14. 北見の塔(1)
冷えて湿度をたっぷり含んだ重たい西風がびゅうびゅうと横殴りに吹き付けてくる。渦を巻きながら漂っている霧が顔を撫で、髪の毛をしっとりと塗らしながら遠ざかっていった。俺を背後から抱き込んでいる熊の温かさがなければ今頃凍っていたかもしれない。寒いし息がしづらかった。
「ご無事か」
ぞんざいな声が上から降ってきた。青髪の世嗣殿下が隣でどうでもよさそうに言っている。どうでもよさそうなのに礼だけ尽くすというのはいったいどういうことなんだろうと、もう何度目か分からないが考えた。
俺たちは王都を出て、街全体を背後から取り囲むようにしてそびえる山を登っている途中だった。もうすでにずいぶん高度は高く、プーリアの街は霧の中に霞んで見えない。熊の背にまたがって山道を上った先に吊りゴンドラがあった。ぴんと張られた太いロープが霧なのか雲なのか判別がつかない白いもやの中に消えている。この中に突っ込んでいくのかと思うとあまり愉快ではなかった。
ビューズはゴンドラに据え付けられた魔法石に手をかざしている。魔力はゴンドラの中で何らかの作用を示して動力になる。これも失われた魔法の技術らしい。しばらくすると小さくぶうん、と唸るような音が聞こえて足元が浮いた。ゴンドラが揺れながら動きはじめたのだ。
「ここから見張り台まで行けるんですか」
俺が訪ねるとビューズは霧のほうをまっすぐ見据えながら頷いた。
「さよう。ただし時間がかかるぞ。少し休まれよ。後ほど魔力の係を交代していただくやもしれぬ」
俺はほとんど感じたことがないんだけど、魔法石に魔力を流し込むのはかなり疲れる仕事であるらしい。だから量がある日用品の魔法石は熊によってメンテナンスされる。とくに魔力を一定量出し続けるというのはかなり大変なのだそうだ。俺からしてみれば普通に呼吸して動き回るほうがよっぽど体力的に厳しいんだけど。
とりあえずわかりました、と返事をして、俺はゴンドラの隅っこにうずくまった。熊がぴったりと背中をつけてくれるので温かい。今朝真冬用だという分厚くて動きづらい重たいセーターを渡されたときは王城のものの正気を疑いかけたけど、今となっては空気の層を含んだ衣類がありがたかった。
さて、どうしてこんなことになっているのかの説明をしなければならないだろう。昨日は城門でつまみ出されるどころか、先祖伝来の賓専用室にごく丁寧にあっさりと通された。心身が脅かされないことは良かったのだが、この賓専用室というのが気後れするほどのものすごく豪華なしつらえなのだ。床は複雑に細やかに織り上げられた絨毯が敷き詰められ、窓のない石壁は上から緻密な彫刻が施された木の装飾パネルで覆われている。
天井からは細工物のシャンデリアがいくつも降りていた。光源はもちろんアウグだが、真ん中の大きなシャンデリアだけ魔力が込められていない。その真ん中から、美しい組紐が手の届く高さにぶら下がっていた。端に魔法石がついている。完全に照明の引き紐だ。なんとも懐かしくなって握った瞬間、手のひらにぱちりと響く衝撃が訪れて室内が一気に明るくなった。
「……電気ついたな」
思わず呟いた俺に対して、一緒に部屋に残された熊と烏が「そりゃそうでしょう」と言わんばかりの明るい表情を向けた。
「面倒な話はすべて済ませてくるので待たれよ」
そう言って先に部屋を出て行った第一王子が戻ってきたのはずいぶん後になってからだった。ドアにノックの音が響き渡ったとき、俺は長椅子でうつらうつらと船を漕いでいた。用意された茶を飲んでぽろぽろと崩れる軽い焼き菓子を満足するまで食べたせいか、今朝までの疲れがどっと出てしまっていたらしい。
「もう間もなく王が来られる。よだれを拭かれるが良い」
ビューズが冗談なのか本気なのかわからないどうでも良さそうな顔で言うので俺は慌てて口の端をこすった。よだれは垂れていなかった。
「王、前サルン領主サルトー、それに妃殿下も伴われるだろう」
そう言ってビューズは電気のついたシャンデリアを見上げた。ルウシイだ、わかってる。でも定義上電気としか思えない。
「さすがすべて灯されたのだな」
ビューズは呟くと視線を俺に戻して言った。
「賓殿、あなたは今プーリア一高い位におられる。何があっても決してひざまずかれるな。王に対して陛下も、余に向かって殿下も無用だ」
「……気味が悪いですね」
これまで色々してきた嫌な想像と、結果的に与えられているよく分からない地位と信頼と役割が脳内でごちゃごちゃに入り混じった結果、正直な本音が漏れた。
「それで、王様はなんてお呼びすればいいんです?」
「王は王だ。名前はない」
ビューズは短く、しかし反論できないような口調できっぱり言うと、すぐ戻ると言い残して部屋を去って行った。
その後が大変だった。何しろ賓専用室に入って俺の前に並んだ途端、王と王弟以下ビューズ含めた四人が額を絨毯につけてひれ伏したからだ。
土下座されたことはあるだろうか。学生時代、飲み会の勢いで土下座されたことはあるし、なんならしたこともある。ああいう場ではだいたい土下座した瞬間に誰かが乗っかってきたりひっくり返されたりと茶化されて全体がうやむやになってしまう。冗談でも双方のためにあんまり良いことではないよ、止めなさいと言う人はいたけれど、視界を自ら完全に塞いだ状態で誰かの前に平伏するということの恐ろしさはまったくわかっていなかった。というか今わかった。だって踏もうと思えば踏めるのだ。一国の王の頭を。このことをどう考えていいのか、俺にはよく分からない。
何とか顔を上げてもらうことに成功し、さらに何とか椅子を手配して各々に座ってもらうことに成功するまでの間にどっと冷や汗をかいていた。特別扱いとは程度があるから気分が良いものなのであって、何というべきだろう、人外というのか、常識の範疇外にあるものとして扱われるのは非常な恐怖なのだということを俺は学んだ。ビューズですら非常にかしこまった様子で頭を下げ、視線を一度も合わせてくれない。それが振りだということはわかっている——と思ったが、ずっと様子が変わらないので今までのどうでも良さそうな態度のほうが演技だったのではないかと不安になってくるほどだった。
会見の趣旨は、王の娘であるトツァンド城主の不手際を詫びることだったようだ。何やらいろいろと言われた。煎じ詰めると怒ってくれるな、祟ってくれるなということなのだろうなと俺は考えて寂しい気持ちになった。そんな力などどこにもないのに。
どう考えても俺が拉致されたのはトァンのせいではない。気を取り直してそう言ったのだがトァンのことを気遣っているだけだと思われるらしく話がこじれる。悪いのは賊(どっかの領主かもしれないけど賊だということでとりあえず押し通した。話がよけいこじれそうだったからだ)、トァンも俺も被害者、と納得してもらうまでにずいぶん時間がかかった。
主に話していたのは王で、たまに王弟が口を挟んだ。ビューズはずっと黙っていたし、王妃に至っては顔を深く伏せていて表情どころか顔かたちすらよく見えないほどだった。しかし何となく、顔を伏せていてもわかる頭の形とか髪の毛の感じなどがトァンに似ているなと思った。母親なのだから当然なのだけど。一方でビューズにはあまり似ていなそうだとも思った。
同じようなところをぐるぐるぐるぐると話す時間がたらたらと経過し、俺たちはようやく一定程度の結論めいたところに辿り着いた。王はこれから定期船に遣いを託し、サルン領主へ書簡を出す。書簡とはいうものの、要はなぜトツァンドの早熊による知らせを己のもとで留めていたのかという詰問だ。こういうのって関係性が損なわれるから慎重にやるもんだと思っていたけど、だいぶダイレクトな感じで問い詰めるつもりなようだった。どうやら王は俺が想像する以上に腹を立てているらしい。賓の来訪はプーリアにとってものすごく重要であるらしいことが改めて伝わってきた。
それはともかく、だ。定期船がサルンに戻るのは一カマーグ後だ。出港までの中五日、船はプーリアの港に停泊する。サルンに着いたら着いたで中三日留まり、その後王都に帰ってくる。サルン領主から返事が返ってくるのは最速で八日後になるわけで、返答次第でその後の対応を考えるのだと王は言う。つまり、俺はそれまでまったくやることがなくなってしまった。
会見が終わって全員が退出した後、疲れ果てた俺は長椅子に寝そべっていた。緊張が解けたのもあるし、平伏されたショックからなかなか立ち直れなかったのもあるし、八日後まで身動きが取れないとわかって拍子抜けしたのもあった。ぼんやりしていたせいかノックの音が聞こえなかった。熊が部屋のドアを開けたのも、迎え入れられた人物が長椅子の側に立ったのも気づかなかった。
「余は明日北見の塔まで参ろうと思う」
突然のイケボに俺は寝そべったまま飛び上がった。変に力が入って肋骨のあたりが痛んだ。肺が押されて盛大に咳が出る。呆れたような顔をして青髪の侵入者が背中を叩いてくれた。
「もう少しわかりやすいように声をかけてくださいよ」
咳で涙目になりながら俺は言って起き上がった。ビューズが手を貸してくれる。
「お怒りなのかと思ったぞ」
ぞんざいに返してくる茶色の目が、いつもとちょっと違う表情なのに気がついた。何か遠慮しているような、怖がってすらいるような。しかし何となく触れないほうがいい気がして、気づかないふりをしたまま俺は答えた。
「お父上の融通がもう少し利けば最高だと思いますが、概ね気分は良好です。八日間くらい休めるみたいですし」
半分嫌味だ。ビューズはふむ、と言うと絨毯の上にどっかりと座った。やけにさまになるのがちょっと腹立たしい。
「深森の様子が気にはならぬか」
痛いところを突かれた。そこなのだ。八日後まで身動きが取れないと最初に判明したとき、脳裏をよぎったのは「魔王」の二文字だった。俺もビューズと同様言い伝えが実在するなんて信じてやしないんだけど、だからといって魔法史の長やトァンが嘘をついているとも思えなかったし、実際この世界にはなぜか日本語が存在するのだ。古代神聖語という名前がついて、魔法や喋る烏、二本足で立って仕事をする熊、そしてこの国の太母と言い伝えられる女性と密接な関わりがあるとされて。
「……気になりますね」
少し逡巡した後俺は正直に答えた。世嗣殿下は頷くとあなたも来られると良い、と言った。
「北見の塔ってなんですか」
「対岸を見守るために設置された山上の見張り台だ。深森に異変があればわかる」
「ああ、王様が上るっていう」
「さよう。本来であれば王以外が訪うことは許されぬのだが」
また何か不穏なことを言っている。
「余の知るかぎり、王はその責務を十分に果たしてはおられぬ」
「塔に上るのは定期的な仕事なんですか?」
「年に一度だ。例祭の終わりに王が妃を伴って上り、ブイジーに向かって祈りを捧げる」
ほほう、と俺は思った。なるほど、王が祭司だと言われる所以だ。
「聞くかぎりけっこう大事そうな行事だと思いますけど」
「そうだ。しかし王はこれまでも途中まで道を行かれて引き返してきていたし、このたびも塔までは行かれぬだろう。代わりとして余が参る。これまでもそうしてきた」
祭の役割を勝手に変えるって大丈夫なんだろうか、と言いかけて俺は思い当たった。だからこそ王はあんなに俺に対する不敬を恐れていたのか。すでに守らなければいけないとされる伝統を破っていたから。
「何でまたそんな役割放棄を?」
質問に対しビューズは非常につまらなそうな顔をして鼻を鳴らした。
「妃殿下のためだ。お体が弱く、とてもではないが北見の塔までの道など耐えられぬと王は考えておられる」
「奥さんが大事だから、やりたくないと」
いい夫じゃないかと、そう思ってしまった。たぶんこの国の常識から言えばものすごく駄目な王なんだろうけど、でも自分が後悔しないように判断して動くだけの頭と行動力はあるわけだ。だって、後悔ほど不毛で、しんどくて、八方塞がりなものはない——そう考えたとき極力思い出さないようにしていた顔が脳裡に浮かんだ。やってしまった、と思った。
「面倒ごとは息子に押しつけてだがな」
明らかに動揺したのを隠せていない俺の様子には触れず、世嗣殿下は再びつまらなそうに言った。
「でも、いい夫婦じゃないですか」
何とか絞り出した俺の言葉にビューズは小さく笑った。
「王は前妃が余を生んだのちに儚くなられたのに負い目があるのだ。二度同じ思いをせぬようにか、トツァンドの娘を娶ったことに後ろ暗さでもあるのか、まあおおかたそういったものすべてというべきだろうが」
「……ん?」
俺は思わず首をかしげた。前妃? トツァンドの娘?
「ご存じなかったか」
ビューズは眉を上げて言った。そうして俺はビューズの髪の毛が青いのはブガルクの血を引くせいだということ、トァンとトアル=サンとは母親違いの兄弟であること、トツァンドの血統が特異なものであることを知ったのだった。
「しかし世嗣殿下はぶらぶら平和に暮らしているのが仕事なんじゃないですか」
一連の話を聞いた俺には疑問がひとつあった。
「その通りだ。それがどうかしたか」
「なのにビューズはお父さんの分まで働こうとしている。ご兄弟には伝統の破壊者だ、不真面目な兄だと思わせておいて」
「そうだな」
「自分の好きなようにしようとは思わないんですか?」
思ってもみない質問だったらしい。第一王子はきょとんとした。きょとんとした顔を見て、俺は何だ、こいついい奴だな、と思った。優しくて思いやりがある、ただのいいお兄ちゃんじゃないか。
「余は余の思うがままにしておる」
しばらく呆けたのち、ビューズはそう小さな声で言った。




