14. 北見の塔(3)
奇岩と見えたものはやはり大きな岩だった。ちょっとした商業ビルくらいの大きさだ。ごつごつとしながら肌触りはつるりとしている岩肌に、不思議なことにらせんを描いて上る石段が着いていた。それだけが後から取り付けられたもののようで、色も石の質感も違っている。しかしボルトやナットは見当たらないし、支えるための構造材もなかった。ただ石段だけが岩肌に突き刺さっている。
「それも魔法、ゼウムによるものだと考えられておる」
石段を感心しながらしげしげと見上げている俺にビューズが声をかけた。
「言われている、ということはこれも失われた技術ですか」
「さよう。ゼウムで土くれや砂を出すことは誰にでもできようが、それをこのような形にまとめ上げることは今では不可能だろう。ともあれ、登るぞ。この岩が北見の塔、頂上が見張り台だ」
石段と石段の間は数十センチくらい隙間が空いていて、下を覗くと地面がまっすぐ見通せた。北見の塔にぶつかって巻き上げられた風が足元から吹き上げてくる。怖い。けっこう怖い。俺は熊にしがみついているだけだったけど、ビューズは俺たちを先導して危なげなくひょいひょいと進んでいる。やはりよっぽど慣れているらしかった。
塔の頂上は十メートル四方くらいの面積がある平面だった。その一端に岩石を積み上げてできた台のようなものがあって、筒状の何かが据え付けられている。ちょうどハイキングコースの見晴台にある、コイン式の望遠鏡みたいな様子だ。ひとつだけ違う点として、この円筒にはレンズが嵌まっていなかった。目を当てると、ラップの芯を覗いたときのように青空が丸く切り取られているだけだった。
「遠見めがねだ。これはパニイをこうして使う……先に言っておくがこれも失われた技術だ」
そう言いながら世嗣殿下は隠しからみっつの魔法石を取り出した。ゼウムで作られたらしい円筒にあるみっつのくぼみにとん、とん、とんと嵌めていき、めがねの手前側に手を掛ける。みるみるうちに魔法石の中のパニイが輝き出した。
「覗いてみられよ」
誘いに応じてもう一度目を当てると、少し歪んだ雲海が拡大された状態で広がっていた。細かい霧が波のように折り重なって流れていくのがわかる。
「雲が多いですね」
目を離して俺は言った。上下左右自在に動かせるように取り付けられている望遠鏡の反対側をこちらに向けて覗きこむと、たしかにさっきまでなかったレンズが円筒の中にできていた。パニイの魔力によるものなんだろう。
「もうしばし待とう。昼には雲海が晴れるはずだ」
ビューズは鷹揚に答えた。
第一王子の予測はぴったり当たった。空を眺めてのんびりしているとみるみるうちに雲は晴れ、礫原の下に広がる草地とその先の木々が見えはじめた。視線を下に落とすととても遠くにきらきらときらめく水がある。
「あれが大湖だ。この見張り台から見えるのは手首より先の部分で、ブイジーとその奥にある深森はちょうど対岸あたりに位置する」
ビューズがめがねに片目を当ててあちこちを見ながら説明してくれる。しかしある一点に到達すると、その表情がぐんと険しくなった。
「……おかしい」
「おかしい?」
「余が最後にここを訪ってのちまだ一カマーグムと少ししか経っておらぬ」
「はあ」
話の流れがわからない俺は面食らって相づちを打った。
「新年の祭だ。そのときはまだこうではなかった」
そう言ってビューズは場所を少し移動した。
「ご覧になると良い」
俺はめがねを持って覗きこんだ。拡大率に慣れるまでの間、もやもやと動く黒っぽい何かが視界いっぱいに広がっているなと思った。次第にその輪郭がはっきりしてくる。それは木だった。葉の濃い緑が黒にも見える木だった。木なのだが、何かがおかしい。その違和感の出所がわかるのにまたもうしばらく要した。
「動いてる……?」
「厳密には、急速に成長していると言うべきだろう。少し視界を動かしてみられよ」
ビューズのアドバイスに従ってめがねを下に向けてみた。ざわざわもやもやと動いているように見える木は、言われてみれば確かに育っているように思われる。芽吹きの様子を早回しVTRで見ているかのようだった。俺が眺めている間にも黒っぽい緑の範囲が広がって、周辺の森を飲み込んでいる。しかし様子がおかしいことに、飲み込まれているほうの森の木々には葉っぱが1枚たりともついていなかった。それどころか、木肌がやたらと白っぽい。こういう様相を俺は教科書で見たことがある。酸性雨で枯死した森だ。
「枯れてるんでしょうか」
「そのようだ。立ち枯れの範囲が広がっているようにも見える」
言葉に従ってさらにめがねを下に動かすと湖面に出てしまった。右にずらすと枯れた森と生きている森の境界が見えた。眺めていると、たしかに境界線が少しずつ右に動いている。つまり深森を中心として黒い森が生長し、同心円状に枯れた森が外側へ広がっているのだった。
「……こういう話は、トツァンドで聞きました」
自分の声が少し震えていた。言い伝えは、ただの言い伝えではなかった。プーリアが代々語り継いできた凶兆が、紛れもなく出現していた。本家本元の、その存在がどうであるかはともあれ。
「……魔王か」
ビューズがぽつりと呟いた。
そのまま俺はしばらくなすすべもないままぼんやりと深森が拡大するのを眺めていた。途中でパニイがなくなりそうになったのでビューズが魔法石を取り替える。そのときにめがねが少し動いて、視界が湖面でいっぱいになった。
「……でかい船がいますね」
条件反射で口に出していた。恐らく現実逃避だ。しかし頭の中から不吉な二文字を追いやりたかったのは第一王子も同じだったようで、どんな船だ、と尋ねてくる。
「手こぎのオールが船腹から大量に出ていますね。ガレー船か」
「奴隷船だな。見ても良いか」
ビューズは急に食いついてきた。熱心に、しかしおもしろくなさそうな表情を浮かべて眺めている。そしてもう一度俺にめがねを譲ると言った。
「あれはブガルクの船だ。戦争奴隷を漕ぎ手に使ってこの湖を縦横無尽に……とは言ってもこの手首から先にはやってこないが、ブガルクの手の及ぶ範囲ならどこにでも赴く小型軍艦だ」
「ブガルク?」
俺は驚いてもう一度船をじっと眺めた。遠見めがねは恐らく数十倍程度の拡大率なので、甲板上にどんな人がいるのかまではわからない。それでもマストの上にはためく旗や、船首あたりにつけられた飾りなどは目を眇めて見ることができた。
「剣と、あれは斧、いや鎌? どっちにしろ武器じゃないですね」
旗にも船首にも、二種類の刃物がぶっちがいになった紋章があしらわれている。
「さよう。僭主ザー・ラムの紋章だ。自身が農業奴隷の身分から成り上がった故、剣と鎌を紋章としている」
鼻を鳴らしてビューズが言った。
「ってことは」
俺は思わず世嗣殿下の顔をまじまじと見た。おもしろくなさそうな表情は浮かべたままで、しかしそこまで焦った様子もなくビューズは頷いた。
「あの船にザー・ラム本人が乗船していると見て間違いなかろう」
「なんでまた」
俺の質問には答えずビューズは両手を挙げてあらぬ方向を見ている。
「愚かだ。近視眼で夜目も利かず、俗物であるとは常々嘆いてきたがさらに愚かであったとは」
表現の割に悲しそうにも響かない、どちらかというと芝居がかかった声色でビューズは言った。
「ザー・ラム……のことじゃないですね」
そう言って俺は黙った。俗物、と言われればビューズが今までに指名してきたのはひとりしかいない。実の弟にしてサルン領主の第二王子トアル=サンだ。
「そうだ、余はあの男には相まみえたことはないしそうしたいとは露ほども思わぬが、サルン領主を百人束ねてかかっても叶わぬ能の持ち主、とてもではないが愚かとの対極にある男だ。まさか大湖沿岸随一の危険人物を、諸手を挙げて迎え入れるとは。まこと愚かだ、愚か以外に名のつけようもない」
俺はビューズの言ったことを測りかねて首をかしげた。
「つまり、あのブガルクの船は敵対してではなく、招待されて来たと?」
「十中八九そうに違いない。そしてしっぽを振って待っておるのは余が血を分けた弟だ。これを悲劇と呼ばずして何という」
相変わらず芝居がかかっているビューズの言葉にどう答えたものか考えあぐねて、俺はまためがねを覗いた。ブガルクの奴隷船は北見の塔の見張り台にとって死角に当たる、北西の対岸あたりからまっすぐ大湖を突っ切ってサルンへ向かっているようだった。オルドガルといったか。あのあたりの支配が行き届いている港から出港したのだろう。
湖面に浮かぶ船の姿はそう多くなかった。実際には小さな漁船なんかは出ているんだろうけれど、小さすぎて見えないだけかもしれない。その中で、ふと俺は動く影をもうひとつ見つけた。
「……ブガルク船よりはずっと小さい……たぶん半分にも満たないサイズなんですけど、帆船が右から左……だからサルンからこっちに向かって? 航行していますね」
俺が言うとビューズは眉間にしわを寄せてめがねをひったくった。
「何と」
しばらく見つめていたビューズが呟いた。今度は本当に驚いているようだった。
「ご存じの船ですか」
「存じているも何も、あれは王族の特別船だ。普段であれば新年の祭以外で使われることのない船だ」
「王族の?」
俺はてっきりトアル=サンが海上でブガルク船と落ち合うつもりなのかと思った。密漁とか密輸とかだとよくある、海上で出会って秘密の品をやりとりするとかいうあれだ。しかしビューズの予測は違った。
「妹御があなたを追ってきたな」
「トァンが?」
俺はびっくりして湖を見下ろした。裸眼ではトァンの様子はおろか、湖を走るブガルク船ですら見分けることができない。
「ああ、旗が見えたぞ。間違いない、あれはトツァンドの紋章、熊と烏だ。トアル=サンを振り切ったか、上手いこと丸め込んだか知らぬが、勅を待たずに王都に乗り込むなど女にしては肝が据わっておる」
言い方にややかちんときたが、それよりも心配なことがあった俺は尋ねた。
「トァンは大丈夫なんでしょうか、その、港に入る前に」
ハワウで攻撃を仕掛けるというあの塔のえじきにならないだろうか、それが知りたかった。
「問題ない」
俺の心配をよそに第一王子は涼しい顔をしている。
「余はサルンを出る前に大家の商人づてに下命をした。プーリア・トァンに王都への入市を許可すると。そのことは陛下にも申し伝えておる」
「いつの間に」
領主館の憲兵と夜の鬼ごっこをしている間か前か後か知らないが、そんな余裕があったのかと俺は呆れた。
「しかし本当に来るとはな」
あごに手を置きながらビューズは感心している。
「どちらにせよ一両日程度は湖上に留め置かれるだろう。出迎えの準備がいるからな」
「準備?」
「王都を『本来の姿』に戻さねばならぬからな」
含みのある言いっぷりだ。
「本来の姿って」
「話すと長くなるが、王族や諸侯は王都にたぶらかされておるのだよ。あなたがご覧になったあの王都の姿は覆い隠されておる。王族や諸侯が入市する新年には市はすべて取り払われ、異国人は戸内に身を隠し……」
しかしビューズの言葉は最後まで言い切られることはなかった。背を向けていても気づいて振り返るほどのまばゆい光が突然空を覆った。下から上へ一直線に太陽でも投げつけたようだった。熱はないのに焼け焦げるような感覚が俺を襲った。
光は湖上から出ていた。目を射るような刺激を感じながらも、遠く眼下にある湖上に水の柱が立っているのが見えた。竜巻だろうか? それは空中へと高く伸びていて、白く光りながらうねっている。龍神だと言われれば信じたかもしれなかった。
そして遅れて爆風と轟音がやってきた。耳を直接やられた俺たちふたりはバランス感覚を失ってよろよろよろめき、つんのめった。風が足元をすくう。目の端に急斜面の礫原が見えた。やばい、滑落すると思った瞬間、熊の爪が再び俺たちをこの世に引き戻した。
辺り一帯砂埃が舞って、目に細かいチリが入って痛んだ。涙で前が見えないなか、俺は熊に支えられながらなんとか遠見めがねのところまで這っていって湖面を見下ろした。さっきまでのきらきら輝く平和な姿は失われていた。波なのか雲なのか叩きつける雨なのかわからないものが大湖を灰色に覆っている。嵐が吹き荒れているようだった。さっきまであった船の姿は、ブガルクのも、王族のも、影も形もなかった。




