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深い森へと続く道(WEB試し読み & 草稿)  作者: 赤星友香
草稿(2021年6月連載終了)
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18. 風の塔(1)

 目を開けると見知らぬ豪奢な織物が天井から垂れ下がっていた。夢に引っかき回された頭でさらなる夢の続きかと思い込んで辺りを見回す。しかし俺に声をかけてくるものは誰ひとりとしていなかった。


 懐かしい昔の、懐かしい人たちの夢を見ていた。学部生の頃だ。講堂前の芝生だった。講義の間なんかの暇な時間、俺はよく池を眺めながら芝生でぼんやりごろごろしていた。サークルに入ってる奴はサークル棟に入り浸っていた。もう少し勉強熱心な奴は図書館に行っていた。俺は不真面目ではなかったけれど、明確な締め切りなしに頑張れるほど自律してもいなかったから、暇だなと思いながら携帯を眺めていたわけだ。四方を校舎に囲まれている環境が若干落ち着かなかった。


 俺は芝生のベンチでクラスメイトと話していた。よく一緒にぼーっとしていた面々だ。いつもどおりのくだらない話をしていた。俺が何か言って、みんな笑った。しかし次に言葉をつないだとき、空気が変わった。

「は? 何言ってんの?」

あいつらは奇妙なものでも見るような顔をして俺を見た。俺は失敗したことがわかり、その理由もわかった。俺が大人になってしまったからだ。大学生のこいつらと見ているものも考えていることも、変わってしまったからだ。自分が二十七歳であることを知っていながら大学時代に戻っていることに何の違和感も覚えないんだから夢とは不思議なものだ、というようなことが脳の片隅をよぎりつつ、俺は焦った。どうしたらこいつらに受け入れてもらえるような話ができる?


 場面はいつの間にか教室に変わっていた。小さめの講義室。担当教員の不祥事があり事務方ですったもんだがあった(と聞いた)挙げ句、非常勤講師として一年生を教えていた先生がコマ追加で担当することになった、あのゼミの部屋だった。


 先生は当時のままだった。ゼミに出ていた学生もみんな様子が変わらない。俺はまた自分がここにいるのはおかしいということを忘れて椅子に座っていた。先生に会うのはめちゃくちゃ久しぶりだなと思いながら、おかしいな先週だって授業はあったじゃないかと心の中で首をかしげた。


 学生の発表内容について全員がコメントを言う必要があった。俺はとくに何も気負わず、思ったことをそのまま言った。ポジティブな内容だったはずだ。しかし先生は怪訝そうな顔をすると、言った。

「え、大丈夫? ほんとにそう思ってる?」


 指の先からすっと血の気が引く感覚がして、頭の中が一瞬で真っ白になった。俺は先生からそんなつっけんどんな言葉を投げつけられたことはなかった。そんな侮蔑的な態度で、お前の言葉は聞くに足りない、というような対応をされたことなど一度もなかった。どうして。なんで。俺は何を間違った? パニックになって、どうにかリカバリーをかけようとして、焦って、焦って——ベッドの上で目を覚ました。


「ちがう」

違う、そうじゃない。誤解だ、俺はあなたたちにそんなふうに扱われるべき人間じゃない——。自己弁明のために口に出した言葉は掠れていてまともに発音できなかった。母音の余韻が喉の奥にわだかまって消えた直後、俺は違わないことに気づいた。違わない。俺はごく自然にそう思った。だってあのときからもうずいぶん長い時間が経っているんだから。いろんなことがあって、あの頃知らなかったことを知り、考えなかったことを考えるようになった。それを変だと感じるのは…


「あなたたちが変わらないからだ」

次の言葉はもうちょっとより自然に口から出た。言葉はがらんどうの体育館の中にいるようにぼんやりと虚しく響いて消えた。教室の感じじゃないなあと思ってようやく、自分が寝間着姿でベッドに寝ていることに気づいた。


 つまり夢だったのだ。ここは異世界、プーリア、その王都にいて、今俺は賓専用室のベッドに寝かされている。クラスメイトも先生も、この場にいるわけがないのだ、と理解した瞬間、鼻腔の下、喉の上あたりで何かが決壊した感覚を覚えた。次の瞬間には涙が滂沱ぼうだと流れていた。


 もう大丈夫だと思っていたのだ。先生が忽然と姿を消してから四年経った。ちょうどまる四年だったのだ。四年前の四月二十九日、山頂付近でハイカーたちと言葉を交わしたのを最後に先生の消息は掴めていない。事件事故その他、すべての可能性を考慮に入れた捜索は不発に終わった。


 行方不明になったとき先生は博士課程四年目に突入していて、休学を挟みつつ博論を書いていた。奨学金と非常勤講師で食いつないでいると言っていた。残念ながら学振通るほど優秀じゃないからね、と笑っていたのを今でもよく覚えている。


 いくつかの大学を掛け持ちして、かつ空いた時間で博論を書きつつの生活はかなり精神的にも体力的にも負担が多いものだったはずだ。しかし先生はまとまった時間ができると戸外に出た。目的はスポーツとかショッピングとかじゃなく、ざっくり言うと現地調査の下調べ、みたいなやつだ。最後の日もそういった目的での外出だったはずで、加えてハイキングを楽しむつもりでもあったんだろう。アップダウンの激しい山道を歩いていったことがわかっている。


 彼女にはやはり人知れない悩みがあったんじゃないか、後日みんなしたり顔でそんな風に分かったようなことを言った。それを聞くたびに俺は大声を出して反論したい気持ちになって、でも結局できなかった。俺だって先生のことなんか何ひとつ分かっていなかったのかもしれなかったから。


 先生のいないまま始まった五月は、いつの間にか十二月になっていた。俺は修士二年だった。そのころのことはあまりよく覚えていない。気づけば俺の修論提出は絶望的だった。三年目で何とかそれらしいものを印刷して提出期限ぎりぎりに学務に駆け込んだ。進路なんかひとつも決まっていなかった。


 あれから四年。第二新卒枠で就職してからも二年経った。先生のことを思い出すたびに覚えていた鈍い胸の痛みもここ最近はすっかり薄れて、振り返ると悲しいけれどそればかりではもはやない、懐かしいようなくすぐったいような、そんな学生時代の思い出のひとつになったのだとばかり思い込んでいた。だからもう大丈夫だと思って、俺は出かけたのだ。先生が消息を絶ったちょうど四年後の同じ日に、最後に歩いたとされているコースを、初めからなぞろうと思って。葬儀にも線香を上げにも行けなかった俺の、手向けのつもりだった。そして終わりにしようと思ったのだ。俺がかつて持っていた、持っていたように思う、複雑な感情のすべてを。


 足音がした。靴音じゃなく爪のある足が立てる音だ。

「ごめん、少しひとりにしてほしい」

声を出すとしゃくり上げるのを止められなかった。みっともないと思いつつ、この覆いの中には今誰ひとりとして入ってきてほしくなかった。夢の中のも、思い出の中のも、この今俺が置かれた現実にいるのも、温かくて息をしているすべての存在を押し流すために俺は泣いた。



 さんざん泣いたら頭が痛くなった。ベッドから起き上がるだけで前頭部が締め上げられるような激痛がする。この機序があまりに久しぶりすぎて戸惑いながらもうめいていると、また熊の足音がして何かがごとりと置かれた。そのまま足音が遠ざかっていく。何だろうとベッドの覆いから顔を出すと、テーブルの上に朝食の入った盆があった。その隣には水のたっぷり入った水差しに加えてアウグとパニイの魔法石が入った小さな湯涌まで置いてある。


「熊、気が利きすぎじゃない?」

照れくささに独り言を呟くと喉が腫れているときの声がした。みっともないなと苦笑しながら、目が覚めたときの孤独感が薄れつつあるのも自覚した。これだからな、薄情だな、と自嘲しようとして、できなかった。


「……そうでもない」

思い出すと胸の奥がずきんとする身体的な感触があった。でも昔——先生がいなくなった当時の感覚ともちょっと違う気がする。さらに奥深く、さらにひっそりと、しかし忘れられてはなるものかというかのようにその痛みは俺の中に居座ることに決めたようだった。


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