆け専用の乗具に体を縛りつけていた。洞窟の中で聞いた烏の説明が脳裡によみがえる。
〝死の風に吹かれて死なぬのはルウシイの守りがある光の子と賓のみだ。そしてふたりは二度と戻らない。烏も熊もそう記憶している〟
つまり贄であるというのも、事実から導きだされる推論に過ぎないのだった。しかし歴史書に救国の英雄のその後の姿が登場しない以上、ガーァゥリユーたちの推論は説得力があるように思われた。
荒れた同僚たちに見つからぬよう密かに城に戻った——母なるイーのトツァンド城からは無数の地下通路がのびており、それらはトツァンドの隅々へとつながっていた。現トツァンド城も例外ではなかった——スフは、簡単に旅支度をととのえて町を発った。懐に抱えた旅袋の中には丸くずっしりとした重みが入っている。親石だ。ガーァゥリユーはかぎ爪でゼウムを器用に扱うと親石を台座から外してスフに与えた。
〝親石は魔法の数と同じだけ存在する〟
ガーァゥリユーは説明した。
〝ひとつはサルンに、ひとつは王都に。そしてもうひとつはブイジーに〟
〝残りのひとつは〟
そう問うたスフに対して烏は首を振った。
〝失われた。そして失われたのはひとつではない。ふたつだ。魔法はすべてで六つあるのだ。ゼウム・パニイ・アウグ・ハワウ・ルウシイ、そしてバー〟
スフは首をかしげた。バーは日の名前だ。カマーグの中の休日のはずだ。
〝光のあるところには闇がある〟
ガーァゥリユーは言った。それはプーリアでは言い古された諺だった。
〝バーは闇の魔法、魔王の魔法だ。六つ目の親石は魔王がもっていると、我々は考えている〟
熊が走りながら身震いをした。物思いにふけっていたスフがはっとして前方をすがめたのとほぼ同時に、熊はざんぶと川の中に身を躍らせた。硬い毛の生えた背中に沿って伸ばしたスフの膝が濡れた。
グーォウと別れたスフとガーァゥリユーは、ゴゥルィという名の熊に乗って深森を目指している。グーォウは熊たちのいくたりかを連れて別の道を辿った。各地に現存している親石を集めるために同胞たちの同意を得に向かったのだ。
死の風、魔王の魔法に吹かれて命を長らえうるのはルウシイの守りがある光の子と賓だけ。一方、魔王を斃すということのみ考えれば、ほかの魔法も有効なのではないかというのが熊と烏たちの見立てなのだった。
それぞれの魔法に優劣や強弱は存在しない。普通の火と水の関係と異なり、アウグはパニイで消すことはできない。混じりあうだけだ。それならば魔王の魔法——闇のバーにも同じ条件が当てはまるはずではないかとガーァゥリユーは言った。闇と光は互いを打ち消さず、ただ混じりあう。ではなぜ魔王を斃すことが可能なのか。それは賓が持つ魔力の量が、あまりにも膨大であるゆえではないかと。
その予測はうなずけるものだった。廟の魔法石を光で満たし、石壁の外にまであふれさせるほどの魔力。スフの想像を越えている。廟守のうちもっとも魔力の強い長ですら、ほんの一瞬、手のふれた場所を弱く光らせることしかできないのだというのに、あの弱々しい、自力で立ち歩くことすらままならない賓はそれをひとりでやってのけたのだ。
〝親石を集めるしかない〟
賓を、そしてスフの主を魔王を鎮めるための贄にしたくないのならば。ガーァゥリユーはそう告げた。
〝あるだけの親石で、まだ魔王の力が万全でないうちに封じこめるのだ〟
半信半疑ながら——どちらかというと未だに魔王という概念に対しては馬鹿馬鹿しいという思いが先だつ——スフだったが、贄という言葉が強く心を動かした。賓ほどではないが、トァンは幼いころから体が弱かった。それをスフは知っていた。ほんの一年前に元服したばかりの、まだ若い盛りであることを知っていた。王家と諸侯との間に結ばれた政治的な取り決めにより人生のすべてを左右されながら、家族と離れひとり辺境のトツァンドで生きてきたことを知っていた。——高貴な生まれでありながら、その身に宿す魔力のために奇異の目で見られ、ささやかれてきたことに、心密かに親近感を持ってすらいた。
その人生の行きつく先が、天下国家のためと大義名分をかかげながら深森の中に打ち捨てられることにあるということを、スフはどうしても認めることができなかった。抗いたかった。そしてそれはおそらく主のためではなく、スフ自身のためだった。