表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
深い森へと続く道(WEB試し読み & 草稿)  作者: 赤星友香
草稿(2021年6月連載終了)
34/55

15. 平凡な領主の想定外な一日(2)

 ちょうど同じ頃、大烏の道をサルンに向かってひた走る四頭立て熊車の、リーダー格に当たる熊の頭上に一羽の烏がひらりと器用に舞い降りた。片目の周りが白く縁取られたまだらの烏であった。烏はしばらくの間風に尾羽をなびかせたまま止まっていたが、やがてこう風が強くては落ち着かぬと悟ったのか、かあとひと声上げるとサルンのほうへ飛び立っていった。


 熊車は速度を落とさずに走り続け、一日の八分の一カマーグ後には城壁の東、銀の門まで到達していた。熊たちの鼻が動いた。普段にまして門前の憲兵が多い。熊たちは走るのを止め、早足で門前に辿り着くと静かに止まった。


 熊車の幕が上げられ、中から老人の声がした。その頃にはこの熊車をトツァンド城主のものと認めていた憲兵たちはふた言三言交わすとすぐに通路を譲った。熊たちは静かな歩みで街の中に入っていった。


“何やら騒がしかったようですが”

車の中でトァンは魔法史の長に尋ねた。

“不審人物が目撃されているようですな”

“不審人物ですか”

“子細は申しませんでしたが、恐らく賓様のことでしょう”

“ご無事そうなら何よりです”

細い息を吐いたのち、トァンは小さくそう言った。


 熊たちはゆっくりと高級住宅街の中を進み、廟のある広場へと出るとそこで立ち止まった。熊たちの鼻先には石像がある。サルンの石像は二本足で立った熊であった。


 なぜ止まったのかと長が危ぶんで窓から顔を出したそのとき、建物の間からなじみある地響きがした。

“熊ですね”

“賓様でしょうか”

“いえ、あれは足音がずいぶんと重い……武装していますね”

トァンが言い終わるのと、武装した兵士を乗せた熊の一群が土埃を立てて熊車を取り囲むのとはほとんど同時だった。トァンは反射的に上衣の隠しに手を入れたが、朗々と響く声を聞いて肩の力を抜いた。


“これはこれは、我らが愛しの妹御ではないか”


 姿を消したトァンの部下スフの髪の毛が春野に咲くたんぽぽなら、巻き起こった風に吹き上げられているこちらは湖上にさんざめく夏の陽光のようだった。呼びかける間のみフードを取り払った顔立ちは息をのむほど整っており、そのなかで髪の毛と同じ色の双眼が愉快げにきらめいた。


“兄上”

トァンはほっとしたように答えると幕を左手でたくし上げてフードを被った顔を出し、右手を胸に当てて頭を下げた。ビューズ邸を出たトアル=サンが領主館へと戻るところに遭遇したのだった。



“髪が熊のように黒い男が現れたとのことで港町は積み荷をひっくり返したような大騒ぎだ。しかし当の本人が忽然と姿を消してしまったとな。憲兵どももうろたえておったぞ”


 領主館に戻り、執務室にふたりを出迎えたトアル=サンはそう言うと愉快そうに笑った。シュマルゥディスがしくじったことは状況から理解している。妹は四頭立て熊車で走り通してきたようだから、騎馬兵は全速力で追いかけているとしても半日分程度のおくれを取っているだろう。少なくとも今日いっぱいは、サルン領主の独力でこのふたりを領主館内に留めておく必要があった。


“姿を消した……?”

トァンはやや不安げな面持ちで繰り返した。


“誰何した港町の警邏どもによると、急なつむじ風が吹いき、目潰しを食らっている間にいなくなったとのことだ。その後幾度か見回りのものが怪しいふたり組を見かけたが、都度掻き消すように消えてしまったと”

金色の目をした快活な男は再び笑った。

“それは……!”

“世嗣殿下におかれては今日も目ざとく市井を飛び回っておられるようだなあ。まるで子猫を見つけた烏のようだ”

“しかしそれでは賓様のご安全が”

“問題ないだろう。兄上は実学の徒、ああ見えて目に見えるものには敬意を払うだろうよ。今まで頑なに否定してきた存在が目の前に現れたらどういう反応を示すかな”


 第二王子が再び笑ったところで扉を叩く音が響いた。護衛が伝達の内容を取り次ぎトアル=サンに知らせる。領主は鷹揚に頷いた。

“部屋の準備ができたそうだ。おふた方とも、ひとまず旅の疲れを取られると良い”

賓の安否を気にしているトァンは未だややそわそわとした面持ちではあったが、兄の提案にとりあえずは頷いた。


 それからしばらく経った夕刻のこと、部屋にひとり留め置かれた魔法史の長は据え付けられた机に向かい書き物をしていた。書き付けるべきことはいくらでもあった。考え考えペンを進めていたので、もうだいぶ長いことこうしていることにもあまり気づいてはいなかった。


 突然扉を叩く音がし、来訪者の名が告げられた。魔法史の長はやや驚きながらも客人を迎えるために立ち上がった。


 長の部屋に赴いたのは館の主その人だった。

“どうぞおくつろぎに”

鷹揚な黄金色の声が響いた。

“ぜひこの何も知らない哀れな領主に報告をしていただこうと思ったのですよ、魔法史の長よ”

トアル=サンは向かい合って置かれた応接用の豪奢な椅子に肘をつき、くつろいで座した。


“そうでしたらトァン殿下のほうが適任であらせられるかと存じますが”

まじめな顔で答えた老人に向かって領主は手を振った。

“いや、妹は疲れておるだろう。普段から夢なのか正気なのか分からぬことをよく申していますが、今日のこの時間とあってはあの小さな頭の中に楽しい想像がたらふく詰まっていないとも限りませんからね”

そう言って快活そうに笑った年若い第二王子に対し、長はアウグが注ぐ逆光の中で眉をひそめた。


“それではこの老いぼれがお相手をいたしましょう。私としても少々お伺いしたいことがございますよ”

サルン領主は眉を上げてにっこり微笑んだ。それは見るものを魅了する笑顔で、このような場——長がシュマルゥディスとサルンの間柄に対して疑惑を持っていることは十分によくわかっていた——をうやむやにするのにはもってこいの道具だった。長は少し表情を和らげてトアル=サンの向かいの席に着いた。


 刻々と迫る夕闇の中、プーリア・トァンはあてがわれた自室内で静かに座っていた。配置された侍女たちもすべて下がらせ、室内は少女ひとりだった。本心では次兄の来訪を待っていたが、それは成らないであろうことも理解していた。プーリア王国には女の居場所がない。市井の羊飼いや毛織物産業の現場ならまだともかく、諸侯や王族の行う一連の治世にあっては女は空気か家具のようなものだった。王族とはいえ女が城主の座に着いている今はやむにやまれぬ事情に後押しされた完全な異常事態といえる。たとえそれが平民の出である老魔法司であっても、男がいればそちらへ次兄の話が向くのは疑う必要もないほど当然のことだった。


 静寂は唐突に、思ってもみない方向から破られた。閉め切った鎧戸を叩く音がする。それは人の手によるものではなく、もっと尖って硬い何かが叩きつけられて出る音だった。


 王女はゆっくりと立ち上がり、マントを身につけてから鎧戸を開けた。窓台に捕まっているのはぶちの烏だった。一部の羽根は完全に白くなっており、とくに目の周りを丸く描く白が特徴的だ。


「わたくしにふみですか」

古代神聖語での問いかけに烏はまじめな顔で頷き、片足を上げた。結びつけられた筒をはずして蓋を開けると、トァンの目に覚えのある筆跡が広がった。


——委細省くがプーリア・トァンおよび従者の王都入市を許可する


書面は第一王子のサインと印章で締められていた。疑いようがなく、プーリア・ビューズによる公式の入市許可状だった。


「しばし待ちなさい」

書面の内容からある程度のことを把握したトァンは旅の荷物から紙とペンを出し、短い手紙をしたためた。


「これを、魔法史の長に。周囲に人がいないときを待って近づきなさい」

烏は承知しました、といわんばかりに嘴を開けてかあ、と鳴こうとしたが、時と場所をわきまえて無音のまま閉じた。そしてこくこくと小さく数度頷くと、静かに窓枠から飛び立っていった。


 旅の疲れを取るという名目でふたりに個室が割り当てられ、領主館内に留め置かれようとしていた頃、四頭の熊はどうしていたかというと納屋に寝場所を割り当てられていた。


 サルン領主は熊を居住空間に入れることを非常に嫌がった。幼少時、世嗣邸で両親と暮らしていた当時から、自室には熊を入れるなとことあるごとに使用人に文句を言った。一領の主となってからは館そのものへの熊の立ち入りを禁止するほどの徹底ぶりであった。


 熊たちはとくに抗議の声も上げず、サルン領主館に配されている朋友とともに眠りにつこうとしていた。そのしじまを破ったのは烏の羽音だった。


 まだらの烏は明かり取りに開けられた高い窓から迷わず昼間自らが頭に留まった熊めがけて降り立った。そのまましばらく四頭の周りをうろうろしていたが、熊たちがおもむろに起き上がると満足したように飛び去っていった。熊たちは音を立てないよう細心の注意を払いながら納屋を出て行った。


 そのまま領主館は完全な静寂に包まれたかのように思われた。一日の二分の一カマーグほどのち、伝令の声がけたたましく響き渡るまでは。


“プーリア・トァン殿下とワティーグス・ターリク司が旧市街から港町に到達、特別船にて王都へと出航の準備を進めております!”


門で一度、領主館の広場で二度、寝起きのトアル=サンが部屋着のまま出迎えた執務室で三度、同じ内容を繰り返した夜勤の憲兵は、主のあまりの不機嫌な顔に気づくと顔を青くした。


“なぜ止めなかった”

いつものきらきらしい表情をすべて忘却したまま、低い声でサルン領主は問い詰めた。

“は、……”

治外法権の港町でどうやったら自分たちが警察権を発揮できるのかと、当然の疑問を口にしかけた伝令であったが、すんでのところで止めた。賢明な判断だった。第二王子は壁に掛けられた短刀をすでに右手に掴み、左手で鞘を抜き去らんとしているところだったからだ。


“何が何でも引き留めよ! 特別船を出航させることは私の名において断じて許さん!”

ここに来てようやく執務室に顔を出したバゼルに対しつばを飛ばさんばかりの勢いでまくし立てると、トアル=サンは自ら指揮を執るための準備をしに自室へと引っ込んでいった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ