17. 森の果て
トツァンドを出たほかのものたちの道のりと比べると、スフとガーァゥリユー、ゴゥルィのそれは穏やかで、先に待つ懸念事項さえなければ心楽しいものといって良いほどだった。草原はどこまでもみずみずしく広がり、風が吹くと波打つさまは見事だった。熊は地面近くにひっそりとなっている草の実を、烏は早なりの果物を見つけるのがうまかった。とくに近くを通る遊牧の群れが確認されたときなどは、三名は丈高い草の中にひっそりと隠れつつ野からの贈り物をありがたく頬張った。
一行はプーリアからステムプレに一歩足を踏み入れたあたりの地域を、バルダルと呼ばれる川沿いに北上していった。対岸はステムプレの遊牧民が多いが、バルダルを渡ってくる群れは少ない。プーリアの村々からもほど良く距離を保ち、かつステムプレにも見とがめられにくい。さらに川では熊が魚を捕ることができたから、三名の食糧確保にも役立つというわけだった。スフは傷めた左膝をたびたび流れに浸して冷やした。存分に駆け回ることは難しかったが骨には異常がなさそうで、そのうち回復するだろうと思われた。
ゴゥルィとガーァゥリユーがこの道を選んだのにはもうひとつ理由があった。サルンと王都にそれぞれ忍び込んだ仲間たちが、おのおの秘密の場所から親石を引き上げて合流する手筈になっていた。バルダルは烏たちが上空から一行を見つける目印ともなっていたのだ。
トツァンドを経って三日目の朝、永遠に続くかと思われた草原の前方に終わりが見えはじめた。乾燥性草原地帯が尽き、大山脈地帯まで続く森が現れたのだった。
森の中でも一行はバルダル沿いに進んだ。いくつかの諸侯が分有するこの北の森は古く、茂りきった木々は樹冠を競い合いながら空に広げている。昼間でも薄暗い森の中でならプーリア人も夏に活動することができた。農耕にも放牧にも向かない土地の中に、毛皮や肉を求める狩人、木こり、炭焼き職人などが点々と己の仕事場を持っていた。
森の中で暮らすのはプーリアにとってもっとも古い種類の、かつ厳しい生活だった。豊富なのは緑だけで、水も食料も衣服さえも自分で一から手に入れることができなければ生き延びることが難しい。ほとんどのプーリア人は夏の日差しに耐えてでも森を出て、羊を飼うことを選んだ。振り返ることが難しいほどの昔のことだ。
ほとんど人のいなくなった森にはいつからか言葉を解さない種類の大熊が住みつくようになった。ここでは熊のほうが人間よりも立場が上だ。昼は昼で人はこの猛獣の牙にかからぬよう慎重に警戒しながら仕事をし、夜は夜で夜行性の生き物を仕留めるために住処を出た。スフたち一行にとっては昼も夜も人目を気にして移動する必要が生まれたというわけだった。
ゴゥルィは巧みにシュマルゥディス領内を避けながら森の中を進んだ。炭焼きは細くたなびく煙をガーァゥリユーが空から確認すれば良かったし、木こりなら斧の音を聞けば容易に回避ができた。問題なのは狩人たちで、熟練のものは熊たちですら舌を巻くほど気配を出さずに下生えの中を静かに進むことができた。一行はバルダルからあまり遠く離れることができなかったから、必然的に川沿いに視界の開けた場所を進まざるをえなかった。森に入った当日の日暮れのち、ヒュンと鳴る弓の音を聞いてすんでのところで逃げ出す経験をした一行は、夜の間は無理をせずに姿を隠して休むことを決めた。
翌朝スフが眠りから覚めると、熊が増えていた。熊の長グーォウが数頭の朋友を連れて合流していたのだった。
“スフよ、これを”
そばにいたガーァゥリユーの招きに応じて近づくと、グーォウが両手で丸いものを捧げ持ちスフに渡した。トツァンドのものと比較するとやや赤みの強い、大きさはほぼぴったり同じ魔法石だった。
“これはサルンの親石。六つのうちのふたつめだ”
ガーァゥリユーの言葉に頷きながらスフは石の中をしげしげと見つめた。手のひらの側には小さな銀色の竜巻が寄り添っていて、赤い遊色が隙間をひらひらと縫って舞っていた。
しばらくの間その美しさを堪能したのち、スフは布袋を開いて親石をしまった。袋の中にはすでにもうひとつの親石が入れられている。ずっしりと重くなった袋をスフは抱えて持った。
翌夜には三羽の烏が水色みを帯びた親石を代わる代わる持ちながら王都から飛来した。この烏たちは賓と第一王子が入市するより一日早く王都を発っていたため、その後起こったものごとの子細については把握していなかったことを書き添えておこう。第一王子やサルンによるさまざまの介入を知っていればスフたち一行の行動は変わりえたかもしれなかったが、そのようにはならなかった。
一行はすでに森の奥深くに辿り着きつつあった。今後のことについてガーァゥリユーと言葉を交わしたのち、スフは眠りについた。もう一日二日も進めば、森の終わりが訪れる。終わりに待っているのは深森と、その中に潜む魔王だ。黒々とした手を空に向かって伸ばす樹冠が星明かりにうっすら照らされているのを眺めながら、スフは不安な気持ちで眠りについた。
幸先の良くないことを考えて眠ったせいか、地響きとこの世の終わりのような悲鳴で目が覚めた。まだ夢が続いているのかと目をこすったスフだったが、頭がはっきりする前に熊の一頭によって寝具代わりのマントごと抱きかかえられた。熊は左肩にスフを乗せると、そのまま器用に手近な木に取り付いてよじ上りはじめた。
地響きと悲鳴は次第に大きくなり、すぐにあたりは耳を塞ぎたいような騒音に包まれた。悲鳴の主は鼠のような小さな生き物たちで、かさかさと枯れ葉を蹴散らして大声で喚きながらスフたちが来た方角へと集団で去って行った。その後に続いて地響きを立てていたのは森猪たちだった。普段なら決して集団で生活などしない生き物が揃って背中の毛を逆立てながら足並みを揃えて走っているのは異様な光景だった。弱ったもの、年取ったものは集団から遅れつつ、置いて行かれてはなるものかという気迫を見開いた目いっぱいに込めてよろよろとしんがりを歩いていった。
再び森が静まりかえると、スフの周囲あちこちでため息や翼を震う音がした。熊と烏たちがそれぞれ手近な木に上って難を避けていたのだった。
“今のはいったい”
スフが呟くと、ばさばさとガーァゥリユーが飛んできて答えた。
“深森のほうから来たな”
“では”
プーリアの言い伝えを思い起こしたスフは背中に鳥肌が立つのを感じた。深森の異変を最初に敏感に察知するのは、森に住む生き物たちだと言われている。
そのまま一行は木の上で眠った。熊たちも上手にバランスを取って枝の間に落ち着いている。スフはというととてもではないがそんな芸当はできなかったから、熊に寄りかかって眠った。
寝不足のまま迎えた翌朝以降の道行きは気の重いものになった。生き物たちが慣れ親しんだ住処から逃げ出すほどの何かが確実に存在していることを知りながら歩みを止めないでいるのには勇気が要った。仮に自分ひとりであったらどうだったろうかと熊に運ばれながらスフはたびたび考えた。熊たちは小さな目にほとんど表情を乗せずに、先導するグーォウの後に従って黙々と進んだ。ガーァゥリユーたちはたびたび樹冠の上まで飛び上がってあたりを確認し、そして戻ってきた。
次の変化は翌々日の昼に起こった。食事のために一行は川沿いで止まった。この頃には森に住む人の気配はほぼなくなっていた。動物たちをパニックに陥れた何かは人にまで影響を及ぼしているのだろうと思われた。
見張りのために上へと飛んでいった烏が、樹上でしゃっくりのような変な声を出した。どうしたのかと様子を見に行ったガーァゥリユーだったが、しばらくして無言のまま戻ってきた。
“何かあったのか”
スフの問いに小さく掠れたかあ、という声を返す。
“森が死にはじめている”
“死に……? あの、魔王の言い伝えのように?”
スフの確認に対し、ガーァゥリユーは今度ははっきりとかあ、と答えた。
ほぼ無言のまま食事を終えた一行は、さらに重たい足取りで道行きを再開した。足のある動物たちが逃げだし、動けない植物がその場で枯れていくようなところに、自分が行ってどうするのか。スフは心の中で何度も自問自答を繰り返した。どう頑張ってみても理由が見つからなかった。仮にガーァゥリユーたちが言うように強い魔力によって魔王に対抗できるのだとしても、そもそも近づくことすら許されなかったらどうすれば良いのだろうか。
烏たちが樹上から見たものを、肉眼で見られる頃にはすでに日が傾きはじめていた。ここ数日は木々に遮られて昼でも薄暗い中を進むのに慣れていたから、急に西から差しこんできた小太陽の光にスフの目は焼かれたようになった。なるほどこれがプーリア人の日常なのかと妙な納得感を覚えながらスフは光の向かってくる方向を眺めた。
“……森がないのか?”
思わずこぼれた疑問の声に、肩に飛び乗ってきたガーァゥリユーが答えた。
“そうだ。いや、厳密には違う。森の亡骸だけ残っている”
その通りだった。熊たちもいつの間にか立ち止まっていた。皆の目が見つめる先にはこれまで通りの緑が濃い、薄暗い森が続いている。しかしその先が突然奇妙に明るくなる。そこには痩せ細り、節くれだって折れ曲がった枝を伸ばしながら、在りし日の姿を無残に失い白々と枯れ果てた木々が連なっていたのだった。




