14. 北見の塔(2)
そんなわけで、俺たちは真冬用の装備を身につけて北見の塔に向かっている。ゴンドラの手前まで登って引き返してしまう王に代わり、ビューズは毎年この道を行き来している。道を迷うこともなく、慣れた様子だ。ゴンドラに乗ってからもしばらくは魔力を注ぐのに集中していた。
「ご存命か」
大変失礼な声が上から降ってきて俺は顔を上げた。もちろん生きている。
「代わりましょうか」
イエスノーを答える代わりに尋ねた。よく見れば整った顔立ちにうっすらと汗が滲んでいる。寒風吹きすさぶ高山なのにもかかわらずだ。
「お願いしたい」
素直にビューズは答えると俺が立つための場所を少し空けた。
ゆっくり立ち上がると、動きに合わせて熊も起き上がった。どうやらだいぶ心配されているようだ。トツァンドで初めて目が覚めたころに比べればだいぶ動けるようになっている。なので、そんなに頼りないかな、と少々不本意だった。
うっすら銀色みを帯びていた魔法石はビューズが手を離すとすぐに白に戻ってしまう。ゴンドラの動きも鈍くなった。俺はビューズが示すとおりに両手を出し、ちょうどボウリングのボールくらいの大きさがある魔法石を覆った。
ぱあっ、と音がするような鮮やかさで俺たちは黄色い光に包まれた。ルウシイが魔法石の中で輝いている。青い遊色が黄色い海を魚のように踊った。ぶうん、というゴンドラの音が突如として高くなってきーきーと響いた。
ビューズが何か叫んだのと、俺が後ろにひっくり返ってゴンドラから放り出されそうになったのと、熊が大きな爪で俺のセーターを掴んだのはほぼ同時だった。今までののんびりした進行は一体何だったんだと尋ねたくなるほどのスピードを出してゴンドラが爆走している。速度に体がついていかなくてゴンドラの壁にへばりついた。慣性の法則だ。もう風が当たっているのか、空気が攪拌されているのか、ゴンドラの中で竜巻が発生しているのか何なのかよくわからない。俺の両手はとっくに魔法石から離れているのに速度はまったく落ちなかった。
「今回ばかりは皆の命が危なかった」
熊の片手に引っ掴まれてゴンドラの床に引き倒されたビューズが息を弾ませながら言った。俺は俺で熊のもう片手に引っかけられたままだ。床に転がって咳き込みながら上を見上げた。すごい勢いで白い霧が飛んでいくのが見える。
「これ、どういうことです?」
あえぎながら尋ねるとビューズはわからぬ、と答えた。またしてもずいぶん素直だ。
「わからぬが、お前はこれを予測していたのだな」
後半は俺たちを引っ捕まえた熊に向けて言った言葉だった。熊はそうですと言わんばかりのまじめな顔をしている。
「恐らくだが、あなたは桁違いに魔力量が多いのだ」
しばらく黙ったあとビューズは言った。風を切る音が強くて、そばまで近づかないと聞き取れない。
「部屋の明かりをつけるまでにどのくらいかかった」
疑問文だ。
「昨日の話ですか? あの紐の先についた魔法石を触って、すぐ」
俺の答えにビューズは黙って頷いた。
「あの照明にはくず石ばかりではあるが二千の魔法石が取り付けられている。とてもではないが人がひとりで魔力を込められる量ではない」
「まじかよ」
思わず呟いてしまった。化け物扱いされているというのは甘かったのか。プーリア人から見たら俺は実質的に化け物なのか。
「あの照明はつねに魔力を込めずにおくのだ。賓が訪えば必ずあの組紐を手に取る。そして賓であれば、かならずおひとりですべてに魔力を込めることができると、そう言われていた」
そして俺はそうしたというわけだ。加えて、ビューズの言葉に思い当たることがあった。
「廟での儀式」
俺が魔法石に手を当てる前、責任者らしき人物が同じ動作をした。魔法石は少しだけ光ったがその輝きはすぐに消えた。
「さよう。廟に光を灯すことができるのはルウシイを持つ賓だけだ」
「トァンは……光の子ならどうなるんです」
「試したことはなかろうが」
無理だろう。光の子の兄は小さく息をつくとそう言った。
実の兄が言うならそうなんだろうな、と思いながら俺は考えをまとめようとした。この世界の物理法則——いや、魔力法則と言ったほうがいい。魔力法則をぶっ壊しているらしい俺が、なぜここにいるのか。これはどう考えても不自然なことだ。世界というのは均衡を求めるものだと俺は思う。だとするならば、俺と均衡が取れる対極の存在が必要だ——そして気づいてしまった。それが魔王なんじゃないだろうか。
つまりそれはどういうことだろう。魔王が生まれて均衡が崩れたせいで俺がこの世界に飲み込まれたんだろうか。では魔王を斃すとはどういうことだ? 魔王が消滅したら、そのときこの世界での俺はどうなるんだろう。
「魔王を斃すって」
呟いても返事がなかった。聞こえなかったかなと思って顔を向けると、ビューズはごろんと床に転がるという第一王子らしくない姿勢のまま難しい顔をして上を見上げていた。
「魔王を斃すってどういうことなんでしょう」
「言ってくださるな」
もう一度言ってみるとやや早口の返事が遮るように答えた。俺は青髪を戴いた整った顔立ちをじっと見つめた。かき乱された冷たい風がゴンドラの中に乱入してきて、俺たちの服をばたばたと煽って飛び去っていった。小さく、長く、熊が細い息を吐いた。
「言ってくださるな」
険しい顔で宙を睨んだまま、ビューズがもう一度低い声で言った。
沈黙が落ちた。俺は口を閉じるとビューズと同じように上を向いた。俺の考えたことはこうだ。もし仮に魔王の存在が俺を呼んだのだとすると、魔王が消滅したら俺の存在もこの世界から消える。消えるとはどういうことか。もとの世界に——二十一世紀の日本に戻れるのか。それが一番ありそうだ。でも、もしそうじゃなかったら。この世界のことはこの世界の中で完結させるしかないのだとしたら。俺がこの世界から消えるとはどういうことだ?
ずっと続いていたきいいとという音が急に弱くなった。高さは変わらないが音量が減っている。と、体が今度は進行方向のほうにずるずると引っ張られたのであわてて床に這いつくばった。ゴンドラはぎいぎいため息をつくと、ごとんごとんと何かに引っかかって弾みながら動くのを停止した。
自分で何か考える前に熊が俺を抱き上げていた。
「え、いいよ、自分で」
言いかけて肺が苦しくなった。高度が高いという話は伊達じゃないらしい。熊の顔が「無理しないで」と言っている。
「着いたな」
俺たちの後から起き上がった世嗣殿下はひとこと言うと、ひらりと優雅にゴンドラの壁を飛び越えて向こうの地面に降り立った。
あれほどまでに渦巻いていた霧はどこへ行ってしまったのか、ぴかぴかに晴れわたった空が頭上いっぱいに広がっていた。ふたつの太陽はちょうど中空で出会うところで、お互いに強い光を放ちながらじりじりと近づいている。俺たちは灰色っぽい峰にできた岩場の尾根道に立っていた。右も左も見渡すかぎり下り斜面の礫原で、石の間から丈の短い植物がぽつぽつと生えだしていた。だいぶ標高が高いようだ。眼下は白く霞んでいる。霧の渦巻く地帯を突っ切って——いや、違う。どうやら俺たちは雲の上にまで出てきてしまったらしい。
「こちらだ。あなたは熊に乗ってこられるといい」
声がしたほうを振り向くと、ビューズはすでに尾根道を少し進んでいた。今日だってあの甲羅をしょっているはずなのにずいぶんと身軽だ。尾根道は少し傾斜をつけてさらに上へと向かっている。振り仰ぐとかなり先に塔のような奇岩のようなものが見える。
「あれが北見の塔だ。もうすぐ着くぞ。あなたの魔法のおかげでいつもの半分もかからなかった」
第一王子はそう快活に言うと俺たちに背を向け、さっさと坂を登っていった。




