14. 北見の塔(4)
「……何があったんでしょう」
砂埃を吸ったせいでひとしきり咳をして倒れ伏した後、ようやく呼吸と姿勢を取り戻した俺は呆然として呟いた。声がしわがれてかすっかすだ。
「やりおったな」
ビューズはひとりで何かを納得している。
「やりおった?」
「恐らく学院だ。余とともにハワウの制御を研究しておるのだが、最近出力を上げるほうに関心を持つものたちがおった。……恐らくは奴らが」
ビューズのハワウといえばあの亀の甲羅だ。魔力をジェット噴射することで本人の走りをアジャストする。その出力を上げると、どうなる?
「もしかして、兵器を作っているということですか」
声が震えた。
「そういうことになろう」
「自分のとこの王族の船に向かって、兵器を……?」
声だけでなく体まで震えてきた。あの美しい少女は、一体何がいけなくて、そんな目に。
「学院が狙ったのはトツァンド城主ではなかろうよ。ブガルクの奴隷船だろう。特別船が見えておったらさすがにこのような暴挙は働くまい。恐らくサルン領主はどこにも根回しをせずに呼びつけたのだ。突如ブガルクの軍艦が現れるのを見て周囲が何を考えるかも思い至らず、興味すらなかったのだろうな」
「ブガルクを追い払うために新しく作った兵器を見境なく発動させて、第一王女の船まで巻き込んだと」
言っている間にもさらに声が震えてきた。恐怖ではない。猛烈に腹が立ってきたのだ。
「さて、どうすべきかな」
俺の様子にとくに気を払わず、ひとり何事かを興味深そうに考え込んでいる第一王子の様子を見ていたら、意思を認識するよりも先に体が動いていた。
「どうするべきかじゃない! 俺たちのやることはひとつでしょう。トァンを探しにいかないと! もしかしたら対岸まで押し流されているかもしれないじゃないですか!」
マントの襟首をふんづかみ、がたがたと揺すりながら俺は叫んだ。言いながらまた強烈な咳が俺を襲う。肺が、心臓が言うことを聞かない。自分の体すら、ここでは思い通りに動かすことすらままならない。
「落ち着かれよ。お体に障る」
しごく真面目に言っているらしいのにまた腹が立つ。
「落ち着いてます。十分落ち着いてますとも。猛烈に腹立てていることを自覚するくらいには落ち着いています!」
「良いか、トツァンドの幕引きは永らく王家諸侯の間で課題でもあったのだ。女城主の時点で行き着く先はほぼ見えたようなものだったが、このまま城主不在になれば問題がひとつかた……」
片付く、と言いたかったんだろう。言わせるものかという気迫で俺は叫んだ。
「女、女、女ってね! 女性だって子どもだってひとりの人間ですよ。ああ違う、あなたたちみたいな暗黒の中世社会じゃ人間なんかじゃないですね、ものだ。所有物だ。奴隷も熊も烏も大差ない。全部自分の一存でどうにかできるもんだと思ってる」
言いながら涙が出てきた。俺は知っていた。知っていて、それを見ていて、何もできなかった。
「まあ女性にはわからないよ!」
あのとき教授はそう言って笑っていなかったか。教授よりも明らかに正しかったのは先生のほうではなかったか。卒論室は微妙な雰囲気に包まれてはいなかったか。それを打ち破るような勇気を、俺はかけらも持ち合わせていなかったのではないか。だから、帰り道に駅のホームで先生を見かけたときに、その顔から光という光がすべて失われていたのにもかかわらず、声をかけることすらできなかったのではないか——
「国とか領地とか諸侯とか、色々言ってらっしゃいますけどね、そんなもんは庶民から見たらくそ食らえだ。自分らがいるから民が生きてけるだなんて思い上がってないか? 逆だよ逆。毎日を平凡に暮らすひとりひとりが畑を耕して家畜を育ててものを売って金を作って、それであんたたちは生きてるんだ。そのことを学べなかった王侯貴族が俺の世界でどうなったか教えてあげるよ。全員首をはねられて死んだんだ。いい気味だ」
再び猛烈に咳き込んだ。立っていることもままならずうずくまりながら、肺が全部ひっくり返って口から出てしまいそうな咳を俺は繰り返した。腹が立ちすぎて今自分が言ったことすらよく覚えていなかったが、とりあえずこの第一王子を——そして恐らくはその背後にあるこの国自体を——敵に回すようなことを言った自覚はあった。
「いや、いいです。どうせこういうのは住んでる世界が違う人には伝わらないんだ」
咳が去って、喉をひゅうひゅう言わせながら俺は呟いた。それは日本語のただの慣用句だったけど、この状況では文字通りの意味で伝わってしまうことに気づいた。こちらから伝わる努力を拒絶したも同然だった。
「俺はひとりで行きます」
何とか立ち上がると、手の甲に濡れた感触がした。四つ足で立った熊がまじめな顔をして俺を見上げている。一緒に行きますよと、そう言われた気がして少し涙が出そうになった。
「待たれよ」
背後で声がしたが振り返らなかった。熊にまたがろうとして力が入らず無様にずり落ちた。情けない。情けないけど腹が立っていたので体は動いた。
「待たれよ」
もう一度声がして腕がぐいと引かれた。
「止めてください、あなたはあなたの好きなようにすればい……」
「そうさせてもらおう」
耳元でビューズが言って俺を抱き上げ、熊に乗せた。
「先ほどあなたが言いかけたことだ。魔王を斃すとは」
俺の肩に手を掛けたままビューズは言った。行きのゴンドラで俺が考えたことだ。強い魔力同士が戦うとはどういうことなのか、と。
「黙れって言ったじゃないですか」
「言うた。あなたが妹を探して対岸に赴くというのであれば、結果は同じだと言いたいのだ」
「同じ?」
「深森は成長を続けている。あなたが対岸に渡れば、対峙することは不可避だ」
「だって俺はそのために呼ばれたんじゃないですか」
俺はずっとトァンの話をしているのに、この世嗣殿下はピントのずれた返答ばかり返してくる。苛々して俺は再び強い口調になった。
「そうだ」
ぽつりとビューズは言った。静かな表情だった。
「そうして余は得がたい唯一の友を失うというわけだ」
その言葉があまりに素直にぽとんと落とされたので俺は継ぐべき二の句を失った。
言われたことの意味を考えている間に、ビューズがふわりと俺の後ろから熊にまたがった。
「戻る。お前は賓殿の負担にならないようにゴンドラまで歩いてくれ」
そう熊に言うと俺に対して続けた。
「無理なさらず寄りかかられると良い。目を開けているので精一杯であろう」
その通りなのだった。単純に咳で体力がだいぶ持っていかれていたし、山の薄い空気もいいかげんしんどかった。すっと頭の重さがどこかに行って倒れてしまうような感覚が、さっきから数十秒おきくらいに襲ってきている。
「いや、俺は行くので」
邪魔をするなという気持ちを込めて言うと世嗣殿下が鼻を鳴らした。
「存じておるぞ。余も参ると申しておるのだ。あなたひとりで対岸まで無事渡れるものか」
だから安心なされよ、という言葉を聞いたのは覚えている。そのあとは何だか温かいものに包まれたようなぼんやりとした心持ちになって、いつの間にか意識を失っていた。




