13. 王都(3)
ひゅっと風を切ってロープが飛ぶ。ロープの先についたおもりがどぼんと音を立てて水中に沈む。船尾に立った船員は慎重にロープの目盛りを数えながら後甲板に向かって叫ぶ。舵手が少し舵を動かす。甲板から降ろされた長い櫂が、音頭に合わせてきびきびと水をかく。
この繰り返しで定期船は少しずつ港へと近づいていった。水は恐ろしいほどに透き通っていて水底が手に取るように見える。泳ぐ魚の影が砂地に落ちるのまで肉眼で追える。つまり、まるで水深が掴めない。探り探り進むしかないのだった。
ここで港からハワウの攻撃が入ればおじゃんなんだよなあ、とあらぬ方向に緊張しながら、俺は行く手を見つめていた。港に近づくと、ビューズが言っていた白い塔が見える。俺は邪魔にならないようにふたを取り払ったコンテナの中に入って、ふちに両手を掛けて入港作業を見ていた。ケージに入れられた子犬みたいだな、と思って、ちょっと自尊心が傷ついた。
崖のハワウも風を吹かず、そそっかしい測量手によって間違った航路が選択されることもなく、船は無事波止場に着いた。正真の定期船であることを港の係員と船長が確認し、許可が出ると荷下ろしが始まる。この頃にはふたつの太陽がかなり高度を上げていた。涼やかな風が吹くのは港町ならではだ。鷗のような鳥が飛びながら鳴き交わしている。
言葉が分からない俺はビューズに導かれるままにおとなしくついていった。青髪のビューズ、マントを頭からすっぽりとかぶった俺、烏を頭に乗せた熊の縦列だ。よほど珍妙に思われるに違いないと思ったが、よく考えればこれはプーリアではさほど珍しくない光景なのだった。
港から少し歩いたところに、崖が大きく湖にせり出している一角があった。崖の突端からはごうごうと音を立てて滝が落ちている。水しぶきがマントに降りかかる音が耳元で響いた。ちょうど滝の裏側に俺たちは立っていた。
台風の日に木がきしむような大きな音がしたので見上げると、エレベーターのようなしくみの箱がゆっくりゆっくり降りてきた。きしむ音は滝音にかき消されそうになりつつ、神経を逆なでる奇妙な音を響かせている。
これも失われた魔法の技術なのだろうかと思わずビューズに尋ねそうになって堪えた。王城に入るまでは目立ってくれるなと言われたので、俺は喋ることができない。俺が喋るすなわち古代神聖語だし、王都には古代神聖語を解する人間が少なからずいるので、話し方がネイティブのそれだと言うことがすぐにばれる。騒ぎになること間違いなしというわけだ。
ぎぎぎ……と音を立ててエレベーター様の装置は地面についた。ばふんと砂埃が舞い上がる。蛇腹の柵ががらがらと開けられ、係員が何か声をかけてきた。ビューズが手振りで入れ、という。俺たちはぞろぞろと箱の中に乗り込んだ。
柵がもう一度閉められるとエレベータはぎいぎい言いながら持ち上がりはじめた。音からしてだいぶ揺れるのではないかと不安に思ったがそんなことはない。二十一世紀のエレベーターに乗っているのと大差なかった。四方を守られた鉄の箱じゃなく、ふたのない木箱がロープで吊り下げられているような見た目だということを除けば、だけど。
俺たちは黙って昇っていった。下の人影が豆粒程度にしか見えなくなったなあと思いながら滝の音に耳を傾けていると、やにわにビューズが言った。
「ここからしばらくの間は話していただいて問題ない」
そこそこの大声だった。そうしないと滝にかき消される。俺はひと呼吸置いてからそうですか、と答え、続けざまに尋ねてみた。
「これもハワウの装置なんですか?」
「使われている魔法はアウグだ。滝となって流れ落ちる前の川の水を温めて滑車を動かす」
「ほほう」
蒸気機関か、と俺は頷いて上を見上げた。ばらばらと滝の飛沫が降ってくる。どこの滝もそうだけど、上のほうは霞がかかったようになっていてよく見えない。
「あなたにプーリアの空気は合わないと聞いているが」
再びビューズが大声で言った。俺は黙って頷いた。
「王都はとくに他の都市より高地にある。プーリア人にとってもやや空気が薄い。必要がなければご自分で動こうとはなさるな。熊に乗っておると良い」
それもだいぶ落ち着かないんだけどなあ、と思いながら、俺は分かりました、と返事をした。
しばらく黙って滝とその下に広がる湖面を見ていた。晴れわたった空からふたつの太陽が惜しみなく陽光を注いでいる。絶景といって良かった。それなのになぜか荒涼とした気持ちが俺を襲った。世界で独りぼっちになってしまった気分だった。実際に独りぼっちなのだということにもすぐさま気づいた。ここはどこなんだ、と改めて思った。俺はどうしてこんなところにいるんだ——
「じき上につく」
上を見上げていたビューズが俺のほうに体を曲げ、滝音に負けないよう耳元で言った。
頭上に岩肌が迫っている。魔法で動くエレベーターはせり出した崖にくりぬかれた穴を通り、少し震えて止まった。俺たちは熊に乗りその場を後にする。さすがのビューズは顔パスのようで、係員らしき人々はみんな胸に手を当てて一礼していた。
エレベーターのある場所は荷揚げ場らしく、川べりの広々とした空間にたくさんの積み荷が置いてあった。コンテナもあれば麻袋に詰めてあるのもある。その間を人々が立ち働いていた。マントをすっぽりかぶったプーリア人らしき姿は全体の中では少数で、スフのように肌の色が濃い人、ちょうど白人の赤ら顔みたいに日に焼けた肌の人、様々だった。髪の色も茶色から始まり赤黄緑青、よりどりみどりだ。しかしアジア人みたいに黄色い肌に黒い髪の人は、たしかに見当たらなかった。
俺がきょろきょろしている間に熊は街路に足を踏み入れていた。想像していなかった雑踏に俺は一瞬目眩を覚えた。
白く塗った外壁に構造材が露出している建物がずらりと並ぶ。石畳の広い街路には両側に露天がでていて、やんややんやと売り買いの声が響いていた。ここでも白マントはあまり見当たらず、髪の毛がカラフルな異国人の姿が目立つ。王都プーリアは宗教都市だと聞いていた。想像と現実のギャップがすごい。
熊は道を心得ているかのように目抜き通りをのしのしと歩いていく。しばらく行くとトツァンドと同じような広場に出た。廟らしき四角い建物が見える。その向かいに立っている石像は、烏ではなく人間の姿のようだった。
広場を突っ切って別の道に入ると、とたんに街路がしんと静まりかえって人気がなくなった。石造りの古そうな建物が道沿いに並ぶ。さっきまでのエリアが庶民の街だとすると、こちらは明らかに高級住宅地の様相だった。
「声を出さずに聞いていただきたい」
唐突にビューズが後ろから声をかけたので、俺は黙ってひとつ頷いた。
「この道は王城に通じている。城門であなたには身分を明かしていただくが、まずは何も言葉になさるな」
言葉を切るとビューズは小さい声で面倒だが、と呟いた。
「王城は賓殿を迎える準備ができておらぬ。王都のこの様子では魔王の兆候すら掴めておらぬのだろう。しかもよりによって光の子があなたに伴わぬと来た。王に事情を理解いただくのに少々手こずるだろう」
もし王様が俺を認めなかったらどうなるんだろうか、そんな嫌な想像が脳裏をよぎった。おとぎ話ではだいたい偽物というのはひどい目に合う。俺は偽物をやっているつもりはなかったが、かといって本物である自負もない。よく分からないことにいつの間にか巻き込まれていたというのが正しい。その俺が、認められなかったら? 賓様と今まで何の疑問も持たれず呼びかけられていたからこそ、改めて考えた可能性に逃げ出したい気持ちを自覚した。たとえ逃げたとしても、どこにも行く場所などないということも。
熊がゆるゆると坂を登る。カーブをひとつ過ぎると、城門らしきものが前方に見えてきた。
「城だ」
ビューズが告げた。俺は思わず姿勢を正し、生唾を飲み込んだ。




