18. 風の塔(2)
湯涌で顔を洗って水をたっぷり飲んで、腹ごしらえも終えた俺はようやく部屋の外に出た。目が赤いのとまぶたが腫れぼったいのはどうしようもなかったけど、疲れてるとか言い訳すれば何とかなるだろうと思った。
落ち着いてみると、なぜ俺が城に戻ってきているのかが気にかかってきたのだ。北見の塔で、先生のことを思い出してしまって、混乱して、ビューズに突っかかった。もちろん世嗣殿下の言いっぷりにも問題はありありだったけど、それはこの世界のこの時代の常識をもとにした発言だ。本来であれば俺がどうこう言うのはおかしいのではないかとずっと思っていて、トツァンドにいたときからとくに内情には立ち入らないようにしていた。でも昨日はその一線を越えてしまった。そしてその後、ビューズになだめられてからの記憶がない。たぶん眠ってしまったんだろうけど、だとすればビューズはあのゴンドラをひとりで動かして帰ってきたんだろうか。あんなにしんどそうだったのに。
俺を乗せた熊は迷うことなく淡々と城の中を歩いていった。念のためマントを頭から被っていたけれど、城内では俺が来ていることはすでに公になっているらしい。下働きらしいものたちも、警備の熊も、たまに見かける身分の高そうな白マント姿も、俺と熊を見とがめて誰何するものは誰ひとりとしていなかった。
熊は黙々と歩いていった。城の正面入り口を出て、大手門を抜け、目抜き通りの坂道を下っていく。相変わらず静かな住宅街だった。広場に出ると港のほうの喧噪がちらりと聞こえた。昨日二艘の船を吹き飛ばすような「何か」——まだ「何か」としか言いようがない——が起こったにもかかわらず、庶民たちはたくましく今日を生きているようだった。湾の中に奥まった位置にあるプーリアからだと、そもそもあのできごとは感知できなかったのかもしれない。少なくとも城の外には情報が出ていないのだろうと思った。
「ときに、お前はどこに行くんだ?」
俺は声を潜めて熊の耳にささやきかけた。熊はわからないんですか、とでも言いたげにぶるんと鼻を鳴らすと、広場を斜めに突っ切って通ったことのない路地に入った。
路地の突き当たりには見張りの熊が二頭立っていた。俺たちの姿を認めるとふんふんと鼻を鳴らしてから、どうぞと言わんばかりに体をどかす。鉄格子の中に穿たれた門の向こうに、見覚えのある建造物が建っていた。入港するときに見た白い塔だ。不法な侵入者を撃退するための装置が組み込まれているという、あの塔だった。近くで見るとまるで灯台のようだ。
と、ばたばたと階段を駆け下りる音がして塔の小さな扉が開いた。中から青髪の頭を出したのは、ほかでもない世嗣殿下だ。
「具合はどうだ」
いつも通りどうでも良さそうに言っているつもりなんだろうけど、ちょっと失敗している。顔が困ってるぞ。それに気づくと何だかおかしくて、昨日腹を立てて怒鳴り散らした気まずさが霧消してしまった。
「大丈夫、ありがとうございます。俺、あのあとどうしました?」
びっくりするほど気負わず言えた。顔を見た瞬間はどう話しかければいいんだととか一瞬のうちにいろいろ頭をひねったんだけど、何てことはなかった。意地を張らなければ、それで良かっただけなんだな。
「ずっと眠っておられた」
「すみません、魔力の交代がなくて大変だったでしょ」
俺が言うとビューズはかぶりを振った。
「いや。あなたの魔力が魔法石に残っていた。押し出したのちはただ乗っているだけだった」
「へえ」
思わず素っ頓狂な声を出してしまった。俺はあの一瞬で往復分の魔力をフル充電したっていうことか。
「思うに」
ビューズは片手を顎に当てながら言った。
「もともとあの装置はあなたのような魔力を持つもののために作られたのだろうな。それをプーリア人が何とか動かしているにすぎなかったのだ」
「俺のような?」
俺は首をかしげた。だって賓は魔王が復活しないと現れない。数十年だか数百年だか数千年だか知らないが、そのくらいの間隔でしかこの世界に存在しないはずだ。そんな存在のためにわざわざゴンドラを設置するって、どういうことなんだろう。
俺の疑問には答えずにビューズはしばらくの間黙って何かを考えているようだった。その後、顔を上げてさて、と言う。
「あなたのご所望について準備をしていたのだ。叶いそうだぞ。最後の条件さえ満たせばだが」
「俺の所望?」
言っている意味がわからず俺は再び首をかしげた。
「トツァンド城主を探しに対岸に渡るのであろう。船はまた何かが起こるやもしれぬ、定期船も昨日の原因が判明するまで運航を停止することになった。陸沿いに行っていたのでは日数がかかりすぎる。シュマルゥディス領も通らねばならぬしな」
シュマルゥディス、と聞き、馬に荷物のように乗せられていたときの気持ち悪さを思い出して俺は思わず顔をしかめた。腕が粟肌立つ。間違いない、あれはちょっとしたトラウマになっている。俺の様子を見ながらビューズは言葉を続けた。
「そこでだ。この風の塔の魔力を利用できないかと考えたのだ」
「どういうことです?」
「中で話そう。ご覧になるのが手っ取り早い」
そう言うとビューズは俺を塔の中に誘った。
「このように、魔法石は両手を同時に、かつ別々の石に置くことで発動する」
塔のてっぺんはコックピットのようになっていた。幅広く開いた窓からは入り組みながら湖に向かって広がっている湾の様子が一望できる。とは言っても遠くのほう、湾の入り口あたりはかなり距離があるので霞んでよく見えなかった。
窓のすぐ下には合計十の魔法石がはめ込まれた机があった。外側から左右ひとつずつが対になっていて、それぞれが湾内に置かれた五対の装置を起動するためのスイッチとなっているらしい。
「普通魔法石は事前に魔力を込めなければ使えないが、この装置は魔力のあるものが単に手を置くだけで動く。ただし左右同時に、だ。敵襲の際にはここから最も遠く、つまり湾の入り口にある装置を最初に動かす必要があるが……」
ビューズはそこで言葉を切った。言わんとするところはすぐにわかった。該当の装置を動かすためには、十個並んだ魔法石の左右両方の端にあるやつを同時に触らなければならない。しかしそれが大問題だった。ふたつの魔法石の間は、幅が二メートルくらいあるのだ。
「……どうするんですかこれ」
「通常の人間には無理だろうな」
ビューズは涼しい顔をして両手を広げた。俺より背のだいぶ高い第一王子だが、両端に届くにはちょっと足りない。
「人間じゃなければ……熊?」
「その通りだ」
世嗣殿下は満足気に頷く。
「あなたもお気づきだろうが、熊たちにはある特徴がある。まず、仕事は人に教わるわけではない。若い熊はいつの間にかその場の熊たちに与えられた仕事ができるようになる」
俺は頷いた。
「また、人間に対しては非常に従順だが、必ずすべての言うことを聞くわけではない」
「……そのようですね」
俺は今までの様々な経験を振り返って同意した。熊たちには熊たちなりの基準があるように思う。だから今一緒にいる熊は俺を助け出してくれたわけだし、ビューズを探していた今朝も何も言わずともここまで連れてきてくれたわけだ。
「だから熊たちが本当に必要だと判断しないかぎり、この塔の装置も発動することができないと言われているのだ。その通りか」
確認は熊に向かって投げかけられた。熊は真面目くさった顔で俺たちふたりの顔を交互に見ると、ぱちぱちと瞬きをした。
ビューズは頷いて言葉を続ける。
「余の考えでは、この塔の装置は逆順……つまりこの場所から近い順に発動させれば、ハワウが当たる場所にいるものや人を飛ばすことができる。相違ないか」
ぱちぱち。熊は再び同意した。
「お前たちはそれを知っていたな」
ぱちぱち。
「これまでの賓と光の子も同様にして旅立たれたのか」
ぱちぱち。熊はよくできました、と言わんばかりの顔でビューズを見ている。
「……ちょっと待って」
しかし俺の心は穏やかではなかった。
「それはつまり、風に吹き飛ばされて湖を縦断する、っていうことですか」
「その通りだ」
なぜかビューズは得意げな顔をしている。
「まじかよ……」
俺はその場にくずおれそうになった。馬にくくりつけられたり荷馬車に放り込まれたり、どうしてこの世界は俺を非人道的なやり方で移動させようとばかりするんだ。風に吹き飛ばされて大きな湖の上を渡るって。絶対に嫌だ。
「これも余の見立てだが、熊に乗った男ふたり三人を飛ばす程度のことは想定されておろう。賓と光の子、それに側用がつき、烏と熊が帯同するのだから」
「……そうなんですか」
熊に乗ろうと乗らなかろうと何がそんなに違うんだと思いながら俺は虚ろな声で返事をした。
「足元が風に吹かれるのと、しっかりと尻が熊に乗っているのとではかなり感覚が異なるだろうよ。そうだろう?」
後半の確認は熊に対してのものだった。熊は再び真面目くさった顔で瞬きを返した。
「まあ、そういうわけだ。だからあなたが対岸に渡れるかは熊たちの一存にかかっておる。つまり光の子を待たずして、かつ本来であれば伴うことの叶わぬ余も含めて、あなたが渡るのを熊たちがよしとするか否か。どうなのだ?」
もはや風に吹き飛ばされるのは決定事項であるらしかった。すごく嫌なんだけど。熊、駄目って言ってくれないかな、と思いながら見やると、大変満足そうに頷きながらウ、と小さく声を出しているところだった。二対一。賛成多数で俺は籾殻のように吹き飛ばされます。
「そういうわけだ。参ろうか」
気づけばビューズが俺の腕を持って引いている。もう今から行くというわけだ。トァンを探しにいくということなら、もちろん俺もすぐに旅立つつもりではいた。しかし、いいのだろうか。
「……ビューズはいいんですか」
「何がだ」
そんな意外そうな顔をしないでほしい。一応第一王子なんだろう。
「王様に暇乞いしたりとか、許可取ったりとか。あと、ご家族はどうなんです? ちょっと王都に行くだけとは全然違うでしょう」
「許可か。許可なら初めから出ぬよ」
なんか面倒くさそうなことをさらりと言っている。
「それにあなたは勘違いしているかもしれないが、余には血縁以外の家族はおらぬ。サルンではひとりで宅に住んでおる」
何で? と聞きそうになってすんでのところで堪えた。第一王子で世継ぎなんだから、当然すでに結婚して跡継ぎを儲けているものだと思い込んでいた。自分で昨日この世界の常識らしいものにぶち切れたばっかりなのに、俺は俺で自分の常識を当然のように通用すると思い込んでいたのだ。人のことを言えたものか。俺だって人をそういう目で見ているじゃないか。
黙りこんだ俺を納得したと取ったらしい。ビューズはそれではほかの熊たちに話をつけに行くぞ、というとさっさと机の前を離れて階段を降りていった。




