16. オルドガル(2)
大湖北岸オルドガルの最東端、大山脈地帯の裾野に東の端を接した寒村デンコットに、見るも無惨な様相を呈した船が二艘漂着した。王都プーリア沖で突如竜巻が巻き起こった日の夕暮れ時だった。竜巻によって巻き起こされた風と波は普段でならありえない方向へ、ありえない速度で制御を失った船を誘ったのだ。容積も積み荷もそれぞれ異なる二艘の船は、プーリアの特別船のほうがやや速くまだ明るいうちに、ザー・ラムの奴隷船は日も落ち周囲がかなり暗くなりかけてから、それぞれ沖の暗礁に乗り上げて止まった。
デンコットは北東に切り込んだ入り江を持っており、村の西側と湾に沿った湿地の間には利用されていない砂っぽい草地があった。ザー・ラムの奴隷船は翌朝明け切らぬうちに小舟を降ろし、村長に了解を半ば無理矢理取り付けるとその草地で野営の準備を始めた。組み立てられたのは目の覚めるような赤で染め抜かれた丸い天幕で、複雑な植物の意匠が金糸で縫い取られていた。天幕のうちに立てられた支柱の数々もすべて細かい意匠が施された共布の覆いが掛けられた。一言で言うと座礁のために一時的な宿を確保する野営としては豪奢すぎる装いであった。
その日の夜にはザー・ラムその人が天幕の内に座していた。若い頃は燃えるような緑玉色だといわれ珍しがられたその髪とひげは年を経て白いものが強く混じるようになっていたが、未だその輝きを失うことはなかった。ラムが赤を好むのは背景としてその髪の毛をよく映すからだと噂されていた。
ブガルクが地の利を生かして野営の準備を進めている間、特別船では損傷の確認と今後の対策が練られていた。大きな衝撃を受けたわりに人的にも物的にも損害はほぼなく、座礁の際に乗り上げた船底が少し痛んだのと、補助マストが一本失われ、帆がずだぼろに破れた程度だった。きっちり補修して風向きを待てば再度の航行が可能だとドフューは太鼓判を押した。問題は食糧のほうで、積み荷の少ない特別船では予備の携行食を含めても二日分ほどの余裕しかなかった。
トァンと魔法史の長、ドフューと航海士が額を突き合わせて今後について話し合っているとき、甲板上が突如騒がしくなって船長室の扉が乱暴に叩かれた。
“殿下の御前だぞ”
つい先日まで王族なぞ虫けらのように嫌っていたのをおくびにも出さずにドフューがたしなめると、髪の毛の赤い船員は困ったように頭を掻いて何かが結びつけられた矢を差し出した。
“これはブガルクの矢文でございます。たった今射込まれました。旦那、これを受け取ったら百年目、面倒ごとは呼ばずとも引きも切らずってね、これは俺の故郷では有名な話ですよ”
“このあたりの出だったか”
ドフューが問うと船員は頷いた。
“まあ言うても俺はもっと西の端、旦那がたに近いこのあたりとは流れてる血もち……おっと失礼、これは失言でした”
頭を下げて早々に立ち去る船員に対し苦笑を返すとドフューは矢文を開きはじめた。色が淡ければ淡いほど良いとされるプーリアはなかなか認めようとしないが、オルドガル東部の人々は見た目だけで言えばプーリアとよく似ているのであった。髪の毛は薄い茶色から金髪が多く、銀髪も珍しくない。色とりどりの瞳もほとんど見られなかった。一方西の方に行けばブガルクなどと見分けがつかないほど髪の色も目の色もさまざまになり、かつ肌も夏に耐えられるほどに強くなる。日焼けした赤ら顔はよく見られるものの、このあたりの違いを客観的に検討するのであれば、系統的な違いは大山脈地帯ではなくオルドガル中央部付近を境にしていると言わざるをえなかった。
ドフューの苦笑は矢文を開き終わったところで止んだ。
“殿下”
難しい顔で手渡された文を受け取ると、トァンは静かな表情で一読した。
“これは……どう考えるべきか”
隣で長が唸った。しかしトァンの目には動揺がなかった。
“どうと申しましても、取れる手段はひとつのみでしょう。わたくしは参ります”
長は反論しようとし、しかし持てる知識のすべてがトァンが正しいと頷いたためもう一度唸って黙った。文にはプーリア語でこうあった。
——ブガルク僭主ザー・ラム閣下、プーリア王国第一王女にしてトツァンド城主プーリア・トァン殿下に今宵野営地にてお目通りを願う
ザー・ラム本人の署名と花押のついたこの文は、一見下手に回っているように見えて事実上の呼び立てであった。こちらはただの帆船、向こうは漕ぎ手の奴隷を多数従えた軍艦だ。拒絶でもしようものならどうなるかは目に見えていた。
金糸の縫い取りが燭台の光に晒されてぎらぎらと妖しい光を放つなか、トァンは嗅ぎなれない香りを胸いっぱいに吸い込んだ。客人を迎えるための香が天幕内にたっぷりと焚きしめられていた。
天幕の外にはドフューが控えていた。船長が同行するのは良くないとトァンも魔法史の長も止めたが、ドフューはこの航海が失敗したのはひとえに自分に責任があると言って聞かなかった。本心では聞き及んでいたブガルクの強引さがとうとう自分の国にも襲いかかってくるのかという予想に戦々恐々としており、そこで闘わずしては港町っ子の名が廃るという矜持を強く持ってのことだった。魔法史の長も同行しようとしたが、それはトァンが引き留めた。
“長はわたくしに何があっても、賓様に合流をしてほしいのです。もはやガーァゥリユーもスフもおりません。このままおひとりで深森へ向かわせることだけは、何としてでも避けなければなりません”
再びの正論に説得されて長は渋々是と首を振った。
僭主ザー・ラムは笑顔を浮かべてトァンを迎えると、寝そべっていた寝椅子から立ち上がって歓迎の意を示した。祖父と孫ほどに歳の離れた組み合わせのためか、はたまた双方が本心を押し隠すことに長けた人生を送ってきたためか、この会見に敵意の影はかけらも見当たらなかった。
“このたびはお互いに困ったことになりました”
対の長椅子をトァンに勧めながらラムは流暢なプーリア語で言った。手ずから茶を入れている。茶を入れるのはこの僭主の趣味のひとつであった。
“しかし閣下におかれましてはさすがのお力で村の快い協力をお取り付けになったようですが”
着座したトァンは微笑んで答えた。他意はなかった。
“このようなときのための同盟というものです”
ザー・ラムも対人用の明るい笑みを浮かべながら客人に茶を出した。自ら率先して飲む。その様子を見ながら後れを取らないようにトァンもひと口含んだ。
“さて、殿下はなぜ吾輩の船がプーリア国内を航行していたか、お知りになりたいのではないかと思いましてな”
“ご親切にありがとうございます。わたくしなぞにお話になって良いようなものとは思えませんが”
トァンが当然のように返すと僭主は眉を上げた。
“プーリアでは女性が政の場に出ることはないと聞き及んでいます。あなたは例外のようですが”
“かりそめの立場にございます”
第一王女は微笑んだまま静かに答えた。
僭主は黙って茶を飲み干すと、寝椅子から立ち上がって天幕の内をゆっくり歩き回りはじめた。ぱたり、ぱたりと柔らかい皮の室内履きが音を立てる。
“吾輩はこの段に及んでも、どなたに一等最初にお目にかかるべきか決めかねておったのですよ”
“最初に、とは”
“王は祭祀のために王都からお出でにならない。世嗣殿下は戴冠まで居候の身だと聞く。商都サルンを牛耳る領主殿下は、戴冠後はその任を離れられる。後進は……まだお育ちになっていないと聞きますが”
トァンは黙って頷いた。長兄が変人扱いされる理由は生まれだけでも素行だけのせいでもなく、三十を目前として未だに妃のひとりも娶らないことにもあった。本来であればそろそろいいかげんに王都が妻合わせていてもおかしくないはずだが、どういうわけか王も妃殿下も第一王子の伴侶について一言も言及せずにここまで来ている。
“非常によく仕組みを作っておられる。すべてが均衡の内にあり、小さくとも貧しくなく平和な国家だ。吾輩は大変に興味深く思っておるのですよ”
トァンは再び黙って頷いた。ブガルクにはみっつのものが覆い隠されている。熊に、烏に、魔法だ。これこそがプーリア王国がプーリア王国たる要であり、容易に国外にもたらされてはならないものだった。
“ブガルクとはずいぶんと様相が異なります。……こと吾輩のように、周辺諸国との友好を政の要としてきた僭主分際では想像もつかないような舵取りがなされていることでしょう”
数多く灯された燭台の熱で、天幕の中に陽炎が揺らめいた。金糸の光がぐっと強くなり、また弱まった。香の香りは天幕の外に漏れ出すほどに強く充満していた。トァンは光に輝く意匠のひとつをじっと見つめ、そして答えた。
“私利私欲のために権力を行使するものはさほど珍しくはございません”
ラムはゆったりとした足取りを保ったまま室内をゆっくりと歩いていた。
“ただし大多数の益とならないような支配者は歪んだ体制を作り出すものです……恐怖で側近すら抑えつけるような”
“吾輩はそのようなものではないと”
“左様でございます。僭主ラムよ、あなたは何かを求めて権力の座に着かれた。しかるにお探しのものは未だ御前に現れてはおらぬようにお見受けします”
ぱたり、ぱたりと響いていた室内履きの音が止まった。ラムは口を開いた。
“プーリア・トァン殿下。プーリア王国第一王女にして国境の町トツァンド城主よ”
“はい”
“お国の方々はどうやらあなたを軽く見積もりすぎておられるようだ”
少女は表情を変えずに首をかしげて続きを待った。
“辺境の国、プーリア王国。夏は短く、冬は長く厳しい雪に閉ざされる地”
ラムは静かな声で話しながら向きなおり、トァンのほうへ歩みを進めた。
“女性に王位継承権がないのも、大規模交易に対しことさらに国を閉ざそうとするのも、膨大な森林資源を持つにもかかわらず言い伝えに惑わされて活用方法すら考えないのも”
僭主はすらすらとプーリアのほかと異なる点を挙げる。
“湖西ではそれらはすべて野蛮さ故の無知蒙昧によるものだと考えられています。しかしそうではない”
男ひとりが寝そべるほどまで距離を詰めてラムは呟くように言った。
“あなたの国は何をその内側に隠しておられるのかな。そしてどうしてあなたほどの方がそこから疎外されるのか”
トァンは黙ったままだった。男はその沈黙の重さを推し量るかのようにしばしそのかんばせを見つめると、言葉をつないだ。
“あなたには何らかの企みがある。それが吾輩にとって益となるか害となるかはまだ分からぬが”
少女は少しだけ表情を引き締めた。
“今ここにおることは、その計画を妨害するものであるはずです。殿下、吾輩と手を組みませんか”
深い水底のような碧の双眼が内に炎を蓄えてゆらりと蠢いた。
“吾輩の失せ物についてお話ししましょう……もしこの手を取っていただけるのであれば”
トァンはさらにしばしの間沈黙していたが、やがて小さく息を吐いた。
“今この場にあってわたくしには選択肢がないことはご存じでありましょう”
“しかしあなたであれば吾輩の手をはねのけることなど造作もないはずです。計画よりも王家の尊厳を取られるのであればですが”
少女は小さく微笑んだ。
“良いでしょう。お話をいたしましょう。お互いに”
僭主は満足そうに頷いた。そのとき、遅起きの梟が一羽伴侶を呼びながら天幕の上を横切っていった。呼び声は夜のしじまにこだまして、やがて薄れて消えていった。
上陸組から音沙汰がないまま夜が更けていった。ひとり甲板からデンコットの野営地のほうを眺めていたワティーグス・ターリクは、この事実から良い知らせと悪い知らせをそれぞれ受け取った。良い知らせとは、プーリア・トァンの身に危害が加えられていないことだ。悪い知らせとは、トァンと僭主ザー・ラムとが、何らかの点において——何なのかはワティーグスには想像がつかなかった——意気投合した可能性が高いということだった。
老魔法司は隠しから魔法石を取り出した。手持ちの魔法石はハワウがふたつ、パニイがふたつ、そしてアウグが四つあった。アウグふたつを残して残りは再びしまった。てのひらに魔法石を並べると、そのままじっと見つめた。
“止めるなら今だぞ”
ワティーグスは後ろにいるであろう存在に向かって声をかけた。すん、と鼻を鳴らす音がして、座礁時にかぶった水分を乾かすために甲板に並べられていた底荷の陰から一頭の熊が歩み寄った。
“止めんのか”
ワティーグスは熊を振り返った。自分は今さぞや情けない顔をしていることだろうと思った。星明かりのなか、熊はその表情に良いとも悪いとも裁きの色を浮かべず、ただ黙って彼のなすことを見守っていた。
“私には足が必要だ。最低でも大山脈地帯の峰をひとつ、越えなければならぬ。この老体では到底やりおおせないだろう”
熊は魔法司の隣に来ると腰を下ろして座った。背が伸びているので頭ひとつ下のところに熊の顔が見える。
“ともに来てくれるかね”
ワティーグスの問いかけに、熊は良いよ、とでもいうように小さな声を出した。
“お主、名は何という”
“グァガ”
熊は口を開けて答えた。
“そうか。それではグァガ、今からすべきことをなし終えたら、すぐに私を乗せて陸へ向かってくれ。濡れるのはかまわん”
熊が同意の瞬きを返すのを見届けて、ワティーグスは甲板に魔法石をふたつ重ねて置いた。懐の短刀を抜いて魔法石を突き刺す。強い熱と炎のような魔力が上がった。熱にひるみつつも老魔法司は重ねて短刀を突き刺した。粉々になった魔法石が再び寄り集まって固まらんとする直前に、彼は左手を叩きつけて再度魔力を込めた。二倍、三倍の魔力が吹き出す。魔法石はすでに跡形もなかった。熱に当てられてぼんやりと吹き出す魔力の中に倒れ込みそうになったワティーグスの襟首を熊がくわえ、そのままざぶんと湖の中に飛び込んだ。
その夜、特別船のぼやは奴隷船にも、デンコットの村からも確認された。強く吹き出した魔力は実際に甲板とマストの一部を焦がして消えた。ふたつの魔法石が消えていたため、それがアウグによるものなのだと理解できたのはごく一部のもので、それも明るくなって現場を確認してのちのことだった。そして消えた魔法司と熊については、翌朝会見を終えたトァンが船に戻ってくるまで、誰ひとりとして気づかなかったのだった。




